最近、「アクティヴな引きこもり」の新しい類似語として「ワーカホリック気味なニート」を使う機会の多い、まろまろです。
さて、『翔ぶが如く』司馬遼太郎著(文藝春秋)全十巻2002(新装版)。
明治維新によって近代日本がスタートした明治時代初めを舞台に、征韓論から西南戦争までをえがく長編歴史小説。
実はこの本は、これまで何度か途中で挫折した作品でもある。
その最大の原因は、文庫本にして全十巻という長さではなく、この作品の読みにさにある。
小説と言っても物語のあらすじより評論的な部分が多い上に、肝心の物語の方も行ったり来たりしてなかなか進まない。
「以下、余談ながら・・・」という著者の脱線は、他の作品では真骨頂のような説得力や力強さがあるのに、この作品ではダラダラと要領を得ないと感じられるところが多い。
「翔ぶがごとく」という躍動感のあるタイトルとは逆に、「翔ばないがごとく」という感じ(w
なぜそうなってしまったのか?
それは著者自身が何度も書いているように、著者が西郷隆盛を理解できなかったからだ。
かつては政略家だったはずの西郷隆盛が、なぜ征韓論から西南戦争にかけては根回しも戦略も放棄したかのようなスタイルになったのか。
著者はこの点が理解できず、主役に対する理解の自信の無さが長々とした評論になってしまっている。
この点、僕が今回通読できたのは、一つには西郷隆盛の気持ちがなんとなく感じられるようになったからだ。
政略・戦略とは、平たく言えば、自分はできるだけ安全な場所にいて相手を危険な場所に追い込む、というものだ。
「感情量の多い」(著者の表現)人間は、たとえ政略・戦略の能力があったとしても、時に公の場で矢面に立って、正々堂々と進むことを選ぶことがある。
物分かりの良さや、バランス感覚、割り切りなどでは何かを生み出していくことはできないし、したり顔の人間が人の心を動かすことはありえないからだ。
たとえば、僕はかつての恩師から「お前は伊藤博文のようだな」と言われる機会が何度かあった。
確かにこの作品に出てくる伊藤博文のちょこまかしいところは、どこか通じるところがあるかもしれない(w
でも、そんな伊藤博文でさえ、政略・戦略を捨てて、組織を抜け一歩踏み出したことがあった。
(長州クーデター)
そのことが、少し軽薄な伊藤博文が単なる裏技・寝技師だけでない証拠となった。
政略・戦略の必要条件である理解力や透徹とは逆の、聞き分けの悪さや頑固さが矢面に立って進む上では必要になる。
著者はこの機微が理解できずに、長々とした評論的な文章になってしまっている。
著者自身も書いているように、それは矢面に立って(リスクを取って)進んだ経験がないということが大きい。
でも、経験が無いので書けない、というのでは歴史小説の意味がない。
この作品の要領を得ない長々とした記述は、著者が作家としての限界を感じたからというのもあったのだろう。
かつて僕は、100年か200年後に自分の人生が歴史小説の題材にされることがあるなら、司馬遼太郎のような作家に書いてほしいと思っていた。
でも、司馬遼太郎のような著者では僕のことを描ききれないのだろう。
2008 6/6
歴史小説
まろまろヒット率3