京極夏彦 『塗仏の宴-宴の支度』 講談社 1998

“出来事メモ“カテゴリや”まろまろサーチ”のヒット率などを密かに更新してる、
らぶナベ@恥ずかしがりやさんなので静かにがんばってます(^^;

さてさて、『塗仏の宴-宴の支度-』京極夏彦著(講談社)1998年初版をば。

読んだ感想→「続くのかよ!」(三村マサカズ風に)
上下巻とかにしないのは著者のこだわりなのだろうけど、
本が分厚いだけにちょっと面食らった京極堂シリーズ第6段。

結末に触れていないので物語としての評価はまだ下せないけど、
「自己への揺らぎ」がこの本のテーマのような感じがする。
催眠や洗脳など、確かにそういう話はちょっと怖い。
そもそも人格なんていう概念自体がある意味で詭弁でしかなく、
人格という確固とした統一性ある”固体”があるわけじゃい。
それなのに人格の破壊や改造というものに対して恐怖を感じる。
それはやはり自己愛の顕れなのだろうか。
この本を読んでいる時にたまたまHPで知り合った人と、
『山月記』(中島敦)の話をする機会があり
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という言葉を
思い出したから特にそう感じたのかもしれない。
そんな「自己への揺らぎ」の恐怖を感じた『宴の支度』だった。

物語としての感想が書けないので小説などの物語本ではあまり書き残さない
チェック箇所を記録・・・
「底の知れた神秘より、巧妙な詐欺の方がより効果的だ」
by関口巽

「来ると思ったところに来ないのが闘いの基本じゃないか。
来ると思ったところに来るのはお笑いの基本だ!」
by榎木津礼二郎

「非経験的なる観念を、先天的な真理と見做すことは幸運の獲得にはつながらない」
by織作茜

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2002 4/28
小説、文学
まろまろヒット率3

レヴィ=ストロース、川田順造訳 『悲しき熱帯』 中央公論社 上下巻 2001(原著1955)

HPを立ち上げてから興味を持った分野の本をようやく読み終えた、
らぶナベ@引用も長いのでさっそく本題・・・

『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース著&川田順造訳
(中公クラシックス上下巻)2001年初版(原著1955年初版)
文化人類学の古典。
1930年代当時まだ現存していた南米先住民の生活&風習の研究を通して
不条理にみえる神話や風習にも全体を貫く一定の構造があるのだ
と主張する構造主義を確立したとされる本。
(この視点は様々な分野に影響を与えたので読書カテゴリも豊富)

この本は僕にとっては初めて読む文化人類学本でもある。
HPを立ち上げて以来約9ヶ月の間、ネットビジネスやネットをめぐる
法的問題に触れたり考えたりする機会が必然的にめぐってきていたが
その度に「そもそも今の経済学、経営学や法学の理論や概念では
ネットという存在を捉えきれないのでは」という違和感を感じていた。
そんな中で民俗学や人類学を学ぶ知人の影響もあって
これらの分野の視点がネットを考えるヒントになるのでは
と思って購入することになった一冊。

僕は今まで馴染みのない分野に触れる時にはまず何冊か入門書を読んで
その分野の全体像を把握してから古典や専門書を読むという手法を取ってきたが
(法律関係カテゴリ参照)
この分野についてはいきなり古典から入った。
タイトルフェチの僕にとって非常にひかれるタイトルだったからだ。
この本は何よりもまずタイトルが良い。
学術書なのに「悲しき熱帯」(原題”Tristes Tropiques”)とは素敵すぎ。

学術書とは思えない読みやすそうなタイトルだが実際に読み始めると・・・
「これは学術書なんだ」と思わないとやってられないくらい読みにくかった(^^;
そもそも南米の先住民研究にはなかなか入らないし、
断片的な旅行談や詩や戯曲、はたまた新聞の広告やらがいきなり出てきたりする。
そういう構文上の問題に加えて著者の後向きな姿勢が読みにくさを助長した。
後向きな姿勢であってもそれが根拠に基づいているものであれば納得できるのだけど
訳者も前書で「明らかな飛躍や矛盾はある」とわざわざ断りを入れているほど
根拠がなかったり不必要だったりするものも多くて読んでいて疲れた。
特に当時の発展途上国の人々やイスラム教に対する不理解な偏見は
著者がまだ生きてるだけに訂正しても良いのではと余計な心配までしてしまった。
また著者は皮肉屋さんらしくブラックジョークらしきものがよく出てくるのだけど
21世紀の始めに生きる日本人の僕にはどこで笑っていいのかわからなかった。
やはり正確性を欠くマイナス思考っていうのは付き合いにくい。
この本は「20世紀を代表する本のひとつ」という触れ込みだったが
果たしてこの本が数世紀後も人類を代表する本のひとつ
と言われるのかどうかは疑問に思ったりもした。

構文的にも感性的にも読みにくさを感じていたがせっかく読み始めたのに
途中放棄するのはもったいないので諦めずに読み進めると
第五部「カデュヴェオ族」(上巻254P)からようやく面白くなった、
っというかこれからが本題。
一見、原始的で素朴に生きていると思える文明化されていない社会でも
そこには人間関係や生活様式を含めた厳格な社会システムが存在している。
社会的機能や構造が存在することは政府や法律などの
「高度な社会システム」があるとされる先進国の国家と変わらない。
・・・ということを先住民への調査を通して証明している。
特に着衣を一切せずに移動しながら生きるナンビクワラ族を調査している第七部では
このような考えられる限り一番原始的な社会生活を送っている人々の間でも
機能としての一夫多妻制を利用した社会システムや厳格な掟が存在してるとされる。

僕はこの本を実際に手に取る前から何が「悲しき」なのだろうかと思っていた。
ナチスによるユダヤ人迫害から逃れなくてはならなかった著者の気持ち、
破壊されつつある先住民社会への思いなど、いろいろな解釈があるだろうが
僕はこの第七部を読んで人間関係のわずらわしさというのは
人が誰かと関係を持って生きる限りどのような形の生活であっても生まれるという、
そういう悲哀のようなものが「悲しい」んだなと感じた。
振り返って20世紀初めの日本を見てみても、
無秩序で好き勝手にしているように見えるネット上の掲示板でも
煩わしい関係から逃れようとした人々の集まりでも
(宗教や田舎、海外や不良などの反社会集団に逃げたとしても)
やはり明文&暗黙に関わらず一定のルールや機能的関係が存在している。
そういう「悲しさ」があるのだということを感じる本だと解釈した。

そんなこんなで以下は注目してチェックした部分の引用(注目度順)・・・

☆人間があれば言葉があり、言葉があれば社会がある(略)
ポリネシアの人たちは社会を作って生きていたことにおいて我々以下ではなかった
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

☆全裸で暮らしている民族も私たちが羞恥と呼んでいる感情を知らないわけではない。
ただ彼らは、その境界を違ったところに設定しているのだ(中略)
むしろ平静か興奮しているかのあいだにおかれている
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

☆村を成しているのは土地でも小屋でもなく
すでに記述したような或る一つの構造であり、
その構造をすべての村が再現するのである
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

☆一夫多妻婚とそれに付随する特別の資格は、
首長が責務を果たすために集団が彼に供与している便宜という意味をもっている。
首長一人きりだったならば他の人たち以上のことをするのは極めてむずかしい
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一夫多妻の特権がどれほど性的、情緒的、社会的に見て魅力あるものであろうと、
それだけでは首長の仕事を志望する十分な動機にはならない(略)
一夫多妻婚は、権力のむしろ技術的な条件である(中略)
人間は、みな同じようなものではない。
社会学者が何でもかんでも伝統によって圧し潰されたものとして描いて来た
未開社会においてさえこうした個人の差異は、
「個人主義的」と言われている私たちの文明におけるのと同じくらい
細かく見分けられ、同じように入念に利用されている
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一つの民族の習俗の総体は常に、或る様式を認めることができる。
すなわち習俗は幾つかの体系を形作っている(中略)
観察された、あるいは神話の中で夢想された習俗のすべて、
さらに子供や大人の遊びのうちに表されている習俗、
健康なまたは病気の人間の夢、精神病患者の行動、
それらすべての一覧表を作ることによって、
丁度元素の場合のように一種の周期律表を描くことが可能になる
<第五部「カデュヴェオ族」”先住民社会とその様式”>

☆人類の歴史の最も創造的な時期の一つは、農耕、動物の家畜化、
その他の技術を生んだ新石器時代の到来期(中略)
新石器時代には、人類は文字の助けなしに巨歩を進めたのである(中略)
文字の出現に忠実に付属していると思われる唯一の現象は、
都市と帝国の形成つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、
それら個人のカーストや階級への位付けである
<第七部「ナンビクワラ族」”文字の教訓”>

☆北米先住民の社会的警察機能について・・・
現地人の誰かが部族の掟に背くようなことがあれば、
彼はその全財産(略)を破壊することによって罰せられる。
しかし同時に(略)罰せられたために蒙った被害を共同で償うべく、
警察が音頭をとらなければならない。
この補償のために罪人は集団に恩を受けたことになり、
彼は贈り物によって集団に感謝の意を表さなければならないが、
この贈り物は警察自身も含む集団の全体が彼に力を貸して集めたものなので、
またもや関係が逆転することになる(略)
贈り物と返礼の長々しい遣り取りの果てに、
前の無秩序が消えて最初の秩序が回復されるまで続くのである
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

○私は旅や探検家が嫌いだ
<第一部「旅の終わり」”出発”>

○問題は、真実と虚偽を見出すことにあるよりも、
むしろ人間がいかにして少しずつ矛盾を克服して来たかを理解することにあった
<第二部「旅の断章」”どのようにして人は民俗学者になるか”>

○或る皮肉屋がアメリカを定義して、野蛮から文明を経ないで退廃に移行した国だ、
と言った。この定義は新世界の都市にむしろ当て嵌まるかもしれない
<第三部「新世界」”サン・パウロ”>

○都市というものは自然と人口の合流点に位置しているのである。
(中略)都市は自然としては客体であり、同時に文化としての主体である
<第四部「土地と人間」”開拓地帯”>

○聖と俗の二者を対置させることは(略)
絶対的なものでも持続的なものでもないのである
<第五部「カデュヴェオ族」”ナリーケ”>

○或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、
結局のところ生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、
美化し、正当化する努力に他ならない
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

○組織化の弱い社会では(略)傾向も暗幕の了解のうちに留まっているので、
背後に意味を含んだここの行動を総合してかんがえなければならない
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

○気前の良さは大部分の未開民族において(略)権力に本来付随したものである
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○「契約」と「同意」は社会生活を構成する原料
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○人間はその枠の中で位置を変えながら、
彼がすでに占めたことのあるすべての位置と、
彼が占めるであろうすべての位置を自分と共に持ち運ぶ。
人間は同時に至る所にある。
人間は諸段階の全体を絶えず要約して繰り返しながら一列になって進む群れである
<第九部「回帰」”チャウンを訪ねて”>

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2002 4/17
文化人類学、社会学、哲学、文化論、組織論、情報関連、歴史、文学、宗教学
まろまろヒット率4

京極夏彦 『絡新婦の理』 講談社 1996

気がつけば今年に入ってから読んだ本はすべて京極堂シリーズ・・・
彼は”憑物”の手法を読者に使っているのかとも思う、らぶナベっす(^^;

さて、『絡新婦の理』京極夏彦著(講談社ノベルス)1996年初版。
京極堂シリーズ第5段。
このシリーズはいつも文庫版の方を買って読んでいたけど
文庫版が出るのを待ちきれずにノベルス版を購入してしまった。
(ノベルス版と文庫版とでは中身もちょっと変えているとのこと)

『姑獲鳥の夏』をのぞけば今まで読んだ中ではこの本が一番印象深い。
タイトルが好きというものあるけどまず本の構図がすごく綺麗。
最後のページと最初のページをリンクさせるのはごくありふれたことだけど
それがすごく滑らかにつながっているのに魅了された。
展開も犯人像が近くなったり遠くなったりしながら推移していき、
そんなことを忘れるほどのインパクトある展開の後に
突然のようにまたふと顕れる手法にも「うまいなぁ」と思えた。
「どこまでが恣意でどこまでが偶然なんだ?」と、
それぞれ独自に動く因子を蜘蛛の糸に絡めるように操る犯人の残像を
追いかけながら読んでいたので思わず没頭してしまった(^^;

ちなみにこの作品はタイトルからも連想できるように
フェミニズム(今風にいえばジェンダー論)を素材に使っている。
うーん、ホントに挑戦的だ(^^)

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2002 3/25
小説、文学
まろまろヒット率5

京極夏彦 『鉄鼠の檻』  講談社 2001

友人から「ナベを二言で言うなら”自作自演自画自賛”だよね」と言われて、
こいつなかなかうまい表現をするなと納得しながら凹んだらぶナベっす(^^)

さて、『鉄鼠の檻』京極夏彦(講談社文庫)2001年初版。
京極堂シリーズ第4段、半端じゃなく分厚い文庫本(^^;
宗教教義をミステリー小説のネタにする挑戦的な姿勢には脱帽。
それも難解な禅の教義を使うなんて西田幾多郎もびっくりだろう(笑)
解説にも書いてあったがまさに日本の『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)だ。
こうして『薔薇の名前』と比べてみるとややスケールダウンは感じちゃうし、
ラストに向けての緻密な積み上げという京極堂シリーズらしさも
ちょっと欠けてる気もするけれどやはりすごい作品だろう。
面白い小説でありながら禅にも触れることができるお得な一冊。

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2002 2/18
小説、文学
まろまろヒット率4

京極夏彦 『狂骨の夢』  講談社 2000

諸葛孔明って良く考えたらヒキコモリだったのだろうかと、
三顧の礼の伝説をいぶかっているNA-Beっす。

さて、『狂骨の夢』京極夏彦(講談社文庫)2000年初版。
間違いなく僕が手にした本の中で一番気持ち悪い表紙の本(^^;
それなのに読後感は妙にすがすがしかった。
そのギャップが楽しい京極堂シリーズ第三作目。
たぶんこれは京極堂シリーズの特徴である”憑き物落とし”の面が
すごくはっきり出ているからだろう。
特に最後のページ(969page)の最後の台詞によって
読んでるこちら側の”憑き物”も落とされた気分になる。

前作の『魍魎の匣』は境界を越えてしまった人々の話に思えたけど
今回の『狂骨の夢』は執拗を捨てられなかった人々の話に思えた。
生々しく感じられた前回と比べてやけに淡々と読めのは
生体よりも骨の方がやはり何だか”枯れた”感じがするからだろうか。
燃えも腐りもしない骨に執拗を込める人々の哀しい滑稽さが印象深い一冊。

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2002 2/7
小説、文学
まろまろヒット率4

京極夏彦 『魍魎の匣』 講談社 1999

週末に長野県に行くことになった、らぶナベ@白馬岩岳っていう場所っす。
土地感のある人はおしえてくださいです(^^)

さてさて、『魍魎の匣』京極夏彦(講談社文庫)1999年初版。
『姑獲鳥の夏』がすごく良かったのでその読後感を愉しんでいたけど、
シリーズものとしても読みたくなったので購入した『姑獲鳥の夏』の次作。
『姑獲鳥の夏』を超える分量の厚さと表紙のおどろおどろしさに案の定ちょっと引いたが、
電車の中でブックカヴァーなしに読んでしまうほどハマってしまった。

京極夏彦の作品はある瞬間から読むことがやめられなくなる。
“欠けている気持ち悪さ”をどうしようもなく感じさせられて、
それこそ”憑かれた”ように読んでしまう。
(トイレも我慢してしまうほどの活字体ってめずらしい)
これがまさに”憑きもの”なのだろう。
“憑きもの”の手法を小説自体にも使われているのがわかっているのに、
それにはまる自分がちょっと悔しい。

この作品では間にはさまれている小説やアンケートを関連付けさせていく快感があった。
特に”詫び状”の意味を知ったときの衝撃はすごかった。
ただ読み終えて振返ると『姑獲鳥の夏』よりもう一つイムパクトが足りなく感じている。
理屈っぽい京極堂の前置きが前作のように終結部分で完全に合わさってくれないからだろうか。
だから読み終えて振返る印象は端々で感じたグロテスクなものが多い。
それをちょっと残念に思う僕は彼の作品に美しさを求めているのだろうか?

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2002 2/3
小説、文学
まろまろヒット率4

京極夏彦 『姑獲鳥の夏』 講談社 1998

今月19日でようやく立ち上げて半年になるのに
既にまろまろさん2万人突破してくれて嬉しいらぶナベっす。

さて、2002年最初に読んだ本をば・・・
『姑獲鳥の夏』京極夏彦著(講談社文庫)1998年初版。

参りました。年初から心地よいほどの敗北感です。
京極堂シリーズはかなり前からその存在や話題性も知っていたけど

魑魅魍魎を題材にした推理小説ってなんか薄っぺらそうで読む気がしなかった。
ただ読書禄を読みなおすと去年は年初からデカルト(『方法序説』)を読み、
その後も法律書などを読みつづけた一年だったので
たまには違った感性と触れようかと思っていた。
そんなときにタイミングよく論理的で冷静な友人が薦めてくれたこと、
どの巻の巻末にも参考文献が充実しているのに好感が持てたことなどのきっかけで
「ものは試し」とシリーズ第一作となるこの本を購入してみた。
購入してからも文庫版の表紙がオドロオドロしくて
「ちょっとなぁ」っと読書を躊躇していたけれど、読んでみると・・・

・・・参りました。
まず精神病理学、民俗学、薬学、量子力学などの科学理論を道具に
超常現象(と言われている物事)を解明していく爽快感にひきつけられた。
この点はウンベルト=エーコの『薔薇の名前』に通じる。
(演出の道具が馴染み深い分『薔薇の名前』よりも共感できるかな)

しかしこの作品最大の特徴は何を置いても「文字の美しさ」だろう。
映像化を強く反対するファンたちがいると聞いたが、
それは配役のイメイジが合わないからだとかいう理由じゃなくて
この作品最大の魅力が文字に込められた美しさにあるからなんだろう。
かつてまだメディアが口伝と書伝しなかった頃、
つまり”言葉”が全てのメディアだった頃の”文字”や”言葉”が持つ
魅力、魔力を現代に生きる僕たちの前にかつてと同じように再現してくれる。

推理小説としてのプロット自体は江戸川乱歩や横溝正史の出涸らしのようなものだけど
この本に出てくる文字と文字から構成される言葉に魅了されて
そんな後から突っ込める部分はお構いなしに引きこまれてしまった。
著者がもっとも表現したかったのは推理でもミステリイでもなく、
“言葉”の持つ美しさなんじゃないだろうかとまで思えてしまう。
推理小説という演出を使って言葉の魅力を語ろうとしているのではないか、と。

気がつけば物語最中に感じる昂揚と終わって感じる哀しさ。
これは日本の伝承物語(メディア)に共通した基本形だ。
いまにいきる僕らにもその日本美を感じさせてくれる物語がここにはある。

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2002 1/8
小説、文学
まろまろヒット率5

鷲田小彌太 『Eureka! 哲学がわかった!』 日本実業出版社 2001

これが2001年最後に読み終えた本になる、
らぶナベ@今年最初に読んだ本がデカルトの『方法序説』だったので
21世紀最初の年は哲学書に始まり哲学書に終わった年になった。
総数は18冊、予備校の課題や院の研究でほとんど通読はできなかった(^^;

さて本題・・・
『Eureka! 哲学がわかった!』鷲田小彌太著(日本実業出版社)2001年初版。
哲学史の流れや主な議論を一通り知りたかったので購入した一冊。
これ系の本はいろいろあって書店で迷ったが、
脳死や情報化といういま現在のテーマに積極的に取り組んでいる
著者が書いた本だという点と索引が充実している点でこの本を選んだ。

哲学や論理(思考法)を誇る人間は自分が一番正しいと思う癖があるからか、
自分の思考の射程を自覚しない幼稚さや見苦しさを感じることがある。
中学の時に一人はいた嫌な教師を見るようで
「こんな風にはなりたくないな」と思ったりすることも多々あるが
この著者はその点をかなり自省していて彼の視点の説得力と好感を感じる。
(本当の思考&論理とはこうではなくてはと思う)

著者は自分の処女作が世に受け入れられなかったことについて
他人のバカさ加減を嘆くでもなく萎縮するでもなく、
「考えは間違ってなくても表現が悪かった」と素直に捉えて
ベストセラーライターになり結果として処女作が哲学の古典となった
ヒュームにかなり好感を持っているようだがその姿勢が伝わってくる。

そのためか現代的なテーマである情報化やネットについては・・・
・考える前の作業(哲学以前)をコンピュータがやってくれるのが情報化社会
 →広く、深く考えられる時代が万人に開かれている

・ネットなどの情報化社会は言葉が飛翔可能な世界
 (言葉だけで解決ができる社会)
 →言葉の生産者になって=哲学者になって
 この社会を真正面からいききと生き抜いてみようではないか
・・・と積極的に捉えようとしている。
この点は今年の夏にHPを立ち上げて僕自身が実感していたことでもあったので
この実感に言葉を与えてくれたのには嬉しかった。
これだけで僕にとっては評価★★★★(^^)

そして哲学の定義については・・・
・哲学とは考えることを考えること(thinking of thinking)

・諸科学はその分野に特有の見方(パラダイム)を持っていて
 科学者たちはそのパラダイムを当然の前提にする
 ←哲学はそのパラダイムのあり方それ自体考察対象にする

・哲学者は言葉のアーティスト、哲学は思考の技術

・哲学(philosophy)の語源はピタゴラスが
 「私はsophos(知ある者)でなくphilosophos(知を愛する者)だ」
 と答えた伝説にある←西周も当初は「希哲学」と翻訳していた

・哲学の最高で根本的課題とは真の存在は何かを問うこと
 +それをどのように知ることができるかを明らかにすること

・哲学することはどんな困難な問題を考えるときも
 考える快楽を持ち続けることである
・・・という風な表現を使って端々で触れている。

また、コラムで『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)の話があったのにも
興味を引かれたが特に本文で紹介した哲学者たちそれぞれの死に様を
巻末付録として掲載していたのは”哲学者”だけに興味深かった。
なかなかツボを押さえた一冊と言える(^^)

以下はその他にチェックした箇所・・・
・どんな鋭利なものも一部の人間の間でしか通用しなければ意味がない
 →哲学は流行を嫌うが流行した哲学が生き残った

・驚きは哲学の始まりと言ったのはソクラテス

・近代西洋は血縁的には無縁に近いギリシア文化を
 自分たちの先祖として自分のものにした
 (エジプト・メソポタミアが当時イスラム圏だっため)

・近代哲学が合理主義と言われるのは人間の理性を正しく発揮できれば
 真理の認識に到達できるという姿勢から→合理主義≒人間主義

・ヒュームは苦労して出版した処女作『人間本性論』が全く売れなかった
 →普通は世のバカさを呪ったりするが自分の考えは間違っていなくても
 その表現が悪かったと考えて広く読まれるような形に書き直して出した
 →ベストセラーになりその結果処女作が哲学の古典とされるようになった

・共に「無意識」に注目しそれを「コントロール」しようとする姿勢を持った
 マルクスとフロイトの共通点を挙げて・・・
 マルクス主義が猛威を振るった時代が「戦争と革命」の時代
 →フロイトの精神分析が猛威を振るう時代が
 「神経症と心のケアの時代」と言われるのは何とも皮肉

・レヴィ・ストロースによれば科学には二種類がある
 =野生の思考(神話的思考)といわゆる科学
 →さらに加えるならコンピュータは科学の産物だが
 その思考法は任意の組み合わせと並べ替えという神話的思考の典型

・歴史は事実の集積ではなく書かれたもの
 →自分を考えるとは自分の物語りを持つこと

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2001 12/24
哲学
まろまろヒット率4

手塚治虫 『ブラックジャック』 秋田書店 全16巻 2000(最終巻初版)

らぶナベ@すばらしい作品っ(*o*)

『ブラックジャック』全16巻・手塚治虫著(秋田文庫)2000年最終巻初版。
中学の頃から手塚作品は『火の鳥』や『ブッダ』など好んで読んできたが
なぜかこの作品はつい最近までちゃんと読もうという気持ちにならなかった。
映像化されたものを何度か観ることがあっても今回通して読んでみて
この作品が短編集だということを始めて知ったくらいに手つかずだった。
なぜこの本を通して読んでみようと思ったのか、
自分自身の気持ちに興味があるくらいだ。

読んでみると映像化ではマイルド化されている
この作品の暗い面ばかりが印象に残って仕方ない。
ブラックジャックの天才的な技術を持ってしてもバタバタと死んでいく人々、
たとえ助かったとしても決して救われることのない人々・・・
中には読むに耐えないくらい後味の悪い結末もある。
死亡率絶対100%である生命の寿命を一時延ばすことへの空しさ、
救われない心への哀しさという抽象的なテーマを外科手術という
具体的な演出でえがく手塚氏の手法に完全にはまってしまった。
インパクトのある場面場面で「もし自分が患者だとしたら」、
「もし自分がブラックジャックだったら」と振り返って
全巻読み通すのにずいぶん時間とエネルギーを使った。

そうした読むに耐えないほどの生々しいシーンには同時に
生命としての限界に立ち向かうことへの無力感に悩まされながらも
それでも立ち向かっていくブラックジャックの姿が常にある。
その彼の姿に言い知れない感動をおぼえる、
この感動こそがこの作品の最大の特徴なのではないだろうか?
よく医師(科学)、法律家(規範)、宗教家(真理)としての役割が
世の中のすべての役割の基本だということを聞くことがあるが
この作品が与えてくれる感動はその意味を直接考えるきっかけになった。
また、それは法外な報酬を要求して安易な正義感を振りかざさない
屈折した主人公を通してこその感動なのかもしれないとも思う。

解説の中に「ブラックジャックは手塚氏自身の姿じゃないのか?」
という興味深い問いかけがあった。
手塚氏がブラックジャックを無免許のままにしていたのは
『火の鳥』や『ブッダ』など人間の本質をえぐる作品を創りだしても
「しょせんは漫画じゃないか」と言って片づけられてしまう
中身の伴わない権威主義・先入観に苦しめられて来られたことへの
皮肉だという解釈があるようだ。
確かに医学博士の肩書きがあった彼自身がこの作品を世に出す際には
医学博士(高い評価)の書いた漫画(低い評価)という先入観のギャップが
起こるだろうと予想してそれに対する無言の批判を主人公に投影させた
という考えは面白い見方だなぁっと思った。

そして皮肉ではなく僕の読書録ではこの作品を「文学」カテゴリに置こう(^^)

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2001 11/21
文学、マンガ、自然科学全般
まろまろヒット率5

イェーリング、村上淳一訳 『権利のための闘争』 岩波書店 1982(原本1894)

横浜中華街と神戸中華街(南京町)との肉まんの大きさの違いを
いつも不思議に思う、らぶナベっす。

さて、『権利のための闘争』イェーリング著・村上淳一訳
(岩波書店)1982年初版(原本1894初版)。
国家主義&教条主義の匂いがしたので読むのを躊躇していたが
昔の法学では必読書だったらしくいろいろなところで眼にするので
一度は読んでみようと購入した一冊。
やはり19世紀のドイツで書かれたという時代背景を考慮して読まないと
本質を見失うだろう。これは古典的な学術書すべてに言えることだけど。

この本でイェーリングが言いたいことは序文でカントの言葉を引用した・・・
「自ら虫けらになる者は、後で踏みつけられても文句が言えない」
・・・の一言につきる。

メインの主張だけでなく著者は古代ローマ法の専門家だったみたいで
歴史的な視点として刑法における刑罰の重さの違いに注目することで
その国の生存原理が何かをひもとくヒントになるとしている点や、
政治外交でその国がどういう行動を取るかを知るには
私法の分野でその国の構成員がどういう風に権利主張するのかを
見れば良いとしている点にはかなり興味を持った。
歴史マニアなので歴史を見る視点が一つ増えたことが一番嬉しい(^_^)

ちなみに最初の日本語版は西周が訳して出版している。
そりゃあいろんな法学者に影響を与えていたはずだね(笑)
以下はその他の抜粋&要約・・・
・権利=法(Recht)の目標は平和であり、そのための手段は闘争である

・刑罰の重さの驚くほどの差違がその国家が何によって
成り立っているのかを見る参考→自国に固有の生存原理を脅かす犯罪を
最も厳しく処罰し、その他の犯罪は対照的に極めて軽い処罰にゆだねている
(神聖国家の冒涜罪、商業国家の偽造罪、絶対王制国家は大逆罪など)

・所有権とは物の上に拡大された私の人格の外縁に他ならない(中略)
理解力ではなく感覚がだけが権利の何たるかを知るために役立つ

・倫理社会秩序の偉大で崇高な所以は、その命令を理解していない者をも
無意識のうちに協力させてゆくための効果的な手段を有していることに存する

・諸国民の政治的教育の本当の学校は憲法ではなく私法である
→ある国民が政治的権利や国際法上の地位をいかに防衛するかを
知りたいならその構成員一人一人が私的生活において
自分の権利を主張するやり方を見ればよい
(古代ローマが動じに最も完成された私法を有していたのは偶然ではない)

・美学にとって最高の主題は常に人間が理念のために立ち上がること
→ただし何が権利=法(Recht)の本質で何が反しているのかを
明らかにしなければならないのは美学ではなく倫理学

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2001 9/30
法学一般
まろまろヒット率3
法務 キャリア