『金米糖』 寺田寅彦著 岩波書店『寺田寅彦随筆集』第2巻「備忘録」より 196401.01.12

渡邊義弘@大阪の憩いの場、スターバックス御堂筋本町東芝ビル店からお送りします。

さて、2012年最初に読んだ本、『金米糖』寺田寅彦著(岩波書店『寺田寅彦随筆集』第2巻「備忘録」より)1964。

物理学者であり、随筆家、俳人としても知られる寺田寅彦の随筆の一つ。
金平糖の角が生まれる過程に起こる「偶然な統計的異同 fluctuation」(=フラクタル)に注目して、
物質と生命の間に橋を架ける「生命の起源」まで文字通り随筆を走らせている。

発表された当時(1927年)と比べて、今となっては不適切な表現もあるけれど、
科学的テーマを横断的に、そして軽やかに随筆する文章はわくわくしながら読むことができた。

特に・・・
「物理学では、すべての方向が均等な可能性をもっていると考えられる場合には、
対称(シンメトリー)の考えからすべての方向に同一の数量を付与するを常とする。
現在の場合に金平糖が生長する際、特にどの方向に多く生長しなければならぬという理由が”考えられない”、
それゆえに金平糖は完全な球状に生長すべきであると結論したとする。
しかるに金平糖のほうでは、そういう論理などには頓着なく、にょきにょきと角を出して生長するのである。」
・・・というところは、夏目漱石の愛弟子としても知られていて、
『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルとなった著者のキャラクターが
かいま見えるようで読んでいて微笑んでしまった。

ちなみに、この随筆は昔ながらの製法を守る緑寿庵清水さんの金平糖をいただいた去年の10月からずっと気になっていたのだけど、
「なるべく心の忙しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」という著者の意向にそって、
気持ちを落ち着く時を探していたら、年を越した元旦の今ようやく読むこととなった。
公共の仕事にたずさわることは、気持ちの切り替えが課題となりますね、てへっ。

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2012 1/1
随筆
まろまろヒット率4

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『ダメ情報の見分けかた―メディアと幸福につきあうために』 荻上チキ・飯田泰之・鈴木謙介著 日本放送出版協会 201011.29.11

東北行脚から帰って来た、渡邊義弘です。

さて、『ダメ情報の見分けかた―メディアと幸福につきあうために』荻上チキ・飯田泰之・鈴木謙介著(日本放送出版協会)2010。

三人の論者によるメディア・リテラシー本。
第1章はメディア論者によるメディア・リテラシーの概要、
第2章は経済学者による関わる必要のない無意味な情報を見分ける方法、
第3章は社会学者によるメディア・リテラシーの政治的・思想的な背景、
・・・という三つの視点から構成される。
三つの視点を取り入れているだけあって、具体例と一般化のバランスが良くて読みやすい内容になっている。

また、メディア・リテラシーは一般的に「自分だけは騙されない」という
自衛的、受信的な意味で使われることが多いけれど、
この本では発信の重要性(=是正へのコミットメント)を強調して、
メディア・リテラシーの積極面に注目した内容になっているのは、
タイトルの軽さに反した深みがある。

以下は、チェックした個所(一部要約含む)・・・

○メディアで得られるあらゆる情報は、すべて誰かによって「作られたもの」です。
常に第三者の手で編集・加工され、言語化・文脈付け・意味付けされたものであって、
真実そのものではありません。
<第1章 「騙されないぞ」から「騙させないぞ」へ>

☆(流言やデモを)チェックする際に注意しなくてはならないのは、私たちがしばしば、
「有名人が言っているかどうか(有名性)」、
「親密な人が言っているかどうか(親密性)」、
「多数の人が言っているかどうか(複数性)」、
「権威あるメディアが言っているかどうか(権威性)」、
に頼ってしまうことです。
流言をチェックするのに必要なのは、客観的な確からしさ、情報の根拠付けであって、
「他人の主観」がいくら集まっても意味がありません。
むしろ、有名性や親密性を頼りにして、検証を行わないことが、
流言やデマを鵜呑みにしてしまう土壌にさえなってしまいます。
<第1章 「騙されないぞ」から「騙させないぞ」へ>

☆メディア・リテラシーの各段階・・・
・取得←外在的チェック
・判断←内在的チェック
・発信←是正へのコミット
・・・中では、流言を是正する情報発信能力が重要性
<第1章 「騙されないぞ」から「騙させないぞ」へ>

○(情報リテラシーが騙されなさ、無傷さを競い合うレースのようになることに対して)
もしその人が本当に「情報強者」であるなら、ただ傍観しながら「弱者」を笑い飛ばすのではなく、
弱者に寛容な環境を作るという「持つ者の責務」を果たしていくほうが有意義でしょう。
<第1章 「騙されないぞ」から「騙させないぞ」へ>

○受動態表現は、えてして、能動態に変換したときの主語を明確にしないための方便として用いられます。
<第2章 情報を捨てる技術>

☆情報をスクリーニングするために三つの言説を避ける
・無内容な話を見抜く
 →いつでも、どこでも、何にでも当てはめることが出来る話には意味が無い
・定義が明確でない話を見抜く
 →定義が不明確な用語から出発した議論は容易に検証不可能な命題になる
・データで簡単に否定される話を捨てる
 →単純なデータ観察で否定出来るならばダメだと切り捨てることができる
<第2章 情報を捨てる技術>

☆「情報を見分けるスキルを持った自分だけは騙されないぞ」という態度ではなく、
様々に偏った情報の中から、自分の立場や見方を定め、発信していく力というものが、
現代におけるメディア・リテラシーの定義ということになるでしょう。
<第3章 メディア・リテラシーの政治的意味>

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2011 11/29
情報・メディア、情報リテラシー
まろまろヒット率4

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「花蛍の湯 ドーミーインPREMIUM京都駅前」 (温泉)09.18.11

泉質:単純泉

ドーミーインPREMIUM京都駅前の宿泊者が入ることができる温泉。
和を貴重とした内装と水枕がある設備と、JR京都駅から徒歩圏内という立地が魅力のお風呂。
(朝食も美味しい)

2011 9/18
ぷかぷかお風呂日記
まろまろヒット率4

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『海国記』 服部真澄著 新潮社 上下巻 200705.30.11

今月は構想した松阪市情報のかけ橋委員会がスタートした、まろまろです。

さて、『海国記』服部真澄著(新潮社)上下巻2007。

院政がおこなわれていた平安時代後期、海の道は富が流れる宝の道でもあった。
その海の道に注目した人々が新しい時代の担い手となっていく・・・

経済的な視点をからめながら、平家とその縁者を中心にえがく歴史小説。
平安時代後期から鎌倉時代前期までの100年以上にわたる長編で、
登場する天皇家だけも白河上皇から後堀河天皇まで実に14代にわたっている。

『平家物語』よりもずっと長い時間軸は内容面にも反映されていて、
社会・経済的な流れを強調した物語となっている。
そうした大きな流れの中で繰り広げられる人間模様の浮き沈み、儚さが強調されているのが印象的。

特に、平清盛の誕生の場面にある・・・
「幻視と願いとの境は、あいまいであった。双方の境を確かに分けてゆくものがあるとすれば、明日という時代の波である」
・・・という一節は、大河小説としてのこの物語の性格を凝縮して表しているように思えた。

ちなみに、この本はある経済学者の方からお貸しいただいた。
大きな流れの中で生きることの意味を伝えていただいたように思えた一冊でもある。

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2011 5/30
歴史小説
まろまろヒット率4

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『日本の歴史をよみなおす (全)』 網野善彦著 筑摩書房 200503.01.11

まろまろ@この「まろまろ記」のサーバをCORESERVER.JP(CORE-B)に引越しました。
これでサイト開設以来、実に5度目の移転ですが、許容負荷率が約4倍になったので安定度UPです☆

さて、『日本の歴史をよみなおす (全)』網野善彦著(筑摩書房)2005。

「日本は自給自足の農耕社会ではなく、交易を前提とした多様な社会だった」、
「百姓と呼ばれた人々には非農業民も多数含まれていた」という研究によって、
日本は均質的な農耕民族だったという常識に疑問を呈した歴史学者による解説書。

もともとは口述筆記を基本にした『日本の歴史をよみなおす』『続・日本の歴史をよみなおす』を合わせたものなので、
代表作の『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』より読みやすくなっているけれど、
内容はより幅広く日本社会全体の変遷をとらえたものになっている。

特に、『続・日本の歴史をよみなおす』の部分に当たる後半は、かつての日本社会がネットワーク化され、ダイナミックな生活基盤を持っていたことを証拠を示して解説しているので興味深い。
読みやすい中にも、これまでの常識を再考させられるほどの迫力を持った一冊。

ちなみに、著者の甥に当たる中沢新一さんとは講談社大阪取材のコーディネータとしてご一緒したことがある。
僕も著者が研究テーマとした家系なので、ある種の親近感を持って読むことのできた本でもある。

以下、チェックした個所(一部要約含む)・・・

○(市場では)日常の世界、俗界から、モノも人も縁が切れるという状態ができて、はじめて商品の交換が可能だった
<貨幣と商業・金融>

○14世紀の社会の大きなt年間のなかで、かつてマジカルな古い神仏の権威に支えられていた商業、
交易あるいは金融の性格が変化してきたわけで、鎌倉仏教は、かつての神仏と異なり、
新しい考え方によって商業、金融などに聖なる意味を付加する方向で動きはじめていた
→贈与互酬を基本とする社会の中で、神仏との特異なつながりをもった場、あるいは手段によって行われていた商品交換や金融が、
一神教的な宗派の祖師とのかかわりで、行われるようになってきたと考えられる
<貨幣と商業・金融>

○非人たちのなかの少なくとも主だった人びとは、商工業者や芸能民、(略)一般の職能民と同様、
神人・寄人という地位を、明確に社会のなかであたえられている
→なぜ非人が神人・寄人になったかについては、ケガレがこの時代の社会ではまだ、畏怖感をもってとらえられていたこと、
非人たちはそれをキヨメることのできる特異な力を持っていたとみられていたことと、深い関係がある
→それゆえ非人は神人・寄人、神仏の直属民という社会的な位置づけをあたえられていた
→非人や河原者を社会外の社会、身分外の身分ととらえることはできない
<畏怖と賤視>

○まだ未開の要素を残し、女性の社会的地位も決して低くない社会に、文明的、家父長的な制度が接合したことによって生じた、
ある意味では稀有な条件が、このような女流文学の輩出という、おそらく世界でもまれに見る現象を生み出す結果になった
<女性をめぐって>

○現代は権力の性格というより、むしろ権威のあり方を否応なしに変化させるような転換期にはいりこんでいるように思える
<天皇と「日本」の国号>

○百姓は決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民ー農業以外の生業に主としてたずさわる人びとをふくんでおり、
そのことを考慮に入れてみると、これまでの常識とはまったく違った社会の実態が浮かび上がってくる
→頭振(水呑)の中には、土地と持てない人ではなくて、土地を持つ必要がのない人がたくさんいた
<日本の社会は農業社会か>

○日本列島の社会は当初は交易を行うことによってはじめて成り立ちうる社会だった、
厳密に考えれば「自給自足」の社会など、最初から考えがたいといってよい
<海からみた日本列島>

○海にとりかこまれた島だから孤立しているのではなく、逆に、島は海を通じて広く四方と結びついており、
田畠が少ないから島は貧しいのではなく、それ以外の生業と交易で豊かになっていることも多い
<荘園・公領の世界>

○「明治維新」を推進した薩摩、長州、土佐、肥前の諸藩は、辺境のおくれた大名などではなくて、
みな海を通じて貿易をやっていた藩
→江戸時代末までに日本社会に蓄積されてきた商工業・金融業などの力量、資本主義的な社会の成長度は決して過小評価できない
<続・日本の歴史をよみなおす>

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2011 3/1
日本史
まろまろヒット率4

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『哲学の謎』 野矢茂樹著 講談社 199602.05.11

最近、何かのCMのように”no reason”と”priceless”を使う機会がある、まろまろです。

さて、『哲学の謎』野矢茂樹著(講談社)1996。

「5分前に世界が創られた可能性を否定できるだろうか?」 (2:記憶と過去)
「時は本当に流れているのだろうか?」 (3:時の流れ)
「正常と異常との違いは何だろうか?」 (6:規範の生成)
・・・などの哲学の論点を取り上げた哲学書。

この本が面白いのは、タイトルにあるように哲学的な論点をあくまでも謎としている点だ。
そのために結論はなく、謎に対して二人の人間が対話をするスタイルになっている。
しかも、二人の人間というのは二人とも著者のことで、自分自身の心の中の対話を本にしている。

これは哲学を「考えることを考えること=thinking of thinking)」と捉えることが一番納得する僕の理解と合致する姿勢。
そして、こうした哲学的な姿勢について、本文の中で・・・
実生活には無関係かもしれない。
しかし、こんな懐疑に辿り着いてしまうというのも、きわめて人間的な現象だ。
そして、この懐疑に「何か気持ち悪い」と反応するのもまた、きわめて人間的な現象にほかならない。
だから、その気持ち悪さから目をそらさずにこの懐疑をもっと見つめてみることで、われわれ自身を知ることができるかもしれない。
実際、ここには哲学が問題にすべき何かがある。
この懐疑そのものはきっかけにすぎないかもしれないが、これをバネにして何か開けてくるかもしれない。
(4:私的体験)
・・・と意義づけていることが一番印象に残った。

実はこの哲学書は、こうした姿勢と接するために読んでみた本でもある。
去年は松阪などで社会的な役割を果たす機会に恵まれたけれど、その中で自分には結論をいそぐ傾向があることを自覚させられることが何度かあった。
普段は即断即決することが多くても、時には結論を焦らず、本文にあるようにじっくり「気持ち悪い問い」と向き合う必要性を感じさせられた。
そこで、同じく去年に開催したまろまろ茶話会2010の本の交換会でまろみあんの方が紹介されていたこの哲学書を、今回ひもとくことになった。
本は書かれた内容だけでなく、書かれた姿勢と接するために読むものだということをあらためて感じさせられた一冊。

ちなみに、この本と出会えたのも、結論がないこのまろまろ記を通じたご縁があったからこそ。
いま読書日記を読んでいるまろみあんの方も、結論をいそがずお付き合いいだけると嬉しい☆

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2011 2/5
哲学書
まろまろヒット率4

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『ラ・ロシュフコー箴言集』 ラ・ロシュフコー著、二宮フサ訳 岩波書店 198910.04.10

趣味は人間観察の、まろまろです。

さて、『ラ・ロシュフコー箴言集』ラ・ロシュフコー著、二宮フサ訳(岩波書店)1989。

17世紀フランスに生きた、ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世による名言集。
原題は“Réflexions ou sentences et maximes morales”(1664)=『人間考察もしくは処世訓と箴言』。

名言集と言っても、原題にあるように人間考察に軸を置ているので、よくある口当たりの良いものではない。
最初に・・・
「われわれが美徳と思いこんでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない」
・・・という言葉から初めているように、特に自己愛による偽善について鋭く切り込んだものが多い。

たとえば、相手のことを思う行為や正直さを愛する姿などの一般的に美徳とされていることのほとんどは、
結局は自己愛と支配欲の延長線上にあるものだと指摘する言葉が散りばめられている。
また、怠惰と惰性の力をハッキリと指摘している言葉も複数見受けられる。

この名言集は人間への幻想や希望を打ち砕くほどの痛烈さを持っている上に、
さらにそれらの指摘が無視できない説得力を持っていることから、
フランス・モラリスト文学の最高峰との評価をされてきた。
決して心地よくは無いけれど、原題の通り人間考察の参考になる一冊。

ちなみに、この名言集は刊行当時から現代にいたるまで物議を醸し続けているので、
何かと注釈を入れられることが多いことでも知られている。
(同時代に生きたスウェーデンのクリスティーナ女王による注釈が有名)

僕もこれにならってチェックした言葉に「→」でコメントを入れてみたのが以下(☆は特に心に残ったもの)・・・

1:われわれが美徳と思いこんでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない。
→そういう時もあるというのが正確だが、確かにそういう時の方が多いかもしれない。

18:栄達を極めた人びとの慎ましさは、その栄位をものともしないほど偉い人間に見せようとする欲望なのである。
→そんな人も多いというのが正確だが、これもそんな人の方が多いかもしれない。

22:哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する。
→哲学の現実。

30:われわれの持っている力は意志よりも大きい。だから事を不可能だときめこむのは、往々にして自分自身に対する言い逃れなのだ。
→めずらしく前向きで印象的。

☆37:過ちを犯した人びとに向かってわれわれがする説教には、善意よりも傲慢の方が多分に働いている。
そしてわれわれは、彼らの過ちを正そうというつもりはそれほどなしに、
むしろ、自分がそんな過ちとは無縁であることを彼らにわからせるために、叱るのである。
→自尊心を満足するための説教は確かに醜い。

47:運命によってわれわれに起きるすべてのことに、われわれの気質が値段をつける。
→騎士っぽい表現で気に入った。

54:富の蔑視は、哲人たちにあっては、自分の価値に正しく報いない運命の不当さに、仕返しをしたいという密かな欲望であった。
→捻くれた見方だけど、その見方も無視できない哲人は確かに多い。

☆62:ふつう見られる率直は、他人の信頼をひきつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない。
→信頼を得るには率直さが必要だけど、それを媚びとして使う人もいるのは確か。

☆63:嘘に対する反発は、自分の証言に箔をつけ、自分の言葉に宗教的な畏敬の耳を貸させたいという、それと気づかぬ野心であることが多い。
→よく見かける偽善。

☆116:助言の求め方与え方ほど率直でないものはない。
助言を求める側は、友の意見に神妙な敬意を抱いているように見えるが、実は相手に自分の意見を認めさせ、彼を自分の行動の保証人にすることしか考えていない。
そして助言する側は、自分に示された信頼に、熱のこもった無欲な真剣さで報いるが、実はほとんどの場合、与える助言の中に、自分自身の利益か名声しか求めていないのである。
→ある意味で納得。ただし、それによって良い結果が出る場合もあるのも確か。

☆143:われわれが他人の美点を誉めそやすのは、その人の偉さに対する敬意よりも、むしろ自分自身の見識に対する得意からである。
→「前から分かっていたよ」というのはよく耳にするセリフ。僕はそれに対してその人がどう賭けたかで判断する。

☆165:われわれの真価は選良の尊敬を引きつけ、われわれの幸運の星は大衆の尊敬を引きつける。
→選挙。

☆237:何人も悪人になる強さを持たない限り善良さを称えられるに値しない。
それ以外のあらゆる善良さは、おおむね、惰性か意志の無力に過ぎない。
→その通り。そして惰性と意志の無力で善良になるなら結果的には良いことだと思う。

☆294:われわれに感嘆する人びとを、われわれは必ず愛する。
そしてわれわれが感嘆する人びとを、われわれは必ずしも愛さない。
→選挙。カリスマと呼ばれる人はこの点を勘違いしてはいけない。

306:他人に恩恵をほどこすことができる立場にある限り、人はめったに恩知らずに会わないものである。
→その通り。

322:軽蔑すべき人間に限って軽蔑されることを恐れる。
→よく見かける。

375:凡人は、概して、自分の能力を超えることをすべて断罪する。
→特にモンスター系な人に多い。

☆414:気違いと馬鹿は気分でしか物を見ない。
→気分を判断純にする人に対する、これほど痛烈な批判は読んだことがない。

436:人間一般を知ることは、一人の人間を知ることよりもたやすい。
→医学、社会学、すべての科学。

469:人は理性でしか望まないものは、決して熱烈には望まない。
→理解できる。

☆479:毅いところのある人だけが真の優しさを持つことができる。
優しそうに見える人は、たいてい弱さしか持たず、その弱さは容易にとげとげしさに変じてしまうのである。
→確かに弱い人はすぐに攻撃性を持つ。

MS61:自分の内に安らぎを見出せない時は、外にそれを求めても無駄である。
エピクロスの哲学と同じ趣旨で納得。

MS74:自分の過ちを告白する力がある時は、その過ちについてくよくよしてはならない。
→反省。

MP39:賢者を幸福にするにはほとんど何も要らないが、愚者を満足させることは何を以てしてもできない。
ほとんどすべての人間がみじめなのはそのためである。
→やや辛辣すぎる言い方だけど、納得する。

MP44:何かを強く欲する前に、現にそれを所有する人がどれだけ幸福かを確かめておく必要がある。
→確かに気を付けないといけないところ。

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2010 10/4
名言集
まろまろヒット率4

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『あな』 谷川俊太郎著、和田誠イラスト 福音館書店 198307.19.10

まろまろ@好きな言葉の一つは”no reason”です☆

さて、『あな』谷川俊太郎著、和田誠イラスト(福音館書店)1983。

ひろしは穴を掘りはじめた。
様々な人や生き物が穴の活用を提案するが、ひろしはただ掘りつづける。
自分が掘った穴の中で、ひろしはある言葉をつぶやく・・・

詩人の谷川俊太郎とイラストレーターの和田誠がコラボレーションした絵本。
まろまろ記9周年記念企画、「まろまろ茶話会2010」の第2部で実施した本の交換会で、えほんうるふさんが持って来ていただいた一冊。
えほんうるふさん主催の大人絵本会第9回課題作でもあるとのこと。

この本自体はとぅなんてさんがGetしたものだけど、すぐに読むことができる絵本なので僕もコーヒーゼリーを食べながら他の参加者の方と一緒に読ませていただいた。

ちょうど「まろまろ茶話会2010」の第1部で寄せられたまろまろ質問状に対して、
目的は意識しすぎないという趣旨のことを応えた直後だったということもあり、
ひろしの行動と思考には共感するものがあった。
“no reason”の価値を感じさせられる絵本。

ちなみに、表紙と裏表紙の意味が読み終わってから分かるようになっているのもポイント。

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2010 7/19
絵本
まろまろヒット率4

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『伝奇集』 ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、鼓直訳 岩波書店 199306.17.10

まろまろ記9周年の「まろまろ茶話会2010」開催を正式発表した、
まろまろ@今回は原点回帰として本の交換会もしますので、まろみあんの方はぜひいらしてくださいな☆

さて、『伝奇集』ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、鼓直訳(岩波書店)1993。

ガルシア=マルケスと並ぶラテン・アメリカ文学を代表する作家・小説家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの代表的短編集。
原題は“Ficciones” (1944)。
読んでみると、中でも・・・

海賊版の百科事典に書かれている架空の国家を調べることで現実と架空の境界線が曖昧になっていく、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」。

巨大な図書館の中で生まれ育った司書が図書館の空間と自分の人生を振り返る、「バベルの図書館」。

夢を見ることで一人の人間を創造しようする男をえがく、「円環の廃墟」。

・・・の3つが印象に残った。
特に「円環の廃墟」の諸行無常を感じさせる最後は印象深い。

著者は『ボルヘス、文学を語る』の中で、「われわれは暗示することしかできない、
つまり、読み手に想像させるよう努めることしかでない」と語っているように、暗示に富んだ内容のものが心に響いた。

暗示させることを意識的に書かれただけあって、現代にも通じるテーマ性を持った作品が多い。
たとえば、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」はシミュレーテッド・リアリティを、
「バベルの図書館」はインターネットを、「円環の廃墟」は仮想現実を、それぞれ思い起こさせられた。

そんな暗示に富んだ著書の小説は現代にも影響を与えていて、
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の中に出てくる図書館は「バベルの図書館」をモデルにしている。
(しかもその図書館長の名前は「ホルヘ」だったりするw)

ちなみに、短編集は音楽のアルバムのようなもので、中に収められている1本だけ(シングルだけ)ほしい時がある。
電子書籍がどのように普及していくのかはまだ不透明だけど、電子書籍普及によって
短編小説がより手に入りやすく、そしてより発表しやすくなることを期待している。
そんな現代的なテーマも思い起こさせられる短編集。

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2010 6/17
小説、短編集
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『社会学の社会学』 ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳 藤原書店 199106.16.10

アクセス殺到によるサーバダウン頻発化に対応するため、ついに6回目のサーバ引越をしようと思う、
まろまろ@しばらく不安定な表示になりますが気長にまろまろとお付き合いくださいな☆

さて、『社会学の社会学』ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳(藤原書店)1991。

社会学者、ピエール・ブルデューによる、21の論点に対する回答集。
原題は”Questions de sociologie” (1984)。
もともとは一般の人々を対象とした講演やインタビューの議論を基にしているので、
「専門家以外の人に読まれることを想定している」と著者は書いているけれど、内容は決して簡単ではない。
とはいえ、社会科学の方法論から、文化論、芸術論などにおよぶ内容はとても刺激的。
どれもが鋭い視点で、これまでの「常識」に対して「冷や水をかける」ようなブルドュー社会学の概要を知ることができるものになっている。
読み応えがあるので、一章、一章、ゆっくりと噛みしめて消化しながら、三カ月ほどかけて通読することになった。

ちなみに、パリ第7大学(Denis Diderot)でのブルデューの後任は矢田部和彦さんという日本人の人が務めているけれど、
僕は矢田部和彦さんが参加した大阪フィールドワークのコーディネータを務めた経験がある。
また、矢田部研究室の院生さんからインタビューを受ける機会もあったので、ブルデューの弟子と孫弟子に当たる人達とご縁があることになる。
そういう経緯があるので、この本の中で調査対象者に対する接し方について書かれた部分には、
「僕もこんな風になことを思われているんだな」と微笑ましくなることもあった。

そんな個人的な事情は差し引いても、読み応えがあり、そしてとても刺激的な一冊。

以下は、チェックした個所(一部要約含む)・・・

○私はいつも別の方向にねじまげることから始めます。
つまり、はみだし者、社会的空間の外なる者であろうとする人びとも、
結局はみんなと同じように社会的世界のなかに位置づけられているのだ、
ということに立ち戻ることから始めるのです。
<言葉に抵抗する技術>

○私の目標は、「社会的世界なんて大したことはないさ」と言わせないように手を貸すことなんです。
<言葉に抵抗する技術>

○社会学が示してみせるのは、あれこれ社会的慣習行動の効力が発揮されるために糾合されなければならない客観的な諸条件は何かということです。
<お邪魔な科学>

○おそらく社会学の唯一の任務というのは、そのはっきりした欠落からしても、その獲得しえたところからしても、
社会的世界についての認識の限界をはっきりさせることであり、
またこうして、科学を引き合いに出すような予言を手初めに、あらゆる形の予言を成り立ちがたくすることなのです。
<お邪魔な科学>

○投資とは[何かに打ち込もうとする]行動への傾性[気質]であって、
なにがしかの賭け金を賭けようとするゲームの空間(これを私は「場」=champと名づけています)と、
このゲームにぴったり合った諸性向の体系=systeme de dispositions(私はこれをハビトゥスと呼んでいます)との間に産み出されるものである、
ゲームをしたがる、ゲームに熱中しようとする傾性と素質とを同時に含意するゲームとその賭け金の感覚のことなんです。
<お邪魔な科学>

○言葉の厳密な使用、コントロールされた使用に到達するために必要不可欠な書くという作業が、
明晰さと呼ばれているものに達することはきわめて稀にしかありません。
明晰さとはすなわち良識の証しを、あるいは狂信の確かさを補強するだけだということです。
<問題の社会学者>

○科学のなすべきことは、作られたものの妥当性の限界をはっきり明言しておいて、
これができることの全部だということを知り、かつ言った上で、なすべきことはする、というところにあるからです。
<問題の社会学者>

○社会科学の仕事の一部は、この日常用語がまとったり脱いだりするすべてのヴェールを剥ぎとる=de-couvrir(発見する)ことにあります。
<問題の社会学者>

○行為の原理は、私がハビトゥスと呼んでいる性向の体系であり、それは生活史的経験すべての所産です。
まったく同一の二つの個人史というものが存在しない以上、類似した経験、つまりハビトゥスの類、
あるいは階級のハビトゥスは存在するとしても、二つの同一ハビトゥスは存在しないということです。
<どうやって「自由な知識人」を解放するか>

○大事なことは、対象についての言説が対象に対する無意識のかかわり方の単なる反映でないように、
対象に対するかかわり方を対象化する(客体として設定する)にはどうすればよいかを知ることです。
この対象化を可能とする技術のなかに、もちろん学問的装置の一切があるのです。
いうまでもなく、この装置自体は、それぞれの時代の先行科学から引き継いだものですから、当然、歴史的批判に服さねばなりません。
<社会学者の社会学のために>

○行為者というのは自分を分類し、他社を分類して日々を過ごしています。(中略)
こうした分類こそ行為者間の闘争の一つの賭け金にほかなりません。
別の言い方をすれば、分類の闘争というものが存在するのであり、これが階級闘争の次元の一つをなしているということなのです。
<社会学者のパラドックス>

☆悪口は他者をその特性のひとつ、彼のひそかに隠しもったえり好みの一つに還元してしまいます。
他者をいわばその客観的真相に押し込めてしまうのです。(中略)
日常的行動のなかでは、客観主義と主観主義との間の闘争が絶えることなく続けられています。
誰もがその人なりに自分についての主観的な表象を客観的な表象として人に押しつけようとするものです。
支配者とは、自分がそう見られたいと思っている通りに被支配者が自分を見るように被支配者に対して押しつける諸手段をもっている者のことです。
<社会学者のパラドックス>

○真理とは一つの敵対関係を含んだものです。ある一つの真理があるとすれば、それは、その真理が闘争の一つの賭け金であるからにほかなりません。
<社会学者のパラドックス>

○社会学者の仕事は、いつも二つの役割の間に自分の位置を取らなければなりません。
座を白けさせる役割に終始してもなりませんし、反対にユートピアを信じる共犯者としての役割に甘んじてもならないわけです。
<話すということはどういうことか>

☆☆場にはもう一つ、すっかり見えにくくなっている特性があります。
場に参与しているすべての人びとが、一定数の根本的利害、つまりその場の存在それ自体に結びついているものの一切を共有しているということ、
それから、どんな対立にも表面にはあらわれてこない客観的な共犯性を共有していることです。(中略)
闘争に参加する者は、敵味方を問わずゲームを再生産することに貢献し、
場によってその完全さに程度の差こそあれ、賭け金の価値に対する信仰を産み出すことに貢献しているのです。(中略)
ゲームそのものを破壊してしまう全体的革命から守っている要因の一つが、
ゲームに参加するために予期される時間や努力などに費やす投資の重要さだということは明らかです。
また、そうした投資が経なければならぬ通過儀礼の試練の数々が示しているように、
ゲームが根こそぎ破壊されることをじっさいに考えられもしないものにしてしまうのです。
☆<場のいくつかの特性>

○ハビトゥスとは、意識されていようといまいと、長い時間をかけた習得によって獲得された性向の体系であり、生成図式の体系として作動します。
また、ある目的にむけてはっきり構想されたものでなくとも、行為者の客観的利害に客観的に合致しうる戦略を産み出す生成母体なのです。
<場のいくつかの特性>

○人びとがハビトゥスのおもむくがままに動いてさえいれば、場の内在的必然性に従い、そこに刻み込まれている諸要請をみたすことができるというときには(そうなればどんな場においても卓越したことだとはっきり言えます)、当の人たちは自分を犠牲にしてまである義務に身をささげるなどという意識はまるでもっておらず、なおさら(特定の)利益の最大化をついきゅうしているという意識はもっていません。
したがって、よそ目にも完全に損得を免れているように見え、自分自身もそう考えるという追加利益があるわけです。
<場のいくつかの特性>

○言語資本とは、言語の価格形成のさまざまなメカニズムに及ぼしうる権力であり、
価格形成の法則を自分の利潤に合わせて作動させたり、特定の余剰価値を引き出したりする権力なのです。(中略)
言語的相互作用はすべて、それを包摂する諸構造によってたえず支配され続けている小さな市場のようなものなのです。
<言語市場>

○恩着せがましさとは、客観的力関係を扇動的に利用することです。
なぜなら、人びとの思いを聞き届けてみせる人が、ヒエラルキーを否定するために、まさにそのヒエラルキーを利用しているからです。
彼がヒエラルキーを否定するとき、彼は、それにつけこんでいるからです。
<言語市場>

○趣味というのは、他との違いを際立たせるものであるからこそ変化していくのです。(中略)
音楽ビジネスがなぜ難しいかというと、文化的財に関する限り生産とは消費者を産み出すことにほかならないからです。
もっとはっきり言えば、音楽の趣味の生産、音楽の欲望、音楽への信仰の生産ということなのです。
<音楽愛好家という種の起源と進化>

○趣味とは、一人の人物ないしはある集団の習慣行動と所有=物の総体として見れば、
財とある趣味との出会いの(予定調和による)所産ということになりましょう。
<趣味の変容>

○噂される人というのは、潜在的に言いたいことがあっても、誰かにそれを言われて初めてそうだと分かる、そんな人でもあるです。
<趣味の変容>

○趣味とは、一方の客体化された歴史と他方の身体化された歴史という二つの歴史の、客観的には相互に合致した出会いの所産なのです。
<趣味の変容>

☆芸術作品と消費者との出会いのなかには、不在の第三者がいます。
この不在の第三者とは、自分の内なる美的感覚を物象に変え、それを魂の状態から、いや身体の状態から、
自分の美的感覚に合った可視的な物象へと変える能力にたよって作品を生産し、自分の好みに合うものを作りだした人のことです。
芸術家とは、このような内的なものを外的なものに変える専門家、客体化の専門家なのです。
<趣味の変容>

☆消費者がその芸術家の創作物のなかに自分の姿を認めることによって、自分でも作ることができたなら作っていたであろうものを
芸術家の創作物のなかに認めることによって、芸術家は芸術家として承認されるのです。
こういう人が「創造者」という魔法の言葉で呼ばれてしまうのは、芸移活動をいったん魔術的な働きと定義してしまっているからなのですが、
しかしこれこそは、実は社会的な働きにほかならないのです。
<趣味の変容>

○趣味とは、ある特定の人物によってなされる選択の総体ではありますが、
芸術家によって客体化された美的感覚(趣味)と消費者の趣味との出会いの所産ということになるのです。
<趣味の変容>

☆社会学の特有の困難は、誰もが何らかのかたちで知っている事柄をあらためて教えてみせるというところに由来しています。
しかし、それは知りたくない事柄であったり、そうでなければシステムの法則がそれを隠しているために知りえない事柄だったりするのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆クリエーターは、創造者たる権力を信用させるだけの言説をもっていることによって、
クリエーターとして創造されうるのだ、ということが重要なのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆芸術家の自律性は、その基礎が創造的な天才の奇蹟のなかにあるのではなくて、
方法、技術、言葉など、相対的に自律的な一つの場の社会史の社会的産物のなかにあるのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○芸術生産の場とは、その名において、芸術の価値のなかに、芸術家がもつ価値の創造能力のなかに
信仰を産み出す場であるということが、どのように歴史的に形成されるのかを明らかにすることが問題なのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○あらゆる力関係の本質は、それが言説によって隠蔽されているからこそ初めてその力を発揮できるのだと言っていいでしょう。
<世論なんてない>

○正当性とは、何かが見落とされていることを意味します。(中略)
被支配者たちが承認するのは、支配者たちがこの定義に対してもつ利害を被支配者たちが見落としている場合に限られます。
<ストライキと政治行動>

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2010 6/16
社会学、芸術論、学術方法論
まろまろヒット率4

Posted in 学問一般, 文化論・美学, 社会学, 読書日記, with 1 Comment →








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