Archive for the ‘社会学’







『コミュニケーション・入門―心の中からインターネットまで』 船津衛著 有斐閣アルマ 199611.10.03


最近になって公開している遺書がいろいろなところで取り上げられるようになった、
らぶナベ@この本風に言えば生死間コミュニケーション?(^^;

さて、『コミュニケーション・入門~心の中からインターネットまで~』
船津衛著(有斐閣アルマ)1996年初版。

コミュニケーション論についての議論を網羅的に紹介している一冊。
何となく感じてるコミュニケーション論への違和感を具体化させるために、
メルマガでこの分野の本を募集したときに紹介された本でもある。

読んでみると「うわさ」についての記述に一番の興味を持った。
曖昧な状況の中で状況を把握するために必要なものとしてうわさは発生する。
だから人々がうわさに基づいて行動するのはそのうわさを信じているからではなく、
それが必要だからだし、情報が多すぎても発生するというのは納得(第7章)。

でもやっぱり通して読んでみると全体的に何だか薄いような気がする。
これはメディア論などの本を読むときに感じる違和感にも似ている。
双方向とか強調しながら実は受信者中心で発信者への視点が弱いからだろうか?

ちなみに副題にインターネットが入っているけど、
初版が1996年ということもあって記述がすごく少ない。
(日本におけるインターネット元年が1995年)
やはりこの領域はすごいスピードで変化しているんだなぁ
っとあらためて感じたりもした。

以下はチェックした箇所(一部要約&関心が高い順)・・・

☆「うわさ」
=曖昧な状況に共に巻き込まれた人々が自分たちの知識を寄せ集めることによって
その状況についての有意味な解釈を行おうとするコミュニケーション(ジブタニ, 1985)
→うわさは単なる伝達ではなく人々が状況を規定する過程
→人々がうわさに基づいて行為するのはそれを信用しているからではなく、
それを必要としているから
<第7章 集団行動・社会運動のコミュニケーション>

☆うわさは変化していく状況に適応するために情報が必要であるにも関わらず、
制度的チャンネルが破壊されている場合に生み出される(ジブタニ, 1985)
→情報が多すぎる場合にも発生する
→新しい環境に対処する際に人々がよりいっそう適切な方法を
発達させていく過程に不可欠な要素
<第7章 集団行動・社会運動のコミュニケーション>

☆自己に対する他者の認識と評価についての想像、
それと関連する自己の感情から自我が成り立っている(クーリー, 1921)
→notワレ思うゆえにワレありbutワレワレ思うゆえにワレあり
<第2章 自我とコミュニケーション>

☆「自我は本質的に社会的」
=社会は自我に常に先行して存在し、自我は社会から生まれ、
そこにおける社会的経験と社会的活動の過程において生み出される(クーリー, 1921)
→役割取得(role-taking)を通じて具体的に形作られる
<第2章 自我とコミュニケーション>

☆マスコミは人々の「評価」や「影響」の点ではパーソナルなものにはかなわないが、
「認知」や「情報の流れ」の点では強い力を持っている(ドイッチマン&ダニエルソン)
<第8章 マス・コミュニケーション>

☆「コミュニケーション」
=2人以上の人間が意味を伝達し、その意味の伝達を通じて
互いに共通な意味を有するようになる過程
<第8章 マス・コミュニケーション>

☆「ネットワーク」
=固有の意思と主体性のあるユニットがそれぞれの自由意思で自発的に参加したまとまり
(金子, 1988)
<第5章 集団・組織のコミュニケーション>

○「自己表現」
=自分の気持ち、意志、意見、態度、思考、地位、身分などを他者に向かって表現すること
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○「意味の意識」
=他者の反応と自己の反応、さらにその間の関係を意識していること(ミード, 1973)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「意味のあるシンボル(significant symbol)」
=他者のうちに一定の反応を引き起こすと同時に、
それと同一の反応を自己のうちに引き起こすもの(ミード, 1973)
→これによって人々の共通の意味の世界(universe of discourse)が生まれる
→これは人間特有のもの
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「創発的内省性(emergent reflexivity)」
=他者の態度を通じて自己の内面を省みて、
過去と未来を関連づけながら新たな世界を創造すること(ミード, 1973)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○「自分自身との相互作用(self interaction)」
=人間は自我をもつ存在として物事や他者を対象化するのと同じく
自分自身を対象化して自分自身に向かって行為できるようになること
→人間は自分自身とコミュニケーションできる(ブルーマー, 1991)
<第1章 人間のコミュニケーション>

○社会規範、価値、理想に同調するときに真の自我を感じる「制度的自我」
               VS
そうしたものから解放されたときに真の自我を感じる「インパルシブな自我」
(その中にはさらにインパルス解放型とインティメート型がある)
<第2章 自我とコミュニケーション>

○「鏡に映った自我(looking-glass self)」
=人間の自我は他者を鏡として、鏡としての他者を通じて知ることができること
(クーリー, 1921)
<第2章 自我とコミュニケーション>

○役割コンフリクト=役割内(intra-role)コンフリクト&役割間(inter-role)コンフリクト
<第2章 自我とコミュニケーション>

○「役割距離」
=決められた役割期待とはズレる行為を行って、目的を達成してしまうこと
→他者の期待から相対的に自由で自律性があることを示す(ゴフマン, 1985)
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○「役割形成」
=既存の役割規定の枠を越えて新たな人間行為を展開すること(ターナー)
<第3章 人と人とのコミュニケーション>

○コミュニケーションの私化は結局は非私化をもたらし再社会化に進む
<第4章 電話コミュニケーション>

○「コミュニケーション合理的なもの」
=共通の状況規定のもとで相互の了解と合意が形づくられ、行為の調整がなされるもの
(ハーバーマス, 1986)
<第5章 集団・組織のコミュニケーション>

この本をamazonで見ちゃう

2003 11/10
コミュニケーション論、社会学、社会心理学、心理学、教育学
まろまろヒット率3

Posted in コミュニケーション論, 心理学, 教育学, 社会学, 社会心理学, 読書日記, with No Comments →

『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』 佐藤郁哉著 新曜社 199210.31.03


マリノフスキーっておちゃめさんと思っている、らぶナベだす。

さて、『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』佐藤郁哉著(新曜社)1992年初版。
対象との間合い(距離感)について考えていたら佐倉助教授から「名著だよ」と紹介された本。
著者は暴走族(『暴走族のエスノグラフィ』)や現代演劇(『現代演劇のフィールドワーク』)
へのフィールドワーク研究をしたことで有名な人。

内容は文字通りフィールドワークの概要や考え方について紹介している。
だからといってフィールドワーク至上主義というわけではなく、
サーベイとの対比をしながらそれぞれの一長一短を分析して
それぞれを補い合うよう提言している。
対象との距離感や社会調査法についてのことだけでなく、
仮説や概念のとらえ方についても議論しているので
こうしたことを全般的に通して考えるきっかけになる。

読み終わってからインターンシップで企業現場に飛び込んだり、
産学協同事業に携わったときにこの本を読んでいればとちょっと思ってしまった。
まぁまだ生きてるんだし、次は使えるさ。(自作自演な慰め)

ちなみにこの本の「書を持って街へ出よう」という副題は気に入った。
僕の場合なら「箱庭を持って広場へ出よう」という感じだろうか(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○文化=知識・信仰・法律・風習、その他社会のメンバーとしての人間によって獲得された、
あらゆる能力や習慣を含む複合体の全体(エドワード・タイラー)
<カルチャー・ショック>

○フィールドワーク=文化的な子供時代の再現
→ただし子供のように白紙の状態からとは違い、
 既に身につけている自分の社会の文化を前提として
 調査地の文化を学んでいくのがフィールドワーカー
<カルチャー・ショック>

○「居心地の悪さ」を感じることこそ「文化」を知るための最良の方法
→フィールドワーカーは「プロの異人」
<カルチャー・ショック>

○エスノグラフィー=
 人類学者が異文化における日常生活を身近に観察し、記録し、
 それにみずから参加し、細部を丹念に記述しながら
 その文化についての話を書き上げる調査のプロセス(Marcus&Fischer, 1986)
→文学と科学の二つのジャンルにまたがる性格をもつ文章であり、
 また、そうした文章を作るための調査法でもある
<民族誌>

☆フィールドワークとサーベイ
・フィールドワーク→定性的(質的)調査=
 限られた範囲の対象について多様な事柄を調べられる
・サーベイ→定量的(量的)調査=
 広範囲の対象に限定された事柄を調べられる
→一般的にフィールドワーカーvsナンバークランチャーの対立と言われるものは
 この二つのアプローチの違いが原因
<アンケート・サーベイ>

☆サーベイとフィールドワークは対立する二つの方法ではなくて、
本来補い合うべきアプローチ(それぞれの違いは質的ではなく程度の問題)
<事例研究>
→派閥争いではなくトライアンギュレーション(マルチメソッド)でおこなうべき
<トライアンギュレーション>
→複数のモデルを使うのは目的地にたどり着くために何枚かの地図を使うプロセスと同じ
<モノグラフ>

☆信頼性と妥当性の区別が必要=その調査方法が信頼性があっても
 その事柄への妥当性があるとはいえない
<信頼性と妥当性>

○統計データの多くは過去におこなわれたサーベイという
 干渉的な調査結果であることを忘れてはいけない(Maier, 1991)
<トライアンギュレーション>

☆理論の検証(verification)=グランドセオリー(総合理論)と、
理論の発見(discovery)、理論の生成(generation)=グラウンディッド・セオリー
(データ密着型理論)を併用して、理論の生成と理論の検証の双方をめざすべき
<理論の検証と理論の生成>

☆恥知らずに折衷主義=
 その社会に含まれる矛盾や非一貫性をすぐ単純化や抽象化するのではなく、
 (抽象度が高いものはほとんど何でもいえてしまう危険がある)
 ひとつの方法だけではとらえられない事柄は別の方法を使うという姿勢
 (Suttles, 1976)
<恥知らずの折衷主義>

○操作主義(操作的定義の概念)=
操作の手続きで概念を定義することによって、客観化を目指すこと
 →限定概念(definitive concept)と批判される
これに対して感受概念(sensitizing concept)=
研究のはじめに大まかな方向性(問題を検証する手がかりとなる感受の方向)を示す概念
 →調査が進むにつれて概念規定そのものを練り上げていく柔軟性あり
<概念>

○仮説=すでにある程度わかっていることを土台にして、
 まだよく分かっていないことについて実際に調べて明らかにするための見通し
<仮説>

○外国語の翻訳と同じように、ある行為の意味を明らかにするためには、
 その行為が埋め込まれている社会生活の全体の文脈をあきらかにする必要がある
<分厚い記述>

○参与観察(participant observation)=
1:社会生活への参加、2:対象社会の生活の直接観察、
3:社会生活に関する聞き取り、4:文書資料や文物の収集と分析、
5:出来事や物事に関する感想や意味づけのついてのインタビュー
<参与観察>

○インフォーマントとは「客観性を失わないラポール」
(rapport combined with objectivity)が重要
 →ここにフィールドワーカーだけが明らかにできるものがある
<インフォーマント>

○遂行面での知と批評的理解の知とは同じ性質の能力や知識ではない(Ryle, 1949)
<第三の視点>

☆時期尚早のコーディングの誘惑=
 枠組みがあまり早い時期に固まるとその枠組みからはみ出した事柄は
 観測や資料収集できなくなるおそれがあること

・それを防ぐ方法=
1:一般理論や他のフィールドワーカーが書いた民族誌の内容とつきあわせて、
 調査の枠組みの位置づけを検討、確認する作業を怠らないこと
 (理論的な前提に関して視野を狭めないようにする)
2:調査項目に関する網羅的なチェック・リストを作る
 (調べる事柄にバラツキがないかを常にチェックする)
3:網羅的なフィールドノーツをつける
 (ある段階で出来た枠組みにとって都合の悪いデータも記録するように自分にしむける)
4:データの分類だけでなく配列を考える
 (一般的な基準で配列すれば都合の都合の善し悪しに関わらず一緒にリストアップ)
→現場が新しい発想を発見することができる宝庫だとしたら、
分類と配列はその宝庫の扉を開いて価値を何倍にも拡大するカギ
<分類と配列>

☆フィールドワーカーを調査の対象となる社会や文化を計る計測器にたとえれば、
日誌はその機械自体のコンディションをチェックするモニタリング装置
 →日記は自分の置かれた環境の状態を測るだけでなく、
 自分自身のフィールド体験による変容をとらえることができる装置
<フィールド日記・フィールド日誌>

この本をamazonで見ちゃう

2003 10/31
学問一般、フィールドワーク、社会調査法、社会学、人類学
まろまろヒット率4

Posted in 学問一般, 文化人類学, 社会学, 読書日記, with No Comments →

『メディア・コミュニケーション論』 竹内郁郎・児島和人・橋元良明編著 北樹出版 2000(3版)09.20.03


TBS系列で再放送していた『愛なんていらねえよ、夏』にちょっと感動した、らぶナベです。

さて、『メディア・コミュニケーション論』竹内郁郎・児島和人・橋元良明編著
(北樹出版)2000年第3版。
コミュニケーション論の本を探していたらメディア論との関連で構成されている
この本を見つけたので読んでみることになった。

一章ごとに執筆者が違っていて全部で序章+15章とけっこうな分量だったけど、
内容は「薄いやん」っと思うような章もところどころあった。
おかげでメモを残した章がかなり偏っている(^^;
第7章の「マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開」が
この本の一応の中心にはなるんだろう。

また、この本で扱うメディアは新聞、ラジオ、テレビなどの
既存のマスメディアが中心になっていて、ネットや携帯電話などの
新しいメディアへの記述が少なくてちょっと残念だった。

ただ、各章末にそれぞれ3冊ずつ、そのテーマに関係する参考図書を
執筆者のコメントつきで紹介してくれているのはテキストとして役立った。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆メディア・コミュニケーション研究の対象=人間・メディア・社会の相関の磁場、
入れ子状の関係のもとでの社会的相互作用としてのコミュニケーション
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○メディア変容で注目する点→
1:メディアにおける身体の根源性と基本性
2:新たな個別メディアの登場とメディア総体の自己変容
3:道具・機械メディアの独自の系
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○第一次集団(家族や企業組織など)ほど個別間の結合が強固ではなく、
大衆ほどには離散的でもない中間的結合体系=「集合体」(collectivity)
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

☆メディアはそのメディア内容を離れてメディアそれ自体の独自の次元でも
リアリティ形成の力を一定の社会的文脈の中で発揮する
→メディア独自のリアリティ形成力=「メディウム性」
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○社会的格差の中にあるリテラシーを動員した実践が、
コミュニケーションという相互作用によって他者と共有するリアリティを
構成することを通じて、新たな自己、新たな他者との関係形成の一歩を築く
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○群集の特徴(Tarde,J.G.)=情動や集団的感情の模倣を通じての集団的一体感(コミュニオン)
<第1章 メディアとしての身体からグーテンベルクへ>

○文字の特性(Platon)=
1:書かれたものは客観的なモノと化して人工物となる、
2:書くことは記憶能力を衰退させる、
3:書かれたものは読み手に応答することはなく自らを弁護することもない
<第1章 メディアとしての身体からグーテンベルクへ>

○従来のメディアと電子メディアの相違点=
1:遠隔地間の情報伝達を瞬時に行える
2:同時に広範囲の人々に対する情報伝達ができる
3:電気信号によって多様な情報を蓄積、伝達することが可能
<第3章 メディアの今日的生成と諸形態>

○通信機器の普及の特徴=相手も同じ機器を持つ必要があるので
普及が十分ではない時期にはなかなか広まらないが、
普及がある一定数(クリティカル・マス)を超えると
逆にその機器を持っていないことに対して社会的圧力がかかる(吉井,1997)
<第6章 パーソナル・メディアとコミュニケーション行動>

☆ある年齢層の行動・意識を調査・分析する際の注意点=
1:「年齢層効果」(特定の年齢層であることの影響)、
2:「時代効果」(調査した時代の影響)、
3:「コーホート効果」(同時代に生まれた集団=コーホートが持つ特性の影響)
<第6章 パーソナル・メディアとコミュニケーション行動>

○メディアの公共性の基準(McQuail,1994)
=自由、平等、多様性、情報の質(客観性、均衡など)、社会的秩序と連携、分化的秩序
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

○マス・コミュニケーションの社会的機能(ラザーフェルド&マートン,1960)
=1:地位付与の機能、2:社会規範の強化、麻薬的逆機能(潜在的機能)
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

☆マス・コミュニケーションの社会的機能(ラスウェル,1960)
=1:環境の監視、2:環境への反応にあたっての社会の諸部分の調整、3:社会的遺産の世代的伝達
(国家単位で当てはめれば1:外交官、2:ジャーナリスト、3:教育者)
→ライト(Wright,C.R.,1960)はこれに4:娯楽の提供を追加
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

○カルチュラル・スタディーズは第一段階では記号論や精神分析のアプローチを導入、
第二段階では社会的な主体としてのオーディエンスに焦点を合わせることで
その構造的な規定性を脱構築するという二重のパースペクティヴを有する
→メディアの基本的契機であるテクスト、テクノロジー、オーディエンスを
 それぞれ独立した変数とみなして議論を進めることは無い
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

☆カルチュラル・スタディーズにとって重要なのは、
自由なテクスト解釈の主体としてのオーディエンスではなく(略)
様々な差別の文化政治学が葛藤と矛盾、せめぎあいを含みながら作動していく
政治の現場としてのオーディエンスの社会的身体である
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

○メディアと日常生活を分離させてそれぞれの分野の科学性を追及するのではなく、
日常生活や郊外や都市、グローバルな空間システムの作用についての分析と
コミュニケーションについての分析を統合させる
→家庭には、想像される家庭(home)、社会関係の場の家族(family)、
 モラル・エコノミーの場の世帯(household)の三つの次元がある(Silverstone,1994)
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

この本をamazonで見ちゃう

2003 9/20
メディア論、コミュニケーション論、社会学、社会心理学
まろまろヒット率3

Posted in コミュニケーション論, 情報・メディア, 社会学, 社会心理学, 読書日記, with No Comments →

『メディア論』 吉見俊哉・水越伸著 放送大学教育振興会 2001改訂06.12.03


カテゴリを一覧で見れるように読書日記ページをリニューアルした、らぶナベ@HIROさんありがとうです(^^)

さて、『メディア論』吉見俊哉・水越伸著(放送大学教育振興会)2001年改訂。
放送大学の「メディア論」講義テキスト。
この本の著者二人の講義に出ることがプレハブ学校に入る楽しみの一つだったのに
二人とも開講が冬学期だったので(いやん)メディア論の概要をつかむために読んでみた一冊。

この本の中で一番興味深かったのはメディア表現で重要になってくる「遊び」とは、
「メディアと人間の関係のしかたを積極的にひっくり返したり、
組み替えたりする、異化作用をともなった営み」としている点だ。
(第12章「新しいメディア表現者たちの台頭」)
確かに僕自身、WEBサイト運営をしていて面白いなぁっと感じるのは、
読書日記や掲示板で書き手と読み手の関係をひっくり返そうとしたり、
その本のカテゴリを自分なりに組み替えたりすることも含まれている。
「限界芸術(Marginal Art)」とも呼ばれるらしいが、ちょっと共感してしまった。

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

○メディア=人間を拡張すると同時に、社会的に枠付ける役割を果たす媒介
<まえがき>

○メディア=私たちの生きる社会的世界の技術論的な次元と意味論的な次元を媒介しながら、
 個別のメディアの布置や編制を可能にしていく、より全体的な構造連関の社会的な場
 →諸々のメディアは何らかの技術的発明の所産として
  社会の外側から直接与えられるのではなく、
  そもそも社会的なプロセスのなかで構成される
<1 メディア論とは何か>

○メディアについて考えるにはメディアの「誕生」そのものを
 問題にするような歴史的な観点が不可欠
  →同時に諸々のメディアが、今日のように再び揺らぎ始め、
  再編されつつある状況もそうした歴史的なパースペクティヴのなかで
  捉え返されなければならない
<1 メディア論とは何か>

☆印刷は、定着した記憶の継続的な蓄積を、その公開化を通じて達成することを可能にした
<1 メディア論とは何か>

○17、18世紀のイギリスのコーヒーハウス、フランスのサロンの特徴=
 1:社会的地位の平等性を前提とし、さらには社会的地位を
  度外視するような行動様式が要求された
 2:これらの場での討論はそれまで自明とされていた通念や制度を問題化していった
 3:これらの場は討論を通じて情報や文化を商品に転化させ、
  そのことで公衆に開かれたものにしていく契機も内包していた
 (ユルゲン・ハバーマス『公共性の構造転換』)
<2 活字メディアの時代>

☆技術的な複製の可能性の拡大は、歴史上はじめて、
 美の基盤を儀式的な一回性から切り離していく
 →美の準拠枠は「礼拝的価値」から「展示的価値」へと重心を移していった
 (ベンヤミン『複製技術時代の芸術』)
<7 メディア論の系譜1>

○マクルーハンの電子メディアがもたらす変容=
 1:電子メディアにより地理的距離が無化され、
  電子的に媒介された同時的な場が至るところに出現する
 2:電子メディアの浸透が、人々のコミュニケーションを線形的で
  視覚的な形態から包括的で触覚的な形態に移行させる
(マーシャル・マクルーハン『メディア論』)
<8 メディア論の系譜2>

○オングのメディア発展史=口承的(oral)、書記的(chirographic)、
 活字的(typographic)、電子的(electronic)のモードが積み重なってきた過程
 →オングの特徴はメディアの変容を表現手段の変化ということにとどまらず、
  思考や記憶の様式、世界観を根底から変えてしまう構造的な契機として捉えている点
 (ウォルター・オング『声の文化と文字の文化』)
<8 メディア論の系譜2>

○スチュアート・ホールのコミュニケーションのプロセス=
 相互に結びついてはいるが相対的な自律性をもって節合される語りの戦略的な布置
 →コミュニケーション過程の一方にあるのは、
  単一の主体としての「送り手」というよりも、
  テクスト生産に向けて節合された諸契機の複合的な過程としてのコーディング
 →ホールの特徴は送り手の意図が「正しく」受け手に伝えられるのが
  コミュニケーションの「正常な」状態だとは考えない点
  (むしろコミュニケーション過程のなかに価値や
  イデオロギーの衝突やねじれを見出そうとしている)
<8 メディア論の系譜2>

○カルチュラル・スタディーズにとって重要なのは、
 自由なテクスト解釈の主体としてのオーディエンスではなく、
 あくまで階級やジェンダー、エスニシティ、世代、様々な差別の文化政治学が
 葛藤と矛盾を含みながら作動していく抗争的な場としてのオーディエンス
<8 メディア論の系譜2>

☆「メディア・リテラシー」
 =人間がメディアを介して情報を批判的に受容、解釈すると同時に、
 メディアを選び、使いこなして自らの考えていることを表現し、
 コミュニケーションの回路を生みだしていくという、複合的な活動のこと
 →使用活動、受容活動、表現活動から構成される
<11 メディア・リテラシーの回復>

☆メディア表現における「遊び」
 =メディアと人間の関係のしかたを積極的にひっくり返したり、組み替えたりする、
 いわゆる異化作用をともなった営み=「限界芸術(Marginal Art)」
<12 新しいメディア表現者たちの台頭>

この本をamazonで見ちゃう

2003 6/12
メディア論、社会学、メディアリテラシー
まろまろヒット率3

Posted in 情報・メディア, 教育学, 社会学, 読書日記, with No Comments →

『世界がわかる宗教社会学入門』 橋爪大三郎著 筑摩書房 200105.26.03


何気に今日が誕生日の、らぶナベ@おちゃめな分裂症:ふたご座O型だす。

さて、『世界がわかる宗教社会学入門』橋爪大三郎著(筑摩書房)2001年初版。
前に読んだ『神道の逆襲』がけっこう面白かったので、
宗教関係の本をもう少し読んでみたいと思っていたところ図書館で発見した一冊。
内容は著者が担当する講義「宗教社会学」の内容を出版化させたもので、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教を網羅的に紹介している。
この本の中で一番面白かったのは大乗仏教で重要な阿弥陀仏は、
実はゾロアスター教の神・アフラマズダなのだという説を紹介していた点だ。
(講義7:大乗仏教とはなにか)
前から大乗仏教、特に浄土宗、浄土真宗は仏教らしくなくて
一神教的だなーっと感じていたので、この説は心情的にかなり納得してしまった。

ただ、網羅的すぎて内容がちょっと簡単すぎるというところや
どうせなら神道や道教も入れてほしかったという点などがちょっと残念だった。
宗教知識の確認や見落としチェックには役立つと思う。
(イスラム法の法源はぜんぶ押さえてなかったのでありがたかった)

以下はチェックした箇所、一部要約含む・・・

○宗教の定義=「ある自明でないことがらを前提としてふるまうこと」
<講義1:宗教社会学とはなにか>

○日本人は儒教を”思想”だと受け取ったが、
 実際は社会を実際に運営するための”マニュアル”
 →この点を理解しない日本人は、儒教を誤解してる
<講義1:宗教社会学とはなにか>

○(ユダヤ教は制服されたエジプトの死者信仰に対抗するため)
 霊魂も絶対に認めない→古代宗教としてとても珍しい点
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○一般に権力に反対する知識人などはたいていすぐ殺されて社会的影響力を持ちにくい
 →一方ユダヤ教では神の声を聞くことのできる預言者を簡単に殺せない
 →権力と知識が分離するダイナミズムは一神教の特徴
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○(神殿での儀式を少なくして日常の行動様式を規定することによって)
 場所、時間に無関係で世界中に散らばっても信仰を続けることが可能
 →これが世界最強の宗教団体を形成できた理由
<講義2:ユダヤ教とはなにか>

○食物規制を厳格に守ると、異教徒を食事に招待できない
 →友人になれないし、ましてや結婚ができなくなる
 →信仰の共同体が次の世代にも再生産される
 (食物規制のねらい)
<column:食べてはいけない>

○預言者の社会的機能=”built in stabilizer”(元はサイバネティックス用語)
<講義3:キリスト教とはなにか>

☆イスラム法の法源=
 ・「クルアーン」(神の啓示=人間との契約)
 ・「スンナ」(ムハンマドの行為・言葉)
 ・「イジュマー」(法学者=ムジュタヒド全員の一致)
 ・「キヤース」(法学者の論理推論→ただし他の判例を拘束せず)
<講義5:イスラム教とはなにか>

○輪廻を信じなければ仏教は理解できないが、日本人は輪廻を信じていない
 →輪廻を信じるなら先祖崇拝はありえない(先祖を祀るのは道教のやり方)
<講義6:初期仏教とはなにか>

☆大乗仏教の阿弥陀仏はゾロアスター教(拝火教)の神「アフラマズダ」が
 仏教化したものという説がある→浄土宗が一神教に近いことの理由の一つか?
<講義7:大乗仏教とはなにか>

○「天」=統一国家の統一権力を可能にする仮設構成体(フィクション)
 →天の思想は先祖崇拝をたくみに転換した儒教的イデオロギー
<講義9:儒教とはなにか>

☆「先祖崇拝」=確定した過去の人間関係によって不安定な現在の人間関係を整序する試み
<講義9:儒教とはなにか>

○朱子学ではあくまで分離していた義/孝を忠=孝と一致させたのが日本朱子学の特徴
<講義10:尊皇攘夷とはなにか>

この本をamazonで見ちゃう

2003 5/26
宗教社会学
まろまろヒット率3

Posted in 宗教学, 社会学, 読書日記, with No Comments →

『伽藍とバザール』 エリック・S・レイモンド著、山形浩生訳 光芒社 199908.05.02


HP英語化プロジェクトもOpenSourceを参考にしようと思う、らぶナベっす。

さて、『伽藍とバザール』エリック・S・レイモンド著&山形浩生訳
(光芒社)1999年初版。
Linuxに代表されるオープンソースについての理論書。
僕はHPのちょっとした修正にもヒィヒィ言ってるくらい文系人間で、
プログラミングやソフト開発のことはほとんどわからないけれど、
Linuxやオープンリソースの盛り上がりや可能性には前から興味を持っている。
たぶん読書日記や体験記を公開し続けている経験から
「公開」のメリットを自分のテーマとして感じているからだろう。
聞かれないことは自分からは教えないコンサルタントを知っているが、
ろくに資格も知識もないのにそれを消費財のように扱う姿に、
萎縮した人生を送っている卑屈さや惨めさを垣間見ることがある。
オープンソースにひかれるのはそういう性格的なものもあるかもしれない。
そんなこんなでオープンソースについて一冊は通読しようと選んだ本。

内容は本書の核となる三つの論文
「伽藍とバザール」、「ノウアスフィアの開拓」、「魔法のおなべ」と、
「エリック・S・レイモンド大いに語る」(著者と訳者のインタビュー)、
「ノウアスフィアは、ぼくたちの開墾を待っている」(訳者解説)
からなる五部構成になっている。
僕のようにプログラミングの知識がない人は訳者解説から読むのがお勧め、
本書の中心である三つの論文についてわかりやすく解説してくれている。
特にこの本の中心である伽藍方式とバザール方式の違いについて・・・
「伽藍方式は村上龍が自分で村上龍の長編を書く方式、
バザール方式は読書参加で村上龍の長編を書く方式。
有象無象を集めて村上龍の小説を書かせた方が、村上龍一人が書くよりも
優れた小説が書けると村上龍に言うようなものがこの論文」
・・・と解説しているのには思わず笑ってしまった。
ネタ的にも面白いがオープンソースのイメージを見事に伝えている。
この訳者は訳や説明がうまいなぁっと思っていたら訳者自身のHPも実に楽しい。
生けるOpenSourceという感じだ(^^)

また、オープンソースは皆がチェックして貢献するというのが前提だけど、
ソースをオープンにしただけでは皆がチェックしたり貢献したりしてくれる
とは限らないと指摘していたのには共感した。
では何がオープンソースと利用者をつなげるのか・・・
そこに「感性の共鳴」のようなものがある気が僕はする。

以下は、その他の気になった箇所(一部要約)・・・
☆オープンソースのメリットが高いのは・・・
 a)信頼性、安定性、スケーラビリティがとても重要な場合
 b)デザインや実装の正しさが、独立プアレビュー以外の方法では
  きちんと検証できない場合
 c)そのソフトがその利用者のビジネス展開を決定的に左右するような場合
 d)そのソフトが、共通のコンピュータ・通信インフラを確立するか可能にする場合
 e)その核となるメソッド(あるいは機能的にそれと等価なもの)が、
  よく知られた工学的な知識の一部であるとき

○すごいプログラマの大事な特徴の一つが、建設的な面倒くさがり

○(Linuxの公開者) リーヌスはハッカーやユーザーたちを
 たえず刺激して褒美を与え続けた。
 刺激は→全体の動きの中で一員となることでエゴを満足させられるという見込み
 褒美は→自分たちの仕事がたえず(まさに毎日のように)進歩 している様子

○(デザイン上の)完成とは、付け加えるものがなにもなくなったときではなく
 むしろなにも取り去るものがなくなったとき

○コミュニティ形成を始めるときは、まずなによりも実現できそうな
 見込みを示さなきゃいけない

○伽藍やバザールなんかの社会的な機構は、
 その火花をつかまえて洗練させることができるけど
 でもその機構が命令して着想を生み出したりはできないんだ

この本をamazonで見ちゃう

2002 8/5
情報関連、オープンソース、社会学
まろまろヒット率4

Posted in 情報・メディア, 社会学, 読書日記, with No Comments →

『悲しき熱帯』 レヴィ=ストロース著&川田順造訳 中公クラシックス 上下巻 2001(原著1955)04.17.02


HPを立ち上げてから興味を持った分野の本をようやく読み終えた、
らぶナベ@引用も長いのでさっそく本題・・・

『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース著&川田順造訳
(中公クラシックス上下巻)2001年初版(原著1955年初版)
文化人類学の古典。
1930年代当時まだ現存していた南米先住民の生活&風習の研究を通して
不条理にみえる神話や風習にも全体を貫く一定の構造があるのだ
と主張する構造主義を確立したとされる本。
(この視点は様々な分野に影響を与えたので読書カテゴリも豊富)

この本は僕にとっては初めて読む文化人類学本でもある。
HPを立ち上げて以来約9ヶ月の間、ネットビジネスやネットをめぐる
法的問題に触れたり考えたりする機会が必然的にめぐってきていたが
その度に「そもそも今の経済学、経営学や法学の理論や概念では
ネットという存在を捉えきれないのでは」という違和感を感じていた。
そんな中で民俗学や人類学を学ぶ知人の影響もあって
これらの分野の視点がネットを考えるヒントになるのでは
と思って購入することになった一冊。

僕は今まで馴染みのない分野に触れる時にはまず何冊か入門書を読んで
その分野の全体像を把握してから古典や専門書を読むという手法を取ってきたが
(法律関係カテゴリ参照)
この分野についてはいきなり古典から入った。
タイトルフェチの僕にとって非常にひかれるタイトルだったからだ。
この本は何よりもまずタイトルが良い。
学術書なのに「悲しき熱帯」(原題”Tristes Tropiques”)とは素敵すぎ。

学術書とは思えない読みやすそうなタイトルだが実際に読み始めると・・・
「これは学術書なんだ」と思わないとやってられないくらい読みにくかった(^^;
そもそも南米の先住民研究にはなかなか入らないし、
断片的な旅行談や詩や戯曲、はたまた新聞の広告やらがいきなり出てきたりする。
そういう構文上の問題に加えて著者の後向きな姿勢が読みにくさを助長した。
後向きな姿勢であってもそれが根拠に基づいているものであれば納得できるのだけど
訳者も前書で「明らかな飛躍や矛盾はある」とわざわざ断りを入れているほど
根拠がなかったり不必要だったりするものも多くて読んでいて疲れた。
特に当時の発展途上国の人々やイスラム教に対する不理解な偏見は
著者がまだ生きてるだけに訂正しても良いのではと余計な心配までしてしまった。
また著者は皮肉屋さんらしくブラックジョークらしきものがよく出てくるのだけど
21世紀の始めに生きる日本人の僕にはどこで笑っていいのかわからなかった。
やはり正確性を欠くマイナス思考っていうのは付き合いにくい。
この本は「20世紀を代表する本のひとつ」という触れ込みだったが
果たしてこの本が数世紀後も人類を代表する本のひとつ
と言われるのかどうかは疑問に思ったりもした。

構文的にも感性的にも読みにくさを感じていたがせっかく読み始めたのに
途中放棄するのはもったいないので諦めずに読み進めると
第五部「カデュヴェオ族」(上巻254P)からようやく面白くなった、
っというかこれからが本題。
一見、原始的で素朴に生きていると思える文明化されていない社会でも
そこには人間関係や生活様式を含めた厳格な社会システムが存在している。
社会的機能や構造が存在することは政府や法律などの
「高度な社会システム」があるとされる先進国の国家と変わらない。
・・・ということを先住民への調査を通して証明している。
特に着衣を一切せずに移動しながら生きるナンビクワラ族を調査している第七部では
このような考えられる限り一番原始的な社会生活を送っている人々の間でも
機能としての一夫多妻制を利用した社会システムや厳格な掟が存在してるとされる。

僕はこの本を実際に手に取る前から何が「悲しき」なのだろうかと思っていた。
ナチスによるユダヤ人迫害から逃れなくてはならなかった著者の気持ち、
破壊されつつある先住民社会への思いなど、いろいろな解釈があるだろうが
僕はこの第七部を読んで人間関係のわずらわしさというのは
人が誰かと関係を持って生きる限りどのような形の生活であっても生まれるという、
そういう悲哀のようなものが「悲しい」んだなと感じた。
振り返って20世紀初めの日本を見てみても、
無秩序で好き勝手にしているように見えるネット上の掲示板でも
煩わしい関係から逃れようとした人々の集まりでも
(宗教や田舎、海外や不良などの反社会集団に逃げたとしても)
やはり明文&暗黙に関わらず一定のルールや機能的関係が存在している。
そういう「悲しさ」があるのだということを感じる本だと解釈した。

そんなこんなで以下は注目してチェックした部分の引用(注目度順)・・・

☆人間があれば言葉があり、言葉があれば社会がある(略)
ポリネシアの人たちは社会を作って生きていたことにおいて我々以下ではなかった
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

☆全裸で暮らしている民族も私たちが羞恥と呼んでいる感情を知らないわけではない。
ただ彼らは、その境界を違ったところに設定しているのだ(中略)
むしろ平静か興奮しているかのあいだにおかれている
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

☆村を成しているのは土地でも小屋でもなく
すでに記述したような或る一つの構造であり、
その構造をすべての村が再現するのである
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

☆一夫多妻婚とそれに付随する特別の資格は、
首長が責務を果たすために集団が彼に供与している便宜という意味をもっている。
首長一人きりだったならば他の人たち以上のことをするのは極めてむずかしい
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一夫多妻の特権がどれほど性的、情緒的、社会的に見て魅力あるものであろうと、
それだけでは首長の仕事を志望する十分な動機にはならない(略)
一夫多妻婚は、権力のむしろ技術的な条件である(中略)
人間は、みな同じようなものではない。
社会学者が何でもかんでも伝統によって圧し潰されたものとして描いて来た
未開社会においてさえこうした個人の差異は、
「個人主義的」と言われている私たちの文明におけるのと同じくらい
細かく見分けられ、同じように入念に利用されている
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一つの民族の習俗の総体は常に、或る様式を認めることができる。
すなわち習俗は幾つかの体系を形作っている(中略)
観察された、あるいは神話の中で夢想された習俗のすべて、
さらに子供や大人の遊びのうちに表されている習俗、
健康なまたは病気の人間の夢、精神病患者の行動、
それらすべての一覧表を作ることによって、
丁度元素の場合のように一種の周期律表を描くことが可能になる
<第五部「カデュヴェオ族」”先住民社会とその様式”>

☆人類の歴史の最も創造的な時期の一つは、農耕、動物の家畜化、
その他の技術を生んだ新石器時代の到来期(中略)
新石器時代には、人類は文字の助けなしに巨歩を進めたのである(中略)
文字の出現に忠実に付属していると思われる唯一の現象は、
都市と帝国の形成つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、
それら個人のカーストや階級への位付けである
<第七部「ナンビクワラ族」”文字の教訓”>

☆北米先住民の社会的警察機能について・・・
現地人の誰かが部族の掟に背くようなことがあれば、
彼はその全財産(略)を破壊することによって罰せられる。
しかし同時に(略)罰せられたために蒙った被害を共同で償うべく、
警察が音頭をとらなければならない。
この補償のために罪人は集団に恩を受けたことになり、
彼は贈り物によって集団に感謝の意を表さなければならないが、
この贈り物は警察自身も含む集団の全体が彼に力を貸して集めたものなので、
またもや関係が逆転することになる(略)
贈り物と返礼の長々しい遣り取りの果てに、
前の無秩序が消えて最初の秩序が回復されるまで続くのである
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

○私は旅や探検家が嫌いだ
<第一部「旅の終わり」”出発”>

○問題は、真実と虚偽を見出すことにあるよりも、
むしろ人間がいかにして少しずつ矛盾を克服して来たかを理解することにあった
<第二部「旅の断章」”どのようにして人は民俗学者になるか”>

○或る皮肉屋がアメリカを定義して、野蛮から文明を経ないで退廃に移行した国だ、
と言った。この定義は新世界の都市にむしろ当て嵌まるかもしれない
<第三部「新世界」”サン・パウロ”>

○都市というものは自然と人口の合流点に位置しているのである。
(中略)都市は自然としては客体であり、同時に文化としての主体である
<第四部「土地と人間」”開拓地帯”>

○聖と俗の二者を対置させることは(略)
絶対的なものでも持続的なものでもないのである
<第五部「カデュヴェオ族」”ナリーケ”>

○或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、
結局のところ生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、
美化し、正当化する努力に他ならない
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

○組織化の弱い社会では(略)傾向も暗幕の了解のうちに留まっているので、
背後に意味を含んだここの行動を総合してかんがえなければならない
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

○気前の良さは大部分の未開民族において(略)権力に本来付随したものである
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○「契約」と「同意」は社会生活を構成する原料
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○人間はその枠の中で位置を変えながら、
彼がすでに占めたことのあるすべての位置と、
彼が占めるであろうすべての位置を自分と共に持ち運ぶ。
人間は同時に至る所にある。
人間は諸段階の全体を絶えず要約して繰り返しながら一列になって進む群れである
<第九部「回帰」”チャウンを訪ねて”>

この本をamazonで見ちゃう

2002 4/17
文化人類学、社会学、哲学、文化論、組織論、情報関連、歴史、文学、宗教学
まろまろヒット率4

Posted in 哲学・思想, 宗教学, 情報・メディア, 文化人類学, 文化論・美学, 歴史, 社会学, 組織論, 読書日記, with No Comments →

『秘密の心理』 小此木啓吾著 講談社現代新書 198611.18.00


懸賞で当てた図書券を『バガボンド』(講談社モーニングKC)購入に使った、
らぶナベ@先入観を捨てて読んでみると意外に面白いっすよ(^_^)

さて、『秘密の心理』小此木啓吾著(講談社現代新書)1986年初版。
精神科医が書いた秘密がもたらす作用をテーマにした本。
これは文句なしに面白い!(^o^)
精神医学のアプローチから秘密が与える人間関係への影響や
さらには社会構造までを視野に含めて書かれている。
症例による具体例だけでなく有名な映画や物語の中に潜む秘密の効果を
心理的作用の視点から分析しているので読んでいて楽しかったりする。
例えばこの著者によると『忠臣蔵』の面白さはどうやって秘密を全うしたかの
苦労話にあるし『勧進帳』は秘密を見逃すところが感動を与えてくれる。
松本清張の『天城越え』は思春期に誰もが体験する親や憧れの人に対する
原光景体験(幻滅や失望)と自律がテーマだとしている。
何となく納得(^^)
さらにこれ系の本によくあるような単なる分析に終わらずに、
現代を原光景(親や尊敬するものに対する幻滅)社会と定義して、
その病理性を騒ぎ立てるのではなく積極的な歴史的過程と捉えなおして、
不可知に耐える自我能力の必要性を提起している点は
単なる医学者の書いた心理本を越えている。
主張の善し悪しを別にしてもその挑戦的な姿勢はすばらしい。
薄い本だけど単純に面白さだけでいえば今年読んだ本の中で
1,2をあらそうくらいの本じゃないかな?

以下は重要だと思ったところから書き出したチェックポイント・・・
☆アンネ・フランクはキティさんという架空の人物を造りあげ、
この対象と対話するという形式で『アンネの日記』を書いた
→子供は親以外に秘密や親密さを共有する対象と出会い、
心の中でそれらとの関わりを通して親から自立した心の構造を形成する
→一歩誤ると親からも離れ、しかも新しい対象も発見できず、
人との関わりのよりどころを失って心の真空状態に落ち込むおそれがある
→親以外の親密な対象を持つことができるかどうかが発達心理上重要

☆恥の心理はその人物が心の中でどんな自己像を持とうとしているか
によって決まる面がある→本質的には自分に向けられた怒り

☆相手に誉めてもらうなどの形で自己愛を満たしたいという
受け身的な自己愛の満たし方が日本的な甘えの心理
→相手にどう思われるか、自分の自己像を受け入れてもらえるかどうかが
日本的な人間関係では最も重要なテーマとなる

☆人みしりは日本的な甘えや依存の心理と深く関わっている
→日本人が世間に対して自分のことを恥ずかしいと思うときの、
その世間とは全くの他人を意味しているわけではなく
むしろそれは顔みしりの集まった自分と一体の世間のことである
→こちらが優しい相手を期待するからこそ人みしりも起こる

☆公式な課題集団の情報伝達構造に十分な信頼をおかず、
非公式な憶測集団に自分を置いて情報を得ようとするのが日本的組織の特徴
→職場からすぐに帰らなかったり仕事の後にみんなで
飲んだりしなければならなくなるのはこのため
→米国の精神科医による日本人は同性愛的な気持ちが強いとの指摘

☆原光景体験を通して親に幻滅した子供はその幻滅と失意の克服を通して
やがては親との間に同等な人間同士としての対話的構造を作り上げていく、
現在の原光景社会はそのような社会的自我の発達と真の対話的構造を持った
情報交流可能なより成熟した社会への過渡的な一段階とみなすことができる、
このような積極的な歴史的意義を見失って現代の様々な原光景反応を
ただいたずらに病的な徴候とみなすことは集団幻想時代へ逆コースを
引き起こすおそれがある、それはタブーと抑圧の支配する隠蔽社会への逆戻り
→いま我々が身につけなければならないのは不可知に耐える自我能力である

・”secret”はラテン語”scereta”(分泌物)から来ている
→自分の分泌物を触れさせない距離感が他人との境界

・一杯飲みたくなる気持ちの中には秘密(分泌物)を共有する
一体感への渇望がある

・それまでタブー視していた家族についての不満や批判を
家族以外の人間に打ち明ける経験が自我の目覚めを体験するきっかけとなる
→精神分析やカウンセリングが発展したのは核家族化が進んで
個々の家族メンバーに対する家族の支配権が弱まったため

・子供の心の健全な発展には親は親、子供は子供という
世代境界の確立された秩序感覚が大切
→この世代境界はあらゆる組織にも存在する

・乳幼児期から子供は親に対して大便処理に関する嘘をつく
→フロイトによると自分の大便に対する執着が自己感覚の形成と
自律的な意思の成立につながっていくとされる

・サディズムとは相手の見せかけの強さ、尊厳、美しさなどの社会的、
人格的価値の背後にひそむ、弱さ、汚れ、醜さを暴く心理のこと
(その心理は強迫告白の心理と深層で深く関わっている)
→いじめ、家庭内暴力を引き起こす衝動がこれ

・原光景反応(幻滅など)が進むと自分自身が直接触れることのできる
狭い世界に退行したり現実を超えた神秘的な世界を頼りにするようになる

・人みしりは人に笑いものにされることを恐れる心理であり、
ユーモアは自分から笑いものになって結果として
他の人から笑いものにされることを防ぐ心理的技術

この本をamazonで見ちゃう

2000 11/18
心理学、教育学、社会学
まろまろヒット率5

Posted in 心理学, 教育学, 社会学, 読書日記, with No Comments →

『うその自己分析―虚感の時代を生きる』 折橋徹彦・杉田正樹著 日本評論書 199910.31.00


NHK総合でいま一番あつい番組、『プロジェクトX』
マニアのマニアによるマニアのための番組だと思えてならない、
らぶナベ@あの痛さが最高っす!

さて、『うその自己分析~虚感の時代を生きる~』
折橋徹彦・杉田正樹著(日本評論書)1999年初版。
社会心理学者(第1部)と哲学者(第2部)による嘘に関する共著。
嘘が良いとか悪いとかいう倫理観ではなくどうして嘘をついたのか、
その背景には何があるのかという科学的アプローチを持って
嘘と接する必要がある仕事をする予定なので読んでみた。
これは以前読んだ『人はなぜウソをつくのか』渋谷昌三著(河出書房新社)
1996初版を読んだ時と同じ動機からだが精神医学的な視点で書かれた
『人はなぜウソをつくのか』と違って、この本はエッセイ風になっている。
(自然科学と社会・人文科学との本質的な差でもあるのだろうけど)

特に哲学者が書いた第2部は純粋な読み物としてもとても面白く感じた。
例えば「世界一の美女はいたのか、それともいなかったのか」
というエピソードはドイツの捕虜収容所でフランス兵が
「この独房に世界一の美女がいることにしよう」というルールを決めて
活き活きと生活しているのに対して
捕虜収容所の所長がその世界一の美女を連行しようとし、
またフランス兵たちがそれに抵抗するというものだ。
世界一の美女なんていなかったに決まっているが、かといって
彼らを動かしていたのが世界一の美女であるのことも事実だ。
そしてこれこそが宗教や神や真理、社会原理だと言っている。
「意味は、意味であるが故に無意味である、と言える。なぜか。
ゲームがルールによって支えられているように、
意味が成り立つのは、それを支える広い意味での文法があるからだ・・・
意味は、最終的な文法がない以上、宙づりになっている、ということだ」
という風に結論づけているが妙に印象に残っている。
身近なエピソードだけでなく各哲学者の嘘に対する接し方を紹介するなど
哲学入門としてもすごく良い本ではないだろうかとも思った。
社会心理学の視点で書かれた第1部も面白かったがどうせ非科学的ならば
割り切って人文科学的なアプローチに徹したこの第2部の方が説得的だった。

基本的に僕は社会・人文科学的な心理学のアプローチには
どうも説得力が欠けると感じる傾向があるけれど
この本は読み物としても面白かったし、倫理的ではなく事実的として
嘘を考えるきっかけとして良い本だった。
けっこうお薦めかもしれない。

この本をamazonで見ちゃう

2000 10/31
心理学、教育学、社会学、哲学
まろまろヒット率4

Posted in 哲学・思想, 心理学, 教育学, 社会学, 読書日記, with No Comments →

『大衆宣伝の神話―マルクスからヒトラーへのメディア史』 佐藤卓己著 弘文堂 199207.22.96


政策科学部講義「メディアと参加」テキスト。
ドイツのラサールの社会主義宣伝からヒトラーのファシズム宣伝までの
メディア史。
社会主義者のメディア戦術とファシストのメディア戦術は同じベクトルにあると書いている。
キーワードは活字中心の「市民的公共圏」に対して如何に「労働者的公共圏」(ラサール)、
「国民的公共圏」(ヒトラー)に移行していったかを書いている。
ううん、いまいち盛り上がりに書けるというか文章力が足りない気がする。

この本をamazonで見ちゃう

1996 7/22 
情報関連、歴史、社会学、メディア論
まろまろヒット率3

Posted in 情報・メディア, 歴史, 社会学, 読書日記, with No Comments →








このサイトについて  サイトポリシー  連絡先  サイト来歴  メディア掲載  お願い



 
Web maromaro.com
まろまろと探しちゃう
Amazon.co.jp のロゴ


  • カテゴリー

  • アーカイブ



  • カテゴリー



このサイトについて   サイトポリシー   連絡先   サイト来歴   メディア掲載   お願い