Archive for the ‘哲学・思想’







『エピクロス―教説と手紙』 エピクロス著、出隆・岩崎允胤訳 岩波書店 200209.25.07


まろまろ@気がつけば最近はジョミニといいエピクロスといい、主流派にならなかった人たちの本をよく読んでいます。

さて、『エピクロス―教説と手紙』エピクロス著、出隆・岩崎允胤訳(岩波書店)2002。

ストア派のゼノンと共にヘレニズム時代を代表する哲学者として知られる、
エピクロス派を立てたエピクロス(エピキュロス)の手紙と教説を集めたもの。

もともとエピクロスの書いたもので現存するものは少なくて、
この本も三つの手紙:「ヘロドトス宛」、「ピュトクレス宛」、「メノイケウス宛」と、
「主要教説」、「断片」に、解説「エピクロスの生涯とその教説」を加えたものから構成されている。

内容は、エピクロスがもっとも重視した”快”について・・・
「快とは祝福ある始めであり、終わりである(中略)快を出発点としてすべての選択と忌避を始め、
またこの快を基準としてすべての善を判断することによって立ち帰る」(メノイケウス宛の手紙)
・・・と述べているように快がすべての基準になることを強調している。

ただし、快といっても一時的な快楽のことではなくて・・・
「快とは苦しみが全く除き去られることである」(主要教説)
「正義の最大の果実は、心境の平成である」(断片)
・・・という風に、苦しみや悩み、煩わしさが取り除かれた状態のことを指している。

また、その達成のためには・・・
「思慮深く美しく正しく生きることなしには快く生きることもできず、
快く生きることなしには思慮深く美しく正しく生きるということもできない」(主要教説)
・・・として、思慮・高潔さ・公正の大切さを強調している。

ただ、今でもエピキュリアン(epicurian)とは享楽主義を指すように、
エピクロスは快楽主義者で、酒池肉林の享楽の中で死んだという誤解がある。
享楽主義的な哲学者という俗説もそれはそれで格好良くはあるけれど、
実際の彼の哲学はあくまでも、苦痛がない状態、平安な状態を求めることにある。

たとえば・・・
「他の人々からの賞賛は、招かずして、おのずから来るべきものであって、
われわれとしては、われわれ自身の癒されることにこそ専念すべきである」(断片)
「わずかなもので十分と思わない人には十分なものは存在しない」(断片)
「人は恐怖のために、あるいは際限のない欲望のために不幸になる
だが、もしこれらに手綱をつけるならば、祝福された思考を自分自身に勝ち取ることができる」(断片)
・・・などは彼の哲学を表現しているものとして印象深かった。

ちなみに・・・
「多くの人間にとって、休息は気抜けにより、活動は気違いによる」(主要教説)
・・・という部分には思わず笑ってしまった(w

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2007 9/25
哲学書
まろまろヒット率3

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『現代社会と知の創造―モード論とは何か』 マイケル・ギボンズ編著、小林信一監訳 丸善ライブラリー 199703.06.06


ごはん日記にコロッケそばコンテンツをアップしたら、「揚げたてではダメなのです!」などの熱いメールが複数寄せられた、
らぶナベ@立喰師列伝にはまだまだ入れないようです(^^;

さて、『現代社会と知の創造―モード論とは何か』マイケル・ギボンズ編著、小林信一監訳(丸善ライブラリー)1997。
原題は”The New Production of Knowledge: The Dynamics of Science and Research in Contemporary Societies”(1994)。

前からペラペラと飛ばし読みしたことはあったけど、最近になってWeb2.0などのネット進化の議論で
引用されてるのを見かけることが増えたので通し読みしてみた一冊。

現在、知的生産の方法が大きく変化している。
この本では、その科学技術活動のモード(様式)についての議論をしている。
ディシプリンの内的論理で研究するこれまでの知識生産様式をモード1、
社会に開放された新しい様式をモード2と分類して、その背景や意義を述べている。

解説に書かれてあるように、やっつけ仕事を感じるところや無理やり感がある部分もあるけど、
初版から10年以上たったいまでもこの本が提言したモード2の動きは変わっていない。
たとえばネット上での動きはまさにモード2のものだし、「お行儀の悪い」様式がますます存在感を増してきている。
そんな僕もお行儀の悪い方に分類されているんだろうなと思いながら読み終えた。

ちなみにかなり長い序章(30ページ)を読めばそれで十分内容がわかるようになっている。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○クーンのパラダイム論では個々のディシプリンの内部の研究活動を規定するパラダイムの存在を考えた
→ギボンズのモード論では、個別のディシプリンを超えて、あるいは科学技術の研究活動を超えて、
知的な生産活動全体を規定するモードが存在していると考える
<転機に立つ「科学技術と社会」―日本語版の解説にかえて―>

☆トランスディシプリナリティの四つの側面・・・
1:明確な、しかし進化する問題解決の枠組を発展させる
2:解は経験的要素と理論的要素の両方を含み、それはまぎれもなく知識への貢献
3:モード1では制度的な経路を通じて成果が伝達されるが、モード2では成果は参加者が参加している最中に伝えられる
4:ダイナミックであり、流動的な問題解決能力
<序章>

☆本書の核心は、供給サイドにおける潜在的な知識生産者の拡大と、
需要サイドの専門知識に対する要求の拡大が同時並行的に起こっていることが、
知的生産の新しいモードの出現の条件を生み出しているということ
<序章>

○モード2はコミュニケーションが決定的に重要
→知識を利用するためには知識生産に参加しなければならない
<序章>

☆科学は動的にいつも複雑で変化に富んだプロセスで社会を形成したり、また社会いよって逆に科学が形作られたりしている
→科学が取り組む可能性のある問題の幅は際限なく大きく、それゆえ研究課題は純粋に知的な言葉では理解しえない
<第一章 知識生産の進化>

○科学は、技術的な規範と社会規範との緊密な相互作用を含む高度に構造化された一連の活動
<第一章 知識生産の進化>

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2006 3/6
科学哲学、技術社会論、研究様式論
まろまろヒット率3

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『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 199201.17.06


修二と彰の振り付けを練習中の、らぶナベです。

さて、『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 1992

カリスマの研究書、めちゃ面白かった一冊!
内容は理論編(第2部)でカリスマ研究の歴史、各分野からのアプローチを押さえながら統合理論としてまとめ、
実例編(第3部)でカリスマとその信奉者たちの典型例を取り上げて、
結論(第4部)でカリスマとその信奉者たちとの相互作用は一体何なんなのか、その今日的な意味も含めて答えを出している。
理論の深さ、実例の迫力、結論の説得力、どれを取ってもカリスマの研究の決定版と言える本。

まず、すごいなと思ったのが膨大な先行研究を押さえていているところだ。
たとえば理論編では情念に焦点を当てた哲学者たちとしてヒュームやミル、ニーチェ(2章)、社会学としてのアプローチ、ウェーバー(ヴェーバー)とデュルケム(3章)、
催眠と群集心理学からのアプローチのメスマー、ル・ボン、タルド(4章)、精神分析学からのアプローチとしてのフロイト(5章)などの
カリスマ研究の背景やそれぞれのアプローチを総括しながら、
カリスマ的リーダーシップの病理性を強調する心理学的見解と、カリスマ的集団に積極的な価値を与える社会学的言説との対比をまとめて(6章)、
カリスマ精神の病いなのか、再社会化なのだろうかと問いの下で統合理論化(7章)をしている。

その次の実例編では典型的なカリスマとその信奉者たちの実例としてアドルフ・ヒトラーとナチ党(8章)、
チャールズ・マンソンとそのファミリー(9章)、ジム・ジョーンズと人民寺院(10章)を取り上げている。
著者は文化人類学出身なので、この実例編は本領発揮という感じでとても迫力があった。
ある人物がカリスマ的パーソナリティを持つことになってゆく過程、奴隷化しているのに自分は解放されていると思う信奉者たち、
そしてカリスマと信奉者の相互作用で生まれた集団のダイナミズムが展開し、崩壊していく様が克明にえがかれていて、
単純に生々しい読み物としても読み入ってしまった。
そしてシャーマニズムとの共通点を指摘しながら(11章)、結論につなげるという流れがとても綺麗。

結論(12章)では、現代のカリスマをよく指摘されるような芸能人やスポーツ選手にとどまるだけでなく、
カリスマ的な特徴を帯びた人間関係として、家族(観)とロマンティックな恋愛を挙げているのが面白い。
確かに実例編で出てきたカリスマとその信奉者たちは極端な事例かもしれないけど、
読みながらホストに入れ込む女性や、キャバクラ嬢に振り回される男性を思い起こしていただけに納得。
(実は自分自身の恋愛体験の中にも重ね合わさる面もあった(^^;)

人間関係がもたらす無我と交感の絶頂感(エクスタシー)は魅力的で、時には没頭してしまう。
コミュニケーションの快楽に耽溺する人の性向は決して特殊なものではなく、
人間の本質の一つなんだ、というこの本の主張は説得力があった。
(そこには集団のダイナミズムが生まれる源泉になる)

ちなみに、この本はインターネット普及以前に書かれたものだったので、
現在のネットコミュニティ内でのカリスマ出現に著者はどう思っているのか知りたかった。
また、理論編の第2部はけっこう面白いんだけど、理論的背景とかアプローチを退屈だと思う人は、
訳者が言っているように実例編の第3部から読んでも十分に面白く読めると思う。

以下はチェックした箇所(要約含む)・・・

○カリスマというものを理解するためには、カリスマ的人物の性格やそのカリスマ的魅力を個々の人間に受け容れやすくさせている諸属性を研究しなければならないばかりでなく、
同時に指導者と信奉者が相互作用をおこなっているカリスマ集団そのもののダイナミズムをも分析しなければならない
<第1章 序説>

○弱く空虚な人間は、服従することによって、ひとつのアイデンティティを、また力と意志という不可欠な幻想を手に入れることができる
→カリスマの信奉者たちは抑圧の中に解放されているという感覚を感じる (Hoffer 1951)
<第4章 催眠と群集心理>

☆自己の解体的幻想による同一化的経験こそが指導者に対する信奉者の愛、自我の境界が消失する超越的な愛の源泉
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○心理学者たちが指導者に焦点をあて、彼らの障害をもったパーソナリティを強調しがちであるのに対し、
社会学者たちは指導者の性格についてほとんど論じることなく、信奉者や彼らを取り巻く環境に関心をもつ
→心理学が信奉者のうちに病理性を見ようとするのに対して、
社会学者は信奉者が普通の人間よりも深い心理学的な生涯を病んでいるわけではないことを証明することに関心をもっている
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○カリスマに対しては大きく分けて二つのアプローチがある・・・
・精神分析学に由来するものでカリスマの感情的強烈さや超越的性格を認めはするが、それに対する価値判断を含み、指導者の個人的特長を過度に強調するもの
・社会学に由来するもので集団の重要性、共同体への参加が人々の願望の対象となりうることをよく認識しているが、
 しかし経験から情念を剥離させ、リーダーシップを閑却し、カリスマ的紐帯の根底にある無意識の衝動を軽視するもの
→どちらのアプローチもカリスマ的経験の一部を教えてくれるが全体ではない
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

☆自我がその価値を減ぜられ、アイデンティティの標識や対象とのきずなを剥奪されながら、それでもなお同時にすべての行為の唯一の正当化根拠とされるとき、
カリスマの啓示や帰依者の共同体的集団への没入によってあたえられる激しさや内的確実感は高度に魅力的
→このようにして高められた相互作用の形式は現実の社会構造に欠けている、交感の感情、エクスタシー的自己喪失、超越、信念をあたえる
<第7章 カリスマの統合理論>

☆カリスマ的な関わりへ導いていく諸条件について統合的図式・・・
・疎外された現代社会とナルシシズムの文化が結合して人々にカリスマへの没入を受容させやすくしている
・人格的アイデンティティを遮断することによって人々に自己喪失を用意させる思想改造
→いずれも人格的アイデンティティを脅かし、集団による個人の吸収を促進し、集団形成の指導者に対するエクスタシー的心酔を偏愛するように作用する、
 ある種の技法や社会状況がもつ人格解体的作用に対してまことに弱い存在として人間を描く
<第7章 カリスマの統合理論>

○ヒトラーという恐るべき事実に直面した歴史家や政治学者は、当然のことながら彼や彼の運動からその神秘的な要素を取りのぞこうとするから、
その結果として諸々の偶然の変数が結びつくことで彼に政権の掌握と維持が可能になったという事実を強調することになる
<第8章 「取り憑かれた従者」>

☆カリスマ集団の隠された目的は「成功」することではなく、経験することそれ自体
→だから外的脅威の圧力で集合体経験は強化される
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○(ナチスのSS訓練は)極度の疲労と苦痛、そして屈辱は、男たちの過去とのきずなを切断し、いかなる自律感覚も腐食させる効果を発揮した
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○社会変動が旧来のきずなを切断してしまったところはどこでも、補償としてのカリスマ運動を好む
<第9章 「愛こそわが裁き」>

○主観のうちに生じるエクスタシー的なトランスという変成状態の所有がシャーマニズムの中心
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆シャーマンの役割につくことは、現代においてカリスマとなることと同じく、アイデンティティ解体という初期局面から苦痛に満ちた自己再構成を経て、
他のもっと弱い魂たちを圧しつぶす潜在的な精霊をコントロールして顕在化させる能力をもった変身せる専門家としての再生へ向かう運動
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆カリスマ的啓示は、周縁に追いやられた集団を無視し抑圧してきた社会構造における弱き者の示威運動、反構造の契機、警告のコミュニタスとなる (Turner 1982)
→カリスマの形態は、いかなる社会にあっても、社会構造の中にそれがあらわれることで克服されなければなならい抑圧のタイプと程度を示す
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○逸脱せる集団とその指導者に精神的な変調をきたした者というレッテルを貼ることと、彼らが実際に狂気に落ち込んでいくこととの間には明確な相関関係がある
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆今日におけるカリスマの過剰なあらわれは、交感を求める人間の根源的な欲求を社会システムが満たしえないでいることの反映
→カリスマとその集団は、その暗さによってわれわれ自身が置かれているディレンマの輪郭をくっきりと縁どる影
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○非日常な無我の状態に到達することのできる一つの方法が、移ろいやすい気質をもったカリスマ的指導者という霊感喚起的な人物によって結合された集団に所属すること
<第12章 今日のカリスマ>

☆恋愛においては、カリスマにおいてと同じように、相手のうちへ自己を喪失することが縮小としてでなく、高揚、エクスタシー、自我の拡大として経験される (Chasseguet-Smigrel 1976)
→恋に落ちることは巨大な革命のエクスタシー感情と変革パターンを小規模で複製する集合運動の最も単純な形態 (Alberoni 1983)
→カリスマも恋愛も強烈な情動喚起的関係における自他の完全な同一化を要求するので同時並行することはできない
<第12章 今日のカリスマ>

☆カリスマとは、世俗的な世界の疎外と孤立の外部にあってそれと対立する根源的な超越の瞬間をもたらす直接的なエクスタシー経験
→無我と交感というモーメントは、われわれ人間の不可欠な条件の一部
→問題はそうしたモーメントがどのような形態をとるかということ
<第12章 今日のカリスマ>

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2006 1/17
カリスマ研究、社会学、心理学、社会心理学、文化人類学、宗教学、思想史、リーダーシップ論、政治学、組織論、コミュニティ論
まろまろヒット率5

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『美学への招待』 佐々木健一著 中公新書 200406.28.04


まろまろマスコットキャラクターとして「まろうさ」が誕生した、
らぶナベ@まろまろWEBのそこら中に出没してますのでよろしくです(^_-)

さて、『美学への招待』佐々木健一著(中公新書)2004年初版。
美学の第一人者が書いた美学の入門書。
「誰もが経験する事実からスタートしてそこに潜む美学を指摘する」(第1章)という
スタンスで書かれているので、美学特有の取っつきにくさを感じずに読める。
社会的要求から誕生した美学の歴史的変遷について語っている点(第1章)や、
「綺麗」と違って「美しい」には「すごい」という意味があるとする点(第9章)は、
すごく分かりやすかったし納得もいくものだった。

ただ、これまでの美学の歴史や位置づけを書いた前半(特に第1章)に比べて、
後半部分になるに従ってよく分からない話が多くなっていく。
それは同時に分かりやすい芸術から分かりにくい芸術への変遷とかぶっていて興味深い。

ちなみに「近代美学が機能不全に陥っているのは、
その理論がすべての現象に当てはまるとする普遍主義的な考え方にある」
(第7章)といっている箇所には自分(まろまろ堂)との対比で面白かった。
美学のような伝統ある研究は過度の普遍主義で機能不全に陥っていると言われる、
一方で僕のやっているようなことは「事例特有で普遍性がない」と言われたりもする。
・・・隣の芝生は青いような感じがして思わず笑ってしまった。

巻末には各章ごとの参考文献だけでなく、他の入門書の解説も丁寧に紹介されているので
こういう分野にも興味がある人には一読の価値がある一冊。

以下、チェックした箇所・・・

○創造性は何で測られるか→注目されたのが感性(ペトラルカ、パスカルなど)
<第1章 美学とは何だったのか>

☆A.G.バウムガルテンが”Aestherica”(感性学=美学)を著して美学を哲学的学科として創造
→「芸術」&「美」&「感性」の同心円的構造を打ち立てる
<第1章 美学とは何だったのか>

○美的体験と美的範疇が19世紀的美学の主要構成要素
<第1章 美学とは何だったのか>

☆芸術の本質は美の表現→美は体験を通して現実化
→美学はまずその体験と相関的な美の特質の解明に努める(美学の核心)
+美的範疇で多様性の解明
<第1章 美学とは何だったのか>

○現代の美学に標準的な目次はない
→美と芸術と感性について哲学的な考察ということで十分
→どのような側面に注目するかが重要
<第1章 美学とは何だったのか>

○センスはもともと肉体的な能力としての感覚だが、そのメタファー的な使用の次元が問題
<第2章 センスの話>

☆感性のモデルとなっている感覚の働き方の三つの特徴
=1:直感性、2:反応もしくは判断が即刻、3:即刻の判断の示す総合性
<第2章 センスの話>

○美学を云々する場面での傾向=
感性への集中→感覚的に捉えられた刺激が人格の内奥へと反響していく
<第2章 センスの話>

○仏語でデザイン(design)は”dessin”(デッサン)、”dessein”(意図)に分けられる
→デザインにはデッサンが基礎になり意図という意味を持っていることは重要
<第3章 カタカナのなかの美学>

○カタカナ語特有の曖昧さは異分野をクロスオーヴァーさせる力がある
<第3章 カタカナのなかの美学>

☆「artとは何か?」ではなく「いつartか?」(ネルソン・グッドマン)
<第3章 カタカナのなかの美学>

○かつて芸術は公共性を形成する役割があったが
複製の体験は個人化し、体験の様式は自閉的になる
<第4章 コピーの芸術>

☆リズムとは身体の呼吸のようなもの(略)
遠近法に代表される近代の美術が身体感覚を知らず、
近代の美学がリズムの真実を捉えられなかったのは、
身体を単なる物体と見るような哲学と相関している
<第6章 全身を耳にする>

○近代美学が機能不全に陥っているところがあるとすれば、
最大の問題は(略)その理論がすべての現象にあてはまるとする考え方にある
<第7章 しなやかな応答>

○きわものとは、既に起こった大事件を参照することによって、
人々のその事件への関心を刺激して、自らのために利用しようとする作品
<第8章 お好きなのはモーツァルトですか?>

○ダントーのテーゼ「何が芸術であるかはアートワールドが決める」
<第8章 お好きなのはモーツァルトですか?>

○古典的な芸術の定義=「自然模倣」
=背後に精神的な次元を隠し持ち、それを開示することを真の目的とする活動
→主役が作品から作者へと移る

<第8章 お好きなのはモーツァルトですか?>

○「綺麗」と違って「美しい」には「すごい」という意味合いがある
<第9章 近未来の美学>

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2004 6/28
美学、哲学
まろまろヒット率3

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『暗黙知の次元』 マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳 ちくま学芸文庫 2003(原著1966)05.23.04


実はハンガリーってすごいんじゃないかと思いはじめてる、らぶナベ@天才多い?

さて、『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳
(ちくま学芸文庫)2003年初版(原著1966年初版)。
「言葉にできない知がある」として暗黙知を打ち出した本として有名な一冊。

もともと言葉にできないものを言葉にしようとしているので
やっぱり読みずらいところや突っ込みどころはかなりあるけれど、
よくある言いっぱなしじゃなく、神秘主義に走っているわけでもなくて読み応えがある。
おかげでそれまでは「そんなこと言っても始まらない」と言われていた、
コツやカンなどを議論の場で話せるようになった功績は大きいとされている。
(僕が関心を持っているいまの”雰囲気”もそう?)

また、なぜか読みづらい本にありがちな嫌な感じは別にしなかった。
たぶん訳者も書いているように、初版当時隆盛だった共産主義でも実存主義でもなく、
(人間に対して悲観的ではなく)その隠れた可能性を信じる彼の姿が垣間見れるからだろう。

実はこの本は今年からできた佐倉研究室指定必読書の僕の担当文献。
リストアップ案(まろまろ原案)を出した人間として、
リストの中で一番読みにくい&一番発表しにくいものを選ぶべきだろうと読んでみた。
暗黙知という言葉やこの本については経営学や組織論を学んだ時に
よく出てきたのでペラ読みはしたことはあったけど、
まさかこんな機会に通読するとは思わなかった。
人生って不思議ですな。

ちなみに著者は邦訳だとマイケル・ポラニーとも書かれることがあるけど、
ハンガリー発音だとポラーニ・ミハーイというらしい(Michael Polanyi)。
お兄さんは経済人類学者のカール・ポランニー(『大転換』、『経済の文明史』)。
こんなすごい親や叔父がいると子供はプレッシャーかかるだろうって思ってたら
著者の子供、ジョン・ポランニーは1986年にノーベル化学賞受賞、冗談みたいな一家だ。
おそるべしマジャール!&同じアジア系としてちょっと親近感(^^)

以下はチェックした箇所・・・

○暗黙知の構造によれば、すべての思考には、その思考の焦点たる対象の中に
私がちが従属的に感知する、諸要素が含まれている
→しかも、すべからく思考は、あたかもそれらが自分の体の一部ででもあるかのように、
 その従属的諸要素の中に内在化(dwell in)していくものなのだ
<序文>

○私たちのメッセージは、言葉で伝えることのできないものを、あとに残す
それがきちんと伝わるかどうかは、受け手が、
言葉として伝え得なかった内容を発見できるかどうかにかかっている
<第1章 暗黙知>

☆第一条件について知っているとは、ただ第二条件に注意を払った結果として、
第一条件について感知した内容を信じているのにすぎない
<第1章 暗黙知>

☆暗黙地の特徴・・・
・機能的構造(functional structure)
=暗黙知が機能しているとき、私たちは何か別のもの「に向かって」注意を払うために、
 あるもの「から注意を向ける」(attend from)

・現象的構造(phenominal structure)
=A(近位項)からB(遠位項)に「向かって」注意を移し、Bの様相の中にAを感知する

・意味論的側面(semantic aspect)
=すべからく意味とは「私たち自身から遠ざかって」いく傾向がある
(道具を使用して得られた出来栄えを介して、道具の感触が意味するものに注意を傾ける)

・存在論的側面(ontological aspect)
=暗黙的認識とは、二つの条件の間に意味深長な関係を樹立するものであり、
 したがってそうした二つの条件が相俟って構成する
 包括的存在(comprehensive entity)を理解すること
<第1章 暗黙知>

○ある人の精神はその活動を追体験することによってのみ理解されうる(ディルタイ)
<第1章 暗黙知>

○審美的鑑賞とは芸術作品の中に参入し、さらに創作者の精神に内在すること(リップス)
<第1章 暗黙知>

☆理論の内面化・・・
私たちは理論から、その理論の観点で見られた事物へと、注意を移動させ、
さらに、そうした具合に理論を活用しながら、
理論が説明しようと努めている事物の姿を介して、理論を感知している
→数学理論が自らを実際に応用することでしか修得されえないのはこのため
<第1章 暗黙知>

☆問題を考察するとは(略)まだ包括されていない
個々の諸要素に一貫性が存在することを、暗に認識すること
→独創性とは期待している包括の可能性を他の誰も見いだすことができないときのこと
<第1章 暗黙知>

☆包括的存在の安定性に機能する暗黙知・・・
1:包括的存在を制御する諸原理は、具体的な諸要素を
 それ自体として統治している諸規則に依拠して機能する
2:同時に諸要素をそれ自体として統治している諸規則は、諸要素が構成する、
 より高次の存在の組織原理の何たるかを明らかにするものではない
<第2章 創発>

○境界制御の原理(the principle of marginal control)
=上位レベルの組織原理によって下位レベルの諸要素に及ぼされるコントロール
<第2章 創発>

☆創発の過程
=より高位のレベルは下位のレベルでは明示されない過程を通してのみ出現できること
<第2章 創発>

☆ある論文の科学的価値=厳密性、体系的重要性、内在的興趣
<第3章 探求者たちの社会>

☆理論の不意の確証(surprising confirmations)
→発見は現行の知識が示唆する探求可能性によってもたらされる
<第3章 探求者たちの社会>

○可能性を論じる主張は確実性を論ずる主張と同様に個人的な判断を含んでいる
→結論とはそれに到達する人間の掛かり合い(commitment)を表現するもの
<第3章 探求者たちの社会>

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2004 5/23
暗黙知、哲学、組織論、認知科学、情報・メディア、心理学、学問一般
まろまろヒット率4

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『サブジェクトからプロジェクトへ』 ヴィレム・フルッサー著、村上淳一訳 東京大学出版会 199604.08.04


『ケロロ軍曹』に心をつかまれた、らぶナベであります。

さて、『サブジェクトからプロジェクトへ』ヴィレム・フルッサー著、村上淳一訳
(東京大学出版会)1996年初版。

副指導の武邑光裕助教授が「ちょっと感動的だよ」と言って貸してくれた一冊。
原題は”VOM SUBJEKT ZUM PROJEKT”。
従属者(SUBJEKT)から投企者(PROJEKT)への転換をメインテーマにして、
抗いがたい価値や理論、運命に従属するのではなく、
投企(デザインとも訳されている)してゆく可能性を模索している思考書。

読んでみると、ところどころ突っ込みどころはあるけれど、
とりまく状況に対して悲観的であっても決して絶望せずに、
「デザインすることは変えるのではなく、意味を付けること」としている姿には
確かに共感できるし、いろんな分野に影響を与えたのもうなずける。

ちなみに前に読んだ同じ著者の『テクノコードの誕生』と同じく、
カテゴライズに頭を悩ませる本でもある。
でも、この本の面白さはこういうところにあるんだろう。
カテゴリに従属する(SUBJEKT)のではなく投企(PROJEKT)を模索する本だから(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

☆「自我」とは、情報が流れ込み、処理され、一時的に貯えられ、
さらにほかに伝達されるための貯水池にすぎない
→「自我」とは「無意識の」集合的心理のネットワークの上にある
 間主観的なネットワークの、絶えず移動する結び目でしかない
<序 投企について>

○「文化」と「文明」の概念を定式化すれば(略)間主観的な場の二つの回路形式
→人間相互の関係のファイバーを通じて、情報を生み出し、
 記憶し、伝達するための、二つの戦略のこと
<2 都市をデザインする>

○理論とは、人間相互の関係の情報を生み出す回路
→人間相互のネットワークが一般的な分散傾向に逆らって
 情報を生み出す傾向をもつとすれば、すべてが理論空間の守備範囲
<1 都市をデザインする>

○オルガスムは自己を(略)人間相互の銘記へと高める方法
<6 性をデザインする>

○技術とは(略)価値を客体化し客体を価値化することによって、
主体と客体の分離を克服し、実存を服属から解放しようとする試み
<8 技術をデザインする>

☆表現の意図は、世界を変えること、人間を変えることではなく、
意味を付与することにある
<8 技術をデザインする>

○運命の投企こそが、自由に他ならない
<9 労働をデザインする>

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2004 4/8
思想、デザイン論、越境系
まろまろヒット率3

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『トポスの知―箱庭療法の世界』 河合隼雄・中村雄二郎著、明石箱庭療法研究会協力 TBSブリタニカ 1993(新装)12.05.03


奇しくもまろプチフラッグが端っこに撮影されていた、らぶナベです。

さて、『トポスの知~箱庭療法の世界~』河合隼雄・中村雄二郎著、
明石箱庭療法研究会協力(TBSブリタニカ)1993年新装初版。
『箱庭療法入門』に続いて読んだ箱庭療法関係本。
心理学者と哲学者の二人が箱庭療法の事例を通して、
場(トポス)の哲学的なパフォーマンスや科学論を議論している。

「自分で作ることが自分を治癒する」とか「言語化を急ぐと失敗する」という
箱庭療法の特徴は確かに魅力的な話題のネタなんだろう。
言語化を急ぐと失敗するというのは何かを作ろうとするときには共通したことだし、
自分で作って自分で癒すというのはHPを作る僕にとっても興味深かった。
まさに「自作自癒」(新まろまろ用語候補)。

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○患者は自分自身による自己実現の力に頼ることによってみずから治ってゆくもの
(中略)患者の無意識内に存在する自己治癒の力に対して
畏敬の心を持つことが箱庭療法をはじめる出発点(河合)
<箱庭療法と< 私>>

☆イメージこそは、無意識から意識へのコミュニケーションのメディア
→イメージは常に多義性をもち、多くのことを集約的に表現している(河合)
<箱庭療法と<私>>

○ふつう視覚的なものは、触覚性を失って独走することが多いわけですけれど、
その二つが箱庭療法では非常にうまく結びついているために日本では成功した(中村)
<<自由に創ること>の楽しさ>

☆箱庭療法が成功した要因は、箱の大きさがちょうど一つの視野にパッと入ること
→一つのインテグレーションというのを考えて置くようにできている
(中略)置いて表現できて、だれか他人がわかるということは、
人間にとって結局はものすごいこと→わかるだけで何も言わなくたっていいんです(河合)
<豊かなイメージの世界>

☆まったくの自由というのは近代の一つの迷妄であって、
ある形が与えられている、基本的なものがあることによって、
かえって自由になれるんです(中村)
<豊かなイメージの世界>

☆早く言語化してしまうと流れが止まって大失敗する倍が多い(中略)
箱庭はわからないものに身を任してもいいような場を治療者が提供している
→治療者は水路付ける(canalization)役割をしている(河合)
<<癒やす>意味とその動き>

○箱庭のいいところは三次元だということ、それから砂があるということ(河合)
<隣接する領域とのかかわり>

☆箱庭はイメージ表現がはっきりした枠の中で一つの世界を形作っているのが大きな特徴
→箱庭療法の世界は盆栽的な箱庭よりもむしろ都市論の問題の方につながる(中略)
みんな自分の世界、自分の都市を置いているわけだから
単純にこれは何を象徴しているとか言うんじゃなくて、
その人の世界がそこにあるというふうに見ていけばそう簡単な置き換えはできない(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

☆トポスでは、空間と時間が一体化している
→均質的な空間ではなくて独特の雰囲気のある歴史的空間=ゲニウス・ロキ(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○いつのまにか我々の社会の中ででき上がり物質化されているような
あれこれのイメージが用意されている
→箱庭はそれらを組み合わせで表現するというところに、
一見ありきたりなように見えながら、そういうことを通して
一番うまく自分たちの心の中の願望を引き出す仕掛けになっている(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○価値判断を括弧にいれて、見えるかぎりのことを記述する
→そこに表れているいろいろな意味をおのずと浮かび上がらせるようにする(略)
箱庭療法はそのような現象学の方法と非常に近い(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○個別性を組み込むとは、個の人間、時間、場所の要素が加わることによって、
選択可能ないくつもの意味のなかからどれかが選ばれること(中村)
<近代科学と新しい< 知>のあり方>

○コスモロジーとシンボリズムとパフォーマンスという三つの要素は、
別々ものもではなくて互いに結びついて「臨床の知」の原理をなしている(中村)
→シンボリズムで成り立っている世界は否応なしにリゾーム的
(シンボルの多義性=シンボル相互の結びつきに多様な可能性があること)
<近代科学と新しい<知>のあり方>

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2003 12/5
心理学、臨床心理、箱庭療法、哲学、対談
まろまろヒット率4

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『複製技術時代の芸術』 ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編 晶文社『ヴァルター・ベンヤミン著作集 2』より 1996(原著1935)11.02.03


ASEANと日本の交流関係のお仕事を終えた、らぶナベ@詳細は出来事メモにて。

さて、『複製技術時代の芸術~ベンヤミン著作集2~』
ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編
(晶文社)1996年第26版(原著1935年初版)。

『視覚的人間』の中で雰囲気について語っているのに興味を感じたら、
副指導の武邑助教授が「アウラも押さえなよ」と貸してくれた本。
けっこういろんなところで引用されているのを見かけるので、
一度は読んでみようと思っていたのでちょうどよかった(^^)

内容は複製技術が普及する時代(1930年代)に生きた著者が、
複製技術によって芸術が持っていた一回性の「アウラ」
(いわゆるオーラ)が消えるんだと主張している。

この本から70年近くたったいま、すべてがデジタル化されて
WEBで結ばれようとしている時代を生きる僕にとっては
複製技術の時代にこそアウラが生まれるような気がした。
一回性ではなく数回性こそのアウラ・・・そんなことを感じたナベンヤミンです。

以下は、チェックした箇所・・・

☆アウラ=どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象<3>

○どれほど精巧につくられた複製のばあいでも、「いま」、「ここに」しかない
という芸術作品特有の一回性は、完全に失われてしまっている
→「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」しかない
という性格によってつくられる<2>

○複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである<2>

○芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから
ぬけきれないということである<4>

○(複製技術時代の)芸術は、そのよって立つ根拠を儀式におくかわりに、
(略)政治におくことになるのである<4>

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2003 11/2
美学・文化論、メディア論、思想
まろまろヒット率4

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『テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説』 ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳 東京大学出版会 199710.08.03


生息地の小石川がすっかり秋らしくなった、らぶナベ@何気に文京区が好きな大阪人だす。

さて、『テクノコードの誕生-コミュニケーション学序説』
ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳(東京大学出版会)1997年初版。
副指導教官の武邑助教授から借りた本の第二段。
コミュニケーションの視点から、アルファベットの終わりと
テクノコードの始まりという歴史的転換について述べている一冊。
話の前提となる道具立てが多いことや、括弧書きが多いこと(これは訳の問題?)が
かなり煩わしいけど、それをガマンして読めばけっこう面白い一冊。

「人は必ず死ぬ」
だから
「人間は、コミュニケーションによって世界と生に意味を与え、孤独と死に対抗する」
そして
「世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になり」、
「人間自身は、他の人間によって不死になる」、
というのがこの本の主題(第3章「テクノイマジネーションの世界へ」)。

話を進める上で本文中に出てきた道具立てについてはメモを残したけど(下にあり)、
こういうネタはこれから脳神経科学と認知科学の研究が進んでくれれば、
これほどまでに込み入ったことをしなくても議論できるようになるんじゃないだろうか。
(そうしてもらわないとこまっちんぐ(^^;)
また、著者は「越境者」とか「超越者」として分類されているので、
読み終わってからどこにカテゴライズするか頭を悩ませた本でもある。
(ホントにこまっちんぐ(^^;)

残念なことに著者はインターネットの普及を見る前に死んでしまった(没1991年)。
読書メモや遺書をネットで公開している僕の姿を見たら彼はどう感じたのだろう。
彼にまろまろを見せれなかったのはかなり残念だ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆人間のコミュニケーション=意味を与え、その意味が解釈される現象
→コミュニケーションの目的は死すべき生という残酷な不条理を忘れさせるための技法
(人間のコミュニケーションはコード化された記号に基づいている)
<序 コミュニケーションとは何か?>

○人間のコミュニケーションは孤独と死に逆らう技法であり、
エントロピーに向かう自然の一般的傾向に逆らう過程
<序 コミュニケーションとは何か?>

○コミュニケーション形式は、少なくとも意味論的(semantics)観点か、
構文論的(syntax)観点のいずれかによって分類できる
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「言説」(discourse)=手にしている情報を分配し、
 自然がもつ分解作用に対抗してそれを保存するための方法
→いかにして情報への忠実と情報の進行を調和させる言説構造をつくりだすかが問題
 (1)「劇場型言説」(発信者と受信者が向き合っている)
 (2)「ピラミッド型言説」(コード変換が段階ごとに行われる)
  →最高権威と原作者の間には超越性の断絶を超えて絶えず橋が架けられている
 (3)「樹木型言説」(当初の情報が解体&コード変化されて絶えず新たな情報が生まれる)
  →情報分配の閉鎖的特殊化によって死に至る孤独が克服しにくい
 (4)「円形劇場型言説」(受信者が言説の尽きるところにいる)
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「対話」=さまざまの既存の情報を合成して新たな情報を生むための方法
 (1)サークル型対話(求められている公分母は基本情報ではなく一つ合成)
 (2)ネット型対話(あらゆる情報が最後に流れ込む貯水池)
  →自然の分解傾向から情報を守る最後の受け皿
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○神話的な原作者は(略)客観的心理とか科学的厳密性という
レッテルとして樹木型言説の頂上にあって、
対話的なサークルは実際にはピラミッド構造のなかの権威中継者になっている
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○われわれは権威と伝統に対する関心を持たなくなっているからこそ、
かつてなかった権威主義的ピラミッド(technocracy)を体験している
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○線形的なテクストを読む者はテクストを超えたところに立つ
(これが考えるということの意味)
→こうした自己観察はテクノ画像の場合は不可能(テクノ画像は受信者を取り囲む)
<第1章:さまざまの構造 3:三つの典型的な状況>

☆文化は人間のための世界に意味を与える同時に
世界から人間を守ることによって人間と世界を媒介する
→ドイツ語の”vorstellen”は”判らせる”と”遮る”の二重の意味がある
<第2章:さまざまのコード 1コードとは何か?>

☆諸定義・・・
 ・「書くこと」=旋回するイメージ的時間をまっすぐに延ばして線形にすること
 ・「読むこと」=そのように線形的に進行する時間を終わりまで追ってゆくこと
 ・「記号」=何らかの了解によって別の現象を示すものとされている現象
 ・「コード」=記号の操作を整序するシステム
 ・「イマジネーション」=画像によってコード化するとともにでこーどする能力
 ・「テクノ画像」=扇情的テクストの記号に意味を与える諸記号によって覆われた平面
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

○デカルトの出発点→算数と幾何学の間の断絶、
カントの出発点→純粋理性と実践理性の間の断絶
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

☆歴史の主題とは、イマジネーションとコセプション、
表象と概念、呪術と歴史的論証の間の弁証法的緊張関係
<第2章:さまざまのコード 4三つのコードの同期化>

○テクノイマジネーション=概念についての画像を描いた上で、
その画像を概念の記号として読解する能力
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆人間は、世界と生に意味を与え、それによって死を否定するさいに、
他の人間とコミュニケートする
→世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になる
(人間自身は、他の人間によって不死になる)
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆ある言明は、そこで発言権を主張している視点の数が多ければ多いほど、
また、それらの視点をとることのできる人々の数が多ければ多いほど、真実に近い
→真実の標識は客観性ではなく間主観性
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

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2003 10/8
情報・メディア、科学哲学、コミュニケーション論、文化論、越境系
まろまろヒット率4

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『悲しき熱帯』 レヴィ=ストロース著&川田順造訳 中公クラシックス 上下巻 2001(原著1955)04.17.02


HPを立ち上げてから興味を持った分野の本をようやく読み終えた、
らぶナベ@引用も長いのでさっそく本題・・・

『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース著&川田順造訳
(中公クラシックス上下巻)2001年初版(原著1955年初版)
文化人類学の古典。
1930年代当時まだ現存していた南米先住民の生活&風習の研究を通して
不条理にみえる神話や風習にも全体を貫く一定の構造があるのだ
と主張する構造主義を確立したとされる本。
(この視点は様々な分野に影響を与えたので読書カテゴリも豊富)

この本は僕にとっては初めて読む文化人類学本でもある。
HPを立ち上げて以来約9ヶ月の間、ネットビジネスやネットをめぐる
法的問題に触れたり考えたりする機会が必然的にめぐってきていたが
その度に「そもそも今の経済学、経営学や法学の理論や概念では
ネットという存在を捉えきれないのでは」という違和感を感じていた。
そんな中で民俗学や人類学を学ぶ知人の影響もあって
これらの分野の視点がネットを考えるヒントになるのでは
と思って購入することになった一冊。

僕は今まで馴染みのない分野に触れる時にはまず何冊か入門書を読んで
その分野の全体像を把握してから古典や専門書を読むという手法を取ってきたが
(法律関係カテゴリ参照)
この分野についてはいきなり古典から入った。
タイトルフェチの僕にとって非常にひかれるタイトルだったからだ。
この本は何よりもまずタイトルが良い。
学術書なのに「悲しき熱帯」(原題”Tristes Tropiques”)とは素敵すぎ。

学術書とは思えない読みやすそうなタイトルだが実際に読み始めると・・・
「これは学術書なんだ」と思わないとやってられないくらい読みにくかった(^^;
そもそも南米の先住民研究にはなかなか入らないし、
断片的な旅行談や詩や戯曲、はたまた新聞の広告やらがいきなり出てきたりする。
そういう構文上の問題に加えて著者の後向きな姿勢が読みにくさを助長した。
後向きな姿勢であってもそれが根拠に基づいているものであれば納得できるのだけど
訳者も前書で「明らかな飛躍や矛盾はある」とわざわざ断りを入れているほど
根拠がなかったり不必要だったりするものも多くて読んでいて疲れた。
特に当時の発展途上国の人々やイスラム教に対する不理解な偏見は
著者がまだ生きてるだけに訂正しても良いのではと余計な心配までしてしまった。
また著者は皮肉屋さんらしくブラックジョークらしきものがよく出てくるのだけど
21世紀の始めに生きる日本人の僕にはどこで笑っていいのかわからなかった。
やはり正確性を欠くマイナス思考っていうのは付き合いにくい。
この本は「20世紀を代表する本のひとつ」という触れ込みだったが
果たしてこの本が数世紀後も人類を代表する本のひとつ
と言われるのかどうかは疑問に思ったりもした。

構文的にも感性的にも読みにくさを感じていたがせっかく読み始めたのに
途中放棄するのはもったいないので諦めずに読み進めると
第五部「カデュヴェオ族」(上巻254P)からようやく面白くなった、
っというかこれからが本題。
一見、原始的で素朴に生きていると思える文明化されていない社会でも
そこには人間関係や生活様式を含めた厳格な社会システムが存在している。
社会的機能や構造が存在することは政府や法律などの
「高度な社会システム」があるとされる先進国の国家と変わらない。
・・・ということを先住民への調査を通して証明している。
特に着衣を一切せずに移動しながら生きるナンビクワラ族を調査している第七部では
このような考えられる限り一番原始的な社会生活を送っている人々の間でも
機能としての一夫多妻制を利用した社会システムや厳格な掟が存在してるとされる。

僕はこの本を実際に手に取る前から何が「悲しき」なのだろうかと思っていた。
ナチスによるユダヤ人迫害から逃れなくてはならなかった著者の気持ち、
破壊されつつある先住民社会への思いなど、いろいろな解釈があるだろうが
僕はこの第七部を読んで人間関係のわずらわしさというのは
人が誰かと関係を持って生きる限りどのような形の生活であっても生まれるという、
そういう悲哀のようなものが「悲しい」んだなと感じた。
振り返って20世紀初めの日本を見てみても、
無秩序で好き勝手にしているように見えるネット上の掲示板でも
煩わしい関係から逃れようとした人々の集まりでも
(宗教や田舎、海外や不良などの反社会集団に逃げたとしても)
やはり明文&暗黙に関わらず一定のルールや機能的関係が存在している。
そういう「悲しさ」があるのだということを感じる本だと解釈した。

そんなこんなで以下は注目してチェックした部分の引用(注目度順)・・・

☆人間があれば言葉があり、言葉があれば社会がある(略)
ポリネシアの人たちは社会を作って生きていたことにおいて我々以下ではなかった
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

☆全裸で暮らしている民族も私たちが羞恥と呼んでいる感情を知らないわけではない。
ただ彼らは、その境界を違ったところに設定しているのだ(中略)
むしろ平静か興奮しているかのあいだにおかれている
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

☆村を成しているのは土地でも小屋でもなく
すでに記述したような或る一つの構造であり、
その構造をすべての村が再現するのである
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

☆一夫多妻婚とそれに付随する特別の資格は、
首長が責務を果たすために集団が彼に供与している便宜という意味をもっている。
首長一人きりだったならば他の人たち以上のことをするのは極めてむずかしい
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一夫多妻の特権がどれほど性的、情緒的、社会的に見て魅力あるものであろうと、
それだけでは首長の仕事を志望する十分な動機にはならない(略)
一夫多妻婚は、権力のむしろ技術的な条件である(中略)
人間は、みな同じようなものではない。
社会学者が何でもかんでも伝統によって圧し潰されたものとして描いて来た
未開社会においてさえこうした個人の差異は、
「個人主義的」と言われている私たちの文明におけるのと同じくらい
細かく見分けられ、同じように入念に利用されている
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一つの民族の習俗の総体は常に、或る様式を認めることができる。
すなわち習俗は幾つかの体系を形作っている(中略)
観察された、あるいは神話の中で夢想された習俗のすべて、
さらに子供や大人の遊びのうちに表されている習俗、
健康なまたは病気の人間の夢、精神病患者の行動、
それらすべての一覧表を作ることによって、
丁度元素の場合のように一種の周期律表を描くことが可能になる
<第五部「カデュヴェオ族」”先住民社会とその様式”>

☆人類の歴史の最も創造的な時期の一つは、農耕、動物の家畜化、
その他の技術を生んだ新石器時代の到来期(中略)
新石器時代には、人類は文字の助けなしに巨歩を進めたのである(中略)
文字の出現に忠実に付属していると思われる唯一の現象は、
都市と帝国の形成つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、
それら個人のカーストや階級への位付けである
<第七部「ナンビクワラ族」”文字の教訓”>

☆北米先住民の社会的警察機能について・・・
現地人の誰かが部族の掟に背くようなことがあれば、
彼はその全財産(略)を破壊することによって罰せられる。
しかし同時に(略)罰せられたために蒙った被害を共同で償うべく、
警察が音頭をとらなければならない。
この補償のために罪人は集団に恩を受けたことになり、
彼は贈り物によって集団に感謝の意を表さなければならないが、
この贈り物は警察自身も含む集団の全体が彼に力を貸して集めたものなので、
またもや関係が逆転することになる(略)
贈り物と返礼の長々しい遣り取りの果てに、
前の無秩序が消えて最初の秩序が回復されるまで続くのである
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

○私は旅や探検家が嫌いだ
<第一部「旅の終わり」”出発”>

○問題は、真実と虚偽を見出すことにあるよりも、
むしろ人間がいかにして少しずつ矛盾を克服して来たかを理解することにあった
<第二部「旅の断章」”どのようにして人は民俗学者になるか”>

○或る皮肉屋がアメリカを定義して、野蛮から文明を経ないで退廃に移行した国だ、
と言った。この定義は新世界の都市にむしろ当て嵌まるかもしれない
<第三部「新世界」”サン・パウロ”>

○都市というものは自然と人口の合流点に位置しているのである。
(中略)都市は自然としては客体であり、同時に文化としての主体である
<第四部「土地と人間」”開拓地帯”>

○聖と俗の二者を対置させることは(略)
絶対的なものでも持続的なものでもないのである
<第五部「カデュヴェオ族」”ナリーケ”>

○或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、
結局のところ生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、
美化し、正当化する努力に他ならない
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

○組織化の弱い社会では(略)傾向も暗幕の了解のうちに留まっているので、
背後に意味を含んだここの行動を総合してかんがえなければならない
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

○気前の良さは大部分の未開民族において(略)権力に本来付随したものである
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○「契約」と「同意」は社会生活を構成する原料
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○人間はその枠の中で位置を変えながら、
彼がすでに占めたことのあるすべての位置と、
彼が占めるであろうすべての位置を自分と共に持ち運ぶ。
人間は同時に至る所にある。
人間は諸段階の全体を絶えず要約して繰り返しながら一列になって進む群れである
<第九部「回帰」”チャウンを訪ねて”>

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2002 4/17
文化人類学、社会学、哲学、文化論、組織論、情報関連、歴史、文学、宗教学
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