河合隼雄 『箱庭療法入門』 誠信書房 2000

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さて、『箱庭療法入門』河合隼雄編(誠信書房)2002年第31版。

HP活動と箱庭療法が似てるような気がしたので(まろまろコラム)読んでみた、
30年以上(初版1969年)使われ続けている箱庭療法の定番テキスト。
理論篇と事例篇(9例)から構成されている。

箱庭療法を「思考、感情、感覚、観念、記憶が不可解なほどにからみ合っている」
人の治療として「視覚だけでなく触覚のような感覚の要素」をもって、
「通常の治療に必要とされる解釈や転移なしに治療できる方法」として紹介している。
(第1章:技法とその発展過程)
特に子供に有効であるということを述べているが、
思考、感情、感覚、観念、記憶が複雑にからみ合っているのは
認知科学的に言っても子供に限ったことではないし、
現に事例でも32歳の成人男性(精神分裂症)への箱庭療法による治療を紹介している。

120点も収められている事例の箱庭をぱっと見ただけで伝わってくるものがあって、
確かに言葉では表現できない心情が表現されているというのが視覚的にも納得できる。
事例篇では治療が進んでいくにつれ箱庭の感じが徐々に変わっていくのが垣間見れて、
事例の最後で治療が完了した報告を読むのと同時に
最後の箱庭を見るとうるうる来そうになってしまったこともあった。

また、箱庭を作っている時には「それを見ている治療者の存在が大切」
(第3章:箱庭表現の諸相)という点や、
最初は雑然としていたものが回を追うごとにつれてだんだんとテーマ性や
その人なりの個性がはっきりしてくるところは(事例篇)、
HP(WEBサイト)にもすごく似ているように思えた。

以下は、その他でチェックした箇所(一部要約&重要と思われるもの順)・・・

☆治療的な面から見れば箱庭療法は遊戯療法と絵画療法の中間にある
→被治療者自身が創造の過程に自ら参加し、
結果の意味を直感的にしろ潜在的にしろ把握する度合いは他の投影法の場合より大
<第2章 理論的背景>

☆箱庭の空間配置について・・・
・左側はその人の内的世界・無意識世界、右側は外的世界・意識世界を示すことが多い
・すべてが一定方向に向いているときには、左向きは退行(regression)を、
 右向きは進行(progression)を示すことが多い
(ただしこれらは例外もあるので絶対ではない)
<第3章 箱庭表現の諸相>

☆箱庭の主題になりやすいテーマ・・・
(意識を無意識を含めた)全体性の象徴、全体性の中心としての自己(Self)、
二つの世界の統合、二つの世界の領域の反転、死と再生、領域の拡大、
渡河や出立(人格発展に立ち向かう姿勢を示す)、
行列や川の流れ・動物の行進(エネルギーの流れを表す)、
給油(エネルギーの供給を表すのでガソリンスタンドの模型は大切)、
勢力が均衡している戦闘場面(単なる攻撃性ではなく新しい発展を示す)、
蛇は劇的な変容を象徴する場合が多い、
(ただしこれらは例外もあるので絶対ではない)
<第3章 箱庭表現の諸相>

○まず大切なことは、作品をできるだけシリーズとして見ること
→箱庭の作品を見たとき、それに対して全体として受ける感じ、
印象のようなものを大切にしなければならない
<第3章 箱庭表現の諸相>

○(箱庭療法の有効性について)人間に自由を与えてその内的なものを深く掘り下げた
表現をさせる場合、何らかの制限を必要とする→自由と同時に適切な制限が必要
<第2章 理論的背景>

○箱庭は治療者と被治療者との人間関係を母胎として生み出された一つの表現
=心像(image)=意識と無意識・内界と外界の交錯するところに生じたものを、
視覚的な像として捉えたもの
→心像は具象性、直接性、集約性といった特徴をもっている
<第2章 理論的背景>

○(箱庭療法は)患者が言語を手段とすることなく
保護された場面における象徴体験によって治療が進んでいく(略)
象徴の意味する点を何ら解釈して患者に伝えなくても治療がなされることもある
<第2章 理論的背景>

○統合性=分離、粗雑、貧困、機械的、固定的な要素の少ないこと

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2003 11/4
心理学、臨床心理、箱庭療法
まろまろヒット率4

ヴァルター・ベンヤミン、高木久雄・高原宏平訳、佐々木基一編 『複製技術時代の芸術』 晶文社『ヴァルター・ベンヤミン著作集 2』より 1996(原著1935)

ASEANと日本の交流関係のお仕事を終えた、らぶナベ@詳細は出来事メモにて。

さて、『複製技術時代の芸術~ベンヤミン著作集2~』
ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編
(晶文社)1996年第26版(原著1935年初版)。

『視覚的人間』の中で雰囲気について語っているのに興味を感じたら、
副指導の武邑助教授が「アウラも押さえなよ」と貸してくれた本。
けっこういろんなところで引用されているのを見かけるので、
一度は読んでみようと思っていたのでちょうどよかった(^^)

内容は複製技術が普及する時代(1930年代)に生きた著者が、
複製技術によって芸術が持っていた一回性の「アウラ」
(いわゆるオーラ)が消えるんだと主張している。

この本から70年近くたったいま、すべてがデジタル化されて
WEBで結ばれようとしている時代を生きる僕にとっては
複製技術の時代にこそアウラが生まれるような気がした。
一回性ではなく数回性こそのアウラ・・・そんなことを感じたナベンヤミンです。

以下は、チェックした箇所・・・

☆アウラ=どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象<3>

○どれほど精巧につくられた複製のばあいでも、「いま」、「ここに」しかない
という芸術作品特有の一回性は、完全に失われてしまっている
→「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」しかない
という性格によってつくられる<2>

○複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである<2>

○芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから
ぬけきれないということである<4>

○(複製技術時代の)芸術は、そのよって立つ根拠を儀式におくかわりに、
(略)政治におくことになるのである<4>

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2003 11/2
美学・文化論、メディア論、思想
まろまろヒット率4

平勢隆郎 『よみがえる文字と呪術の帝国―古代殷周王朝の素顔』 中央公論新社 2001

気が付けば15万アクセスありがとう!な、らぶナベだす。

さて、『よみがえる文字と呪術の帝国―古代殷周王朝の素顔』
平勢隆郎著(中公新書)2001年初版。
殷周時代の年代の誤解について資料を丹念に読み解きながら解明している歴史書。
天文学と数学を使って検証しているのも特徴的。
ちょうど今年の年初にこの時代を舞台にした『太公望』を読んだところだったので
興味はあったけど、一般向けというよりも
専門家に向けたコメントも多くて新書にしては窓口が狭いかも。
本文よりも余説の方が面白く感じてしまった。

ちなみに僕は著書の講義「中国古代の数と秩序」を取っている。
内容が面白い上に極端に人数が少ない(時に2人だけ)ので
ほぼオーダーメイドで講義をしてもらっている。
前期の「共依存的生滅の論理の探求」に匹敵するくらい濃密度の講義。
そんな静かでマイナーな熱さが感じられるこの講義がナニゲに好きだ。

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2003 11/1
歴史学、中国史
まろまろヒット率2

佐藤郁哉 『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』 新曜社 1992

マリノフスキーっておちゃめさんと思っている、らぶナベだす。

さて、『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』佐藤郁哉著(新曜社)1992年初版。
対象との間合い(距離感)について考えていたら佐倉助教授から「名著だよ」と紹介された本。
著者は暴走族(『暴走族のエスノグラフィ』)や現代演劇(『現代演劇のフィールドワーク』)
へのフィールドワーク研究をしたことで有名な人。

内容は文字通りフィールドワークの概要や考え方について紹介している。
だからといってフィールドワーク至上主義というわけではなく、
サーベイとの対比をしながらそれぞれの一長一短を分析して
それぞれを補い合うよう提言している。
対象との距離感や社会調査法についてのことだけでなく、
仮説や概念のとらえ方についても議論しているので
こうしたことを全般的に通して考えるきっかけになる。

読み終わってからインターンシップで企業現場に飛び込んだり、
産学協同事業に携わったときにこの本を読んでいればとちょっと思ってしまった。
まぁまだ生きてるんだし、次は使えるさ。(自作自演な慰め)

ちなみにこの本の「書を持って街へ出よう」という副題は気に入った。
僕の場合なら「箱庭を持って広場へ出よう」という感じだろうか(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○文化=知識・信仰・法律・風習、その他社会のメンバーとしての人間によって獲得された、
あらゆる能力や習慣を含む複合体の全体(エドワード・タイラー)
<カルチャー・ショック>

○フィールドワーク=文化的な子供時代の再現
→ただし子供のように白紙の状態からとは違い、
 既に身につけている自分の社会の文化を前提として
 調査地の文化を学んでいくのがフィールドワーカー
<カルチャー・ショック>

○「居心地の悪さ」を感じることこそ「文化」を知るための最良の方法
→フィールドワーカーは「プロの異人」
<カルチャー・ショック>

○エスノグラフィー=
 人類学者が異文化における日常生活を身近に観察し、記録し、
 それにみずから参加し、細部を丹念に記述しながら
 その文化についての話を書き上げる調査のプロセス(Marcus&Fischer, 1986)
→文学と科学の二つのジャンルにまたがる性格をもつ文章であり、
 また、そうした文章を作るための調査法でもある
<民族誌>

☆フィールドワークとサーベイ
・フィールドワーク→定性的(質的)調査=
 限られた範囲の対象について多様な事柄を調べられる
・サーベイ→定量的(量的)調査=
 広範囲の対象に限定された事柄を調べられる
→一般的にフィールドワーカーvsナンバークランチャーの対立と言われるものは
 この二つのアプローチの違いが原因
<アンケート・サーベイ>

☆サーベイとフィールドワークは対立する二つの方法ではなくて、
本来補い合うべきアプローチ(それぞれの違いは質的ではなく程度の問題)
<事例研究>
→派閥争いではなくトライアンギュレーション(マルチメソッド)でおこなうべき
<トライアンギュレーション>
→複数のモデルを使うのは目的地にたどり着くために何枚かの地図を使うプロセスと同じ
<モノグラフ>

☆信頼性と妥当性の区別が必要=その調査方法が信頼性があっても
 その事柄への妥当性があるとはいえない
<信頼性と妥当性>

○統計データの多くは過去におこなわれたサーベイという
 干渉的な調査結果であることを忘れてはいけない(Maier, 1991)
<トライアンギュレーション>

☆理論の検証(verification)=グランドセオリー(総合理論)と、
理論の発見(discovery)、理論の生成(generation)=グラウンディッド・セオリー
(データ密着型理論)を併用して、理論の生成と理論の検証の双方をめざすべき
<理論の検証と理論の生成>

☆恥知らずに折衷主義=
 その社会に含まれる矛盾や非一貫性をすぐ単純化や抽象化するのではなく、
 (抽象度が高いものはほとんど何でもいえてしまう危険がある)
 ひとつの方法だけではとらえられない事柄は別の方法を使うという姿勢
 (Suttles, 1976)
<恥知らずの折衷主義>

○操作主義(操作的定義の概念)=
操作の手続きで概念を定義することによって、客観化を目指すこと
 →限定概念(definitive concept)と批判される
これに対して感受概念(sensitizing concept)=
研究のはじめに大まかな方向性(問題を検証する手がかりとなる感受の方向)を示す概念
 →調査が進むにつれて概念規定そのものを練り上げていく柔軟性あり
<概念>

○仮説=すでにある程度わかっていることを土台にして、
 まだよく分かっていないことについて実際に調べて明らかにするための見通し
<仮説>

○外国語の翻訳と同じように、ある行為の意味を明らかにするためには、
 その行為が埋め込まれている社会生活の全体の文脈をあきらかにする必要がある
<分厚い記述>

○参与観察(participant observation)=
1:社会生活への参加、2:対象社会の生活の直接観察、
3:社会生活に関する聞き取り、4:文書資料や文物の収集と分析、
5:出来事や物事に関する感想や意味づけのついてのインタビュー
<参与観察>

○インフォーマントとは「客観性を失わないラポール」
(rapport combined with objectivity)が重要
 →ここにフィールドワーカーだけが明らかにできるものがある
<インフォーマント>

○遂行面での知と批評的理解の知とは同じ性質の能力や知識ではない(Ryle, 1949)
<第三の視点>

☆時期尚早のコーディングの誘惑=
 枠組みがあまり早い時期に固まるとその枠組みからはみ出した事柄は
 観測や資料収集できなくなるおそれがあること

・それを防ぐ方法=
1:一般理論や他のフィールドワーカーが書いた民族誌の内容とつきあわせて、
 調査の枠組みの位置づけを検討、確認する作業を怠らないこと
 (理論的な前提に関して視野を狭めないようにする)
2:調査項目に関する網羅的なチェック・リストを作る
 (調べる事柄にバラツキがないかを常にチェックする)
3:網羅的なフィールドノーツをつける
 (ある段階で出来た枠組みにとって都合の悪いデータも記録するように自分にしむける)
4:データの分類だけでなく配列を考える
 (一般的な基準で配列すれば都合の都合の善し悪しに関わらず一緒にリストアップ)
→現場が新しい発想を発見することができる宝庫だとしたら、
分類と配列はその宝庫の扉を開いて価値を何倍にも拡大するカギ
<分類と配列>

☆フィールドワーカーを調査の対象となる社会や文化を計る計測器にたとえれば、
日誌はその機械自体のコンディションをチェックするモニタリング装置
 →日記は自分の置かれた環境の状態を測るだけでなく、
 自分自身のフィールド体験による変容をとらえることができる装置
<フィールド日記・フィールド日誌>

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2003 10/31
学問一般、フィールドワーク、社会調査法、社会学、人類学
まろまろヒット率4

養老孟司 『バカの壁』 新潮社 2003

肝機能回復のためにゴーヤ茶を飲んでいる、
らぶナベ@水筒を持ち歩いている人間を見かけたら、
もしかしたらそれは僕かもしれません(^^)

さて、『バカの壁』養老孟司著(新潮新書)2003年初版。
家に泊まりに来た人がくれたので読んでみた今年のベストセラー本。
脳解剖学者が書くエッセイ。

「一般に、情報は日々刻々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない、
と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない(略)あべこべの話です」
→「生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけども、
情報というのはその中で止まっているものを指してる。
万物は流転するが、『万物は流転する』という言葉は流転しない」
(第4章:万物流転、情報不安)と述べているところや、
「組織に入れば徹底的に『共通了解』を求められるにもかかわらず、
口では個性を発揮しろと言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理の無い話。
要するに『求められる個性』を発揮しろという矛盾した要求が出されている」
→「(教育関係者へ)おまえらの個性なんてラッキョウの皮むきじゃないか」
(第3章:「個性を伸ばせ」という欺瞞)っと言い切っているところなどは
勢いがあって肯きながらサクサクと読んでいける。

また、「教育の現場にいる人間が、極端なことをしないようにするために、
結局のところ何もしないという状況に陥っているという現実があります」
→「(わたしは)自分が面白いと思うことしか教えられないことははっきりしている」
(第7章:教育の怪しさ)と述べているところにはすごく共感した。
ときどき僕は人から教え上手とか説明上手と言われることがあるけれど、
それは誤解で、僕は人に「教える」ことはまったくできないと考えている。
ただ、自分が必要だと思ったり大切だと思うことを相手に伝える、
共感することはできると思っていたところだったので、
そういうことを感じている人が他にもいたんだと思ってちょっと安心。

・・などなど、通して読むとけっこう面白いけど、
飲み屋のクダまきおっさんトーキングの色合いが強くなる後半は
ぐぐっと説得力と小気味良さが落ちてしまっている。

ちなみに、河合隼雄(心理学)といい、この本の著者といい、
こういう系のベストセラーを出す人が
心理学や脳科学の分野の人というのが現代的な特徴なのかな?

以下はその他にチェックした箇所・・・

○真に科学的である、というのは「理屈として説明出来るから」
それが絶対的な真実であると考えることではなく、
そこに反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢。
→イデオロギーは常にその内部では100%だが、科学がそうである必要はない。
<第1章 「バカの壁」とは何か>

○人間はどうしても、自分の脳をもっと高級なものだと思っている。
実際には別に高級じゃない、要するに計算機。
<第2章 脳の中の係数>

○V.E.フランクルは「意味は外部にある」と言っている。
「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。
<第5章 無意識・身体・共同体>

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2003 10/22
エッセイ、脳科学、科学論、教育論
まろまろヒット率3

佐倉統 『佐倉統がよむ進化論のエッセンス』 トランスアート 2003

オリジナル(原作&アニメ)を知っているだけに実写版『セーラームーン』は
いくら仕事でも恥ずかしくて最後まで見れない、らぶナベです。

さて、『佐倉統がよむ進化論のエッセンス』佐倉統編(トランスアート)2003年初版。
進化にまつわる本を紹介しているアンソロジー本で、
情報学環の講義「進化生態情報学」の指定参考図書。
生まれて初めて手に取ったオンデマンド出版物でもある。

内容は生物学の基礎がない人でも進化論に取っ付けるように、
いろいろな本からさわり部分を引用して紹介している。
すごく面白い企画だけど、編者のコメントが少なすぎて物足りなさをかなり感じた。
どうせアンソロジーなんだから、もっとざっくりばっさり切り分けしてほしかった。

ただ、「日本の社会・文化は、まずは韓国や中国やヴェトナムなどと比較すべきであって、
欧米と比較して違いがあったからといって、即日本の独自性だと結論するのは、
論理的にもおかしい。日本ではなくて東アジアの独自性かもしれないのだから」
っと編者が述べているところには(第4部:日本の進化論、今昔)、
研究会で自分に言われているような錯覚を覚えた、反省します(^^;

以下はその他でチェックした箇所・・・

○進化=「変化を伴う由来」=”descent with modification”(Dawin, 1859:123-124)
<第3部 進化と歴史>

○いったん発表された文芸作品は、その後の改定・解釈・翻訳・模倣・ドラマ化
などによる「進化」を行う実体と解釈すべき
(literary accomplishment:Ghiselin, 1980:82-83)
<第3部 進化と歴史>

2003 10/19
進化論、自然科学、アンソロジー
まろまろヒット率2

ベラ・バラージュ、佐々木基一・高村宏訳 『視覚的人間-映画のドラマツルギー』 創樹社 1975(原著1924)

らぶナベ@広場の箱庭師です。

さて、『視覚的人間-映画のドラマツルギー』ベラ・バラージュ著、
佐々木基一&高村宏訳(創樹社)1975年初版(原本1924年初版)。

副指導教官の武邑光裕助教授から借りた本の第三段。
映画がまだ低俗なものとして扱われていた1920年代(白黒&無声映画の時代)に、
映画を芸術として位置づけようと試みた美学書の古典。
新しいものが芸術としてどう位置づけられて来たのか、
その過程を知るという点でも意味のある本。

この本で一番興味を持ったのは何と言っても「雰囲気」について述べているところだ。
「雰囲気は個々の形象の中に圧縮されている霧のような原素材である。
それはさまざまな形態の共通の基体でありすべての芸術の最終的なリアリティである。
この雰囲気がひとたび存在すると、個々の形態が十全でなくとも
それが本質的なものを損なうものとはならない。
この特別なものの雰囲気が< どこからくるか>を問うことは、
すべての芸術の源泉を問うことである」、
「雰囲気はたしかにすべての芸術の魂である。それは空気であり香気である」
(「映画のドラマツルギーのためのスケッチ」より)
・・・まさにビビっと来た。

作品と呼ばれるものは「その雰囲気」を感じさせれば作品として成功なんだし、
作品と呼ばれないものでも独自の雰囲気を醸し出せるものは芸術なんだ。
この本の論旨はまだ美学がその射程にとらえていない
WEB活動や同人活動にも応用可能だと読みながら感じた。

また、この本の紙質、大きさ、分量、文字の配置どれもすごくフィット感があった。
そういう意味も含めてまろまろヒット率5です(^_-)

以下は、その他にチェックした箇所・・・

○理論は芸術発展の舵ではないが、すくなくともコンパスである
 <序言ー三つの口上>

○文化とは日常的な生活素材の完全な精神化を意味する
 <視覚的人間>

○唯一無二であるということがそれぞれの現象の本質であり、
それぞれに存在理由を与えるものである
→それは他のものとの差異によって最も明白になる
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○すべての芸術の存在資格は、代替不可能な表現の可能性を持つものであるという点
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○(覗き見について)我々が何かを見るときには、我々自身がその場にいるのが自然(略)
誰もその場にいないときの事物の様子を見ることは、人間のもっとも深奥の形而上学的憧憬
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○芸術とは本来、削りとることなのだ
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

☆(ウィットについて)それは概念の遊戯であって、
さまざまな概念相互のあいだの隠された思いもかけない関係を解き明かすことである
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

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2003 10/12
メディア論、映画論、美学・文化論
まろまろヒット率5

ヴィレム・フルッサー、村山淳一訳 『テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説』 東京大学出版会 1997

生息地の小石川がすっかり秋らしくなった、らぶナベ@何気に文京区が好きな大阪人だす。

さて、『テクノコードの誕生-コミュニケーション学序説』
ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳(東京大学出版会)1997年初版。
副指導教官の武邑助教授から借りた本の第二段。
コミュニケーションの視点から、アルファベットの終わりと
テクノコードの始まりという歴史的転換について述べている一冊。
話の前提となる道具立てが多いことや、括弧書きが多いこと(これは訳の問題?)が
かなり煩わしいけど、それをガマンして読めばけっこう面白い一冊。

「人は必ず死ぬ」
だから
「人間は、コミュニケーションによって世界と生に意味を与え、孤独と死に対抗する」
そして
「世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になり」、
「人間自身は、他の人間によって不死になる」、
というのがこの本の主題(第3章「テクノイマジネーションの世界へ」)。

話を進める上で本文中に出てきた道具立てについてはメモを残したけど(下にあり)、
こういうネタはこれから脳神経科学と認知科学の研究が進んでくれれば、
これほどまでに込み入ったことをしなくても議論できるようになるんじゃないだろうか。
(そうしてもらわないとこまっちんぐ(^^;)
また、著者は「越境者」とか「超越者」として分類されているので、
読み終わってからどこにカテゴライズするか頭を悩ませた本でもある。
(ホントにこまっちんぐ(^^;)

残念なことに著者はインターネットの普及を見る前に死んでしまった(没1991年)。
読書メモや遺書をネットで公開している僕の姿を見たら彼はどう感じたのだろう。
彼にまろまろを見せれなかったのはかなり残念だ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆人間のコミュニケーション=意味を与え、その意味が解釈される現象
→コミュニケーションの目的は死すべき生という残酷な不条理を忘れさせるための技法
(人間のコミュニケーションはコード化された記号に基づいている)
<序 コミュニケーションとは何か?>

○人間のコミュニケーションは孤独と死に逆らう技法であり、
エントロピーに向かう自然の一般的傾向に逆らう過程
<序 コミュニケーションとは何か?>

○コミュニケーション形式は、少なくとも意味論的(semantics)観点か、
構文論的(syntax)観点のいずれかによって分類できる
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「言説」(discourse)=手にしている情報を分配し、
 自然がもつ分解作用に対抗してそれを保存するための方法
→いかにして情報への忠実と情報の進行を調和させる言説構造をつくりだすかが問題
 (1)「劇場型言説」(発信者と受信者が向き合っている)
 (2)「ピラミッド型言説」(コード変換が段階ごとに行われる)
  →最高権威と原作者の間には超越性の断絶を超えて絶えず橋が架けられている
 (3)「樹木型言説」(当初の情報が解体&コード変化されて絶えず新たな情報が生まれる)
  →情報分配の閉鎖的特殊化によって死に至る孤独が克服しにくい
 (4)「円形劇場型言説」(受信者が言説の尽きるところにいる)
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「対話」=さまざまの既存の情報を合成して新たな情報を生むための方法
 (1)サークル型対話(求められている公分母は基本情報ではなく一つ合成)
 (2)ネット型対話(あらゆる情報が最後に流れ込む貯水池)
  →自然の分解傾向から情報を守る最後の受け皿
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○神話的な原作者は(略)客観的心理とか科学的厳密性という
レッテルとして樹木型言説の頂上にあって、
対話的なサークルは実際にはピラミッド構造のなかの権威中継者になっている
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○われわれは権威と伝統に対する関心を持たなくなっているからこそ、
かつてなかった権威主義的ピラミッド(technocracy)を体験している
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○線形的なテクストを読む者はテクストを超えたところに立つ
(これが考えるということの意味)
→こうした自己観察はテクノ画像の場合は不可能(テクノ画像は受信者を取り囲む)
<第1章:さまざまの構造 3:三つの典型的な状況>

☆文化は人間のための世界に意味を与える同時に
世界から人間を守ることによって人間と世界を媒介する
→ドイツ語の”vorstellen”は”判らせる”と”遮る”の二重の意味がある
<第2章:さまざまのコード 1コードとは何か?>

☆諸定義・・・
 ・「書くこと」=旋回するイメージ的時間をまっすぐに延ばして線形にすること
 ・「読むこと」=そのように線形的に進行する時間を終わりまで追ってゆくこと
 ・「記号」=何らかの了解によって別の現象を示すものとされている現象
 ・「コード」=記号の操作を整序するシステム
 ・「イマジネーション」=画像によってコード化するとともにデコードする能力
 ・「テクノ画像」=扇情的テクストの記号に意味を与える諸記号によって覆われた平面
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

○デカルトの出発点→算数と幾何学の間の断絶、
カントの出発点→純粋理性と実践理性の間の断絶
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

☆歴史の主題とは、イマジネーションとコンセプション、
表象と概念、呪術と歴史的論証の間の弁証法的緊張関係
<第2章:さまざまのコード 4三つのコードの同期化>

○テクノイマジネーション=概念についての画像を描いた上で、
その画像を概念の記号として読解する能力
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆人間は、世界と生に意味を与え、それによって死を否定するさいに、
他の人間とコミュニケートする
→世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になる
(人間自身は、他の人間によって不死になる)
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆ある言明は、そこで発言権を主張している視点の数が多ければ多いほど、
また、それらの視点をとることのできる人々の数が多ければ多いほど、真実に近い
→真実の標識は客観性ではなく間主観性
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

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2003 10/8
情報・メディア、科学哲学、コミュニケーション論、文化論、越境系
まろまろヒット率4

村上祥子 『村上祥子の1人分でもおいしい電子レンジらくらくクッキング』 ブックマン社 2001

まろまろフラッグの卓上旗版(まろプチフラッグ)が完成した、らぶナベです。

さて、『村上祥子の1人分でもおいしい電子レンジらくらくクッキング』
村上祥子著(ブックマン社)2001年初版。

一人暮らしをしているのに電子レンジをあまり活用できていないので、
書店で見つけて購入した電子レンジのレシピ本。
買ってから知ったけれどこの著者は電子レンジ使いで有名らしい。

最初に電子レンジマニュアルとして基本的な使い方やコツが載っているのは便利だし、
醤油1:砂糖:1酒:1の割合でつくる「かれいの煮付け」(3分で完成)はけっこう良い。
ただ、レシピの方は鍋やフライパンを使ったほうが早いし簡単だというものも多かった。
油を抑えたいときに使うちょっと特殊なレシピ集になるのかも。

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2003 10/3
料理本
まろまろヒット率2

ジョン・バージャー、伊藤俊治訳 『イメージ―Ways of Seeing 視覚とメディア』 PARCO出版 1986

まろまろHPにわんわんを飼いはじめた、らぶナベ@リンクアイコンとして活躍中です。

さて、『イメージ-Ways of Seeing 視覚とメディア』
ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳(PARCO出版)1986年初版。
副指導教官の武邑光裕助教授が貸してくれた本。
「見る」ということがどういうことなのか、その意味を問いなおした本として
出版されたとき(原本1972年)には衝撃を与えた一冊らしい。
もとはイギリスBBCの番組”Ways of Seeing”をテキストとして構成しなおしたもので、
絵と写真から成るイメージだけの章もあって確かに意欲的な本。
ただしカラーじゃないのがすごーく残念だった。

内容的には追章「見ることのトーポロジー」の中で
フランス語の「”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある」と紹介していたことは
まさにこの本のテーマ性を言いあらわしているように思えた。
(フランス語知らないので新鮮だった)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○イメージとはつくり直された、あるいは再生産された視覚だ。
それは、最初にあらわれ、受けとめられた場所と時間から、
数瞬または数世紀も引き離された概観である。
すべてのイメージはものの見方を具体化する。
<1 イメージの変容>

○過去の文化を神秘化することは二重の損失を生む(略)
芸術作品は不必要なほど遠くでつくりあげられることになり、
過去は行為の遂行についてほとんど結論をくだすことはない。
<1 イメージの変容>

○裸(naked)とは単に服を着てないということであるが、
裸体(nude)とは芸術の一形態である。
→裸体(nude)とは絵の出発点ではなく、絵がつくりあげたものの見方。
(ケネス・クラーク『ザ・ヌード』)
<3 「見ること」と「見られること」>

○広告は実は物についてではなく社会関係について語っている。
広告が約束するものは快楽ではなく、幸福なのである。
幸福は外側から他人によって判断される。
うらやましがられる幸福、それこそが魅力と呼ばれるものである。
うらやましがられるということは安心の孤独な形といえるだろう。
→広告イメージはありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、
 かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。
<7 広告の宇宙>

☆仏語の”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある。
<見ることのトポロジー>

○印刷画を一般概念や特定の役割の見地からも見なければならないが、
とりわけ情報の伝達者や受容者に印刷の諸技術が課してきた
限界について私たちは考察する必要がある。
(ウィリアム・アイヴィンス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』)
<見ることのトポロジー>

○(複製によって)オリジナルは人々が入り込んでくる存在の場ではなく、
人々が自らのまわりに呼び入れる表層の場となる。
<見ることのトポロジー>

○見せる操作は世界へ介入するのではなく、世界を見られる形に変える。
見るということが、見る者と世界との相互性を含むものであるということを見えなくする。
<見ることのトポロジー>

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2003 10/3
視覚メディア論、芸術論、美学
まろまろヒット率3