Archive for the ‘宗教学’







『日蓮―われ日本の柱とならむ』 佐藤弘夫著 ミネルヴァ書房 200312.29.06


宿坊に泊まってきた、まろまろ@17時に夕食で18時にはすでに布団がしかれていました・・・

さて、『日蓮―われ日本の柱とならむ』佐藤弘夫著(ミネルヴァ書房)2003。

日蓮宗(法華宗)の開祖・日蓮の伝記。
友達から誘われた宿坊が身延山久遠寺にあったので、久遠寺を開いた日蓮の伝記を読もうと手に取った一冊。

日蓮は鎌倉仏教の始祖たちの中でもとりわけ評価が難しい人物だ。
強烈な個性の持ち主で、戦後の新宗教などに見られるように現代にもその影響は強く残っていている。
そんな日蓮の生涯をえがいた本となるとなかなか難しいけれど、この本はこれまでの日蓮研究の先行研究を踏まえて、
できるかぎり事実に即して日蓮の足跡を再現しようとしている信頼性の高い研究書ということで読んでみた。

読んでみると、確かに多くの先行研究を比較しつつ持論を述べる姿勢は冷静さを感じると共に説得力があった。
中でも一番興味を持ったのは、「鎌倉での辻説法を裏付ける資料は皆無」としているところだ。
日蓮と言えば強烈な辻説法のイメージがあるけれど、「不特定多数の人々にやみくもに法を説いたというよりは、
知己のルートをたぐって一対一の対話を重ねながら着実に理解者を増やしていったというのが、この時期の布教活動の実態」、
「日蓮教団の教線は、これ以降も血脈と人脈に沿ってひろがっていく」としているのには興味を持った(第二章:立正安国の思想)。

もちろん、「比叡山での疎外感と孤独感が、日蓮を妥協のない一途な真理追究の道へと押しやったのである」(第一章:立教開宗への道)という部分や、
「共通点の多い天台と日蓮を隔てるものは、数々の体験に裏打ちされた、法華経を正しく読み切った人間は自分一人であるという強烈な自負」(第四章:佐渡の開眼)などのように、
日蓮の人生には終始その強烈な個性と主張が感じられるけれど、信者への細やかな手紙に見られるように、不特定多数ではなく、
自分の手の届く範囲の関係から広げていった姿は、これまでの日蓮のイメージとは違っていたので興味深かった。
(ソーシャルネットワーキング的と言ってもいいかもしれない)

ちなみにこの本は宿坊に行く前に読み始め、ちょうど行く途中の高速バスの中で読み終えた。
読書の直後に訪れた久遠寺では、年始の準備でくじ引きの看板が用意されていて、「二等:任天堂DS」という張り紙があった。
ちょっと安心するとともに時代の流れの残酷さも同時に感じたw

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2006 12/29
歴史、宗教、仏教
まろまろヒット率3
スピリチュアル

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『ムハンマドの生涯』 アンヌ=マリ・デルカンブル著、小林修・高橋宏訳、後藤明監修 創元社 改訂新版200304.30.06


らぶナベ@隠しページごはん日記を「まろまろごはん日記」として公式コンテンツ化しました。
隠しページ期間は実に3年にわたっていたのでちょっとした感慨です(*^_^*)

さて、『ムハンマドの生涯』アンヌ=マリ・デルカンブル著、小林修・高橋宏訳、後藤明監修(創元社)改訂新版2003。

イスラーム教の創始者ムハンマドの生涯をたどった一冊。
後半ではイスラームの法概念や慣習も紹介されているし、日本ではあまり見る機会の無い図版も使われている。
(ただ、監修者も書いているように誤解のある部分も少しあるので注意)

読んでみて興味を持ったのが、イスラーム歴元年に当たる622年のヒジュラ前後でムハンマドの役割や性格が変化している点だ。
もちろん地位が変わったという面も大きいけど、それにしても預言者としての宗教活動を中心にしていたメッカ時代と、
政治家としての役割も担ったマディーナ時代では、ムハンマド自身の性格もかなり変化しているように感じた。
たとえばクルアーン(コーラン)も、メッカ時代のメッカ啓示は短く詩的なものが多いのに、
マディーナ時代のマディーナ啓示の部分は長くて行政的なものが多いという大きな違いがある。
卵が先か鶏が先か、環境の変化か個人的な因子か・・・少し考えさせられた。

また、ムハンマドがウカーズの市場で、砂漠では金より言葉が価値があることを知ったというエピソードにも興味を持った。
ムハンマドの生きた時代は詩人が語る詩には霊鬼(ジン)が宿るとされて大きな影響力を持っていた。
その詩の力に影響を受け、自身でも活用したムハンマドのメディア戦略にも関心を持った。

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2006 4/30
歴史、宗教、イスラーム教
まろまろヒット率3
スピリチュアル

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『心にのこる禅の名話』 佐藤俊明著 大法輪閣 200404.07.06


お風呂好きなので温泉銭湯をめぐっている、らぶナベ@調べてみると東京には温泉銭湯が多くてびっくりです。

さて、『心にのこる禅の名話』佐藤俊明著(大法輪閣)2004。

禅の有名な公案や法話を紹介している一冊。
著者は曹洞宗の僧侶なので、曹洞宗のエピソードが多い。

中でも面白かったのが「貞鈞と夫婦喧嘩」という話しだ。
ある駄菓子屋の夫婦が「殺す」、「じゃあ殺せ」などの大喧嘩で一触即発になっていた。
通りかかった貞鈞和尚はその夫婦の店の駄菓子を店先にぶちまけて「お菓子のつかみ取りだ!」と子供達に呼びかけた。
慌てる夫婦に対して「女房は殺されるし人殺しの亭主は処刑される、
この世の別れに菓子をふるまって功徳を積むからありがたいと思え」と言い放って夫婦喧嘩を止めさせたという。
建前の衝突を本音の部分を突くことによって解消したエピソードとして印象に残った。

ただ、「禅問答」というくらいだから、全体的に理屈っぽく感じるものもあった。
禅の話は言葉や理論の空虚さを指摘するものが多いけど、それを言葉で伝えるというのは不可思議な感じもした。
思うに、言葉や文字にすれば何だって理屈になるのかもしれない。

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2006 4/7
宗教、仏教、禅(曹洞宗)
まろまろヒット率2
スピリチュアル ストーリー

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『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』 本村凌二著 岩波新書 200501.30.06


要望が出たのでMIXIでWEB遺書のコミュニティを立ち上げた、
らぶナベ@キーワードは「天国からもアクセス」→http://mixi.jp/view_community.pl?id=589241

さて、『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』本村凌二著(岩波新書)2005。

メソポタミアのシュメールからはじまって、エジプト、パレスチナ、ギリシア、ローマと、
実に四千年間を通して多神教から一神教への転換に注目した歴史書。
著者が言うように人類の文明は五千年で、そのうちの四千年は古代に分類されている。
その四千年間の古代人の心性に変化に踏み込もうとした意欲的な一冊。

読んでみると、一神教の誕生と普及にはアルファベット(表音文字)の誕生と普及が関係しているとしている。
一神教が台頭してくる紀元前1000年前後には、ちょうどアルファベットの普及、
古代のグローバリゼーションによる危機と抑圧という環境の変化があり、
そして神の声を失った人々の心性の変化(詳しくは本書(^_-))が、
一神教を受け入れる素地となってきたという主張をしている。

複雑化、多様化する文明はある時点から単純化に転じる傾向があり、
アルファベットという”技術”の普及がその原動力となった・・・
何か現代にも通じるものがあるような気がした。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○ひしめきあう神々のなかでもわが民の神を至高の存在とする意識と
少ない文字種であらゆることを表記しようとする意識とは底流ではつながっているのではないだろうか
→「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書)
<第3章 神々の相克する世界>

○言語とはいわば、この世の現実をなにか象徴的なもので置きかえて表現する方法
<第4章 敬虔な合理主義者たち>

○アルファベットの誕生と普及、危機と抑圧、神の声を見失った人々の心性が一神教を受容する土台になった
<第6章 普遍神、そして一神教へ>

○いわば複雑になるばかりの文明はある時点から単純化に転じる傾向がある
→なかでも文字の単純化とその普及は画期的で認識能力の革命
→あらゆる音声を記すことのできるアルファベットによって全能の神の姿が人々の脳裏に浮かんできても不思議ではない
<エピローグ 宗教と道徳>

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2006 1/30
歴史、宗教史
まろまろヒット率3

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『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 199201.17.06


修二と彰の振り付けを練習中の、らぶナベです。

さて、『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 1992

カリスマの研究書、めちゃ面白かった一冊!
内容は理論編(第2部)でカリスマ研究の歴史、各分野からのアプローチを押さえながら統合理論としてまとめ、
実例編(第3部)でカリスマとその信奉者たちの典型例を取り上げて、
結論(第4部)でカリスマとその信奉者たちとの相互作用は一体何なんなのか、その今日的な意味も含めて答えを出している。
理論の深さ、実例の迫力、結論の説得力、どれを取ってもカリスマの研究の決定版と言える本。

まず、すごいなと思ったのが膨大な先行研究を押さえていているところだ。
たとえば理論編では情念に焦点を当てた哲学者たちとしてヒュームやミル、ニーチェ(2章)、社会学としてのアプローチ、ウェーバー(ヴェーバー)とデュルケム(3章)、
催眠と群集心理学からのアプローチのメスマー、ル・ボン、タルド(4章)、精神分析学からのアプローチとしてのフロイト(5章)などの
カリスマ研究の背景やそれぞれのアプローチを総括しながら、
カリスマ的リーダーシップの病理性を強調する心理学的見解と、カリスマ的集団に積極的な価値を与える社会学的言説との対比をまとめて(6章)、
カリスマ精神の病いなのか、再社会化なのだろうかと問いの下で統合理論化(7章)をしている。

その次の実例編では典型的なカリスマとその信奉者たちの実例としてアドルフ・ヒトラーとナチ党(8章)、
チャールズ・マンソンとそのファミリー(9章)、ジム・ジョーンズと人民寺院(10章)を取り上げている。
著者は文化人類学出身なので、この実例編は本領発揮という感じでとても迫力があった。
ある人物がカリスマ的パーソナリティを持つことになってゆく過程、奴隷化しているのに自分は解放されていると思う信奉者たち、
そしてカリスマと信奉者の相互作用で生まれた集団のダイナミズムが展開し、崩壊していく様が克明にえがかれていて、
単純に生々しい読み物としても読み入ってしまった。
そしてシャーマニズムとの共通点を指摘しながら(11章)、結論につなげるという流れがとても綺麗。

結論(12章)では、現代のカリスマをよく指摘されるような芸能人やスポーツ選手にとどまるだけでなく、
カリスマ的な特徴を帯びた人間関係として、家族(観)とロマンティックな恋愛を挙げているのが面白い。
確かに実例編で出てきたカリスマとその信奉者たちは極端な事例かもしれないけど、
読みながらホストに入れ込む女性や、キャバクラ嬢に振り回される男性を思い起こしていただけに納得。
(実は自分自身の恋愛体験の中にも重ね合わさる面もあった(^^;)

人間関係がもたらす無我と交感の絶頂感(エクスタシー)は魅力的で、時には没頭してしまう。
コミュニケーションの快楽に耽溺する人の性向は決して特殊なものではなく、
人間の本質の一つなんだ、というこの本の主張は説得力があった。
(そこには集団のダイナミズムが生まれる源泉になる)

ちなみに、この本はインターネット普及以前に書かれたものだったので、
現在のネットコミュニティ内でのカリスマ出現に著者はどう思っているのか知りたかった。
また、理論編の第2部はけっこう面白いんだけど、理論的背景とかアプローチを退屈だと思う人は、
訳者が言っているように実例編の第3部から読んでも十分に面白く読めると思う。

以下はチェックした箇所(要約含む)・・・

○カリスマというものを理解するためには、カリスマ的人物の性格やそのカリスマ的魅力を個々の人間に受け容れやすくさせている諸属性を研究しなければならないばかりでなく、
同時に指導者と信奉者が相互作用をおこなっているカリスマ集団そのもののダイナミズムをも分析しなければならない
<第1章 序説>

○弱く空虚な人間は、服従することによって、ひとつのアイデンティティを、また力と意志という不可欠な幻想を手に入れることができる
→カリスマの信奉者たちは抑圧の中に解放されているという感覚を感じる (Hoffer 1951)
<第4章 催眠と群集心理>

☆自己の解体的幻想による同一化的経験こそが指導者に対する信奉者の愛、自我の境界が消失する超越的な愛の源泉
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○心理学者たちが指導者に焦点をあて、彼らの障害をもったパーソナリティを強調しがちであるのに対し、
社会学者たちは指導者の性格についてほとんど論じることなく、信奉者や彼らを取り巻く環境に関心をもつ
→心理学が信奉者のうちに病理性を見ようとするのに対して、
社会学者は信奉者が普通の人間よりも深い心理学的な生涯を病んでいるわけではないことを証明することに関心をもっている
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○カリスマに対しては大きく分けて二つのアプローチがある・・・
・精神分析学に由来するものでカリスマの感情的強烈さや超越的性格を認めはするが、それに対する価値判断を含み、指導者の個人的特長を過度に強調するもの
・社会学に由来するもので集団の重要性、共同体への参加が人々の願望の対象となりうることをよく認識しているが、
 しかし経験から情念を剥離させ、リーダーシップを閑却し、カリスマ的紐帯の根底にある無意識の衝動を軽視するもの
→どちらのアプローチもカリスマ的経験の一部を教えてくれるが全体ではない
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

☆自我がその価値を減ぜられ、アイデンティティの標識や対象とのきずなを剥奪されながら、それでもなお同時にすべての行為の唯一の正当化根拠とされるとき、
カリスマの啓示や帰依者の共同体的集団への没入によってあたえられる激しさや内的確実感は高度に魅力的
→このようにして高められた相互作用の形式は現実の社会構造に欠けている、交感の感情、エクスタシー的自己喪失、超越、信念をあたえる
<第7章 カリスマの統合理論>

☆カリスマ的な関わりへ導いていく諸条件について統合的図式・・・
・疎外された現代社会とナルシシズムの文化が結合して人々にカリスマへの没入を受容させやすくしている
・人格的アイデンティティを遮断することによって人々に自己喪失を用意させる思想改造
→いずれも人格的アイデンティティを脅かし、集団による個人の吸収を促進し、集団形成の指導者に対するエクスタシー的心酔を偏愛するように作用する、
 ある種の技法や社会状況がもつ人格解体的作用に対してまことに弱い存在として人間を描く
<第7章 カリスマの統合理論>

○ヒトラーという恐るべき事実に直面した歴史家や政治学者は、当然のことながら彼や彼の運動からその神秘的な要素を取りのぞこうとするから、
その結果として諸々の偶然の変数が結びつくことで彼に政権の掌握と維持が可能になったという事実を強調することになる
<第8章 「取り憑かれた従者」>

☆カリスマ集団の隠された目的は「成功」することではなく、経験することそれ自体
→だから外的脅威の圧力で集合体経験は強化される
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○(ナチスのSS訓練は)極度の疲労と苦痛、そして屈辱は、男たちの過去とのきずなを切断し、いかなる自律感覚も腐食させる効果を発揮した
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○社会変動が旧来のきずなを切断してしまったところはどこでも、補償としてのカリスマ運動を好む
<第9章 「愛こそわが裁き」>

○主観のうちに生じるエクスタシー的なトランスという変成状態の所有がシャーマニズムの中心
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆シャーマンの役割につくことは、現代においてカリスマとなることと同じく、アイデンティティ解体という初期局面から苦痛に満ちた自己再構成を経て、
他のもっと弱い魂たちを圧しつぶす潜在的な精霊をコントロールして顕在化させる能力をもった変身せる専門家としての再生へ向かう運動
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆カリスマ的啓示は、周縁に追いやられた集団を無視し抑圧してきた社会構造における弱き者の示威運動、反構造の契機、警告のコミュニタスとなる (Turner 1982)
→カリスマの形態は、いかなる社会にあっても、社会構造の中にそれがあらわれることで克服されなければなならい抑圧のタイプと程度を示す
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○逸脱せる集団とその指導者に精神的な変調をきたした者というレッテルを貼ることと、彼らが実際に狂気に落ち込んでいくこととの間には明確な相関関係がある
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆今日におけるカリスマの過剰なあらわれは、交感を求める人間の根源的な欲求を社会システムが満たしえないでいることの反映
→カリスマとその集団は、その暗さによってわれわれ自身が置かれているディレンマの輪郭をくっきりと縁どる影
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○非日常な無我の状態に到達することのできる一つの方法が、移ろいやすい気質をもったカリスマ的指導者という霊感喚起的な人物によって結合された集団に所属すること
<第12章 今日のカリスマ>

☆恋愛においては、カリスマにおいてと同じように、相手のうちへ自己を喪失することが縮小としてでなく、高揚、エクスタシー、自我の拡大として経験される (Chasseguet-Smigrel 1976)
→恋に落ちることは巨大な革命のエクスタシー感情と変革パターンを小規模で複製する集合運動の最も単純な形態 (Alberoni 1983)
→カリスマも恋愛も強烈な情動喚起的関係における自他の完全な同一化を要求するので同時並行することはできない
<第12章 今日のカリスマ>

☆カリスマとは、世俗的な世界の疎外と孤立の外部にあってそれと対立する根源的な超越の瞬間をもたらす直接的なエクスタシー経験
→無我と交感というモーメントは、われわれ人間の不可欠な条件の一部
→問題はそうしたモーメントがどのような形態をとるかということ
<第12章 今日のカリスマ>

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2006 1/17
カリスマ研究、社会学、心理学、社会心理学、文化人類学、宗教学、思想史、リーダーシップ論、政治学、組織論、コミュニティ論
まろまろヒット率5

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『日本の奇僧・快僧』 今井雅晴著 講談社現代新書 199512.25.05


大阪に帰ってみると久々にやしきたかじんをTVで見た、らぶナベです。

さて、『日本の奇僧・快僧』今井雅晴著(講談社現代新書)1995。

仏教史の専門家が、奇僧・快僧として評価されてきた僧たち、
道鏡、西行、文覚、親鸞、日蓮、一遍、尊雲(護良親王)、一休、快川、天海を取り上げている一冊。

読んでみて興味深かったのは、奇僧・快僧と呼ばれる人たちには共通項があると言っている点だ。
それは、1:力強さがある、2:アウトサイダーである、3:学問が深い、というもので、
いわゆる頼もしい知的アウトサイダーとしての存在感が庶民の人気を集めたと指摘している。

また、踊念仏の一遍はわかるとして、日蓮と親鸞も取り上げているのも面白かった。
この二人は現代では聖化、権威化しているけど、確かに奇僧の部類に入る僧たちだろう。
日蓮は一切の妥協を放棄したファイターであり続けたし、
非僧非俗(僧でもなく俗でもない)を自称した親鸞はまさにアウトサイダーだった。

だから僧が制度に組み込まれて俗化が進んだ江戸時代以降は快僧・奇僧が出現していないとして、
(南光坊)天海で終わっているところがこの本の特徴と言える。

生々しくて、まがまがしい、でも頼りがいがある知的アウトサイダーとしての
奇僧・快僧たちの魅力をちょっと感じさせてくれる一冊。

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2005 12/25
歴史、仏教
まろまろヒット率3

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『ペテロとパウロ』 小河陽著 講談社選書メチエ 200508.29.05


IBMのThinkPad-X31からPanasonicのLet`s note-CF-W4に代えた、
らぶナベ@レッツノー党なみなさん、どうぞよろしくお願いします(^_^)v

さて、『ペテロとパウロ』小河陽著(講談社選書メチエ)2005。

ユダヤ教の一分派だったイエス運動がキリスト信仰として世界宗教になる基礎を作った
原始キリスト教の二人のキーパーソン、ペテロとパウロの軌跡をたどった一冊。

伝道者の元祖としての二人の宣教戦略について知りたかったが、その記述は少なかった。
でも、限られた資料、特に聖典として後世の脚色が加わった可能性の高いものから、
実際の姿を導き出そうとする謎解き的なおもしろさを読んでいて感じた。
著者は神学者だけあって、理論構成や論理操作もおもしろく思えた。
(ただ、妙に文章に修飾が多いのも神学の特長か?)

英雄物語として脚色された部分を除いて見てみると、
実際のペテロはここ一番で逃げ出して泣いたりするし(イエスを見捨てる)、
パウロは会ってみると弱々しい印象で話がつまらないと評価されていた。
そんな二人が世界宗教への基礎を作ったというのはちょっとおもしろい。
「私は弱いときにこそ強い」というパウロの言葉の深さも感じた。

また、ペテロがイエスの弟子となる箇所では・・・
「彼は師となる人が示した律法についての造詣の深さに感銘を受けたのではない。
いや、むしろ伝統的な解釈や過去の権威にはまったく無頓着に、
それでいて彼らが子どものころから聞き知らされていた神について、神の掟について、
独自の解釈を自らの権威において語る、その言葉の力強さに圧倒されたのである」
・・・と著者が言っているのは、すべての新宗教帰依者に通じるものだろうと思った。

ちなみにペテロは復活、パウロは回心という神秘体験(ヌミノーゼ)を通して伝道者となった。
その神秘体験は実際はどういったものだったんだろうかと思った。
論理的に書かれたこの本の中でも、奥歯にものがはさまったような表現だったので、
余計にそのあやしさが目立っていて興味を感じた。

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2005 8/29
歴史、神学
まろまろヒット率4

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『蓮如―戦略の宗教家』 百瀬明治著 学研 200208.08.05


もろもろの事情から万博に行くことになりそうな、らぶナベ@オススメ教えてて下さいな。

さて、『蓮如―戦略の宗教家』百瀬明治著(学研)2002。

事業家としての蓮如にスポットを当てた一冊。
蓮如は人生の前半と後半ではまったく違う方針をとっている。
平等主義から血脈重視の貴族化へ、合理主義から神秘的な神格化へと転換した点は、
開祖親鸞の方針と全く逆でもあるので宗教家として批判も多いところだ。

でも、そんな方針転換をこの本では創業から守勢への戦略転換とみなして評価している。
確かに蓮如は事業家としての手腕が卓越していた点は争いの無いところだ。
たとえば当時の農村の自治的な「惣」を基本に宗教組織「講」を組み込んでネットワーク化させ、
個→個の手紙ではなく個→多のメディアとして「御文」を活用したメディア戦略などが特筆される。
特にこの「講」と「御文」は相互に連携して、
自律的な拡大を生み出した事業システムとして興味深い。

ただ、総じて結果論への後付け&持ち上げ過ぎな感じはぬぐえなかった。

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2005 8/8
歴史、宗教、経営
まろまろヒット率2

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『蓮如 夏の嵐』 岳宏一郎著 毎日新聞社 上下巻 199906.10.05


らぶナベ@芸術法セミナーにお呼ばれして世田谷ものつくり学校に行ってきました。

さて、『蓮如 夏の嵐』岳宏一郎著(毎日新聞社)1999。

すたれ気味だった本願寺を再興して、戦国時代の一向宗の勢力伸長と
現代に至るまでの浄土真宗の実質的な基礎を築いた蓮如を主役にした歴史小説。
特にこの小説では家督を継いで歴史の表舞台に登場した40代からを中心にえがいている。

読んでいて不思議だったのは彼は人生の中で二度も本拠地を焼かれて退避しているが、
その度に前よりも大きく復活している点だ。
その最大の原因は彼を支える信者(門徒)が支援したからと言えるけど、
蓮如は信者をおいてけぼりにして自分だけ財産を持って逃げたりしている。
そんな彼がなぜ信者の信仰を一身に集めることができたのか、
その過程や経緯をもっとえがいてほしかった。
(悪人正機だけなら他の真宗諸派も唱えていたことで別に蓮如じゃなくてもいい)

蓮如は教義としては親鸞の教えをゆがめているところもあるし
親鸞の血脈にこだわって貴族的な序列を明確にさせるなど、
実は親鸞が激しく批判した旧仏教的な体質を持ち込んだ人間でもある。
この小説の中でも蓮如が歴史上あまり人気がないのがよくわかる描き方をされている。

でも、そういう蓮如だったからこそ今に通じる基礎を築けたという見方もできる。
彼の人生には何の感動も覚えないけど、彼の功罪にちょっと興味を持った。

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2005 6/10
歴史小説、宗教
まろまろヒット率2

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『宗教経営学―いま注目の宗教法人のカネ・ビジネス・組織』 舘沢貢次著 双葉社 200406.07.05


ディズニーランドと宗教の違いが分からない、らぶナベです。

さて、『宗教経営学―いま注目の宗教法人のカネ・ビジネス・組織』舘沢貢次著(双葉社)2004。

金光教、生長の家、真如苑、立正佼成会、天理教、創価学会の
6つの代表的な新宗教への取材を通してそれぞれの教団経営を紹介する一冊。
僕は科学と宗教の違いは「種明かしをするかしないか」にあると思っている(技術と魔術の違い)。
だから種明かしをしない宗教の内部経営を取り上げるのはずいぶん挑戦的だなぁと思って読んでみた。

読んでみると、教団の歴史と活動の記述が多くて、実際の経営面の記述が物足りなかった。
各教団にかなり遠慮している部分も目についたが、どうせやるならもっと踏み込んで欲しかった。
また、そもそもその宗教がどうしてそこまで集客力のあるブランドになったのか、
その過程や秘訣をもっと書いてほしかった。
ただ、各新宗教の設立経緯や内紛などのざっとした教団史としては面白い。

読み終えて一番印象深かったのは、紹介されている宗教はどれも「平等」を唱えているけど、
そのほとんどの教主が世襲しているということだ。
実際には世襲してる団体が訴える「平等」に納得する信者が多数いるというのが興味深かった。
そこまで強いブランド力はいったいどこからくるのだろうか(^^;

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2005 6/7
宗教経営学
まろまろヒット率2

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