(京都の)高尾に蛍を観にいくと思っていた以上にたくさん飛んでいて
都会育ちの僕にとってははじめて本物を見たときにはがっかりした蛍も
「やっぱり本物の方が良いな」とあらためて思えたのがよかった、
らぶナベ@しかし文化の違いか英語で蛍を表す”firefly”、”glowfly”などは
ちょっと風情が無いなと思っているっす。
さて『カモメに飛ぶことを教えた猫』ルイス・セプルベダ著、河野万里子訳
(白水社)1998年初版の読書感想をば。
もともとこの本は去年の夏休みくらいに京大の書籍部で見かけて以来、
そのタイトルに惹かれて(たぶんカモメ=海猫に引っかけているんすね)
「どんな本なんだろう?」とずっと気になっていた本。
しかしそれからの怒濤のような日常と読むべき本たちに追われるあまり
この本の存在自体もすっかり忘れてしまっていた。
しかし最近マキアヴェッリやら歴史小説やら空に賭ける男たちの本など
生臭い本ばかり読んでいて汚れてしまっている自分に気づき
「これはいかん!ピュアな自分を取り戻さねば!!」と思ったところ
偶然別の本を買うために立ち寄った帰り道の書店で再び巡り会ったので
購入に踏み切ったヨーロッパで評判になっているらしい寓話。
こういうかたちでこの本のを読んでみることになって
運命の巡り合わせと言うのか、そういう言い方が綺麗すぎるなら
嗅覚というものなんだろうか、とにかくそういうものを強く感じた。
なぜならこの本は僕が現在進行形的に感じていることを
寓話の形式をとって書かれていたからだ。
その気持ちはあるのにうまく表現できなかったり、
それを伝えたい相手に伝えきれずに焦燥感を感じたりしてたことを
ちょうどテーマにしている本だったからだ。
内容をよく知らないでたまたま購入したまったくの偶然なのに
いま別の角度から見つめて表現したいことにスポットが当たっていた。
この本が僕を呼んだのか・・・読書って時々不思議なことがある。
この物語りはハンブルクで暮らす猫ゾルバ(なかなかカッコ良いやつだ)が
ひん死のカモメと成り行きで三つの約束事をすることから始まる。
それは「私がいまから生む卵は食べないで」、
「ひなが生まれるまで面倒を見て」、
そして「ひなに飛ぶことを教えてやって」(んな無茶な!)の三つだ。
このゾルバと「港の猫の誇り」を持つ仲間の猫たちと
カモメのひなフォルトゥーナが飛べるようになるまでの
試行錯誤や模索、葛藤を描いている。
この話の中でフォルトゥーナがゾルバたちと同じ猫になりたいと渇望し
そのために傷つき自分自身やゾルバたちからの愛を見失いかけていた時に
ゾルバが彼女に語りかけたシーンが特に印象に残っている・・・
「たとえきみがカモメでも、いや、カモメだからこそ、
美しいすてきなカモメだからこそ、愛してるんだよ。
・・・きみは猫じゃない。きみはぼくたちと違っていて、
だからこそぼくたちはきみを愛している。」
「そのうえきみはぼくたちに、誇らしい気持ちでいっぱいになるようなことを
ひとつ、教えてくれた。
きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、
尊重し、愛することを、知ったんだ。
自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけれど、
違っている者の場合は、とてもむつかしい。
でもきみといっしょに過ごすうちに、
ぼくたちにはそれが、できるようになった。」
「いいかい、きみは、カモメだ。そしてカモメとしての運命を、
まっとうしなくてはならないんだ。だからきみは、飛ばなくてはならない。」
そして最後の場面でフォルトゥーナが飛び立った時にゾルバが言った・・・
「最後の最後に、空中で、彼女はいちばん大切なことがわかったんだ。
・・・飛ぶことができるのは、心の底からそうしたいと願った者が、
全力で挑戦したときだけだ、ということ。」
ってこんな読書感想書いている僕ってかなり恥ずいやつやな。(^^;
1999 6/10
小説、寓話
まろまろヒット率5
“ルイス・セプルベダ、河野万里子訳 『カモメに飛ぶことを教えた猫』 白水社 1998” への0件の返信