名将たち

ジューコフ(1896~1974){ソ連}
「スターリンも一目置き、ソ連最高の尊敬と実力を有したロシアの英雄」
独ソ開戦から集結まで一貫して第一級の戦闘を指揮し独裁者スターリンも
彼の意見には耳を傾けたというほどの名声を勝ち得たソ連の英雄。
モスクワ攻防戦、スターリングラード攻防戦、クルスク戦車戦
そしてベルリン攻防戦と彼が参加した戦いはそのまま独ソ戦史である。
「大きくものごとを捉え、斬新な戦略で指揮する」彼の作戦指導は
守るときは徹底して守り、攻めるときは徹底して攻める戦術を取った。
この戦術はロシア人とその広大な領土の特性を反映したもので
有力なドイツ軍相手に幾度も自軍のピンチを救っていった。
慎重さと大胆さをうまく同居させることができたたぐい希な指揮者でもあり、
クルスク戦車戦ではドイツ軍が奇襲しようとするわずか数時間前に
逆に先制攻撃に打って出るという戦史に残る離れ業を行ってもいる
(これを「後の先」と言う)。
その数々の功績からベルリン占領という栄誉も得た。彼の指揮能力、
戦略眼をたたえる言葉は枚挙にいとまがない。
貧民の子として生まれ今もってロシア国民に慕われる英雄となった彼は
まさに「ロシアンドリーム」の体現者として語り継がれている。

グーデリアン(1888~1954){ドイツ}
「戦車戦の父、SchnelleHeintz」
裏方では戦車戦への研究・インフラづくりに没頭する理論家でありながら
表舞台では自ら装甲師団を指揮する有能な前線司令官。
まさに「戦車戦の父」の呼び名にふさわしい人物。
まだ社会が戦車の性能を疑問視していた当時から常に戦車の有効性を訴え続け、
多くの反対を押し切って戦車とその戦術の研究を続けた組織構築者の顔と
最前線で戦車を中心とする装甲師団の指揮を取り、
自らの持論を証明した猛将の顔を持つオーガナイザー兼指揮者。
先見の眼を持って組織内で持論を主張していく事務能力もさることながら
前線での装甲師団の指揮ぶりの勇猛さは特に有名で、
自ら育て上げたドイツ装甲師団の初陣となる1939年のポーランド侵攻の際は
「撃って撃って撃ちまくれ!」「ポーランド兵恐るるにたらず!」と
ドイツ兵一人一人に激励してまわり、前線の最高責任者でありながら
装甲車で銃弾が飛び交う最前線に向かい指揮を取った。
車両の故障が多く兵士も未熟だった当時のドイツ装甲師団が破竹の勢いで
ポーランド軍を打ち破っていったのは彼の功績によるものが大きい。
その前線指揮ぶりからファーストネームを取って「SchnelleHeintz」
(韋駄天ハインツ)とも言われた。
1940年の対フランス戦、1941年の対ソ戦(バルバロッサ作戦)でも
「彼の息子たち」装甲師団を率い、見事な戦術で次々に強力な敵を撃破していった。
しかし1941年のモスクワ攻防戦でロシア軍の反抗に対して
一時軍を後退させたことがヒトラーの怒りを買って罷免される。
だがその能力は貴重であると誰もが承知していたので1943年に再び復帰、
翌1944年陸軍参謀総長という軍人として最高位につく。
しかしここでもことあるごとにヒトラーとその取りまきたちと衝突、
事実上解任されて終戦を迎える。
誰もその有効性を信じなかった戦車中心の軍団を育て上げて自ら彼らと共に戦い
社会に持論の正しさを認めさせ、そして後年は自ら育て上げた
彼の装甲師団が壊滅していくのをただ見守るしかなかった。
その時の彼の思いは苦渋に満ちたものであったろう。
人類の歴史上戦車を主力とする戦争が存在した時代、
彼の名はその創造者の一人として永遠に記されている。

ロンメル(1891~1944){ドイツ}
「『砂漠の狐』と呼ばれた天才的前線司令官」
「戦術の芸術家」、「砂漠の狐」などと呼ばれ前線指揮の実績と
その悲劇的な最後により伝説化し、今も人々の語り草になっている英雄。
元々「歩兵の攻撃」という本も出版する歩兵戦術のエキスパートとして
有名であったが1940年の対フランス戦で装甲師団長に抜てきされることとなった。
そこでめざましい戦果を挙げ、戦車戦でも第一流の指揮者として評価される。
その柔軟性を買われて北アフリカ戦線に派遣され、
イギリスと北アフリカで2年間の死闘を演じることとなる。
本国からの補給がままならず数、質とも常に劣性に立たされるが
「不屈の意志と冷静な状況判断、断固とした決断力」を持って
優勢な敵に果敢に挑んでいった。
1941年の「プレヴティ作戦」、「バトルアクス作戦」、
1942年の「キレナイカ制圧」、「大釜の戦い」を経て
イギリス軍の重要な拠点トブルクを陥落させた。
この間イギリス軍は常に圧倒的に優勢な兵力を持って
ロンメルを再三攻撃したがことごとく撃退された。
この一連の戦いはロンメルの名声を敵味方を問わず高めることとなる。
遮蔽物がなく補給と兵力がものをいう砂漠地帯で戦車を中心とした機動戦で
常に劣性をはねのけていくロンメルは連合国軍の将兵から
「砂漠の狐」という名で恐れられ、また尊敬されるようになる。
この時イギリスの首相チャーチルまでも英国下院で敵将ロンメルのことを
「偉大な将軍」と手放しにその指揮能力を誉めたというエピソードも残っている。
また彼は「我々の前には極めて勇敢な、極めて巧みな敵将がいる」とも語っている。
しかしヨーロッパ戦線でのドイツ軍が劣性になるに従って一層補給がままならなくなり、
進撃のスピードが徐々に落ちていった。それでも善戦するがついに
1942年の「エル・アラメインの戦い」でモントゴメリー率いる
イギリス軍の圧倒的な数(ロンメルの3倍以上の兵力)の前に敗退。
苛烈な追撃を受けるが残存兵を巧み指揮し、悪天候にも助けられ脱出に成功した。
1944年の連合国の「ノルマンディー上陸作戦」で再び前線に立つが
重傷を負い戦線からしりぞく。この時「最も長い一日・・・」という名言を残している。
後にヒトラー暗殺計画に関わったことが判明して服毒自殺をはかり、
ドイツ軍で最も名声を得た将軍はドイツ軍から永遠に消えることとなった。
戦いを通して関わったあらゆる人間に感動を与えた名将として
彼の前線指揮能力、功績を讃える声は膨大な数に上る。
故に彼は多くの出版物や映画に題材とされ、
今でも「狐の足跡」として人々に感動を与えている。

マンシュタイン(1887~1973){ドイツ}
「ドイツ最高の作戦頭脳」
ドイツ軍最高の作戦立案者。
大戦を通して両陣営から最も評価された将軍の一人。
沈着冷静に熟慮した後に自分が正しいと納得すればそれに突き進むタイプ。
冷静な分析力と苛烈な行動力を合わせ持った人物として有名。
1940年の対フランス戦において『軍展開はほぼ不可能と思われていた
「アルデンヌの森」を突破しフランス軍の裏を突く』という極めて大胆な作戦、
通称「マンシュタイン・プラン」を内部の猛烈な反対をものともせず押し進めた。
結果、第一次大戦では4年かかっても勝てなかった長年の敵フランスを
わずか2カ月で占領した。
対ソ戦(東部戦線)の1942年「クリミアの戦い」ではわずか6個師団
(1個装甲師団を含む)でソ連軍26個師団を撃破しセバストーポリ要塞を占領。
また、1943年の「スターリングラードの戦い」に勝利し勢いづいた
ソ連軍の大進撃を「ハリコフ反抗戦」で自ら提唱する『機動防衛』をもって
巧みに誘導、壊滅させドイツ軍崩壊の危機を救った。
続く史上最大の戦車戦である「クルスク戦車戦」でも
常に戦略眼ではソ連の動きをうわまっていたが
ヒトラーの強い作戦介入により戦略的敗北を喫した。
大戦を通じてヒトラーと作戦方針をめぐり何度も対立。
その本来の力を充分に発揮できなかったばかりか1944年には罷免されている。
歴史家リデル・ハートからは「作戦行動について最新の着想を持ち、
技術面についての専門家で、絶大な突撃力をかね備えた、
連合軍にとって最も恐るべき相手」と賞され、戦車戦の父グーデリアンからは
「熟慮断行、冷静な判断力を備えたドイツ軍最高の作戦頭脳を発揮した将軍」など
その作戦立案、実行能力は敵味方をとわず各方面から賞賛を浴びた。
後に回顧録「失われた勝利」を記述している。

パットン(1885~1945){アメリカ}
「バストーニュを救った現代の騎士」
中世的な騎士道精神に貫かれた気質を持ち、”Old Blood and Guts”
「熱血と剛胆」と賞された大戦中アメリカ随一の猛将。
突撃戦を最も得意とし、ノルマンディー上陸戦、シシリー戦では
その抜群の戦闘指揮能力を発揮し評価される。
そしてバルジの戦いでは包囲され全滅の危機に立たされた
バストーニュの同胞を救うため160キロの距離をわずか48時間で救援に駆けつけ
ドイツの包囲網を突破し、一躍連合国の英雄となる。
このとき「走れ!ガソリンの続く限り走れ!!」と部下に叫び続けたのは有名で
後に映画にもなっている。常に最前線に立ち、「戦争とは非常なものだ。
戦争をするには単純で非常な人間が必要なんだ!」とも発言したその姿勢は
自分に対しても部下に対しても厳しい指導と共に多くの批判を買い、
「強引すぎる」として慎重派で有名なイギリスのモントゴメリーとしばしば対立した。
「時代遅れのロマンティスト」(シュタイガー大佐談)とも言われたが、
彼が連合国最高の将軍の一人であることは誰もが認める事実である。
彼は戦争が終わった年にささいな自動車事故で死亡した。
戦闘を崇高なものとし戦争に必要とされた人物が
戦争終了と共に去ったのは象徴的であった。

モントゴメリー(1887~1978){イギリス}
「天才ロンメルを破ったエル・アラメインの英雄」
その指揮能力への確信と部下に信頼を抱かせるすぐれた能力により
エル・アラメインで「砂漠の狐」ロンメルを破ったイギリスの国民的英雄。
その勝利は当時の英国首相チャーチルにして「エル・アラメン以前に勝利なく
エル・アラメイン以後に敗北なし」と言わしめるほどのものであった。
決して派手さはないものの注意深く確実に仕事をこなしていくタイプで
戦闘に対しては常に兵力、補給共に充分な準備が整って
初めて攻勢に打って出る戦闘法を用いた。
まさにライバルであるアメリカのパットンとは好対照である。
彼の作戦行動は「慎重すぎる」との批判をよく受けたが
しかしこの作戦行動は連合国の有力な生産力を充分に生かすことができた。
パットンを「華麗な常勝」と呼ぶなら
モントゴメリーは「確実な不敗」というべきであろう。
敬虔な牧師を父に持つ彼は何事においても潔癖であったと言える。
その性格が幸いしたのかパットンとは対照的に91歳という長寿をまっとうしている。

・・・課題で書いてみました。

1995 12/5
まろまろコラム

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です