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『メディアと日本人――変わりゆく日常』 橋元良明著 岩波書店 201108.26.11


まろまろ記10周年を機会にハンドルネームを「まろまろ」から「渡邊義弘」に変更しました☆

さて、『メディアと日本人――変わりゆく日常』 橋元良明著 岩波書店 2011

「少年凶悪犯罪は低下し続けているが、テレビの視聴時間が長い人は少年が凶暴化していると認識している」、
「読書離れ、テレビ離れ、などの言葉は、どの調査からも確認できない」・・・など、
実際の調査によって日本人のメディア利用実態を明らかにしようとする一冊。

中でも、インターネット利用によって、社交的な人はどんどん社交的になり、内向的な人はどんどん内向的になる、
という「ネット利用のマタイの法則」は、アメリカでも日本でも見受けられるということ。
(有てる人は興へられていよいよ豊かならん。然れど有たぬ人は、その有てる物をも取らるべし)
フレーミング(炎上)の原因は、社会的手がかりの欠如と非言語的シグナルによる補正がききにくいことで、
インターネットでは極端な方向に議論が流れる「リスキーシフト」が起こりやすいと指摘しているところに興味を持った。

また、メディアの盛衰の要となるのは、メディアの持つ「機能」が他で代替可能かどうかに注目して、
新聞とテレビはメディア企業によるニュース・情報の重要性の位置づけを簡単に推測することができるのに対して、
インターネットはその点が弱いので、まだ住み分けができていると分析しているところは納得した。
(ただし仕事の利用のための「機能」は代替可能なので、インターネットが劇的に伸びている)

ちなみに、僕は著者(東京大学大学院学際情報学府所属)の講義を受けたことがある。
この本の”はじめに”の中で、「メディア環境の変化、それによる生活の変容を語るには、
周辺観察記や業界の内輪話、思弁的評論では不十分であり、実証的データに裏付けられた議論が必要」
・・・と述べているところは、いつも口癖のようにしていたご本人の顔が思い浮かんで懐かしさを感じた。

以下はチェックした個所(一部要約含む)・・・

○メディア環境の変化、それによる生活の変容を語るには、周辺観察記や業界の内輪話、
思弁的評論では不十分であり、実証的データに裏付けられた議論が必要
<はじめに>

○ラジオの歴史的意義=
・ラジオは、空間の制約をとりはらって、電気的で二次的な「声の文化」(ウォルター・オング)を生んだ
・新聞が、リテラシー面でも、閲覧できる時間余裕の有無という面でも、
経済的あるいは教養的格差を拡大再生産する特性をもつメディアであるのに対し、
ラジオは基本的にダレでも重要できるところから、文化的格差を縮小する方向に作用した
・ラジオは標準語の普及にも多大に寄与した
<1章 日本人はメディアをどう受け入れてきたか>

○携帯電話の歴史的意義=
・携帯電話は、固定電話が我々にもたらした影響の一つの「空間の再配置・モザイク化」をさらに進めた
 →公共の場での携帯電話による通話に多くの人々が深いの念をいだくのは(中略)
  側にいる人が、こちらの見知らぬ異空間を持ちこみ、
  共有していた場から「私」を遮断してしまうという薄気味悪さを感じるから
・電話は「心理的隣人」を創出したと言われたが、携帯電話は「心理的同居人」を作り出した
<1章 日本人はメディアをどう受け入れてきたか>

○テレビの歴史的意義=
・ヒトが、その処理能力において圧倒的優位性を誇る視覚情報を、
日常的に十分にメディア上のコミュニケーションに載せることができるようになったのはテレビの登場以降
<1章 日本人はメディアをどう受け入れてきたか>

○インターネットの特性=
1:ヒトがコミュニケーションに駆使している聴覚、視覚的情報をほぼすべてやりとりできる
2:一方的でなく、双方向的に、かつ一対一でも一対多でも自由に享受でき、保存できる
3:公共的情報資源を利用するための国家等の制度の制限を受けない
4:既存メディアが膨大な資本力を必要とするのに対して、資本力を必要としない
→インターネットはメディア発展史上、文字の発明以降、最大級の社会的影響を与えるもの
→仕事に関する情報取得については、劇的にインターネットが他のメディアに取って代わりつつある
<1章 日本人はメディアをどう受け入れてきたか>

○「日本の情報行動調査」では1995年から2010年にかけ、読書時間、行為者率には全体的にほとんど減少傾向が見られない
→書籍がネットの影響をあまり受けていないのは、機能的にインターネットが代替し得ないから

○少年凶悪犯は、戦後ピークだった1960年の8212人から2008年の956人に8分の1以下に激減
→「最近の少年は凶暴化している」との認識は、実際の犯罪発生よりも、メディア報道に影響されるところが大きい
<3章 メディアの「悪影響」を考える>

○「ネット利用のマタイの法則」はアメリカでも日本でも成り立つ=
もともと社会的資源を有効に活用する人はインターネットのような新技術を活用して、
ますます獲得資源を拡大し、満足感も大きく、心理的にも豊かになっていく
→内向的で社会的資源をうまく活用してない人はその逆
=有てる人は興へられていよいよ豊かならん。然れど有たぬ人は、その有てる物をも取らるべし
(マタイによる福音書13章12節)
→インターネットの富者富裕化モデルは別名「マタイの法則」と呼んでいる
<3章 メディアの「悪影響」を考える>

○フレーミング(炎上)の原因
・社会的手がかりの欠如
・非言語的シグナルによる補正がききにくい
→極端な方向に議論が流れる「リスキーシフト」はインターネットで起こりやすい
<3章 メディアの「悪影響」を考える>

☆メディアの盛衰の要となるのは、メディアの持つ「機能」が、他で代替可能かどうか
→新聞は、記事の掲載で、テレビはニュースの放送順位で、
それぞれのメディア企業の重要性の位置づけを推測することができる
→ネット上では、今のところ、その判断を示唆してくれる鍵が限られている
<終章 メディアの未来にむけて>

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2011 8/26
情報・メディア、社会学
まろまろヒット率3

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『影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか』 ロバート・B・チャルディーニ著、社会行動研究会訳 誠信書房 200711.01.10


特命係長プレイがきっかけでツイ飲み(Twitter 飲み会)に参加させていただいたので、
ようやくTwitterの使い方が分かりつつある、まろまろです。

さて、『影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか』ロバート・B・チャルディーニ著、社会行動研究会訳(誠信書房)2007。

人間が無意識のうちに影響されてしまう心理メカニズムについて、
社会心理学の実証実験や事例研究から科学的にアプローチする一冊。
原題は、“Influence: Science and Practice. 4th Ed.”(2001)。

内容は、人間には自動的に承諾する心理メカニズムがあることを「影響力の武器」(第1章)で述べた後に、
承諾を導く影響力の典型として。「返報性」(第2章)、「コミットメントと一貫性」(第3章)、
「社会的証明」(第4章)、「好意」(第5章)、「権威」(第6章)、「希少性」(第7章)の6つを詳細に解説。
そして、このような自動的な影響力は情報化社会においてはますます重要になってくることを、
「手っとり早い影響力」(第8章)でまとめる、という構成になっている。

読んでいて印象的だったのは、様々な心理実験の結果を通じて共通しているのは、
人間は自分が影響力を受けていることを過小評価する傾向があるという点だ。
だからこそ、この本で解説されている6つの影響力の武器は強力なものであり、
気をつけなくてはいけないものであるということが説得力を持って伝わってくる。

もちろん、こうした影響力の武器はそれ自体は決して不当なものではない。
ただし、それをねつ造したり、過剰に振りかざされたりすることが問題であり、
不当な承諾や集団の悲劇はこれらの影響力の武器の乱用にあることが強調されている。
それだけに、それぞれの項目の後に「防衛法」と「まとめ」があるのは読んでいて少しホッとした。

この本は、人間の心理はいかに生々しいものであるかについて科学的に解説した本なので、
読んでいて『カリスマ―出会いのエロティシズム』と同じようなインパクトを感じた。
読み物としての迫力は『カリスマ―出会いのエロティシズム』の方があるけれど、
こちらはその分、日常の中にある無意識な人間心理の原理に気付かせてくれる。

自分が不当な影響力を受けないため、そして自分も不当な影響力を与えないため、
という実用性の面でも一読の価値がある本。

以下はチェックした個所・・・
(一部要約含む、「→」はまろまろコメント)

○実際、人間の行動の多くは自動的、紋切り型のものです。
なぜなら、たいていの場合、それが最も効率的な行動の形態であり、
また、場合によってはそうすることが必要でさえあるからです。
<第1章:影響力の武器>

○返報性のルールの本質を構成するのはお返しをする義務ですが、
このルールを自分の利益のために利用することを容易にしているのは、受け取る義務の方です。
この義務があるために、私たちは恩義を感じる相手を必ずしも自分で選ぶことができませんし、
そのルールの力を他者に委ねることにもなります。
<第2章:返報性>

○心のなかの不快感と恥をかくかもしれないという危険性、この二つが組み合わされると、
とても大きな心理的負担が産み出されます。
こうした負担という観点から考えれば、返報性の名のもとに、
受け取ったもの以上ののものを私たちが返そうとするのも、さほど不思議なことではありません。
<第2章:返報性>

☆返報性のルールを使って私たちの承諾を得ようとする人に対する最善の防衛法は、
他者の最初の申し出を常に拒否してしまうことではない。
むしろ、最初の行為や譲歩は誠意をもって受け入れ、後でトリックだとわかった時点で、
それをトリックと再定義できるようにしておくことである。
<第2章:返報性>
→気をつけたいところ。

☆実際、私たちは皆、自分の行為や決定と一貫した思考や信念を持ち続けようとして、
自分自身をだますことがしばしばあります。(中略)
一貫していたい(一貫していると見てもらいたい)というこの欲求は、
しばしば自分の本当の利益とは明らかに反するような行動に私たちを駆り立てます。
したがって、これは社会的影響力のとても強力な武器として使えるものなのです。
<第3章:コミットメントと一貫性>
→現状維持の言い訳と足踏みの自己肯定は飲み屋でよく目撃する。

○自分自身の信念や価値や態度についての主要な情報源は自分の行動なのです。
<第3章:コミットメントと一貫性>

☆行動を含むコミットメントをしてしまうと、自己イメージには二つの麺から一貫性圧力がかかります。
中からは、自己イメージを行動に合わせようとする圧力がかかります。
そして外からは、もっとも秘かな圧力ー他者が自分に対して抱いているイメージに、
自己イメージを合わせようとする傾向ーがかかるのです。
<第3章:コミットメントと一貫性>

○パブリック・コメント方略は、プライドが高い人、あるいては公的自意識が高い人に特に有効なようである。
ex.シャルル・ド・ゴールの禁煙のセリフ、「ド・ゴールは自分の言葉を裏切ることができないのだ」
<第3章:コミットメントと一貫性>

☆多くの場合、人は自分がしたコミットメントについて、それが正しいということを示す新しい理由や正当化を付け加えるのである。
その結果、コミットメインとを生み出した状況が変化したずっと後でも、そのコミットメントの効力が持続することになる。
(ローボール・テクニック)
<第3章:コミットメントと一貫性>

○(一貫性圧力に対しての防御法は)「今知っていることはそのままにして時間を遡ることができたら、
同じコミットメントをするだろうか」という厄介な質問を自分自身に問いかけなくてはならない。
そのとき、焼くにたつ答えをもたらしてくれるのは、最初に沸き上がってきた感情である。
<第3章:コミットメントと一貫性>
→気をつけたいところ。

○(人類滅亡などの終末の予言がはずれた教団がより強固なものになることがある理由について)
それを正しいと思う人が多ければ多いほど、人はその考えを正しいと見ることになるのです。(中略)
物理的証拠は変えられなかったので、社会的証拠を変えねばならかったから。
<第4章:社会的証明>

☆改宗者を求めたいという気持ち(社会的証明)に火についたのは、自分たちの確信がぐらついたときでした。
一般に、自分自身に確信が持てないとき、状況の意味が不明確あるいは曖昧なとき、
そして不確かさが蔓延しているときに、私たちは他者の行動を正しいものと期待し、またそれを、受容する。
<第4章:社会的証明>
→「みんな」という言葉が好きな日本人は、この社会的証明に影響される傾向が強いように感じる。

☆人が集団になると援助をしなくなるのは、彼らが不親切だからではなく、確信がもてないからだということを認識することです。
<第4章:社会的証明>

☆一般的に言って、緊急援助が必要な場合の最善の方略は、あなたの状況と、周囲の人たちの責任に関する不確かさを低減することです。
助けが必要であることを、できるだけ正確に言いましょう。傍観者が、一人で結論を出すようにさせてはいけません。
特に群衆のなかでは、社会的証明の原理とそこから生じる集団的無知の効果によって、
あなたのおかれている状況が緊急事態ではないと見られてしまうかもしれないからです。
<第4章:社会的証明>
→気をつけたいところ。

☆最も影響力のあるリーダーというのは、社会的証明の原理が自分に有利に働くようにするためには
集団の状況をどう整えればよいのかを知っている人なのです。
<第4章:社会的証明>
→その通りだから、よい結果を導かなくてはいけない。リーダーは結果責任を問われる。

○(アシモフの言葉)人は自分と同じ性別、同じ文化、同じ地方の人を応援する・・・
その人が証明したいと思っているのは、自分が他の人より優っているということなのである。
応援する相手が誰であれ、その相手は自分の代理にになる。
そして、その人が勝つということは自分が勝つことと同じなのである。
<第5章:好意>
→確かに阪神タイガースや浦和レッズ、バルセロナなどの熱狂的ファンはコンプレックスが原動力になっているように感じる。

☆栄光の反映に浴したいとする気持ち(栄光浴)が強い人たちの特徴は、
背後にパーソナリティの脆弱さが隠されている人たちです。
つまり、否定的な自己概念をもっている人びとなのです。
こころの深層に、自分は価値が低い人間だという気持ちがあるため、
自分自身の業績を高めて名声を得るのではなく、
他者の業績との結びつきを形成し、それを強めることによって名声を得ようとしているのです。
<第5章:好意>
→○○と知り合い自慢がみすぼらしいのは、言っている本人の痛々しさが伝わってくるから。
痛いものコレクターなので嫌いというわけではないけれど(w

○ある状況で要請者に尋常でない好意を感じたら、その社会的相互作用から一歩退き、
要請者とその申し出の内容を心のなかで区別し、申し出のメリットだけを考えて決定を下さなければならない。
<第5章:好意>
→気をつけたいところ。

○「この権威者は本当に専門家なのか」、「この専門家はどの程度誠実だとかんがえられるか」。
この二つの質問を発することによって、権威者の影響力による有害な効果から自分自身を守ることができる。
<第6章:権威>
→気をつけたいところ。

○希少性の喜びは希少な品を体験することにあるのではなく、それを所有することにあるのです。
この二つを混同しないことが大切なのです。
希少性が高いものが、なかなか手に入りにくいという理由だけで美味しくなったり、感じが良くなったり、
音がよくなったり、乗り心地がよくなったり、よく動くようになったりすることはないのだ、
ということを決して忘れてはいけません。
<第7章:希少性>
→気をつけたいところ。

○希少性の原理は、二つの最適条件のもとで最もよく適応できると思われる。
第一にそれが新たに希少なものとなったときに一層高まる。
第二に、他人と競い合っているときに、希少性の高い物に最も引きつけられる。
<第7章:希少性>

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2010 11/1
社会心理学、心理学、社会学、コミュニケーション論、実用書
まろまろヒット率5

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『社会学の社会学』 ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳 藤原書店 199106.16.10


アクセス殺到によるサーバダウン頻発化に対応するため、ついに6回目のサーバ引越をしようと思う、
まろまろ@しばらく不安定な表示になりますが気長にまろまろとお付き合いくださいな☆

さて、『社会学の社会学』ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳(藤原書店)1991。

社会学者、ピエール・ブルデューによる、21の論点に対する回答集。
原題は”Questions de sociologie” (1984)。
もともとは一般の人々を対象とした講演やインタビューの議論を基にしているので、
「専門家以外の人に読まれることを想定している」と著者は書いているけれど、内容は決して簡単ではない。
とはいえ、社会科学の方法論から、文化論、芸術論などにおよぶ内容はとても刺激的。
どれもが鋭い視点で、これまでの「常識」に対して「冷や水をかける」ようなブルドュー社会学の概要を知ることができるものになっている。
読み応えがあるので、一章、一章、ゆっくりと噛みしめて消化しながら、三カ月ほどかけて通読することになった。

ちなみに、パリ第7大学(Denis Diderot)でのブルデューの後任は矢田部和彦さんという日本人の人が務めているけれど、
僕は矢田部和彦さんが参加した大阪フィールドワークのコーディネータを務めた経験がある。
また、矢田部研究室の院生さんからインタビューを受ける機会もあったので、ブルデューの弟子と孫弟子に当たる人達とご縁があることになる。
そういう経緯があるので、この本の中で調査対象者に対する接し方について書かれた部分には、
「僕もこんな風になことを思われているんだな」と微笑ましくなることもあった。

そんな個人的な事情は差し引いても、読み応えがあり、そしてとても刺激的な一冊。

以下は、チェックした個所(一部要約含む)・・・

○私はいつも別の方向にねじまげることから始めます。
つまり、はみだし者、社会的空間の外なる者であろうとする人びとも、
結局はみんなと同じように社会的世界のなかに位置づけられているのだ、
ということに立ち戻ることから始めるのです。
<言葉に抵抗する技術>

○私の目標は、「社会的世界なんて大したことはないさ」と言わせないように手を貸すことなんです。
<言葉に抵抗する技術>

○社会学が示してみせるのは、あれこれ社会的慣習行動の効力が発揮されるために糾合されなければならない客観的な諸条件は何かということです。
<お邪魔な科学>

○おそらく社会学の唯一の任務というのは、そのはっきりした欠落からしても、その獲得しえたところからしても、
社会的世界についての認識の限界をはっきりさせることであり、
またこうして、科学を引き合いに出すような予言を手初めに、あらゆる形の予言を成り立ちがたくすることなのです。
<お邪魔な科学>

○投資とは[何かに打ち込もうとする]行動への傾性[気質]であって、
なにがしかの賭け金を賭けようとするゲームの空間(これを私は「場」=champと名づけています)と、
このゲームにぴったり合った諸性向の体系=systeme de dispositions(私はこれをハビトゥスと呼んでいます)との間に産み出されるものである、
ゲームをしたがる、ゲームに熱中しようとする傾性と素質とを同時に含意するゲームとその賭け金の感覚のことなんです。
<お邪魔な科学>

○言葉の厳密な使用、コントロールされた使用に到達するために必要不可欠な書くという作業が、
明晰さと呼ばれているものに達することはきわめて稀にしかありません。
明晰さとはすなわち良識の証しを、あるいは狂信の確かさを補強するだけだということです。
<問題の社会学者>

○科学のなすべきことは、作られたものの妥当性の限界をはっきり明言しておいて、
これができることの全部だということを知り、かつ言った上で、なすべきことはする、というところにあるからです。
<問題の社会学者>

○社会科学の仕事の一部は、この日常用語がまとったり脱いだりするすべてのヴェールを剥ぎとる=de-couvrir(発見する)ことにあります。
<問題の社会学者>

○行為の原理は、私がハビトゥスと呼んでいる性向の体系であり、それは生活史的経験すべての所産です。
まったく同一の二つの個人史というものが存在しない以上、類似した経験、つまりハビトゥスの類、
あるいは階級のハビトゥスは存在するとしても、二つの同一ハビトゥスは存在しないということです。
<どうやって「自由な知識人」を解放するか>

○大事なことは、対象についての言説が対象に対する無意識のかかわり方の単なる反映でないように、
対象に対するかかわり方を対象化する(客体として設定する)にはどうすればよいかを知ることです。
この対象化を可能とする技術のなかに、もちろん学問的装置の一切があるのです。
いうまでもなく、この装置自体は、それぞれの時代の先行科学から引き継いだものですから、当然、歴史的批判に服さねばなりません。
<社会学者の社会学のために>

○行為者というのは自分を分類し、他社を分類して日々を過ごしています。(中略)
こうした分類こそ行為者間の闘争の一つの賭け金にほかなりません。
別の言い方をすれば、分類の闘争というものが存在するのであり、これが階級闘争の次元の一つをなしているということなのです。
<社会学者のパラドックス>

☆悪口は他者をその特性のひとつ、彼のひそかに隠しもったえり好みの一つに還元してしまいます。
他者をいわばその客観的真相に押し込めてしまうのです。(中略)
日常的行動のなかでは、客観主義と主観主義との間の闘争が絶えることなく続けられています。
誰もがその人なりに自分についての主観的な表象を客観的な表象として人に押しつけようとするものです。
支配者とは、自分がそう見られたいと思っている通りに被支配者が自分を見るように被支配者に対して押しつける諸手段をもっている者のことです。
<社会学者のパラドックス>

○真理とは一つの敵対関係を含んだものです。ある一つの真理があるとすれば、それは、その真理が闘争の一つの賭け金であるからにほかなりません。
<社会学者のパラドックス>

○社会学者の仕事は、いつも二つの役割の間に自分の位置を取らなければなりません。
座を白けさせる役割に終始してもなりませんし、反対にユートピアを信じる共犯者としての役割に甘んじてもならないわけです。
<話すということはどういうことか>

☆☆場にはもう一つ、すっかり見えにくくなっている特性があります。
場に参与しているすべての人びとが、一定数の根本的利害、つまりその場の存在それ自体に結びついているものの一切を共有しているということ、
それから、どんな対立にも表面にはあらわれてこない客観的な共犯性を共有していることです。(中略)
闘争に参加する者は、敵味方を問わずゲームを再生産することに貢献し、
場によってその完全さに程度の差こそあれ、賭け金の価値に対する信仰を産み出すことに貢献しているのです。(中略)
ゲームそのものを破壊してしまう全体的革命から守っている要因の一つが、
ゲームに参加するために予期される時間や努力などに費やす投資の重要さだということは明らかです。
また、そうした投資が経なければならぬ通過儀礼の試練の数々が示しているように、
ゲームが根こそぎ破壊されることをじっさいに考えられもしないものにしてしまうのです。
☆<場のいくつかの特性>

○ハビトゥスとは、意識されていようといまいと、長い時間をかけた習得によって獲得された性向の体系であり、生成図式の体系として作動します。
また、ある目的にむけてはっきり構想されたものでなくとも、行為者の客観的利害に客観的に合致しうる戦略を産み出す生成母体なのです。
<場のいくつかの特性>

○人びとがハビトゥスのおもむくがままに動いてさえいれば、場の内在的必然性に従い、そこに刻み込まれている諸要請をみたすことができるというときには(そうなればどんな場においても卓越したことだとはっきり言えます)、当の人たちは自分を犠牲にしてまである義務に身をささげるなどという意識はまるでもっておらず、なおさら(特定の)利益の最大化をついきゅうしているという意識はもっていません。
したがって、よそ目にも完全に損得を免れているように見え、自分自身もそう考えるという追加利益があるわけです。
<場のいくつかの特性>

○言語資本とは、言語の価格形成のさまざまなメカニズムに及ぼしうる権力であり、
価格形成の法則を自分の利潤に合わせて作動させたり、特定の余剰価値を引き出したりする権力なのです。(中略)
言語的相互作用はすべて、それを包摂する諸構造によってたえず支配され続けている小さな市場のようなものなのです。
<言語市場>

○恩着せがましさとは、客観的力関係を扇動的に利用することです。
なぜなら、人びとの思いを聞き届けてみせる人が、ヒエラルキーを否定するために、まさにそのヒエラルキーを利用しているからです。
彼がヒエラルキーを否定するとき、彼は、それにつけこんでいるからです。
<言語市場>

○趣味というのは、他との違いを際立たせるものであるからこそ変化していくのです。(中略)
音楽ビジネスがなぜ難しいかというと、文化的財に関する限り生産とは消費者を産み出すことにほかならないからです。
もっとはっきり言えば、音楽の趣味の生産、音楽の欲望、音楽への信仰の生産ということなのです。
<音楽愛好家という種の起源と進化>

○趣味とは、一人の人物ないしはある集団の習慣行動と所有=物の総体として見れば、
財とある趣味との出会いの(予定調和による)所産ということになりましょう。
<趣味の変容>

○噂される人というのは、潜在的に言いたいことがあっても、誰かにそれを言われて初めてそうだと分かる、そんな人でもあるです。
<趣味の変容>

○趣味とは、一方の客体化された歴史と他方の身体化された歴史という二つの歴史の、客観的には相互に合致した出会いの所産なのです。
<趣味の変容>

☆芸術作品と消費者との出会いのなかには、不在の第三者がいます。
この不在の第三者とは、自分の内なる美的感覚を物象に変え、それを魂の状態から、いや身体の状態から、
自分の美的感覚に合った可視的な物象へと変える能力にたよって作品を生産し、自分の好みに合うものを作りだした人のことです。
芸術家とは、このような内的なものを外的なものに変える専門家、客体化の専門家なのです。
<趣味の変容>

☆消費者がその芸術家の創作物のなかに自分の姿を認めることによって、自分でも作ることができたなら作っていたであろうものを
芸術家の創作物のなかに認めることによって、芸術家は芸術家として承認されるのです。
こういう人が「創造者」という魔法の言葉で呼ばれてしまうのは、芸移活動をいったん魔術的な働きと定義してしまっているからなのですが、
しかしこれこそは、実は社会的な働きにほかならないのです。
<趣味の変容>

○趣味とは、ある特定の人物によってなされる選択の総体ではありますが、
芸術家によって客体化された美的感覚(趣味)と消費者の趣味との出会いの所産ということになるのです。
<趣味の変容>

☆社会学の特有の困難は、誰もが何らかのかたちで知っている事柄をあらためて教えてみせるというところに由来しています。
しかし、それは知りたくない事柄であったり、そうでなければシステムの法則がそれを隠しているために知りえない事柄だったりするのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆クリエーターは、創造者たる権力を信用させるだけの言説をもっていることによって、
クリエーターとして創造されうるのだ、ということが重要なのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆芸術家の自律性は、その基礎が創造的な天才の奇蹟のなかにあるのではなくて、
方法、技術、言葉など、相対的に自律的な一つの場の社会史の社会的産物のなかにあるのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○芸術生産の場とは、その名において、芸術の価値のなかに、芸術家がもつ価値の創造能力のなかに
信仰を産み出す場であるということが、どのように歴史的に形成されるのかを明らかにすることが問題なのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○あらゆる力関係の本質は、それが言説によって隠蔽されているからこそ初めてその力を発揮できるのだと言っていいでしょう。
<世論なんてない>

○正当性とは、何かが見落とされていることを意味します。(中略)
被支配者たちが承認するのは、支配者たちがこの定義に対してもつ利害を被支配者たちが見落としている場合に限られます。
<ストライキと政治行動>

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2010 6/16
社会学、芸術論、学術方法論
まろまろヒット率4

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『社会学の根本問題―個人と社会』 ゲオルク・ジンメル著、清水幾太郎訳 岩波文庫 1979(原著1917)04.18.06


全くの偶然で日経新聞と日経マネーからのインタビュー依頼が重なった、らぶナベ@経済系には縁遠いだけに巡り合わせの奇遇を感じてます。

さて、『社会学の根本問題―個人と社会』ゲオルク・ジンメル著、清水幾太郎訳(岩波文庫)1979。
原題は“Grundfragen der Soziologie: Individuum und Gesellschaft” (1917)。

まだ社会学が学問として認められていなかった頃に、形成社会学を提唱した著者が書いた、社会学の本質を述べた一冊。
読んでみると社会学も科学なんだと弁明している第一章よりも、具体例として社交と芸術&遊戯との共通点を述べている第三章の方が面白く読めた。

以下はチェックした箇所・・・

☆すべて科学というものは、或る特定の概念に導かれて、諸現象の全体や体験的直接性から一つの系列乃至一つの側面を抽象するもの
<第1章 社会学の領域>

○存在しているものは、認識が到底直接に捕ら得ない統一体であり、私たちが事実内容と呼んでいるものは、或る一面的な範疇によって理解したもの
<第1章 社会学の領域>

☆芸術は、完全に生命から離れたもので、芸術に役立ち、芸術によって再び生産されるようなものだけを生命から取り出す
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>

○(芸術と遊戯の)両者は、生命のリアリティから生まれながら、このリアリティに対して独立の国を成す諸形式を共有する
→両者の意味と本質とは、生命の目的や生命の実質から生まれた諸形式がそれらから身を解き放って、
諸形式それ自ら独立した運動の目的になり実質になり、あのリアリティのうちから、この新しい方向に従い得るもの、
諸形式の独自の生命のうちに現われ得るもののみを取り入れるという、この断乎たる回転のうちにある
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>

○社交は、具体的な目的も内容も持たず、謂わば社交の瞬間そのものの外部にあるような結果を持たない(略)
それゆえ、この過程は、その条件においても、その成果においても、この過程に参加する人間だけに限られている
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>

○社交というのは、すべての人間が平等であるかのように、同時に、すべての人間を特別に尊敬しているかのように、人々が「行う」ところの遊戯
→リアリティを全く離れた遊戯や芸術が嘘でないのと同じように、社交も嘘ではない
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>

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2006 4/18
社会学、学問一般
まろまろヒット率3
社会 図書

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『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 199201.17.06


修二と彰の振り付けを練習中の、らぶナベです。

さて、『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 1992

カリスマの研究書、めちゃ面白かった一冊!
内容は理論編(第2部)でカリスマ研究の歴史、各分野からのアプローチを押さえながら統合理論としてまとめ、
実例編(第3部)でカリスマとその信奉者たちの典型例を取り上げて、
結論(第4部)でカリスマとその信奉者たちとの相互作用は一体何なんなのか、その今日的な意味も含めて答えを出している。
理論の深さ、実例の迫力、結論の説得力、どれを取ってもカリスマの研究の決定版と言える本。

まず、すごいなと思ったのが膨大な先行研究を押さえていているところだ。
たとえば理論編では情念に焦点を当てた哲学者たちとしてヒュームやミル、ニーチェ(2章)、社会学としてのアプローチ、ウェーバー(ヴェーバー)とデュルケム(3章)、
催眠と群集心理学からのアプローチのメスマー、ル・ボン、タルド(4章)、精神分析学からのアプローチとしてのフロイト(5章)などの
カリスマ研究の背景やそれぞれのアプローチを総括しながら、
カリスマ的リーダーシップの病理性を強調する心理学的見解と、カリスマ的集団に積極的な価値を与える社会学的言説との対比をまとめて(6章)、
カリスマ精神の病いなのか、再社会化なのだろうかと問いの下で統合理論化(7章)をしている。

その次の実例編では典型的なカリスマとその信奉者たちの実例としてアドルフ・ヒトラーとナチ党(8章)、
チャールズ・マンソンとそのファミリー(9章)、ジム・ジョーンズと人民寺院(10章)を取り上げている。
著者は文化人類学出身なので、この実例編は本領発揮という感じでとても迫力があった。
ある人物がカリスマ的パーソナリティを持つことになってゆく過程、奴隷化しているのに自分は解放されていると思う信奉者たち、
そしてカリスマと信奉者の相互作用で生まれた集団のダイナミズムが展開し、崩壊していく様が克明にえがかれていて、
単純に生々しい読み物としても読み入ってしまった。
そしてシャーマニズムとの共通点を指摘しながら(11章)、結論につなげるという流れがとても綺麗。

結論(12章)では、現代のカリスマをよく指摘されるような芸能人やスポーツ選手にとどまるだけでなく、
カリスマ的な特徴を帯びた人間関係として、家族(観)とロマンティックな恋愛を挙げているのが面白い。
確かに実例編で出てきたカリスマとその信奉者たちは極端な事例かもしれないけど、
読みながらホストに入れ込む女性や、キャバクラ嬢に振り回される男性を思い起こしていただけに納得。
(実は自分自身の恋愛体験の中にも重ね合わさる面もあった(^^;)

人間関係がもたらす無我と交感の絶頂感(エクスタシー)は魅力的で、時には没頭してしまう。
コミュニケーションの快楽に耽溺する人の性向は決して特殊なものではなく、
人間の本質の一つなんだ、というこの本の主張は説得力があった。
(そこには集団のダイナミズムが生まれる源泉になる)

ちなみに、この本はインターネット普及以前に書かれたものだったので、
現在のネットコミュニティ内でのカリスマ出現に著者はどう思っているのか知りたかった。
また、理論編の第2部はけっこう面白いんだけど、理論的背景とかアプローチを退屈だと思う人は、
訳者が言っているように実例編の第3部から読んでも十分に面白く読めると思う。

以下はチェックした箇所(要約含む)・・・

○カリスマというものを理解するためには、カリスマ的人物の性格やそのカリスマ的魅力を個々の人間に受け容れやすくさせている諸属性を研究しなければならないばかりでなく、
同時に指導者と信奉者が相互作用をおこなっているカリスマ集団そのもののダイナミズムをも分析しなければならない
<第1章 序説>

○弱く空虚な人間は、服従することによって、ひとつのアイデンティティを、また力と意志という不可欠な幻想を手に入れることができる
→カリスマの信奉者たちは抑圧の中に解放されているという感覚を感じる (Hoffer 1951)
<第4章 催眠と群集心理>

☆自己の解体的幻想による同一化的経験こそが指導者に対する信奉者の愛、自我の境界が消失する超越的な愛の源泉
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○心理学者たちが指導者に焦点をあて、彼らの障害をもったパーソナリティを強調しがちであるのに対し、
社会学者たちは指導者の性格についてほとんど論じることなく、信奉者や彼らを取り巻く環境に関心をもつ
→心理学が信奉者のうちに病理性を見ようとするのに対して、
社会学者は信奉者が普通の人間よりも深い心理学的な生涯を病んでいるわけではないことを証明することに関心をもっている
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○カリスマに対しては大きく分けて二つのアプローチがある・・・
・精神分析学に由来するものでカリスマの感情的強烈さや超越的性格を認めはするが、それに対する価値判断を含み、指導者の個人的特長を過度に強調するもの
・社会学に由来するもので集団の重要性、共同体への参加が人々の願望の対象となりうることをよく認識しているが、
 しかし経験から情念を剥離させ、リーダーシップを閑却し、カリスマ的紐帯の根底にある無意識の衝動を軽視するもの
→どちらのアプローチもカリスマ的経験の一部を教えてくれるが全体ではない
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

☆自我がその価値を減ぜられ、アイデンティティの標識や対象とのきずなを剥奪されながら、それでもなお同時にすべての行為の唯一の正当化根拠とされるとき、
カリスマの啓示や帰依者の共同体的集団への没入によってあたえられる激しさや内的確実感は高度に魅力的
→このようにして高められた相互作用の形式は現実の社会構造に欠けている、交感の感情、エクスタシー的自己喪失、超越、信念をあたえる
<第7章 カリスマの統合理論>

☆カリスマ的な関わりへ導いていく諸条件について統合的図式・・・
・疎外された現代社会とナルシシズムの文化が結合して人々にカリスマへの没入を受容させやすくしている
・人格的アイデンティティを遮断することによって人々に自己喪失を用意させる思想改造
→いずれも人格的アイデンティティを脅かし、集団による個人の吸収を促進し、集団形成の指導者に対するエクスタシー的心酔を偏愛するように作用する、
 ある種の技法や社会状況がもつ人格解体的作用に対してまことに弱い存在として人間を描く
<第7章 カリスマの統合理論>

○ヒトラーという恐るべき事実に直面した歴史家や政治学者は、当然のことながら彼や彼の運動からその神秘的な要素を取りのぞこうとするから、
その結果として諸々の偶然の変数が結びつくことで彼に政権の掌握と維持が可能になったという事実を強調することになる
<第8章 「取り憑かれた従者」>

☆カリスマ集団の隠された目的は「成功」することではなく、経験することそれ自体
→だから外的脅威の圧力で集合体経験は強化される
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○(ナチスのSS訓練は)極度の疲労と苦痛、そして屈辱は、男たちの過去とのきずなを切断し、いかなる自律感覚も腐食させる効果を発揮した
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○社会変動が旧来のきずなを切断してしまったところはどこでも、補償としてのカリスマ運動を好む
<第9章 「愛こそわが裁き」>

○主観のうちに生じるエクスタシー的なトランスという変成状態の所有がシャーマニズムの中心
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆シャーマンの役割につくことは、現代においてカリスマとなることと同じく、アイデンティティ解体という初期局面から苦痛に満ちた自己再構成を経て、
他のもっと弱い魂たちを圧しつぶす潜在的な精霊をコントロールして顕在化させる能力をもった変身せる専門家としての再生へ向かう運動
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆カリスマ的啓示は、周縁に追いやられた集団を無視し抑圧してきた社会構造における弱き者の示威運動、反構造の契機、警告のコミュニタスとなる (Turner 1982)
→カリスマの形態は、いかなる社会にあっても、社会構造の中にそれがあらわれることで克服されなければなならい抑圧のタイプと程度を示す
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○逸脱せる集団とその指導者に精神的な変調をきたした者というレッテルを貼ることと、彼らが実際に狂気に落ち込んでいくこととの間には明確な相関関係がある
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆今日におけるカリスマの過剰なあらわれは、交感を求める人間の根源的な欲求を社会システムが満たしえないでいることの反映
→カリスマとその集団は、その暗さによってわれわれ自身が置かれているディレンマの輪郭をくっきりと縁どる影
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○非日常な無我の状態に到達することのできる一つの方法が、移ろいやすい気質をもったカリスマ的指導者という霊感喚起的な人物によって結合された集団に所属すること
<第12章 今日のカリスマ>

☆恋愛においては、カリスマにおいてと同じように、相手のうちへ自己を喪失することが縮小としてでなく、高揚、エクスタシー、自我の拡大として経験される (Chasseguet-Smigrel 1976)
→恋に落ちることは巨大な革命のエクスタシー感情と変革パターンを小規模で複製する集合運動の最も単純な形態 (Alberoni 1983)
→カリスマも恋愛も強烈な情動喚起的関係における自他の完全な同一化を要求するので同時並行することはできない
<第12章 今日のカリスマ>

☆カリスマとは、世俗的な世界の疎外と孤立の外部にあってそれと対立する根源的な超越の瞬間をもたらす直接的なエクスタシー経験
→無我と交感というモーメントは、われわれ人間の不可欠な条件の一部
→問題はそうしたモーメントがどのような形態をとるかということ
<第12章 今日のカリスマ>

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2006 1/17
カリスマ研究、社会学、心理学、社会心理学、文化人類学、宗教学、思想史、リーダーシップ論、政治学、組織論、コミュニティ論
まろまろヒット率5

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『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』 水越伸著 紀伊国屋書店 200505.05.05


「ソーシャルネットワークとコミュニケーション手法の多様性」というシンポジウムに
パネリストとしてお呼ばれした、らぶナベ@ジャージな海賊が僕です。

さて、『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』水越伸著(紀伊国屋書店)2005。

生物の生息に適した小さな場所を作り、ネットワーク化させるビオトープ(biotope)を
メディア論の隠喩として応用させた「メディア・ビオトープ」を提唱する本。
文章と共に著者の手書きのスケッチや写真がワンセットになっている。

内容はメディアを「伝達」を軸にした矢印モデルでとらえるのではなく、
「共感」と「コミュニティ」を軸にしたドーム・モデルを基本にしている。
ビオトープの特徴となる小ささ、ネットワーク、キット化という点が
WEBサイトやSNSにも当てはまるのので自分の活動やSNSコミュニティを振り返りながら読んでみた。

中でもメディア・ビオトープを形作る要素として
「メディア実践」、「メディア・リテラシー」に加えて
「メディア遊び」を重視している点が興味深かった。
この三つの相互循環によってメディア・ビオトープが形成されるが、
中でもこの「メディア遊び」はその土壌部分に当たるとしている。
読んでいて不敵な知り合いのWEBマスターたちや
からかい好きのSNSネットワーカーたちが思わず目に浮かんでしまった(^^)

ちなみにこの本の趣旨のことは前々から聞いていたので、
早く出版してほしいと著者に会う度に言っていた。
ようやく念願の読書ができたけど、できれば僕の修士論文前に出してほしかった(>_< )

以下はチェックした箇所(一部要約&注目順)・・・

☆メディア・ビオトープを形作る三つの営み・・・
メディア実践(media practice)
   ↑ ↓
メディア・リテラシー(media literacy)
   ↑ ↓
メディア遊び(media play)
<メディア・ビオトープを形作る三つの営み>

☆メディア遊びは、体制化・硬直化したメディア社会のありようを突き崩す動き
<メディア・ビオトープを形作る三つの営み>

☆ドームを生み出すために必要な要素・・・
1:「出会い」=異なる領域にいながら同じ志の人々を求める
2:「対話」=自分に眠る他者をよみがえらせる
3:「表現・制作」=自明性を突き崩す
4:「可視化」=言語かできないものを言語化しないまま操作可能にする
<メディア・ビオトープを育む>

☆矢印モデルでのコミュニケーション=伝達、メディア=伝達手段
ドーム・モデルでのコミュニケーション=共感の営み、メディア=象徴
<メディア・コミュニティ・人間>

☆(メディアとコミュニティの関係)
メディアはコミュニティを生み出し、維持し、発展させる象徴媒体として働くが、
一方でコミュニティがメディアを支え、そのあり方を枠付ける母体だという、
循環的で、相互依存的な関係
<メディア・コミュニティ・人間>

○メディア研究とメディア業界は、二項対立の図式にかまけるなかで、
新しいメディア表現者の登場を予兆することができず、
さらにはその活動をより広い文脈のなかで位置づけることをせずにいる
<メディア・コミュニティ・人間>

○ビオトープの特徴=小ささ、ネットワーク、複合性、デザインの重視
メディア・ビオトープの特徴=小さなメディア、ネットワーク化、非2項対立、道具立て
<メディア・ビオトープ宣言>

○メディア・リテラシー=媒体素養(by呉翠珍)
<メディア・ビオトープを形作る三つの営み>

○硬直し、紋切り型になったメディア・リテラシーとは
メディア・プロパガンダに他ならない
<メディア・ビオトープを形作る三つの営み>

○メディア回廊作りに大切なこと・・・
1:バランスを取ることでアイデンティティを保つ
2:組織やグループを越えた一段上の次元でもメディアを作る

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2005 5/5
メディア・ビオトープ、メディア論、社会学
まろまろヒット率4

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『流言の社会学―形式社会学からの接近』 早川洋行著 青弓社ライブラリー 200202.21.05


民話や都市伝説の裏読みをするのが好きな、らぶナベ@妄想銀行社会部です。

さて、『流言の社会学―形式社会学からの接近』早川洋行著(青弓社ライブラリー)2002年初版。

各分野で研究されてきた流言を横断的に検証して、そのメカニズムの解明を試みる本。
流言や噂は情報化社会で重要になるキーワードだと感じることが多く、
前々からまとまったものを読んでみたいと思っていたので手に取った一冊。

読んでみると先行研究の参照も丁寧で手堅い概要書と言った感じだけど、
所々に著者の見解やキャラが垣間見れて楽しかったりもする。
構成の面でも各章の最後にまとめを入れる点や、この本の「種明かし」として
自分の方法論(主にジンメル社会学)を述べている点なども読みやすさを助けてくれた。
内容でも構成でも良書といえる一冊。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○流言は人びとの生活世界の範囲を顕在化させる指標

☆流言の定義=コミュニケーションの連鎖のなかで短期間に発生した、ほぼ同一内容の言説
→噂との違いはその波及規模(噂の氾濫が流言)

☆解決流言=当為命題含む、解釈流言=当為命題含まず
・自我包絡性&信用性&顕在性&真偽の確認可能性→解決流言>解釈流言
・発生しやすさ→解決流言<解釈流言

○流言=情報の流れにかかわる、流行=影響の流れにかかわる

○信言&違言&偽言=科学知、戯言=物語知
→流通の点で違言は流言になりにくい

☆流言の聞き手は「状況の真理性」(伝達内容)、「態度の誠実性」(発話者)、
「権威の正当性」(発話者&内容上の発話者)から真実を検証

☆流言の流通理由=「ニュース性」、「検証」、「同意欲求」、
         「自己解放」、「娯楽性」、「関係維持」、「作為」
→虚言は娯楽性&作為、正言or虚言は検証&自己解放&関係維持から生まれる

☆不安=対自的、飽き=即自的
→主体に緊張を強いるという点では同じ=流言の発生原因となる

☆「カタルシス原理」=民衆がみずから対自的に虚構の苦難を作り出すことでおこなう感情の浄化
→流言とは観客が同時に演者になることで感情浄化を果たす現象

☆流言の発生が、田舎<都市、大人<10代、に広まりやす理由
=「不安と飽きの心理」、「権威の弱体化」、「客観的世界の拡大」
→流言はさまよう心にとりつく

○他者否定型の解釈流言は話手と聞手の間でイン・グループを確認し相互の紐帯を強める

○情報化社会の流言は、収斂的に終息するより拡散的に終息する

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2005 2/21
流言・うわさ研究、情報・メディア、社会学
まろまろヒット率4

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『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』 公文俊平著 NTT出版 200401.26.05


「まろまろ」で商標登録が取れた、らぶナベ@商標登録第4827132号だす。

さて、『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』公文俊平著(NTT出版)2004年初版。
情報化による社会の変化を文明史的にとらえて、
著者が提唱する「情報社会・学」へつなげようとしている一冊。
「智民」、「智業」、「智場」などの著者独自の概念も盛り込まれていて、
これまでの著者の本のダイジェスト版とも言える。
『新ネットワーク思考』(バラバシ)と『スマートモブス』(ラインゴールド)に影響されたと
あとがきで書いているように、情報社会に関する基礎的な本のレビューとしてもまとまっている。

ただ、最後で付記されていた「情報社会の運営原則」がすごく面白いのに、
単なる箇条書きで深めてくれていなかったのは残念だった。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○三つの文化の構成要素(文化子)
・宗教文化=1:正統主義、2:目的主義、3:戒律主義
・近代文化=1:進歩主義、2:手段主義、3:自由主義
・智識文化=1:反進歩主義(存続志向)、2:反手段主義(目的重視)、3:反自由主義(規制重視)
<第二章 社会変化を捉える眼>

○情報化の駆動因=
1:エージェント化→個々の核主体が自分の頭脳の代りに演算力や判断力を持つ
エージェントを使って交流や共働の効率化を達成
2:共識化→各人が生み出す智識や情報を通識として通有したり、
不特定多数にも公開することが最初から予定し効率化をさらに達成する
<第二章 社会変化を捉える眼>

○公でも私でもない、共の原理に必要なもの=
1:協力の技術(評判、監視、制裁)の開発と活用を通じて共のシステムの円滑な運用
2:参加者相互間とシステムに対する信頼を確保する
<第四章 共の原理と領域>

○新しい時代の科学の曙といえる理論
60年代のCybernetics
70年代のCatastroph
80年代のChaos
90年代のComplexity
・・・は”C”で始まる
<第五章 情報社会の新しい秩序>

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2005 1/26
情報社会・学、情報・メディア、社会学
まろまろヒット率3

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『スマートモブス―“群がる”モバイル族の挑戦』 ハワード・ラインゴールド著、公文俊平&会津泉監訳 NTT出版 200311.23.04


かつて携帯電話でメールができるようになった時にそのインパクトをめぐって
携帯メールなんて面倒くさくて流行るわけないと言う否定的な人と企画会議で喧嘩したことがある、
らぶナベ@若気の至りと年寄りの至りですな(^^;

さて、『スマートモブス―“群がる”モバイル族の挑戦』
ハワード・ラインゴールド著、公文俊平&会津泉監訳(NTT出版)2003年初版。

携帯電話や無線LANなどのモバイル(ユビキタス)コミュニケーションがもたらしている
思想、文化、政治、経済への影響と、これからの未来像をえがこうとする一冊。

多くの人が携帯を持ち、モバイルコミュニケーションすることはどういう意味を持つんだろう?
たとえばフィリピンのエストラダ大統領を退陣に追い込んだ”People Power2″(2001)を支えたのが、
携帯電話のショートメッセージによるモバイルコミュニケーションだったし、
韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の誕生(2002)には携帯メールによる支援運動が重要な役割を果たした。
こんな巨大な力を生み出すこともあるモバイルコミュニケーションの光と影を丹念に紹介、考察している。
(タイトルの”MOBS”には”MOB”と”MOBILE”の両方の意味が込められている)

ちなみに著者は日本通ということもあって、この本の第一章は
渋谷のハチ公前で携帯メールする若者たちに注目することからスタートする。
「携帯電話が日本の世代間の力関係を変えるきっかけになった」という研究も紹介されていたが、
確かに各家庭に一台しか固定電話が無かった頃の十代の恋愛と、
各人に一台の携帯電話を持った後の十代の恋愛とではだいぶん違うのは実感できる。

この本は単なる現状の紹介だけでなく、その意味を探求しようとしているのが面白かった。
そういう姿勢もあるから副題は原題”The Next Social Revolution”の方が良かったと思う。
この邦題では単なるモバイル好きの人たちの話みたいなイメージで、もったいなく感じた。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○携帯電話が日本での世代間のパワーシフトの引きがねを引いた(Mizuko Ito, 2001)
→携帯電話は若者たちに詮索好きな家族と固定電話を共有することから解放し、
プライベートなコミュニケーションのための空間と社会的な行動の可能性を変える媒体を創出
<第一章 渋谷ハチ公前での啓示>

☆電話の第一の利点は、若者たちに社会的ネットワークにおける
帰属とステータスの誇示を可能にすることにある(Alex&Haper, 2001)
<第一章 渋谷ハチ公前での啓示>

○(その場の会話を中断した)電話しているときに見せる表情が
電話がかかってくる直前までにとっていた表情と違うという変貌行為は、
表情は人前では意識的に取り繕われるものだという事実をまず浮かび上がらせ、
それに続いて後で見せた表情は(場合によっては最初の表情も含めて)
虚偽のものではないかという気持ちを起こさせる
(Palen&Salzman&Youngs, 2001)
<第一章 渋谷ハチ公前での啓示>

☆「共通にプールされる資源」(CRP:Common Pool Resources)の管理にとって重要なもの=監視と制裁
→監視と制裁は単に罰するための手段としてだけではなく、
 他人も務めを果たしていることを保証してくれる手段として重要
→多くの人は他のほとんどの人が協力する限りは自分も協力しようと思う条件付きの協力者(Smith, 2001)
<第二章 協力の技術>

○メカトーフの法則が支配するところでは、相互行為が中心になる
GFNの法則が支配するところでは、共同して構築された価値(共同応答やゴシップ)が中心になる(Reed, 1999)
<第二章 協力の技術>

○放送は全国的な課題に関する論点を取り上げ、中核となる価値を定義する
→ブロガー(blogger)たちは異なる市民のためにそうした論点を再構築し、
すべての人の意見が聞かれる機会を確保しようとする(Vance, 2001)
<第五章 評判の進化>

☆評判システムが機能するための要件(Resnick, 2000)・・・
1:将来の取引を生み出すために、ペンネームであっても買い手と売り手のアイデンティティの永続
2:取引についてのフィードバックと解釈が、他の人が将来検討するために入手可能
3:人々は自分の決定の基礎を評判格付けに置くがゆえに、それに十分な注意を払う
<第五章 評判の進化>

○ネットワークは、ノードとリンクを含み、任意のあるリンクから他のリンクに情報を配信するために
可能な多数の経路を利用し、ガバナンスのフラットな階層構造と権力の分散を通じて自己規制されている
→ネットワークは部族、階層制、市場の次にくる最新の主要な社会組織形態(Arquilla&Ronfeldt, 2001)
<第七章 スマートモブス-モバイルな多人数のパワー>

☆社会的ネットワークが意味するのはスマートモブスの中のあらゆる個人が「ノード」であって、
他の個人に社会的な「リンク」(コミュニケーションチャンネルと社会的な絆)を持っているということ
(社会的ネットワーク分析の専門用語での単語を使用)
<第七章 スマートモブス-モバイルな多人数のパワー>

○個人間での協力の閾値に多様性があることが、
群衆の間に協力の突発的蔓延を引き起こす原因となりうる(Dana, 2000)
<第七章 スマートモブス-モバイルな多人数のパワー>

☆ゴフマンのいう「相互行為秩序」(複雑な言語的および非言語的なコミュニケーションが
個人の間でリアルタイムに交換される社会領域)とは、
まさしく個人の行為が群衆の行為の閾値に影響を与えうる領域
<第七章 スマートモブス-モバイルな多人数のパワー>

○グループ全員が誰が貢献し、ただ乗りし、あるいは制裁を受けているかを知ることが
評判システムと多対多コミュニケーションのメディアとが授けてくれる、
グループによる協力が持つ力を引き出すカギ
<第七章 スマートモブス-モバイルな多人数のパワー>

☆(ネットワークによる)場における存在/不存在のあいまいな次元は、
帰属意識の四つ(家族、国家、人種、場所)のひとつである、ある場所への再構築を意味する
→場所への帰属は自分のコミュニケーション・ネットワークへの帰属意識へと変容してしまった(Fortunati, 2000)
<第八章 常時作動の一望監視装置か、はたまた協力増幅機械か>

☆技法の主要な特徴=合理性、人工性、技術選択の自動性、自己増幅、一元論、普遍主義、自律性(Ellul, 1964)
→コンピュータ化された評判システムを通じて協力するコミュニティはこれらの基準に合致する
<第八章 常時作動の一望監視装置か、はたまた協力増幅機械か>

○新しい情報技術全般が、きわめてしばしば権力を分散した(しかし権力者は権力の分散に好意的でない)
→それゆえ現代のそれも含む歴史の動乱がある程度までもたらされるのだ(Wright, 1999)
<第八章 常時作動の一望監視装置か、はたまた協力増幅機械か>

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2004 11/23
情報・メディア、情報社会学、コミュニティ論
まろまろヒット率4

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『宗教社会学のすすめ』 井上順孝著 丸善ライブラリー 200202.18.04


ARS ELECTRONICAで今年から”digital communities“部門ができることに注目している、
らぶナベ@何か情報をお持ちのかたいらっしゃれば教えてくさいな。

さて、『宗教社会学のすすめ』井上順孝著(丸善ライブラリー)2002年初版。
「まるで宗教みたい」とか「教祖的な」とかいう台詞はごく自然に使っているけど、
それって一体どういうことなんだろうと思って手に取ってみた一冊。
著者は宗教情報リサーチセンター(RIRC)や「宗教と社会」学会の設立などに関わっていて
既存の分野にとらわれずに積極的な研究をしている人なので書いたものも読みやすい。

内容はわかりやすく書かれているけど、読み止めて考えさせられる箇所も多かった。
例えば境界線上のものや人、過程が宗教的に禁忌(タブー)とされることが多いのは、
「境界領域はそれぞれの人間社会が築いている区分原理からはずれている」ので
両方に「不安をもたらす」からだという(第三章)。
確かに境界線上(マージナル)なものはそうじゃない(メイン)人にとって
自分の存在を曖昧にしてしまう禁忌な存在なんだろう。
マージナルものが好きな僕としては納得した。
きっと両方の存在を揺らがせるから楽しいというのもあるんだろう(^^)

また、スティグマ→自己スティグマ化→カリスマ化というカリスマ生成過程は、
負のレッテルからスタートするという点やマージナルのタブー性を考えると
すごく興味深いものだと感じた(第三章)。
最近「雰囲気とカリスマってどう違うんだろう?」と考えていたところだったので
特に面白く思ってしまった。(ただいま雰囲気に注目中)

最後の方に書かれてあった「情報化とグローバル化のもとでは
宗教と宗教でないものとの境界領域が曖昧になる」(第五章)というのにも納得。
まろみあんの方々も僕が「まろまろですかー!?」っと言い始めたらやばいと思ってください(笑)

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

○通事的と共時的の違い=変動分析と過程分析
<序章 現代人にとっての宗教>

○「特定宗教」=明確な組織をもった宗教、
「拡散宗教」=人々が無意識のうちに身につけた宗教的な感覚・行動
<第一章 身の周りの宗教社会学>

○宗教への態度を問題とするときは、自覚的信仰か無自覚的宗教性を区別する必要がある
と同時に宗教に関する出来事を議論するときは、対象のスケールを明確にすべき
<第一章 身の周りの宗教社会学>

○パーソンズの社会システムAGIL図式
・適応(adaptation)=外的ー手段的
・目標達成(goal-attainment)=外的ー目的的
・統合(Integration)=内的ー目的的
・潜在パターンの維持(Latency, Pattern-maintenance)=内的、手段的
・・・制度化された宗教は”L”に当たる
<第三章 全体社会と宗教>

☆境界領域や境界過程が宗教的に禁忌(タブー)とされることが多いのは、
それぞれの人間社会が築いている区分原理からはずれていので不安をもたらすから
(E・リーチ、メアリー・ダグラス)
<第三章 全体社会と宗教>

☆カリスマの定義=「特定の事物ないし人物のみに宿り、
非日常的な能力をもたらす天与の資質」(ウェーバー)
<第四章 宗教組織はどう形成され、維持されるか>

☆カリスマの生成過程=スティグマ→自己スティグマ化→カリスマ化(W・リップ)
負のレッテルで自己同一性が不安定→レッテルをプラスの要素へ解釈して強力な自己同一性
→周囲から新たな価値観の体現者とされる
<第四章 宗教組織はどう形成され、維持されるか>

○シャーマンが霊につかれるパターン
=脱魂型(エクスタシー・タイプ)と憑依型(ポゼッション・タイプ)
→どちらもシャーマンは忘我(トランス)状態に陥る(エリアーデ)
<第四章 宗教組織はどう形成され、維持されるか>

○「脱コンテキスト化」=教祖の言葉のコンテクストが失われて言葉だけが金科玉条化すること
<第四章 宗教組織はどう形成され、維持されるか>

☆情報化とグローバル化のもとでは宗教と宗教でないものとの境界領域があいまいになる
<第五章 現代社会と宗教問題>

○原理主義も原点主義も、一部の聖職者たちに占有されていた時代の終焉と表裏
<第五章現代社会と宗教問題>

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2004 2/18
宗教社会学
まろまろヒット率4

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