Archive for the ‘哲学・思想’





『信長』 秋山駿著 新潮社 199607.01.99

最近、文春文庫から現代日本文芸館シリーズとして
『李陵 山月記 檸檬 愛撫 他十六篇』という本が出版されたっす。
タイトルからもわかるとおり、これは中島敦と梶井基次郎の代表的短編を
一冊の文庫にまとめたという実に小憎ったらしい戦略の文庫本っす。
一冊の本にすると短すぎるけど手元にはおいておきたい作品を
うまく入れているという(僕なら『山月記』=中島と『檸檬』=梶井っすね)
この出版社側の意図に見事にハマってしまい自分用とプレゼント用に
二冊も買ってしまった、らぶナベ@ちなみに『檸檬』の舞台になった
あの八百屋さんはまだ京都に現存するらしいっす。

さて、『信長』秋山駿著(新潮社)1996年初版をば。
前々から様々なところで評価を受けていたので気になっていた歴史評論本。
実際に読んでみると評判以上の大作で大当たりの一冊!(^o^)
けっこうな分量がありその上小説ではなく評論という取っつきにくそうな
雰囲気を持った本だけどこれは読んでおくべきと断言できる本っす。

以下は具体的な内容・・・
主に『信長公記』を元にして織田信長の革新性や天才性を考察している本。
彼に対する評論や小説は多いがこれはひと味もふた味も違う。
「モデルを持たなかった真の創造者」という視点で信長の行動を追っていき、
その革新性や創造性を支えた精神とはいったい何だったのかということを
プルタークやヴァレリー、モンテスキュー、スタンダール、デカルト
などからの引用を多様しながら紐解こうとした実に野心的な評論。
「それは持ち上げすぎやろ」とか「ホンマかいな」という突っ込みは
いくらでもできるが、それが事実かどうかということよりも
いまを生きることの意味や時代を切り開く価値について考えさせられる
歴史書というよりは創造性や革新性を信長を通して考える哲学書的な本。
野間文芸賞や毎日出版文化賞をもらっているのも
そういう側面があるからだろう。

この本の中で僕がもっとも印象に残り、
かつ信長についてとても的確に表現していると思われる箇所がここ・・・
☆リアリストは、現実を掴む。しかし、単なるリアリストは、
現実を超えない。現実の方が彼より強いから。
したがって、根底からの新しい創造などというものは無い。
これに反して、非凡なリアリストは、現実を掴むと同時に、
もう一つの見えない手、現実否定の刃を持った手で、
これを撃つのである。現実を割る。
・・・したがって非凡なリアリストは、その存在の一端で絶えず、
無、というか、非現実なものに触れているはずである。
信長が好んだという「人間五十年・・・夢幻の如くなり」の詩曲は、
そんな彼の生の深処に木霊するものであったろう。
(第四項「行動のエピソード」より)

もう一つ・・・
☆「・・・行動を制するものは精神力である。
天分が芸術の領域で作品に独特の肌ざわりを創り出すように、
精神力は行動に活力と生命を与えるのである。
事業というものに生命の息吹きを与えるかくのごとき精神力の持ち主は、
結果の責任を一身に負う気魄の人である。
困難が精神力の人を引きつけるのである。
なぜならば、彼が自己を表現できるのは困難に立ち向かう時をおいて
他にないからである。困難に打ち勝つか否かは彼だけの問題である。」
(比叡山焼き討ちについてド・ゴールの『剣の刃』を引用して)
・・・というのはぞくぞくするくらいに納得できる。

さらにこの本の根幹である信長(革命家)と他の戦国大名
(例え優れていても単なる時代の追随者)との違いについて・・・
○信玄と信長とでは、戦争の方法が違う、あるいは、
戦争をする意味つまり原理が、違っているのだ・・・
信玄は、自分の家が大切な男だった。
・・・これに反して、信長は・・・いわば、生まれ育った場処の否定、
自分の家の否定、ということになる。
・・・天下、という観念、あるいは「天下布武」という思想は、
こういう自分の家否定、のところから出発する。
信玄にはこれが無かった。

○信玄や謙信の場合は、結局のところ、自分がそこに起って
生きているところの、現在の、日常生活というものが基礎になっている。
信長はそれとは反対のことをしている。彼の土台は、戦争である。
戦争は、自分を主人公にして場面を変化させるものだ。
あるいは現実を動かす。そういう戦争の精神が基礎であって、
日常生活はそこから割り出される。だから日常生活も改変される。

○彼等の誰一人として、「天下」などという観念を抱いてはいないのだ。
仮りに天下といっても、それは漠然たるイメージであって、
観念の明晰さを持っていない。
・・・彼等には、天下という理想が無かった。
仮りに彼等の一人に天下を与えてみよ。
何も為ることが思い浮かばず、ただ右往左往とうろうろするだけだろう。

・・・このようなことを展開をしながら・・・
☆反信長同盟には、中心がない。
力がそこから発してそこへと帰着する球心点を欠いている。
したがって統一がない。
これに反して、信長軍では各武将が、
一つの中心から各方面に一斉に放射される力のヴェクトルのように、
統一の形状を成している。
・・・信長軍は到る処で現状を改変しようとするシンボル、
生き生きと動く信長という、一つの理想があった。
それが統一の根拠となる。
・・・以来、十年ばかり、周囲はすべて敵であり、
天下の反信長勢を相手に、信長軍が、いわば孤軍奮闘することになる。
天下を(敵として)相対する信長軍は、何を以ってその重さを持ち堪えたのか。
それはやはりー天下布武、という理想だと考えていい。
(なぜ織田勢が長年敵勢に包囲されながら崩壊しなかったかについて)
・・・としているのは爽快感さえある。

また、このことに関連することで・・・
☆「人間は弱いがゆえに、目的に完全性を求め、弱いがゆえに、
精神がうっ屈するがゆえに、無限に願望をふくらませ、
自分の無力さをしっているがゆえに、偉大な行動に参加を求めるのである。
指導者は人間のこの曖昧模糊とした願いに堪えてやらねばならない。
この偉大さというダイナミズムを利用せずしては
なんぴとも人に自分の意志を強要することは不可能である。」
(比叡山焼き討ちや一向一揆との戦いになぜ信長の配下武将が
従ったかについてド・ゴールの『剣の刃』を引用して)

☆「暗澹たる、並々でなく責任の重い問題への只中にあって
みごとに快活さを保つといふことは、決して些細な芸当ではない、
とはいへ、快活さ以上に必要なものがどこにあらう?
・・・力の過剰こそ初めて力の証拠である。」
(信長の全行動についてニーチェの『偶像の薄明』を引用して)
・・・などの箇所が印象深い。

他にも・・・
☆野望は自己の肥大化であるが、理想は自己一身の献身を要求する。
野望はそれを抱いた人の死で熄むが、理想は抱いた人の死を超えて生きる。
理想は、天下布武というようなものでなければならぬ。
偉大な将帥の本質とは何であろうか。
それは理想を、己の精神の内密の秘密と化し、
己の日常の生の波動と化している人のことだ。
理想を一秒の休みもなしに刻々の火と化している精神力の人のことだ。
戦術の巧妙とか戦術眼の確かさなどは、佐官クラスの器量に過ぎぬ。
(長篠の戦いで優れた人物とされた武田勝頼が挫折したことについて)

☆「カエサルは多数の成功を収めたが、天性大事業に対する名誉心が
強かったために、骨を折つて果たした仕事を味はふ気持ちにはならず、
それらが将来の仕事に対する燃料と自信を与え、
一層大きな事業に対する計画と名声に対する欲望を生じ、
現在の名声は用が済んだものと見て、自分自身の功績を他人の功績のやうに
考へて絶えずそれを凌がうとし、既に果たした仕事を向ふに廻して
将来の仕事に抱負を懸けた」と『プルターク英雄伝』を引用して・・・
独創の人の戦争は、実は、その始源は自分との戦争から始まる。
彼は、絶えず間断なく、かつて在った自分、そこに在る自分を、
乗り越えようとする。
(本能寺の変直前の信長について)

☆「剛胆とは、大きな危難に直面した時に襲われがちな胸騒ぎ、狼狽、
恐怖などを寄せつけない境地に達した、桁はずれの精神力である。
そして、英雄たちがどんなに不測の恐るべき局面に立たされても
己を平静に持し、理性の自由な働きを保ち続けるのは、この力によるのである。」
(本能寺での軽装備について『ラ・ロシュフーコー箴言葉』を引用して)

☆「彼らが殊に注意して糺明するのは、どういふ点でその的は自分たちより
秀れているのだらうかといふことだつた。
そして、まづそれを自分のものにした。
・・・戦は彼らにとつて一つの考察であり、平和は実習だつたのである。」
(美濃攻略の過程をモンテスキューの『ローマ人盛衰原因論』から引用)

☆「天才とは己が世紀を照らすために燃えるべく運命づけられた流星である。」
(「本能寺の変」でスタンダールの『ナポレオン』を引用して)
・・・などはしっかりとメモを取る価値のある箇所だろう。

以下はこれら以外で気になった箇所の抜粋・・・
○戦闘において、自分の軍勢を敵より常に到る処で二倍にすることにあった
(スタンダールがナポレオン戦法について述べたことを引用して)

○二千の兵を、無意識に義元と妥協しているような人々から切り離して、
何処へ往ってもいいような一個の流動体と化して行動させた
ーそこに合戦の鍵があった、と思う。
(桶狭間の戦いの革新性を述べて)

○なるほど、われわれにとっては町を歩きながら「瓜をかぶりくひ」
するのは、普通の行為普通の光景だろうが、そこに信長が参加すると、
あるいは信長を中心にそれが行われると、異なった光景が出現する・・・
・・・信長が、新しい世界異なった世界へ入っていくのではない。
単身先頭をきって駆ける信長が、常に到る処で、自分の周囲に、
新しい世界異なった世界を出現せしめているのだ、と。
(「うつけぶり」から彼の革命性を読みとって)
              ↓
○「強気にしろ、弱気にしろだ、貴様がさうしている、
それが貴様の強みぢやないか」
(ランボオの『地獄の季節』から引用して)

○剛毅な心だけが、人の精神をリードして、新しい現実を創り出させるのだ。
(尾張統一戦での信長の苛烈な戦いぶりをスタンダールを引用して)

○発進する思考と、考え込む思考との違いがある。
この信長の行動と見えるもの、実は、
それが「剛毅な心」というものの表現なのであり、
あるいは、そこから発する思考のスタイル、といってもいいものだ。
・・・その思考の尖端に居座っているのは、現実そのものの真と偽を、
厳しく弁別、検証する力だ。
・・・現実の真偽の弁別を、いったい何がするのか、ということだ。
(疑問を自らの行動で確かめようとする傾向を指して)

○自分の家を捨て、いわば城も捨て、ことによったら「死のふは一定」で、
自分さえ捨てることのできる信長が相手だと、勝ったところで・・・
戦争の採算が取れぬ・・・これは危険な男だ。
(なぜ信玄が強大化する前に信長を討とうとしなかったかについて)

○「言葉固有の目的は、聞く人に信念の念を起こさせることにある」
(斉藤道三が信長を信じた根拠についてプルタルコスからの引用して)

○「諸君は、幸福の一致ばかり説くが、しかし誰も、
不幸を一致しようとは言わぬではないか」・・・「友」とは何か
ーそれは、不幸と死を、一致する相手のことである。
(信長と家康の関係をトゥーキュディデース『戦史』から引用して)

○「余は恒に二年後のみに生きて居る。
かういふ男に取つては現在といふものが存在しなかつたのだね。」
(このようなことをヴァレリーの『固定観念』からの引用して)

○これは見られる所のものを、見られる所のものに、
形と運動に還元することではないのか。
(上洛後の行動についてヴァレリーの『オランダよりの帰途』から引用)

○自己から発しての一尺度の創造。これが信長の本質である。
(貨幣統一と宗教宗論を起こした原因について)

○危急の瞬間、人は三十分もあれば最高の判断を下す。
(浅井長政の離反時の信長の行動について)

○「難局に立ち向かう精神力の人は自分だけを頼みとする。」・・・
「英雄とは、自己を信じるといふ道を選んだ人間でなくして何であらう。」
(比叡山焼き討ちについてド・ゴールの『剣の刃』、
アランの『デカルト』からそれぞれ引用をして)

○自分の心のかたちになぞらえて他人の心理を読む者がいる(信玄)。
人間通である。が盲点がある。
よく似た心が隣接すれば必ず反撥するということに。
自分が人とはまったく異なった生き物だと思うゆえに、
人間機械でも洞察するように他人の心理を読む者がいる(信長)。
これも人間通であるが盲点がある。
洞見されたと知ることによって変態してしまうほど、
人の心は不合理なものであることに。
(信玄、信長それぞれの人間観について)

○「最も簡単なものが通常最もすぐれたものである」
(鉄船の発明についてデカルトを引用して)

○信長の武辺道には、単に現実の局面その場その場での、
勇猛心や憶隠の情の発揮だけではなく、戦争における行為の一貫性、
あるいは生の態度の明晰さ、というものが必要であった。
(反乱を起こした荒木村重の武辺道と信長の武辺道との違いについて)

○第一。ふと好奇心を発したら、直ちにそれを確かめる。
・・・第二。信長の精神の内部にあっては、精神のもっとも高級な問題と、
これとは対極的なもっとも日常的な現実の些細事とが、
見えない直線で直結している。
・・・第三。徹底性、あるいは完結性。
(信長の日常の態度から彼の精神の三つの面を割り出して)

○もし、信長が、単なる大軍の軍司令官だとしたら、
かなり以前に石山本願寺という本拠を撃滅しただろう。
しかし、こんな「本拠」の撃滅は、相手が宗教戦争を仕掛けてくるのでは、
たいして意味がない。
相手の「中枢」を撃たねばならぬ。中枢とはこの場合、
対信長戦争の無意味化であり、朝廷の斡旋による和睦の成立にあった。
(なぜあれほど激しく戦った本願寺を撃滅せずに和睦したかについて)

○なるほど、時間の余裕があれば、光秀の態度は賢明であろう。
まず言葉を発し、用意してから、行動に移る。
だが火急の一瞬、信長は恒に、言葉より前に行動を発した。
行動こそが言葉であった。
(信長を倒した光秀がなぜあれほど早く滅びたかについて)

・・・ふぅ、この本とにかく価値ある大作です。

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1999 7/1
歴史、エッセイ、哲学
まろまろヒット率5

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『君主論』 マキアヴェッリ著、河島英昭訳 岩波文庫 199805.27.99

「チェキッ娘」の人数がわからなくて迫り来る年波を感じてしまう、
らぶナベ@そういえば「YURIMARI」の見分けもできないっす(^^;

さて、今回はけっこうな大著なのでいきなり本題をば・・・
『君主論』マキアヴェッリ著、河島英昭訳(岩波文庫)1998年第一版発行。
さとまん教授から「『君主論』にすごく良い新訳が出た」と聞いたので
いまさらながら読んでみようと思った古典の名著。
っというか一度はきっちりと精読しておかないといけないだろう本。
実際に新訳を読んでみるとそのそつの無さを感じた、一読の価値あり。
昔から様々な批判を浴びている本でありながら
いまだに読み継がれているという事実がこの本の価値を物語っているだろう。
ちなみにさとまん教授とT教授によると政策科学部生にとって
本質的な点でもっとも重要なものはこの本に出てくる、
「virtu」(この訳者は「力量」と訳している)らしい。

さて、内容の方はこの本自体が古い時代の古典だということに加えて
著者のマキアヴェッリ自身もダンテの『新曲』の影響を受けまくっていて
よくわからない比喩や回りくどい言い方をして書いているので
理解に苦しむ箇所がかなりある。
それに対して訳者は様々な資料を洗い直して
原典(主にカゼッラ版)への独自の考察を元に新訳をしている。

特に訳者の見解としてこの本の構成を・・・
『君主論』
前半<君主政体論>
(その一)第一章ー第十一章
(その二)第十二章ー第十四章
後半<君主論>
(その一)第十五章ー第二十三章
(その二)第二十四章ー第二十六章
・・・と前半と後半に分類しているのは非常に興味深い。

以下の「○」はチェックした項目、
「☆」は特に重要であると思われた箇所・・・

第三章:複合の君主政体について
○「戦争を避けるために混乱を放置してはならない」

第四章:アレクサンドロスに征服されたダレイオス王国で、
アレクサンドロスの死後にも、その後継者たちに対して
反乱が起きなかったのは、なぜか
○「(君主政体の違いについて)一つはひとりの君主と
他はすべてが下僕である者たちによって治められる方法・・・
いま一つはひとりの君主と封建諸侯たちによって治められる方法」

第五章:征服される以前に、固有の法によって暮らしていた
都市や君主政体を、どのようにして統治すべきか
○「獲得された諸政体が、固有の法によって自由に生活するのに
慣れてきたものであるときには、支配を維持するための方法は三つある。
第一は、これらを壊滅させること。第二は、みずからそこへ移り住むこと。
第三は、固有の法によって暮らすのを認めながらも、
内部にあなたと密接な関係を保つ寡頭政権を確立し、
租税を取り立てること。」

第六章:自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について
☆「新制度の導入者は旧制度の恩恵に浴していたすべての人びとを
敵にまわさねばならない。・・・そして新制度によって恩恵を受けるはずの
すべての人びとは生温い味方にすぎない・・・この生温さが出てくる原因は、
一つには旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のためであり、
いまひとつには確かな形をとって経験が目のまえに姿を見せないかぎり、
新しい実態を真実のものとは信じられない、人間の猜疑心のためである。」
              ↓
☆「したがって、これら改革の側に付く者たちが自分の力で立っているのか、
それとも他社の力に依存しているのかを、
すなわち自分たちの事業の遂行にさいして、彼らが祈っているだけなのか、
それとも実力を行使できるのか、仔細に検討しておかなければならない。」

○「ここから生まれてきた事実によれば、軍備ある予言者はみな勝利したが、
軍備無き予言者は滅びてきた。・・・人民は本性において変わりやすいので、
彼らを一つのことを説得するのは容易だが、
彼らを説得した状態に留めておくことは困難であるから。」

第九章:市民による君主政体について
○「賢明な君主は、いついかなる状態のなかでも、
自分の市民たちが政権と彼のことを必要とするための方法を、
考えておかねばならない。
そうすれば、つねに、彼に対して彼らは忠実でありつづけるだろう。」

第十二章:軍隊にはどれほどの種類があるのか、また傭兵隊について
○「すべての政体が・・・持つべき土台の基本とは、
良き法律と良き軍隊である。」

第十四章:軍隊のために君主は何をなすべきか
○「精神の訓練に関しては、君主は歴史書を読まねばならない。
そしてその内に卓越した人物たちの行動を熟慮し、
戦争のなかでどのような方策を採ったかを見抜き、
彼らの勝因と敗因とを精査して、
後者を回避し前者を模倣できるように勤めねばならない。」

第十五章:人間が、とりわけ君主が、
褒められたり貶されたりすることについて
☆「いかに人がいま生きているのかと、
いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常に隔たりがあるので、
なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、
自らの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。
なぜならば、すべての価値において善い活動をしたいと願う人間は、
たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。」

○「悪徳からも、可能なかぎり、身を守るすべを知らねばならないが、
それでも不可能なときには、さりげなくやり遣り過ごせばよい。」

第十六章:気前の良さと吝嗇について
○「賢明であるならば、君主は吝嗇ん坊の名前など気にしてはならない。」

○「奪い取らないことによって、
無数に近い人びとのすべてに気前の良さを示し、また与えないことによって、
少数の人びとのすべてに吝嗇を行使することんある。」

○「君主たる者は・・・吝嗇ん坊の名前が広まるのを・・・
いささかも気にしてはならない。
なぜならばこれを彼をして統治者たらしめる悪徳の一つであるから。」

☆「その君主は自分のものや自分の臣民のものを費やしてきたのか、
それとも他人の所有物を費やしてきたのか。
第一の場合ならば、控え目にすべきである。
第二の場合ならば、いかなる形の気前の良さも惜しんではならない。」

○「気前が善いと呼ばれたいばかりに、憎しみにまみれた悪評を生み出す
強欲という名前へ陥ってゆくよりは、
むしろ憎しみの混ざらない悪評を生み出す吝嗇ん坊という名前を
身につけてゆくほうが、はるかに賢明なのである。」

第十七章:冷酷と慈悲について。
また恐れられるよりも慕われるほうがよいか、それとも逆か
○「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、
恐れられる存在にならねばならない。」

第十八章:どのようにして君主は信義を守るべきか
○「闘うには二種類があることを、知らねばならない。
一つは法に拠り、いま一つは力に拠るものである。
第一は人間に固有のものであり、第二は野獣のものである。」
            ↓
☆「君主には獣を上手に使いこなす必要がある以上、
なかでも、狐と獅子を範とすべきである。
なぜならば、獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないからゆえに。
したがって、狐となって罠を悟る必要があり、
獅子となって狼を驚かす必要がある。」

○「君主たる者に必要なのは、先に列挙した資質のすべてを
現実に備えていることではなくて、
それらを身につけているかのようにみせかけることだ。
いや、私としては敢えて言っておこう。
すなわち、それらを身につけてつねに実践するのは有害だが、
身につけているようなふりをするのは有益である、と。」
            ↑
○「あなたの外見をだれもが目で知ってはいても、
あなたの実態に手で触れられるのは少数の者たちだけであるから。」

第十九章:どのようにして軽蔑と憎悪を逃れるべきか
○「陰謀に対して君主がなすべき最も強力な手当の一つは、
大多数の人びとから憎まれないことである。」

第二十章:城砦その他、君主が日々、政体の維持のために、
行っていることは、役に立つのか否か
○「君主たちが既存の政体を新たに征服したさいに、
その政体の内部にありながら支持してくれた者たちがいたときには、
自分を支持してくれた者たちがいかなる理由で支持に踏み切ったのかを、
よく考え直して、思い返す必要があるということだ。
そしてその理由が、自分たちに寄せられた自然の敬愛のためではなく、
単に彼らが元の政体に満足していなかったためだけであるならば、
彼らを味方にしておくことは困難であり到底かなわぬであろう。
なぜならば、彼らを満足させることは不可能であるゆえ。
・・・満足していないがために、相手の味方について、
それまでの政体が征服されるのに力を貸したがごとき者たちよりも、
以前の政体に満足していたがために敵対した者たちのほうが、
己の真の味方になることは、はるかに容易に看て取れるであろう。」

第二十一章:尊敬され名声を得るために君主は何をなすべきか
○「旗幟を鮮明にする態度は、中立を守ることなどよりも、
つねに、はるかに有用である。・・・勝ったほうには、
逆境のなかで助けてくれなかった疑わしい味方など、要らないし、
負けたほうには、武器を執って自分と運命を共にしたがらなかった、
あなたのことなど、受け容れられるはずもないから。」

☆「慎重な心構えとは数々の不都合の特質をよく見分けて、
最悪でないものを良策として選び取ることにある。」

第二十三章:どのようにして追従者を逃れるべきか
☆「良き助言というものは、誰から発せられても、
必ず君主の思慮のうちに生まれるのであり、
良き助言から君主の思慮が生まれるものではない。」

第二十五章:運命は人事においてどれほどの力をもつのか、
またどのようにしてこれに逆らうべきか
○「運命がその威力を発揮するのは、人間の力量がそれに逆らって
あらかじめ策を講じておかなかった場所においてであり、そこをめがけて、
すなわち土手や堤防の築かれていない箇所であることを承知の上で、
その場所へ、激しく襲いかかってくる。」

○「私としてはけれどもこう判断しておく。
・・・慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。
なぜならば運命は女だから・・・
そして周知のごとく冷静に行動する者たちよりも、
むしろこういう者たちのほうに、彼女は身を任せるから。
それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。」

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1999 5/27
政治学、心理学、リーダーシップ論、哲学
まろまろヒット率5
心理学 キャリア

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『ミシェル・フーコー』 フレデリック・グロ著、露崎俊和訳 文庫クセジュ 199811.19.98

らぶナベ@愛すべきは自らの中にある狂気といった感じだね(^^)

『ミシェル・フーコー』フレデリック・グロ著(文庫クセジュ)を読んだです。
卒論は参加観察によって自分自身の行動を研究対象にするということを
吉本プロジェクト責任者のT教授に話していると、
「それならポスト・モダンの流れも一応押さえていないと説得力に欠けるぜ。
文庫クセジュからフーコーの一番良い入門書が出たんだよ!
ぜひ読んで一度見ろよ!!」と強力に推薦されて読んだ本。
予想通りというか案の定というか、
まさに負から始まり負に帰結するといった感じの本。
一変の明るさも希望も感じられないが
分析や思考というものは基本的に負に属するものなのだろう。
(その段階で完結しているだけではいけないんだろうけど)

この本の中で僕がもっとも注目したところは
フーコーが狂気にスポットを当てている箇所だ。
彼の主要著書の一つ『狂気の歴史』の中で述べられている・・・
「『愚神礼賛』を執筆するエラスムスのユマニスムにおいて、
あるいはモンテーニュの懐疑的な思弁において、
狂気はもはや奇想めいた変貌をこうむるべきものと
夢想された世界との関係においてではなく、
理性との関係において捉えられる。」
「狂気の実の置き場は、ここにいたり人間が自己自身と交わす
論争という地平に限定されてしまう。叡智の教訓もその点に位置づけられる。
すなわち、狂気のかけらもないところに、思慮分別のある理性はない。」
・・・という箇所には妙に惹かれた。
そして「自らの狂気と向かい合ったものが真の思慮分別を知る」
とも解釈できるこの記述は僕にとって一つの答えを与えてくれたように
思える。時々、安っぽい社会慣行や狭い道徳観念に凝り固まって結果として
本末転倒な指導を子供に課している親や小・中教師などを
見かけることがあって彼らに対して昔から僕は昔から不思議さと
哀しさが合い混じった複雑な思いを持っていたんだけど。
(自らの親に対してもそう)
彼らは彼らの理性の寄るべき場所を自分の外部の規範や教義などに
完全に依存するだけで自らの狂気と向き合ったことは無いのだろう。
だから例え実際とは隔離していようが狭い範囲だけの慣行に
固執することにもなるのだろう。

そう考えてみると『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマである
「人は心の拠を失ったとき何に頼れば良いのか?」というものについての
答え、僕自身がリーダーとして今までの慣行とは相容れない決断を
あえておこなう時に「何を基準に判断すれば良いのだろうか?」
という問いに対する答えは「自らの中にある狂気を拠とする」
というものにもなるのではないだろうか。
自らの狂気と向き合った人間こそが思慮分別、判断というものを本当に
自分自身のものとして捉え確信を持って実行することができるのだろう。
そういえば『蒼天航路』第14巻(モーニングKC)で曹操が文醜に対して
「おまえという人間を武と智で割ればきれいに割り切れて残るものがない。
おまえたちには心の闇がない」と言い放つシーンがあるけど
これは上述ようなことにも通じるところだろう。

以下この本でその他に目に付いたところ・・・
・『臨床医学の誕生』の中で・・・
「歴史的にみて、もろもろの人間科学は人間みずからの否定=陰画を
検証するという経験のうちに、その出現の条件を見いだしてきた。
人間をめぐる諸科学の実定的真理は、
ゆえに崩落の地点にその基礎を据えられている。」

・権力と法について・・・
「フーコーにとって、権力は所有されない。権力は行使されるのである。」

・『談話と著述』の中の統治について・・・
「国王のイメージは用心深く、気難しい牧人(司牧者)として指示される。
フーコーが古代オリエント社会に範を見いだされるこの権力類型は、
またキリスト教による魂の統治を特徴づけるものでもあり、
ギリシアにおける都市国家の統治とは峻別される。」

・最後に著者が結論的に・・・
「哲学は、われわれを再発見するすべではなく、
われわれを新たに創出するすべをあたえる
もろもろの物語を構築することができる。
形而上学の諸体系はもろもろの政治的虚構に場を譲るのである。」

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1998 11/19
哲学
まろまろヒット率4

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『薔薇の名前』 ウンベルト・エーコ著、河島英昭訳 東京創元社 上下巻 199010.15.98

[Dokusyo-Kai]“IL NOME DELLA ROSA”
らぶナベ@ようやく下巻が図書館に帰ってきたので読めた~!(^o^)
(ずっと気になってうずうずしていたのですっきりした)

『薔薇の名前 上・下』 ウンベルト・エーコ著、河島英昭訳
(東京創元社)をようやく読み終えました。
著者は元々トマス・アクィナス研究(高校世界史を思い出すな(^^))
をしていたけど今では記号論で有名な学者さん。
それなのに小説を書いてしまい、
それが大ベストセラーになってしまったというちょっとめずらしい人。
(最新作『フーコーの振り子』が書店に並んでいる)

話の内容は14世紀始め(中世からルネサンスへ移行しようかという時期)
のイタリアのある修道院で次々に起こる連続殺人に対して
それを解明しようとするフランシスコ派修道士ウィリアムと
その弟子アドソの視点を通してえがかれている「推理小説」。
この本はウィリアムの弟子、少年アドソがこの事件のずっと後になって
自分の人生が終わろうとする時期に書き残した書物で
それをたまたまウンベルト・エーコが発見したという前書きで
始まっているがこれはどうもうさんくさい(^^)
(14世紀に書かれた割にはあまりにも現代的な感性が読みとれる)

物語の期間はわずか一週間で修道院の中をうろちょろと探検して推理する
二人のお話が中心なのだけれどその中で出てくる異端派の弾圧風景、
教会と世俗の対立(当時アナーニ事件に始まる教会分裂時代の真っ最中)、
当時は高価であった書物を求めることや残すことの労力などは
一つの歴史小説としてだけでみてもとても興味深く読みとれた。
特に主役であるウィリアムが坊さんのくせにやたらと科学的なアプローチ
(当時イスラーム圏から導入されつつあった化学、医学、幾何学など)
を扱いながら真実に近づいていく姿にはカッコ良さを感じた(^_^)

基本は推理小説であるのであまり話の展開にそって書き表せないんだけど
この本には単なる推理小説に留まらない
非常に深い要素がちりばめられている。
この本を通して僕が強く感じるのは神学と哲学、神秘と科学との葛藤
(開き直っているように見えるウィリアムでさえ感じている)。
すべての学問の元となる好奇心、知識欲、真理に近づきたいと思う欲望。
書物を読むということの意味と危険性。
・・・そうしたものが生々しく感じられた。
推理小説という入りやすい割にとても難解なテーマを扱っているという
そういう意味ですばらしく「良い」本。
この本に関してさまざまな解説、関連本が出版されているのにもうなずける。

ちなみに以前ショーン・コネリー主演でこの小説が映画化されたんだけど
それは単なる変態映画のようなイメージを受けたのは僕だけだろうか(^^;
確か関学KSCのあっちゃんがこの本について論評を書いていたはずなんだけど
それ読みたいのでアップしてくれないっすか?

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1998 10/15
小説、歴史、哲学、神学
まろまろヒット率5
ベストセラー

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『自省録』 マルクス・アウレリウス・アントニヌス著、神谷美恵子訳 岩波文庫 195602.05.98

ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(相変わらず長い名前!)
が自らの行為、感情について自省するために記述したと思われる本。
元々人に見せるためのものではなく、自らの反省と励ましに
記述したものなので「どうしてそういう考えにいたったのか?」という
個々の前後関係や背景が全く書かれてない。
また、欠落している箇所や読み方不明の箇所も多い。
そのためにこの本は一見、単なる教条主義的説教本に見えてしまう。
これは僕がやりたい参加観察としての視点から見れば決定的な欠陥になるが、
彼自身が内的人格と向き合うために使った言葉や表現は
その背景が不明確でも何か心打つものがある。
この本の中で「君」と呼びかけている箇所は実は自分自身に投げかけている
言葉だということ、強大な権限と責任を常に意識しながらも自らの力量の限界
と理性の破綻を必死で止めようとした葛藤は十分に伝わってくる。

たとえ一冊の本として完全ではなくても、卒論で参加観察を書く僕にとっては
パックス・ロマーナを築き上げた五賢帝最後のローマ皇帝として
執務に奔走しながらストア派哲学者としての視点から自らの行動を見直し
記述したこの本は非常に興味深いものだ。このような彼の姿勢は学ぶ点が多いと思う。
ちなみにほとんど意味も分からない点も多いこの本の中で
僕の心をどこかしらとらえてしまった記述を・・・
「遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは
君を忘れてしまうであろう。」
「行動においては杜撰になるな。会話においては混乱するな。
思想においては迷うな・・・人生におていは余裕を失うな。」
ところでこうやって誰にも見せないように影でこそこそ文字を
書きながら自分を励ましたり反省したりと
・・・彼ってけっこう性格暗いんとちゃうん?(笑)

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1998 2/5
エッセイ、哲学
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『日本の弓術』 オリゲン・ヘリゲル著、柴田治三訳 岩波書店 198201.25.98

昭和初期に日本に来たドイツの哲学者が日本の弓術の稽古を通して、
その無意味性(射撃をやった方が実戦的)と非合理的な練習方法に
戸惑いながら一見、無意味で非合理にみえるものの中から理性、
理論的なアプローチからでは接近しきれない「もの」へのアプローチを
会得していった過程を、懐かしみながら振り返って記述している一冊。
合気道と産学協同プロジェクトという共に二律背反的な要素を
含んでいるものを続けている僕には非常に興味深かった。

「血なまぐさいことに使われなくなって初めて、その精神を完全な
精浄さのうちに培うことも、付随した目的に惑わされずにそれを
十分に引き立たせることも、可能になって来た。」
「弓術は、弓と矢を持って外的に何事かを行おうとするのではなく、
自分自身を相手にして内的に何事かを果たそうとする意味をもっている。」
と、言う記述は弓道、剣道、合気道など日本の武道に通じる点だと思う。
ただ体を鍛えたいとか(相対的に)強くなりたいというものを
満足させるものではないから。

「射手の自分自身との対決とは、射手が自分自身を的にしてしかも
自分自身を的にするのではなく、すなわち時には自分自身を射中てて
しかも自分自身を射中てるのではないということであり、したがって
弓術を実際に支えている根底は、底なしと言っていいくらい無限に近い。」
という点は、言葉ではとても矛盾してみえるが稽古を通していれば
イヤというほど感じさせられるものだ。
これが理解というよりも実感の世界の話になるのだろう。

「日本人にとては、言葉はただ意味に至る道を示すだけで、意味そのものは、
いわば行間にひそんでいて、一度ではっきり理解されるようには
決して語られも考えられもせず、結局はただ経験したことのある
人間によって経験されうるだけである。」
「日本人の論述はその字面だけから考えるならば、思索になれた
ヨーロッパ人の目には・・・幼稚に見える。ところが日本人は逆に、
ヨーロッパ人の考えには・・・直観に欠けている、と考えるに違いない」
というのはかなり極論しすぎているような感じはするけど、
当時のヨーロッパ人と日本人との思考的アプローチの違いについて
彼自身が武道の稽古を通して実感した正直な感想なんだろう。

「内的発展の先を越さず物事をいわばその自然の重力に委ねる忍耐である。」
っていうのは非合理性の中の合理性ってやつっすね。
よく僕も道場の師範からこれに似たことをやってもらっている(^^)
「体験でしか理解できないものを言葉で説明することができようか?」
という著者自身がこの本を書くときに感じた葛藤は実は
吉本興業プロジェクトを通じて木村常務やT教授、
そして僕自身が感じている葛藤でもあるんだろう。

これはとても短い本だけどヨーロッパ人の言葉による理解と、
日本人の経験による会得という根本的な差異に戸惑いながらも
理解しようと賢明に試行錯誤する著者と弓術師範の姿勢が感動を呼ぶ一冊。

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1998 1/25
文化論、哲学
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『ナニワ金融道』 青木雄二著 モーニングKC(全19巻) 199108.10.97

前々から機会があれ読みたいと思っていたので
たまたま所有していた友人から借りた漫画。
今まで自分がいかに手形、賃貸などの契約一般について無知か
痛感させられた。ひじょうにためになる一冊!!
これをきっかけにもう少し商法を学ばねば!

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1997 8/10
経営学、哲学、商法、マンガ
まろまろヒット率4
法務 キャリア

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『知的生活』 P.G.ハマトン著、渡部昇一訳 講談社学術文庫 199102.06.97

前々から関学KSCの服部から強く奨められていた一冊。
ようやく紀ノ国屋で見つけたので読んでみた。文字のポイントが
小さいのに550ページ以上もあったために読破するのに
だいぶ時間を取られたが、服部の異常なモティヴェーションの高さの秘訣を
盗んでやろうと思って読んだのでなかなか楽しかった。
欧米では昔から有名な作品らしく、関連書も多いようだ。
19世紀に書かれたものなので、中には心情的にも理性的にも
受け入れがたい話もあったが、示唆に富んだ本であることは確か。
特に第四章「時間について」での、「成功のこつは、
もっともシンプルな曲を選び、情感の表現に、
本当に必要ではない難しいテクニックはすべて避けることだ。」という言葉。
第十章「知性の衛生学」でのゴールトンが旅について語った
エピソードを元にした「仕事の道程を楽しむべきであって、
仕事が終わることばかり心待ちにすべきではない」と忘れやすい教訓を
語るところは印象に残った。特にこの第十章は再読の価値あり。

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1997 2/6
エッセイ、哲学
まろまろヒット率4

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『自分を知るための哲学入門』 竹田青嗣著 ちくま学芸文庫 199309.24.96

マレーシア渡航前から読んでいた本。初の哲学書。
前半は著者の哲学観が実体験を元にのべられていて興味深かったが
後半のギリシア哲学から現代思想までの流れの概要はいまいちだった。
とにもかくにもこれが初の哲学の本。

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1996 9/24
哲学
まろまろヒット率3

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『茶の本』 岡倉覚三(天心)著 岩波文庫 196107.09.96

『The Book of Tea』として出版されたものの日本語翻訳版。
茶道や華道の本質的精神とは何かということを海外に紹介した作品。
そのため、まったく茶道や華道、日本美術に造詣がない僕にとってもとて
もわかりやすく日本文化に存在している特徴、精神を書いている。
多くの参考になる言い回しがある、

例えば・・・
「茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基ずく一種の儀式」

「茶道の要義は『不完全なもの』を崇拝するにある」

「いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、
何か可能なものを成就しようというやさしい企てであるから」

「おのれに存する偉大なるものの小を感じることのできない人は、
他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである」

「茶道は美を見いださんがために美を隠す実であり、
現すことをはばかるようなものをほのめかす術である」

「この道はおのれに向かって、落ち着いてしかし充分に笑う
気高い奥義である。従ってヒューマーそのものであり、悟りの微笑みである」

「物のつりあいを保って、おのれの地歩を失わずに他人に譲ることが
浮世芝居の成功の秘訣である」(合気道だ!)

「四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行う
ーこういうのがすなわち茶の湯の目的であった」(合気道だ!)

「茶道は道教の仮の姿であった」

「真の美はただ『不完全』を心の中に完成する人によってのみ見いだされる」

「何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか。
この二者はただお互いに相対しているものであって、
梵(ブラフマン)の昼と夜である」

「われわれは心の安定を保とうとしてはよろめき、
水平線上に浮かぶ雲にことごとく暴風雨の前兆を見る。しかしながら、
永遠に向かって押し寄せる波涛のうねりの中に、喜びと美しさが存している。
何ゆえにその心をくまないのであるか、また列子のごとく風そのものに
御しないのであるか」

「美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる」
など、また面白い例として丹霞和尚がとても寒い日に仏像を焼いて
寒さをしのごうとして「わしは仏様を焼いて、お前さんたちの
ありがたがっているお舎利を取るのだ。」、「木仏の頭から
お舎利なんて出てたまるものですか。」「もし、お舎利のでない仏様なら、
何ももったいないことはないではないか。」

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1996 7/9
文化論、文学、哲学、美学
まろまろヒット率5

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