最近ダイオウイカにはまっている、
らぶナベ@スルメ何人前になるんだろう?っす
さて、『経営行動~経営組織における意思決定プロセスの研究~』
原題”ADMINISTRATIVE BEHAVIOR
-A study of Decision-Making Proccesses
in Administrative Organization-”
ハーバート・A・サイモン著 松田武彦、高柳曉、二村敏子訳
ダイヤモンド社 1989年新版(第3版)初版を読み終えました。
この本は組織論の古典中の古典であり社会科学の代表的名著の一つ。
「これを読まずして組織論を語るな」とまで言われるほど重要な本で
前々から一度は読んでみようと思っていた一冊。
しかし読む機会が見いだせずにモヤモヤしていたところ、
ひょんなことで社会人になりそこねたので読んでみることになった。
人生とはよくわからないものだ(^^)
著者は経済学の分野でノーベル賞をもらっているが発表論文も含めると
その研究領域は組織論、システム科学、コンピュータ科学、哲学、数学、
OR、心理学、社会学、政治学、統計学、
電子工学、認知科学、さらに人工知能論に及んでいるという
まさに歩く”Liberal Artist”。
そのためか元々初版発行時(1946年)には十一章完結であったのに
著者がどんどん付け足していって最新版(第三版)では
六章増えて十七章+付録まで増えている。
前書きだけでもかなりの分量になっているという実に読み応えがある本。
さて、内容の方は意思決定過程の観点から組織がどのように
理解できるかについてアプローチしている。
「初版への序」でも述べられているように組織の真の骨肉をとらえる言葉や
概念上の適切な定義がいままで無かったということで
著者がこの領域の研究に役立つ道具を創ろうと試みた一冊でもある。
そのためか定義付けのための道具立てを意図した記述が多い。
その例の一つとして今まで組織論において明確な概念や定義が無かった理由を
長くこの領域の研究分野とされた経済学と心理学との間にある溝に
求めている。そのことをもっとも端的に表している「第3版への序文」
(合理的行動と管理)では・・・
○今日の社会科学は、合理性の取り扱いにおいて、
極度の分裂症状を呈している。一方の極には、経済学者がおり、
彼らは経済人が途方もない全能の合理性をもっているものと考える。
・・他の極端では、すべての認識を情緒に分解しようとする
フロイト以来の社会心理学の傾向がある。
・・おそらく、つぎの世代の行動科学者は、
われわれが今日述べているよりは、人間はずっと合理的である
ーしかし、経済学者が宣言したほど大げさではないー
ことを示さなければならないだろう。
この分裂症状は、第四章と第五章に反映している。
第四章は、経済学や公的意思決定理論で展開されてきた
合理性の概念を明らかにする仕事をしている。
第五章は、人の認知能力には限界があるため、合理性を行使するにさいして
大きな制約が課されることについて議論している。
それゆえ、実際の世界で見出されると実際に期待できる
合理性を描いているのは第四章ではなく、第五章である。
・・ただ、心理学を捨てたり、組織理論を経済学的基礎の上に
据えるだけでは、問題の解決とはならない。
・・組織と管理の純粋な理論の存在できる余地は、
人間行動が合理的であるように意図されているが、しかし、
ただ限られた範囲でのみ合理的であるような領域にこそ、まさしく存在する。
・・・と自分の考えを経済学と心理学の間に位置していると主張している。
そして組織の定義を「第3版への序文」(組織の意義)で・・・
☆本書の既述では、組織という言葉は、人間の集団内部での
コミュニケーションその他の関係の複雑なパターンをさす。
このパターンは、集団のメンバーに、その意思決定に影響を与える情報、
仮定、目的、態度、のほとんどを提供するし、
また、集団の他のメンバーがなにをしようとしており、
自分の言動に対して彼らがどのように反応するかについての、
安定した、理解できる期待を彼に与えるのである。
社会学者はこのパターンを「役割の体系」と呼んでいる。
われわれの大部分の人々にとっては、
それは「組織」として、広く知られているものである。
・・・としている。
このことをさらに深めた第四章「管理行動における合理性」
(組織の影響のメカニズム)では羅列的に・・・
○(1)組織は、仕事をそのメンバーの間に分割する。
(2)組織は、標準的な手続きを確立する。
(3)組織は、オーソリティと影響の制度をつくることによって、
組織の階層を通じて、意思決定を下に
(そして横に、あるいは上にさえも)伝える。
(4)組織には、すべての方向に向かって流れるコミュニケーション経路がある。
(5)組織は、そのメンバーを訓練し教育する。
・・・と明確な定義付けをおこなおうとしている。
同じく「第3版への序文」ではこの本の骨格部分として・・・
○第四章と第五章は、本書の核心を示している。
この二つの章では、人間による選択、すなわち、
意思決定の理論が提示される。
この理論は、経済学者の主要な感心の的となってきた選択の合理的諸側面と、
心理学者や実際の意思決定者の注意をひきつけてきた、
人間の意思決定のメカニズムの諸性質や諸限界の両方を含み、
十分広くかつ現実的であることをねらいとしている。
・・・と第四章「管理行動における合理性」と、
第五章「管理上の決定の心理」がこの本の中心だと述べている。
この二つの章に関しては同じく「第3版への序文」(合理性の限界)でも・・
○第四章と第五章の論題を一口でいえば、こうである。
すなわち、管理の理論の中心的な関心は、人間の社会的行動の、
合理的側面と非合理的側面の間の境界にある。
管理の理論は、特に、意図され、しかも制限された合理性についての理論、
すなわち極大にする知力をもたないために、
ある程度で満足する人間の行動の理論である。
・・・と結論をまとめてくれている。
この「第3版への序文」はこの本の要約的な色合いが強く
(長い本なのでこれはありがたい(^^))、
今まで意思決定をおこなう人間に対する分析とされていた経済人に対して・・
○1:経済人が最高限を追求するー利用しうるかぎりの選択肢のなかから
最良のものを選び出すーのに対して、
われわれが経営人と呼ぶ彼の従弟はあるところで満足する
ー満足できる、あるいは「十分よいと思う」好意を探し求める。
2:経済人は混雑したままの「現実の世界」を扱う。
経営人は、彼の知覚する世界が、現実の世界を構成する、
さわがしいはなやかな混乱を、
思い切って単純化したモデルであることを認める。
彼は、現実の世界が概して意味がないことー現実世界の事実の大部分は、
彼が直面している特定の状況には、たいして関連をもたないこと
ー現実世界の事実の大部分は、彼が直面している特定の状況には、
たいして関連をもたないこと、原因と結果のもっとも重要な連鎖は、
短く単純であることーを信じているので、
このようなあらっぽい単純化で満足する。
それゆえ、彼は与えられた時点において実質的に無関係であるような、
現実の諸側面ーそのことはたいていの側面がそうであることを意味するが
ーを考慮に入れないで満足する。
彼は、もっとも関連があり重要であると考えるごく少数の要因だけを
考慮に入れた状況の簡単な描写によって、選択を行う。
・・・と反論している。
また、社会学において非常によく使われる役割という言葉については・・・
○もし、社会的な影響を、意思決定前提に対する影響としてみる見解を
採用するなれば、役割理論における困難は解消する。
役割とは、個々人の意思決定の根底にある諸前提の、
すべてではないが、そのいくつかを明記したものである。
○かくて、役割理論および行動理論についてわれわれがひき出した結論は、
同じものである。
すなわち、適切な分析単位をもたなければ、
正しい人間行動の理論をうちたてることは不可能であるという結論である。
役割は、単位としては大きすぎ、行為もまた同様である。
意思決定の前提は、このどちらよりも、もっと小さな単位である。
・・・とこの言葉の安易な使用を注意している。
さて、以下はこの本の骨格である第四章「管理行動における合理性」で
チェックした箇所、ちなみに()は節の名称、
☆は特に重要であると思ったり印象に残った点・・・
(手段と目的)
○各階層は、下の階層からみれば目的と考えられ、
上の階層からみれば手段として考えられる。
目的のハイアラーキー的な構成によって、
行動は統合され一致したものとなる。
なぜなら、一連の代替的行動の各々が、価値の包括的尺度
ー「究極の」目的ーによって評価されるからである。
○このように、手段と目的の関係を考察してくると、組織も個人も、
ともにその行動の完全な統合を達成することができないでいることがわかる。
けれども、その行動に合理性がなにか残っているとすれば、
それはまさしく、いま記述してきたこの不完全な、
しばしば相矛盾するハイアラーキーである。
(代替的選択肢と結果)
☆手段と目的の関係様式に対してあげられる難点は、
(a)それが意思決定における比較の要素を、漠然としたものにすること。
(b)意思決定における事実的要素を価値的要素から分離することに、
十分成功していないこと。
(c)合目的の行動における時間という変数に対しての認識が不十分である。
・・代替的行動の可能性とそれらの結果の観点から述べられた
意思決定理論は、これらの難点にすべて答えてくれる。
(代替的行動)
○個人にとって、彼の代替的選択肢のすべてと
その結果のすべてを知ることは明らかに不可能である。
そしてこの不可能であることが、実際の行動と客観的な合理性のモデルとを
異ならしめる非常に重要な分岐点となっている。
(第四章の結論として)
○手段と目的は、事実と価値にそれぞれ完全には対応していないが、
この二組の用語の間にはなんらかの関係があることがわかっている。
手段と目的の連鎖は、諸行動からその結果としてあらわれる諸価値に
いたるまでの因果的に関連した要素の列挙、として定義された。
かかる連鎖における中間的目的は、価値指標として役立っている。
そして、この価値指標を用いることによって
最終目的あるいはその目的に内在している価値を完全に探求することなしに、
われわれは代替的選択肢を評価することができる。
さらにもう一つの骨格である第五章「管理上の決定の心理」
でチェックした箇所・・・
○この章の議論はきわめて簡単に述べることができる。
一人の孤立した個人が、きわめて合理性の程度の高い行動をとることは、
不可能である。
・・個人の選択は、「所与の」環境ー選択の基礎として選択の主体によって
受容された諸前提ーのなかで行われるのであり、
行動は、この「所与のもの」によって定められた限界内においてのみ
適応したものとなる。
(合理性の限界)
☆実際の行動は前章(第四章)で定義したような客観的合理性に、
少なくとも三つの点において、及ばない。
(1)合理性は、各選択につづいて起こる諸結果についての、
完全な知識と予測を必要とする。
実際には、結果の知識はつねに部分的なものにすぎない。
(2)これらの諸結果は将来のことであるゆえ、
それらの諸結果を価値づけるにさいして、
想像によって経験的な感覚の不足を補わなければならない。
しかし、価値は、不完全にしか予測できない。
(3)合理性は、起こりうる代替的行動のすべてのなかで
選択することを要求する。実際の行動では、これら可能な代替的行動のうち
ほんの二、三の行動のみしか思い出さないのである。
(予測の困難性)
○損失の経験があると、損失が起こることが高い確率で生ずると
予測するよりは、むしろそのような結果を避けようとする欲求が強化される。
(行動持続のメカニズム)
○行動持続の一つの重要な理由は、すでに第四章で論じられた。
活動は、同じ方向に活動を持続することを有利とさせるなんらかの
「埋没価値」を生じさせることが非常に多い。
・持続の第二の理由は、活動それ自体が、
注目を活動の持続と完成とに向けさせるような刺激をつくり出すことである。
(要約)
○人間の選択の型は、代替的選択肢のなかからの選択というよりも、
刺激反応の型に近いことが多い。
○人間の合理性は、心理的な環境の範囲内で働くにすぎない。
○しかし、意思決定の刺激それ自体は、より大きな目的に役立つように
統制されうるものであり、個人の一連の意思決定は、
十分に練られた計画へと統合されうるものである。
☆意思決定の環境を注意深く統制することは、
選択の統合を可能にするのみでなく、選択の社会化をも可能にする。
社会的な制度は、個人に社会的に課せられた刺激のパターンに
その個人の行動を従属させることを通して、個人の行動を秩序かするもの、
とみることができよう。
まさにこのような諸パターンにおいてこそ、
組織の意義と昨日を理解することができるのである。
以下はその他の章でチェックした箇所(・・・
第七章「オーソリティーの役割」
(オーソリティー)
○「オーソリティー」とは、他人の行為を左右する
意思決定をする権力として定義されよう。
(オーソリティーと「最後の言葉」)
○部下の服従の度が強くなればなるほど、
オーソリティーが存在する証拠はますますかくれたものとなる傾向がある。
なぜなら、オーソリティーは、間違った意思決定を取り消すときのみにしか、
行使される必要がないからである。
(心理学とオーソリティーの理論)
○心理学は、ちょうど、生理的、物理的、あるいは他の環境的要素が
そうであるように、条件として管理のなかにはいっている。
それは、管理理論それ自体の一部というよりはむしろ、
管理の技術の一部である。
第八章「コミュニケーション」
(マニュアル)
☆マニュアルを作成する人々は、「完全性」および「統一性」を求めて、
ほとんどつねに、以前には個人の決定にゆだねられていた事柄を
マニュアルのなかに含め、かつこれおを組織の方針に具体化する。
これは、決して必ずしもまったく望ましいことではない。
なぜならば、「完全性」および「統一性」は、調整のために
必要でないかぎり、組織にとってはどんな特別の価値もないからである。
第九章 能率の基準・・・
(達成ー程度の問題)
人間の認知、予測には限界があることと人間の欲望には際限が無いことを
理由として達成とは程度の問題としている。それを踏まえて・・・
☆諸目的を定めることで、管理的決定における
価値要素の問題が終わるわけではない。
加えて、目的が達成されるべき程度を決める必要がある。
・・・と展開している。
第十章「忠誠心と組織への一本化」
(一本化と十分性)
○管理的決定の基本的な基準は、十分性の基準ではなく
むしろ能率の基準でなければならない、と結論できよう。管理者の仕事は、
限られた資源と比較して社会の価値を最大化することである。
第十一章「組織の解剖」
(合理性の領域)
○合理性が行動を決定するのではない、合理性の領域のなかでは、
行動は、能力、目標、および知識に対して、
完全に弾力的であり、適応性がある。
その代わりに、行動は、合理性の領域を制限する非合理的
および不合理的な要素によって、決定される。
合理性の領域は、これら不合理な要素に対する適応性の領域である。
また、著者は上記の通りやたらと研究分野が広いが
付録の「管理科学とはなにか」では・・・
(管理科学の諸命題)
☆科学は、われわれが利潤を最大化すべきか否かを語ることはできない。
科学は単に、どのような条件のもとでこの最大化が起こり、
また最大化の結果がどうなるであろうかを語ることができるだけである。
このような分析が正しいとすれば、一つの科学の文章と別の科学の文章を
区別する論理的な差違はないことになる。
どのような差違であろうと、それは、いくつかの科学の内在的性質からよりは
むしろ、それらの主題から生ずるはずである。
・・・としているのは印象深い。
「訳者まえがき」でも訳者が共著や協同研究を得意とする
サイモンの協同研究のコツを・・・
○協同研究成功の秘訣として同教授があげられるのは、
(1)問題意識の明確な共通理解、
(2)(知識レベルではなく)方法レベルでのコミュニケーション
・・・と紹介しているのには注目した。
最後にこの本を読みながら大学一回生の春休みに挑戦した
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(略:ぷろりん)』
マックス・ヴェーバー著、大塚久雄訳(岩波書店)
・・を読んだ時のことを思い出してしまった。
社会学と経営学という分野の違いはあれ、
その分野では外せない名著であることと
著者が異様に多様な専門領域を持っていることが
共通していた点がこの本のことを思い出させたのだろう。
よく考えたら読む時期としても所属の違いはあれ同じ一回生だ。
振り返れば僕はいままで一回生時に『ぷろりん』を読んだ経験に
ずいぶんと助けられて来たがこの本もそんな風に
僕にとってかけがえの無い本になるのだろうか。
そう思って読書を終えた。
1999 4/27
組織論、経営学、意思決定論
まろまろヒット率5