トム・クランシー、田村源二訳 『日米開戦』 新潮社 上下巻 1995

これでも情報・戦略パートの一人(え、他の人は・・・って?)の
らぶらぶナベ@最近始まった『新世紀エヴァンゲリオン』で
神学、哲学に興味を感じているっす。

さて、『日米開戦』トム・クランシー著(新潮文庫)を読んだっす。
『日米開戦』って言っても昔のお話じゃなくて今の現時点での
日米間の軍事衝突を想定したお話です。
原題は”DEBT OF HONER”っすけど邦訳の『日米開戦』のほうが
ゾクゾクしてきて良いですよね?(笑)
実際「ウッキーっ!」と楽しんで読めましたよ。

このトム・クランシーって人はアメリカでは結構有名な人で
『レッドオクトーバーを追え』
『レッドストーム作戦発動』(個人的にこれが一番好きっす、
あんまり売れてないらしいけど)
『愛国者(パトリオット)ゲーム』
『いま、そこにある危機』
・・・などの現代の国際紛争、国家間の危機的状況を想定した
シュミレーション小説を書いてる人っす。
国家間紛争などで対応と解決に奔走していく人々を
いきいきと書く手法は見事で
「危機的状況の下での政策とはどういったものだろう?
政策決定者とはどう危機に対処していかなくてはいけないのか?」
という風なことを楽しみながら考えさせられるので結構好きだったりします。

本の内容の方はしょせん作り話なのであんまり言うと
おもしろくないので控えますが24時間の間に
1:「意図されたある方法」でニューヨーク市場が大混乱におちいり、
ドルの信用が急落する
2:副大統領にたいするレイプ疑惑が明らかになる
3:インド機動艦隊(空母のある艦隊のことっす)による
アメリカ機動艦隊への牽制の強化
4:日米演習中に海上自衛隊による攻撃でアメリカ空母2艦が
攻撃不能になり原潜2艦が撃沈される
5:自衛隊によるサイパン、グァム島占領
6:日本の大陸弾道弾配備
・・・などがほぼ同時に起こり、アメリカは危機に立たされます。
日本、インドの真の目的とは何か?
太平洋に空母が展開できない上、日本に核武装され
本格的軍事行動に出れない状況下で安全保障問題担当大統領補佐官の
ジャック・ライアンはこの危機にどう立ち向かっていくのか?
後は読んでのお楽しみっす。
為替市場での日米間の攻防の記述が特に面白くて為になると思います。

さてさて前置きは良いとして、ここから本題ですが
では今、日本が軍事的にアメリカとまともにやりあえるようになるために
最低限必要な条件を少しあげてみましょう(おお、政策っぽい!)
1:憲法第9条改正と自衛隊の軍への昇格、徴兵制の復活
2:シーレーン独力防衛のためにV/STOL空母ではなく
正規空母の保有及び攻撃型原子力潜水艦の配備
3:必然的に核武装(大陸弾道弾配備含む)
4:長期資源確保のため東南アジアもしくは東シベリアへ
(もしくは両方へ)の軍事進行
5:ついでに情報・戦略パート代表案としてハワイ島の占領、
長期維持をあげときましょう
・・・以上のようなことが最低でも必要と考えられます。
(よかったぁH学部の人がこの会議室見てなくて(^^;)
これらどれ一つとっても「ばかげたこと」ですよね?
だから実際の日米開戦とは「ばかげたこと」なのです。
ここで重要なのはその「ばかげたこと」を半世紀前に止めれなかった
日本社会の問題点とは何なのか?という点に気づかなくては
いけないということです。
そこに戦略学の限界が見えてくると思います。
その限界を補ってくれるものが「政策学」ではないかと
僕は最近思っています。
とにかくアメリカとは殴り合いの喧嘩は絶対に避けて
外交戦略で勝負していかなくてはいけないということと
「政策学」への期待に胸が膨らむなぁというお話でした。
     この次もサービス、サービスっ
          ↑
最近言わへんなぁ葛木三佐、国際公務員ってお仕事大変やから?

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1996 2/18
小説
まろまろヒット率3

マックス・ヴェーバー、大塚久雄訳 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 岩波書店 1989(改訳)

DIE PROTESTANTISCHE ETHIK UND DER GEIST DES KAPITALISMUS
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(政治・行政)
政治・行政パート春休み課題一番乗り!の、らぶらぶナベっす。
ついに読みましたよ!
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(以下「ぷろりん」)』
岩波書店
マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳

僕がこの本を春休みの課題に選んだ理由・・・
1:何はなくとも社会科学をする上での必読書
2:一回生のうちにヴェーバーを読んでいれば後々それが糧となるだろう
3:文庫本一冊だけなので読みやすそう(実際は結構ひるみましたけど)
・・・以上の理由からですが『社会科学の方法』(大塚久雄著)
『職業としての政治』、『職業としての学問』(以上ヴェーバー著)を
今まで読んできたのもこの本を読むための準備みたいなもんです。
この本に関しては前々から読みたい読みたいと強く思っていたので
あんまり客観的な動機づけは導き出せません。(笑)
読む時に気をつけたポイントとして
1:とりあえず初読では大きな流れをつかもう
2:1の理由から脚注がやたら多いけど神学上の多様な解釈、
この本の批判に対する反駁、引用書(特に神学書)の紹介などは
ざっと目を通すにとどめておこう
・・・という2点にそった政策でのぞんでみました。
実際、そうして読んでみると思っていたよりスムースに読めました。
予想どうり中だるみはしましたが、それでも342ページ目から
急速に面白くなります。

さて肝心の内容ですが禁欲を重視するプロテスタント(新教)の人たちが
西欧で資本主義発達の担い手になったことは歴史でやりましたよね?
ネーデルラントのゴイセン、フランスのユグノー、
イングランドのピューリタンなどなどプロテスタントが中産階級として
資本主義社会の中心、時には独立・革命の主役となったわけです。
語弊を恐れず簡単言ってしまえば
「金もうけ(「営利追求」)はあかん!っていうてる宗教の人が
何で世界一の金もうけ(「資本主義社会形成」)をしたんや?」
というごく単純なナゾを解きあかそうというところから話は始まります。
答えはプロテスタンティズム、特にカルヴィニズム(カルヴァン派)の教義が
持っていたある特徴が資本主義的活動を合法化し、
後押したからだと言います。
「そのある特徴とは?」・・・
そこまで言ったら読む楽しみがなくなるので実際に読む時の
楽しみにしてください。キーワードは「◯◯◯的禁欲」と
それから発展した「◯◯的◯◯主義」です。
(抜けてるとこに当てはめてねっ)
その神学上の説明にこの本の大部分をさいています、
好みの問題かも知れませんがそこがちょっと中だるみするとこです。

ここで忘れてはいけないのがプロテスタンティズムが持っている
「ある特徴」に対しての説明がこの本の中心となっていますが
(題名からしてそうですよね)
この本は決して「単なる神学書ではない!」ということです。
人の宗教意識、現代では単に「意識」とひとまとめに言っても良いでしょうが
その意識がいかに社会に影響していくのか社会形成の上で
重要なアクターとなるのかを科学的に証明した本であるという事です。
だからこそヴェーバーは社会学の祖とまで言われていると思います。
訳者の大塚久雄も解説で「マルクスの一元論」、
「ヴェーバーの多元論」と面白いことを言っていましたが
ヴェーバーは宗教面だけから社会を見ようとしたのではないのです。
なるほどそうするとこの本はヴェーバーが生涯をかけた研究の単なる
「始まり」でしかなかったということも読み終えてみてわかってきます。

最後に結論としてこの『ぷろりん』は単に大筋を追って読むなら
噂ほど難解ではないし噂道理、確かに社会科学の重要な「何か」に
かすかに触れられそうな気がする本です。
そして噂以上に必読に値するものなのではないでしょうか。
「これは一度は読んでみるべきやで。意外と面白いし絶対タメになるって!」
(強い推薦)
と断言できる書物、それが読み終えての感想です。

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1996 2/13
社会学、学問一般
まろまろヒット率5

俺の1995

1995年は戦後50年だ。新聞やテレビでは飽きるほど
「戦後50周年記念」という見出しが誇らしげに打ち出されている。
それほど50年というのは価値のあるものだろうかとふと思う。
「本質的に戦中から日本はあまり変化していない」と良く聞く。
 たしかにそうだと思う、戦後日本は社会を再生させなくてはいけなかった。
そのためにはまず産業を活性化させなくてはいけない。
経済復興のふれこみの下、日本は大量生産型の社会構造を構築した。
情報を効率よく管理するための一極集中、一部エリートによる政策審議・決定組織、
集団性と指示されたことの遂行を強調した学校教育、
安定した人材を確保するための年功序列と終身雇用による会社への帰属の要求や
大量の新規採用の後の社内教育。すべてが大量生産のために構築された。
特に私が印象に残っているのは管理教育だ。
統一された制服、髪型、カリキュラム、ことこまかな規範、
それらを生徒に遂行させるように構築された学校の構造。
日本が戦前から培ってきた個性より集団を重視し与えられた仕事を確実にこなす能力、
自分が所属する組織への忠誠などを過剰に美化するという意識は
戦後の大量生産社会において非常に有効だった。
個々の個人が「政策」を持つ必要はなく、一部のエリート集団が
その他多くの個性への仕事配分を命令した。
それらはまさに明治維新から日本人がたたき込まれてきた特性だ。
そういった意味で戦中も戦後も社会構造的に大した変化はない。
そうした社会構造であったからこそ日本はこれほどまでの急成長を達成できた。
それに対しての反抗もあったが所詮は構造的変革なしの
一時の激情だけでは変革は不可能だと実証したにすぎない。
また、こうした日本の体質は否定されるようなものではない、
日本が誇るものの一つだろう。ただ、状況が変わりつつある。
 そう今、大量生産型の社会構造は限界を見せている。
社会がある程度成熟するに従って対応できなくなる少量多種型生産、
工場のオートマ化、海外移転は大量生産に必要とされてきた与えられた仕事を
確実に遂行できる個性の重要性を低くしている、
運輸・情報伝達技術の発達が推進している国際化、もはやあらゆるレベルで
多様化に対応しきれなくなっている既存の組織。
 具体的に例を挙げてみれば小中学校は未だに大量な生徒を大量に教育する
管理教育のままだ。だが小中学児童数は明らかに減少している。
また情報伝達の発達によって児童は明らかに以前より「大人」になっている。
以前のように簡単に「洗脳」できにくい。
いわば自我に目覚めた児童が多くなっている。そう児童が変化しているのに
個性の多様化に対応することを想定していない学校が変化していなければ
教育者のよく言う「脱落者」が出てくるのは当然だ。
登校拒否児が戦後最高の値に達し、なお増え続けているのはどうしようもない。
個性を軽視した学校に息苦しさを覚える児童は萎縮し、
不満を内へ内へ持っていこうとする、いじめがより陰湿になっていっても
今の学校では対応できないし、現に多くの犠牲者を出している。
小中学の文部省の中央指導、大量生産的性質では現在の学校問題はもはや対応しきれない。
そうした混乱が今日本のあらゆる場面、場面で表面化してきているのではないだろうか、
個人的にも今までのように指示や情報をもらえて当然のものと思っていては
もはや対応できないのではないだろうか。
その変化は私たちの親の世代がやろうとした感情的なアジテーションによって
推進されるものではなく足下から変わるようなもの、
「地殻変動的」な変化であって思想や信条に関係のない
構造的変化なのではないだろうか。

・・・っていうふうに見てみると最近のニュースが
理解できるような気がするんです。
ここからは私もちゃんとまとめられていないことろだが、
今後は上部や中央からの指示だけでは対処しきれない多様化する問題に対応するためには
ある程度個々のアクターの権限を増やしていく必要があるのではないか。
そうなると個々のアクターがいままで一部のエリートだけが握っていた情報を
管理する必要があるだろうし、最近の情報伝達技術の発達はそのことを
可能だと予想できるまでになっている。一部のエリート集団が行ってきた
政策立案・実行は個々のアクターに分化されていくのではないか。
今までは政策立案・実行する集団が小さく少ないのにも関わらず
その対象が大きすぎたのだろう、ある程度は分ける必要があるだろう。
先の学校の例で言えば文部省の指導だけではなく個々の学校独自の対応を迫られてくるだろう。
また、会社におけるプロジェクトチームの強化などの独自の政策決定・実行組織の増大や
規制緩和に伴って小売業者、消費者はうまく売る、買うために
商品や流通に関しての知識を身につけるなどの必要が増大するだろう。
大きな意味での規制緩和、地方分権化だ。
 これからは個人でもある程度は個々に情報を収集し状況判断をおこない、
自らの責任で計画を立て実行する機会が増えてくるのではないだろうか。
いうなれば「政策的」思考(政策mind)を持つ政策personが様々な場面で
必要とされるのではないだろうか。社会状況は私たち「政策」に
関わる者の登場を待ち望んでいるのではないだろうか。
・・・とんだ勘違いかもしれませんが、
こう思えるのはおれが大学生活8カ月での収穫だと思います。
1995年はおれにとっても考え深げな年だったので記念にまとめてみました。
そのままじゃさみしいのでアップさせてください。
「ではどうしていけばいいのか?」とう疑問があるっすね。
それはまだおれにはよくわからないです、
今関わっている「政策」がその答えを見いだす媒体になるような気がしますが
まだ確信できないでいます。
ただ、あと3年と少しくらいでこれからの社会を
うまく乗り越えていけるようなものを何か一つでも得られるようにしたいです。
 それが出来ればたぶんおれの大学生活は成功だっんでしょう。
1995 12/31

    ↑
やっぱり恥ずかしいこと書いているけどこれも僕のポリシーだったので消さずに残す。

第2回5大学交流会 in Rits

(前回のSFCの時と参加大学同じ)
初日:グループリーダーとしてB班「政策学概論~政策発、日常へ~」に参加。
メンバーはタメ(為田)・トミー(富永)以上慶応SFC、
森さん(チューター)・若さん(若林)・はっちー(八馬)・内藤以上立命、
木村・やっさん(大坂)・生島・小橋以上関学KSC、 ともみちゃん(吉岡)中大。
グループワークの進行ははじめ森さんが運営していたが 本部のほうの仕事があるため抜けた。
また若さん、はっちーもバイトで抜けたが三人とも後で帰ってくる。
教室で少し堅い政策についての話をした。
俺は「今、なぜ政策か」と 「学際的コラボレーションにおける
サッカーのミッドフィルダーのたとえ」を発言した。
それから休憩として仁和寺と金閣寺、西園寺記念館 (当時国際関係学部キャンパス)
にメンバーのみんなを連れていく。
金閣寺近くのホテル「ラサール」をみんなに紹介して 非常にインパクトを与える。
その日はプレゼンで劇をすることに決めた。
「政策マインドを持たない男が二股をかけるとどうなるか」という主旨で話を進めた。
その後解散して宴会した後、衣セミ(衣笠セミナーハウス)で
「政策立案ゲーム」をしてみんなで燃えに燃えた。 このゲームのグループはその時に再編成、
グループワークのメンバーではやっさんとだけ同じになった。
コンビネーションの良さが特に評価されたが、トミーの熱演に負け2位!
二日目:劇の進行を考えて話を進めた。 トミーの才能を活かしててスキットの主役になってもらうことに。
小橋さんが9日に帰ってしまったのでふたまたかけられる
二人の女性の一方はヤナ(一柳)にやってもらう。
俺は監督役で最初にちょっとだけ出演することになり、プレゼンをおこなう部屋でリハをした。
時間がなかったのでローソンで昼御飯を買って 他の班のプレゼンを聞きながら食べた。
ラッキーなことにB班のプレゼンは一番最後だった。
プレゼンの様子は西村(関学KSC)が撮っていたが1996年6月に関学KSCに遊びに行ったときに
あっちゃん(嶋田)からダビングさせてもらい、手元にある。
やっていて本当に楽しく、最高だった!!「これがコラボレーションか!」と感動した!?
グループワークはもう最高だった!!このB班のグループリーダーになれたのは本当に幸運だった。
「違うスタンスの人が集まっても 共同作業が出来る」と証明され、自信もついたたぐいまれな機会となった。
やっさんとは3カ月ぶりに会ったが、メールでやりとりしていたので
ひさしぶりという感じはなかった。 非常に得るものが多かったと思う。
慶応SFCでの前回以上に今後政策をやる上でのヒントが多かったと思う。
とにかく楽しかった!!?? またB班はこの後もKKK
(関西(くわんさい)慶応館大学総合政策科学部 多摩キャンパス)として
かなり長い間もメーリングリストとして発展する。
以後ともみちゃんが大阪に来たりタメが来たりとさかんに交流がある。

1995 12/9~10
出来事メモ、政策・情報学生交流会

名将たち

ジューコフ(1896~1974){ソ連}
「スターリンも一目置き、ソ連最高の尊敬と実力を有したロシアの英雄」
独ソ開戦から集結まで一貫して第一級の戦闘を指揮し独裁者スターリンも
彼の意見には耳を傾けたというほどの名声を勝ち得たソ連の英雄。
モスクワ攻防戦、スターリングラード攻防戦、クルスク戦車戦
そしてベルリン攻防戦と彼が参加した戦いはそのまま独ソ戦史である。
「大きくものごとを捉え、斬新な戦略で指揮する」彼の作戦指導は
守るときは徹底して守り、攻めるときは徹底して攻める戦術を取った。
この戦術はロシア人とその広大な領土の特性を反映したもので
有力なドイツ軍相手に幾度も自軍のピンチを救っていった。
慎重さと大胆さをうまく同居させることができたたぐい希な指揮者でもあり、
クルスク戦車戦ではドイツ軍が奇襲しようとするわずか数時間前に
逆に先制攻撃に打って出るという戦史に残る離れ業を行ってもいる
(これを「後の先」と言う)。
その数々の功績からベルリン占領という栄誉も得た。彼の指揮能力、
戦略眼をたたえる言葉は枚挙にいとまがない。
貧民の子として生まれ今もってロシア国民に慕われる英雄となった彼は
まさに「ロシアンドリーム」の体現者として語り継がれている。

グーデリアン(1888~1954){ドイツ}
「戦車戦の父、SchnelleHeintz」
裏方では戦車戦への研究・インフラづくりに没頭する理論家でありながら
表舞台では自ら装甲師団を指揮する有能な前線司令官。
まさに「戦車戦の父」の呼び名にふさわしい人物。
まだ社会が戦車の性能を疑問視していた当時から常に戦車の有効性を訴え続け、
多くの反対を押し切って戦車とその戦術の研究を続けた組織構築者の顔と
最前線で戦車を中心とする装甲師団の指揮を取り、
自らの持論を証明した猛将の顔を持つオーガナイザー兼指揮者。
先見の眼を持って組織内で持論を主張していく事務能力もさることながら
前線での装甲師団の指揮ぶりの勇猛さは特に有名で、
自ら育て上げたドイツ装甲師団の初陣となる1939年のポーランド侵攻の際は
「撃って撃って撃ちまくれ!」「ポーランド兵恐るるにたらず!」と
ドイツ兵一人一人に激励してまわり、前線の最高責任者でありながら
装甲車で銃弾が飛び交う最前線に向かい指揮を取った。
車両の故障が多く兵士も未熟だった当時のドイツ装甲師団が破竹の勢いで
ポーランド軍を打ち破っていったのは彼の功績によるものが大きい。
その前線指揮ぶりからファーストネームを取って「SchnelleHeintz」
(韋駄天ハインツ)とも言われた。
1940年の対フランス戦、1941年の対ソ戦(バルバロッサ作戦)でも
「彼の息子たち」装甲師団を率い、見事な戦術で次々に強力な敵を撃破していった。
しかし1941年のモスクワ攻防戦でロシア軍の反抗に対して
一時軍を後退させたことがヒトラーの怒りを買って罷免される。
だがその能力は貴重であると誰もが承知していたので1943年に再び復帰、
翌1944年陸軍参謀総長という軍人として最高位につく。
しかしここでもことあるごとにヒトラーとその取りまきたちと衝突、
事実上解任されて終戦を迎える。
誰もその有効性を信じなかった戦車中心の軍団を育て上げて自ら彼らと共に戦い
社会に持論の正しさを認めさせ、そして後年は自ら育て上げた
彼の装甲師団が壊滅していくのをただ見守るしかなかった。
その時の彼の思いは苦渋に満ちたものであったろう。
人類の歴史上戦車を主力とする戦争が存在した時代、
彼の名はその創造者の一人として永遠に記されている。

ロンメル(1891~1944){ドイツ}
「『砂漠の狐』と呼ばれた天才的前線司令官」
「戦術の芸術家」、「砂漠の狐」などと呼ばれ前線指揮の実績と
その悲劇的な最後により伝説化し、今も人々の語り草になっている英雄。
元々「歩兵の攻撃」という本も出版する歩兵戦術のエキスパートとして
有名であったが1940年の対フランス戦で装甲師団長に抜てきされることとなった。
そこでめざましい戦果を挙げ、戦車戦でも第一流の指揮者として評価される。
その柔軟性を買われて北アフリカ戦線に派遣され、
イギリスと北アフリカで2年間の死闘を演じることとなる。
本国からの補給がままならず数、質とも常に劣性に立たされるが
「不屈の意志と冷静な状況判断、断固とした決断力」を持って
優勢な敵に果敢に挑んでいった。
1941年の「プレヴティ作戦」、「バトルアクス作戦」、
1942年の「キレナイカ制圧」、「大釜の戦い」を経て
イギリス軍の重要な拠点トブルクを陥落させた。
この間イギリス軍は常に圧倒的に優勢な兵力を持って
ロンメルを再三攻撃したがことごとく撃退された。
この一連の戦いはロンメルの名声を敵味方を問わず高めることとなる。
遮蔽物がなく補給と兵力がものをいう砂漠地帯で戦車を中心とした機動戦で
常に劣性をはねのけていくロンメルは連合国軍の将兵から
「砂漠の狐」という名で恐れられ、また尊敬されるようになる。
この時イギリスの首相チャーチルまでも英国下院で敵将ロンメルのことを
「偉大な将軍」と手放しにその指揮能力を誉めたというエピソードも残っている。
また彼は「我々の前には極めて勇敢な、極めて巧みな敵将がいる」とも語っている。
しかしヨーロッパ戦線でのドイツ軍が劣性になるに従って一層補給がままならなくなり、
進撃のスピードが徐々に落ちていった。それでも善戦するがついに
1942年の「エル・アラメインの戦い」でモントゴメリー率いる
イギリス軍の圧倒的な数(ロンメルの3倍以上の兵力)の前に敗退。
苛烈な追撃を受けるが残存兵を巧み指揮し、悪天候にも助けられ脱出に成功した。
1944年の連合国の「ノルマンディー上陸作戦」で再び前線に立つが
重傷を負い戦線からしりぞく。この時「最も長い一日・・・」という名言を残している。
後にヒトラー暗殺計画に関わったことが判明して服毒自殺をはかり、
ドイツ軍で最も名声を得た将軍はドイツ軍から永遠に消えることとなった。
戦いを通して関わったあらゆる人間に感動を与えた名将として
彼の前線指揮能力、功績を讃える声は膨大な数に上る。
故に彼は多くの出版物や映画に題材とされ、
今でも「狐の足跡」として人々に感動を与えている。

マンシュタイン(1887~1973){ドイツ}
「ドイツ最高の作戦頭脳」
ドイツ軍最高の作戦立案者。
大戦を通して両陣営から最も評価された将軍の一人。
沈着冷静に熟慮した後に自分が正しいと納得すればそれに突き進むタイプ。
冷静な分析力と苛烈な行動力を合わせ持った人物として有名。
1940年の対フランス戦において『軍展開はほぼ不可能と思われていた
「アルデンヌの森」を突破しフランス軍の裏を突く』という極めて大胆な作戦、
通称「マンシュタイン・プラン」を内部の猛烈な反対をものともせず押し進めた。
結果、第一次大戦では4年かかっても勝てなかった長年の敵フランスを
わずか2カ月で占領した。
対ソ戦(東部戦線)の1942年「クリミアの戦い」ではわずか6個師団
(1個装甲師団を含む)でソ連軍26個師団を撃破しセバストーポリ要塞を占領。
また、1943年の「スターリングラードの戦い」に勝利し勢いづいた
ソ連軍の大進撃を「ハリコフ反抗戦」で自ら提唱する『機動防衛』をもって
巧みに誘導、壊滅させドイツ軍崩壊の危機を救った。
続く史上最大の戦車戦である「クルスク戦車戦」でも
常に戦略眼ではソ連の動きをうわまっていたが
ヒトラーの強い作戦介入により戦略的敗北を喫した。
大戦を通じてヒトラーと作戦方針をめぐり何度も対立。
その本来の力を充分に発揮できなかったばかりか1944年には罷免されている。
歴史家リデル・ハートからは「作戦行動について最新の着想を持ち、
技術面についての専門家で、絶大な突撃力をかね備えた、
連合軍にとって最も恐るべき相手」と賞され、戦車戦の父グーデリアンからは
「熟慮断行、冷静な判断力を備えたドイツ軍最高の作戦頭脳を発揮した将軍」など
その作戦立案、実行能力は敵味方をとわず各方面から賞賛を浴びた。
後に回顧録「失われた勝利」を記述している。

パットン(1885~1945){アメリカ}
「バストーニュを救った現代の騎士」
中世的な騎士道精神に貫かれた気質を持ち、”Old Blood and Guts”
「熱血と剛胆」と賞された大戦中アメリカ随一の猛将。
突撃戦を最も得意とし、ノルマンディー上陸戦、シシリー戦では
その抜群の戦闘指揮能力を発揮し評価される。
そしてバルジの戦いでは包囲され全滅の危機に立たされた
バストーニュの同胞を救うため160キロの距離をわずか48時間で救援に駆けつけ
ドイツの包囲網を突破し、一躍連合国の英雄となる。
このとき「走れ!ガソリンの続く限り走れ!!」と部下に叫び続けたのは有名で
後に映画にもなっている。常に最前線に立ち、「戦争とは非常なものだ。
戦争をするには単純で非常な人間が必要なんだ!」とも発言したその姿勢は
自分に対しても部下に対しても厳しい指導と共に多くの批判を買い、
「強引すぎる」として慎重派で有名なイギリスのモントゴメリーとしばしば対立した。
「時代遅れのロマンティスト」(シュタイガー大佐談)とも言われたが、
彼が連合国最高の将軍の一人であることは誰もが認める事実である。
彼は戦争が終わった年にささいな自動車事故で死亡した。
戦闘を崇高なものとし戦争に必要とされた人物が
戦争終了と共に去ったのは象徴的であった。

モントゴメリー(1887~1978){イギリス}
「天才ロンメルを破ったエル・アラメインの英雄」
その指揮能力への確信と部下に信頼を抱かせるすぐれた能力により
エル・アラメインで「砂漠の狐」ロンメルを破ったイギリスの国民的英雄。
その勝利は当時の英国首相チャーチルにして「エル・アラメン以前に勝利なく
エル・アラメイン以後に敗北なし」と言わしめるほどのものであった。
決して派手さはないものの注意深く確実に仕事をこなしていくタイプで
戦闘に対しては常に兵力、補給共に充分な準備が整って
初めて攻勢に打って出る戦闘法を用いた。
まさにライバルであるアメリカのパットンとは好対照である。
彼の作戦行動は「慎重すぎる」との批判をよく受けたが
しかしこの作戦行動は連合国の有力な生産力を充分に生かすことができた。
パットンを「華麗な常勝」と呼ぶなら
モントゴメリーは「確実な不敗」というべきであろう。
敬虔な牧師を父に持つ彼は何事においても潔癖であったと言える。
その性格が幸いしたのかパットンとは対照的に91歳という長寿をまっとうしている。

・・・課題で書いてみました。

1995 12/5
まろまろコラム

マックス・ヴェーバー、脇圭平訳 『職業としての政治』 岩波書店 1984

まず読んで気がついたことは『職業としての学問』にも言えると思いますが
この本は一次大戦直後の1919年のドイツでの学生に対した
演説だということに気をつけなくてはいけないということです。
当時、左右両派の極端な政治宣伝に揺れ動く学生に対してヴェーバーは
政治にロマンティックな感動は重要ではない、
結果こそが必要だと言いたかったというこです。
「口上がたとえそれがどんなにすばらしいものであっても
現実の結果への目をふさぐな。」とさとそうとしています。
これは特定の宗教や思想に思考を支配された人たちへの
警告でもあるようです。抽象的に言ってみると・・・
「どんなに綺麗な個々の戦術的勝利もたった一つの下品な
戦略的勝利に負ける」というやつでしょうか
(お前もそろそろその思考支配から開放されろ!)。
・・・と誰もつっこんでくれそうにないので
よく自分でつっこみますが気にしないでください。
とにかくまず最初にヴェーバーを読んだということは
かなり有益だとおもいます、
政治学を学ぶ上でこれからのはずみにもなりますしね。
個人的にこの経験をいずれ読んでみたい
「ぷろりん(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)」への
良いステップにしてみたいと思っています(でも難しそうだし・・・)。
これからはたとえ本が薄くてもヴェーバーを読んだという現実の根拠に
依存した小さい自信をもってやっていきましょう。

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1995 11/7
政治学
まろまろヒット率4

岩田規久男 『経済学を学ぶ』 筑摩書房 1994

『経済学を学ぶ』視点を変えたい人に!
岩田規久男の『経済学を学ぶ』(ちくま新書)を読みました、
これはおもしろかったっすよ!すらすらとすぐに読めましたし
何より読んでいて自分の視点が今までいかに狭かったのかが実感できます。
「お前は読んだ本を安易に誉める・・・」って言われるんですが
良いものは良い!?しかたないっすね。
個人的に前に紹介した『経済学はむずかしくない』よりもおすすめっす。
「高速道路はなんで高いのか?」とか
「なんで学生には映画の学割があるんや?」、
「旧社会主義国ではなんで店先に行列ができてまうんや?」、
「なんでゴミ問題は解決に困難が伴うんや?」などなど
ちょっと見た感じでは直接経済学とは関係ないと思ってしまう事柄を
経済の観点からわかりやすく説明してくれて
今までもやもやして良くわからなかったことが
「ああ!そうなんや!」と目から鱗が落ちるようです。
ひさびさに読んでいて嬉しくなる経験をしました。
基礎演などで安直に(感情的に?)物事の不満や問題だけに注目し、
問題がそうなる経済的過程にほとんど注目しなかった単純な自分が
今、むちゃくちゃ恥ずかしいっす。
あらゆる社会科学に必要である
「熱い心と冷たい頭脳」には経済学的視点が不可欠であるというのが
実感できる本です。

この本をamazonで見ちゃう

1995 11/7
経済学
まろまろヒット率5

シュミット前西ドイツ首相とアフト前オランダ首相による講演会参加

アフトさんは洒落のわかるおっちゃんだった。シュミットさんも年の割にはハキハキしていて好感が持てた。
内容は平和についてのものだったがそれほど充実していたとは思えない。
この後少しだけ別の講演会に行った。(インドネシア大使)

1995 10/30
出来事メモ、講演会