Archive for the ‘哲学・思想’





『サブジェクトからプロジェクトへ』 ヴィレム・フルッサー著、村上淳一訳 東京大学出版会 199604.08.04

『ケロロ軍曹』に心をつかまれた、らぶナベであります。

さて、『サブジェクトからプロジェクトへ』ヴィレム・フルッサー著、村上淳一訳
(東京大学出版会)1996年初版。

副指導の武邑光裕助教授が「ちょっと感動的だよ」と言って貸してくれた一冊。
原題は”VOM SUBJEKT ZUM PROJEKT”。
従属者(SUBJEKT)から投企者(PROJEKT)への転換をメインテーマにして、
抗いがたい価値や理論、運命に従属するのではなく、
投企(デザインとも訳されている)してゆく可能性を模索している思考書。

読んでみると、ところどころ突っ込みどころはあるけれど、
とりまく状況に対して悲観的であっても決して絶望せずに、
「デザインすることは変えるのではなく、意味を付けること」としている姿には
確かに共感できるし、いろんな分野に影響を与えたのもうなずける。

ちなみに前に読んだ同じ著者の『テクノコードの誕生』と同じく、
カテゴライズに頭を悩ませる本でもある。
でも、この本の面白さはこういうところにあるんだろう。
カテゴリに従属する(SUBJEKT)のではなく投企(PROJEKT)を模索する本だから(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

☆「自我」とは、情報が流れ込み、処理され、一時的に貯えられ、
さらにほかに伝達されるための貯水池にすぎない
→「自我」とは「無意識の」集合的心理のネットワークの上にある
 間主観的なネットワークの、絶えず移動する結び目でしかない
<序 投企について>

○「文化」と「文明」の概念を定式化すれば(略)間主観的な場の二つの回路形式
→人間相互の関係のファイバーを通じて、情報を生み出し、
 記憶し、伝達するための、二つの戦略のこと
<2 都市をデザインする>

○理論とは、人間相互の関係の情報を生み出す回路
→人間相互のネットワークが一般的な分散傾向に逆らって
 情報を生み出す傾向をもつとすれば、すべてが理論空間の守備範囲
<1 都市をデザインする>

○オルガスムは自己を(略)人間相互の銘記へと高める方法
<6 性をデザインする>

○技術とは(略)価値を客体化し客体を価値化することによって、
主体と客体の分離を克服し、実存を服属から解放しようとする試み
<8 技術をデザインする>

☆表現の意図は、世界を変えること、人間を変えることではなく、
意味を付与することにある
<8 技術をデザインする>

○運命の投企こそが、自由に他ならない
<9 労働をデザインする>

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2004 4/8
思想、デザイン論、越境系
まろまろヒット率3

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『トポスの知―箱庭療法の世界』 河合隼雄・中村雄二郎著、明石箱庭療法研究会協力 TBSブリタニカ 1993(新装)12.05.03

奇しくもまろプチフラッグが端っこに撮影されていた、らぶナベです。

さて、『トポスの知~箱庭療法の世界~』河合隼雄・中村雄二郎著、
明石箱庭療法研究会協力(TBSブリタニカ)1993年新装初版。
『箱庭療法入門』に続いて読んだ箱庭療法関係本。
心理学者と哲学者の二人が箱庭療法の事例を通して、
場(トポス)の哲学的なパフォーマンスや科学論を議論している。

「自分で作ることが自分を治癒する」とか「言語化を急ぐと失敗する」という
箱庭療法の特徴は確かに魅力的な話題のネタなんだろう。
言語化を急ぐと失敗するというのは何かを作ろうとするときには共通したことだし、
自分で作って自分で癒すというのはHPを作る僕にとっても興味深かった。
まさに「自作自癒」(新まろまろ用語候補)。

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○患者は自分自身による自己実現の力に頼ることによってみずから治ってゆくもの
(中略)患者の無意識内に存在する自己治癒の力に対して
畏敬の心を持つことが箱庭療法をはじめる出発点(河合)
<箱庭療法と< 私>>

☆イメージこそは、無意識から意識へのコミュニケーションのメディア
→イメージは常に多義性をもち、多くのことを集約的に表現している(河合)
<箱庭療法と< 私>>

○ふつう視覚的なものは、触覚性を失って独走することが多いわけですけれど、
その二つが箱庭療法では非常にうまく結びついているために日本では成功した(中村)
<< 自由に創ること>の楽しさ>

☆箱庭療法が成功した要因は、箱の大きさがちょうど一つの視野にパッと入ること
→一つのインテグレーションというのを考えて置くようにできている
(中略)置いて表現できて、だれか他人がわかるということは、
人間にとって結局はものすごいこと→わかるだけで何も言わなくたっていいんです(河合)
<豊かなイメージの世界>

☆まったくの自由というのは近代の一つの迷妄であって、
ある形が与えられている、基本的なものがあることによって、
かえって自由になれるんです(中村)
<豊かなイメージの世界>

☆早く言語化してしまうと流れが止まって大失敗する倍が多い(中略)
箱庭はわからないものに身を任してもいいような場を治療者が提供している
→治療者は水路付ける(canalization)役割をしている(河合)
<< 癒やす>意味とその動き>

○箱庭のいいところは三次元だということ、それから砂があるということ(河合)
<隣接する領域とのかかわり>

☆箱庭はイメージ表現がはっきりした枠の中で一つの世界を形作っているのが大きな特徴
→箱庭療法の世界は盆栽的な箱庭よりもむしろ都市論の問題の方につながる(中略)
みんな自分の世界、自分の都市を置いているわけだから
単純にこれは何を象徴しているとか言うんじゃなくて、
その人の世界がそこにあるというふうに見ていけばそう簡単な置き換えはできない(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

☆トポスでは、空間と時間が一体化している
→均質的な空間ではなくて独特の雰囲気のある歴史的空間=ゲニウス・ロキ(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○いつのまにか我々の社会の中ででき上がり物質化されているような
あれこれのイメージが用意されている
→箱庭はそれらを組み合わせで表現するというところに、
一見ありきたりなように見えながら、そういうことを通して
一番うまく自分たちの心の中の願望を引き出す仕掛けになっている(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○価値判断を括弧にいれて、見えるかぎりのことを記述する
→そこに表れているいろいろな意味をおのずと浮かび上がらせるようにする(略)
箱庭療法はそのような現象学の方法と非常に近い(中村)
<箱庭・その哲学的パフォーマンス>

○個別性を組み込むとは、個の人間、時間、場所の要素が加わることによって、
選択可能ないくつもの意味のなかからどれかが選ばれること(中村)
<近代科学と新しい< 知>のあり方>

○コスモロジーとシンボリズムとパフォーマンスという三つの要素は、
別々ものもではなくて互いに結びついて「臨床の知」の原理をなしている(中村)
→シンボリズムで成り立っている世界は否応なしにリゾーム的
(シンボルの多義性=シンボル相互の結びつきに多様な可能性があること)
<近代科学と新しい< 知>のあり方>

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2003 12/5
心理学、臨床心理、箱庭療法、哲学、対談
まろまろヒット率4
心理学 キャリア

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『複製技術時代の芸術』 ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編 晶文社『ヴァルター・ベンヤミン著作集 2』より 1996(原著1935)11.02.03

ASEANと日本の交流関係のお仕事を終えた、らぶナベ@詳細は出来事メモにて。

さて、『複製技術時代の芸術~ベンヤミン著作集2~』
ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編
(晶文社)1996年第26版(原著1935年初版)。

『視覚的人間』の中で雰囲気について語っているのに興味を感じたら、
副指導の武邑助教授が「アウラも押さえなよ」と貸してくれた本。
けっこういろんなところで引用されているのを見かけるので、
一度は読んでみようと思っていたのでちょうどよかった(^^)

内容は複製技術が普及する時代(1930年代)に生きた著者が、
複製技術によって芸術が持っていた一回性の「アウラ」
(いわゆるオーラ)が消えるんだと主張している。

この本から70年近くたったいま、すべてがデジタル化されて
WEBで結ばれようとしている時代を生きる僕にとっては
複製技術の時代にこそアウラが生まれるような気がした。
一回性ではなく数回性こそのアウラ・・・そんなことを感じたナベンヤミンです。

以下は、チェックした箇所・・・

☆アウラ=どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象<3>

○どれほど精巧につくられた複製のばあいでも、「いま」、「ここに」しかない
という芸術作品特有の一回性は、完全に失われてしまっている
→「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」しかない
という性格によってつくられる<2>

○複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである<2>

○芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから
ぬけきれないということである<4>

○(複製技術時代の)芸術は、そのよって立つ根拠を儀式におくかわりに、
(略)政治におくことになるのである<4>

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2003 11/2
美学・文化論、メディア論、思想
まろまろヒット率4
マスコミ キャリア

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『テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説』 ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳 東京大学出版会 199710.08.03

生息地の小石川がすっかり秋らしくなった、らぶナベ@何気に文京区が好きな大阪人だす。

さて、『テクノコードの誕生-コミュニケーション学序説』
ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳(東京大学出版会)1997年初版。
副指導教官の武邑助教授から借りた本の第二段。
コミュニケーションの視点から、アルファベットの終わりと
テクノコードの始まりという歴史的転換について述べている一冊。
話の前提となる道具立てが多いことや、括弧書きが多いこと(これは訳の問題?)が
かなり煩わしいけど、それをガマンして読めばけっこう面白い一冊。

「人は必ず死ぬ」
だから
「人間は、コミュニケーションによって世界と生に意味を与え、孤独と死に対抗する」
そして
「世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になり」、
「人間自身は、他の人間によって不死になる」、
というのがこの本の主題(第3章「テクノイマジネーションの世界へ」)。

話を進める上で本文中に出てきた道具立てについてはメモを残したけど(下にあり)、
こういうネタはこれから脳神経科学と認知科学の研究が進んでくれれば、
これほどまでに込み入ったことをしなくても議論できるようになるんじゃないだろうか。
(そうしてもらわないとこまっちんぐ(^^;)
また、著者は「越境者」とか「超越者」として分類されているので、
読み終わってからどこにカテゴライズするか頭を悩ませた本でもある。
(ホントにこまっちんぐ(^^;)

残念なことに著者はインターネットの普及を見る前に死んでしまった(没1991年)。
読書メモや遺書をネットで公開している僕の姿を見たら彼はどう感じたのだろう。
彼にまろまろを見せれなかったのはかなり残念だ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆人間のコミュニケーション=意味を与え、その意味が解釈される現象
→コミュニケーションの目的は死すべき生という残酷な不条理を忘れさせるための技法
(人間のコミュニケーションはコード化された記号に基づいている)
<序 コミュニケーションとは何か?>

○人間のコミュニケーションは孤独と死に逆らう技法であり、
エントロピーに向かう自然の一般的傾向に逆らう過程
<序 コミュニケーションとは何か?>

○コミュニケーション形式は、少なくとも意味論的(semantics)観点か、
構文論的(syntax)観点のいずれかによって分類できる
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「言説」(discourse)=手にしている情報を分配し、
 自然がもつ分解作用に対抗してそれを保存するための方法
→いかにして情報への忠実と情報の進行を調和させる言説構造をつくりだすかが問題
 (1)「劇場型言説」(発信者と受信者が向き合っている)
 (2)「ピラミッド型言説」(コード変換が段階ごとに行われる)
  →最高権威と原作者の間には超越性の断絶を超えて絶えず橋が架けられている
 (3)「樹木型言説」(当初の情報が解体&コード変化されて絶えず新たな情報が生まれる)
  →情報分配の閉鎖的特殊化によって死に至る孤独が克服しにくい
 (4)「円形劇場型言説」(受信者が言説の尽きるところにいる)
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「対話」=さまざまの既存の情報を合成して新たな情報を生むための方法
 (1)サークル型対話(求められている公分母は基本情報ではなく一つ合成)
 (2)ネット型対話(あらゆる情報が最後に流れ込む貯水池)
  →自然の分解傾向から情報を守る最後の受け皿
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○神話的な原作者は(略)客観的心理とか科学的厳密性という
レッテルとして樹木型言説の頂上にあって、
対話的なサークルは実際にはピラミッド構造のなかの権威中継者になっている
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○われわれは権威と伝統に対する関心を持たなくなっているからこそ、
かつてなかった権威主義的ピラミッド(technocracy)を体験している
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○線形的なテクストを読む者はテクストを超えたところに立つ
(これが考えるということの意味)
→こうした自己観察はテクノ画像の場合は不可能(テクノ画像は受信者を取り囲む)
<第1章:さまざまの構造 3:三つの典型的な状況>

☆文化は人間のための世界に意味を与える同時に
世界から人間を守ることによって人間と世界を媒介する
→ドイツ語の”vorstellen”は”判らせる”と”遮る”の二重の意味がある
<第2章:さまざまのコード 1コードとは何か?>

☆諸定義・・・
 ・「書くこと」=旋回するイメージ的時間をまっすぐに延ばして線形にすること
 ・「読むこと」=そのように線形的に進行する時間を終わりまで追ってゆくこと
 ・「記号」=何らかの了解によって別の現象を示すものとされている現象
 ・「コード」=記号の操作を整序するシステム
 ・「イマジネーション」=画像によってコード化するとともにでこーどする能力
 ・「テクノ画像」=扇情的テクストの記号に意味を与える諸記号によって覆われた平面
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

○デカルトの出発点→算数と幾何学の間の断絶、
カントの出発点→純粋理性と実践理性の間の断絶
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

☆歴史の主題とは、イマジネーションとコセプション、
表象と概念、呪術と歴史的論証の間の弁証法的緊張関係
<第2章:さまざまのコード 4三つのコードの同期化>

○テクノイマジネーション=概念についての画像を描いた上で、
その画像を概念の記号として読解する能力
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆人間は、世界と生に意味を与え、それによって死を否定するさいに、
他の人間とコミュニケートする
→世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になる
(人間自身は、他の人間によって不死になる)
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆ある言明は、そこで発言権を主張している視点の数が多ければ多いほど、
また、それらの視点をとることのできる人々の数が多ければ多いほど、真実に近い
→真実の標識は客観性ではなく間主観性
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

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2003 10/8
情報・メディア、科学哲学、コミュニケーション論、文化論、越境系
まろまろヒット率4
マスコミ キャリア

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『悲しき熱帯』 レヴィ=ストロース著&川田順造訳 中公クラシックス 上下巻 2001(原著1955)04.17.02

HPを立ち上げてから興味を持った分野の本をようやく読み終えた、
らぶナベ@引用も長いのでさっそく本題・・・

『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース著&川田順造訳
(中公クラシックス上下巻)2001年初版(原著1955年初版)
文化人類学の古典。
1930年代当時まだ現存していた南米先住民の生活&風習の研究を通して
不条理にみえる神話や風習にも全体を貫く一定の構造があるのだ
と主張する構造主義を確立したとされる本。
(この視点は様々な分野に影響を与えたので読書カテゴリも豊富)

この本は僕にとっては初めて読む文化人類学本でもある。
HPを立ち上げて以来約9ヶ月の間、ネットビジネスやネットをめぐる
法的問題に触れたり考えたりする機会が必然的にめぐってきていたが
その度に「そもそも今の経済学、経営学や法学の理論や概念では
ネットという存在を捉えきれないのでは」という違和感を感じていた。
そんな中で民俗学や人類学を学ぶ知人の影響もあって
これらの分野の視点がネットを考えるヒントになるのでは
と思って購入することになった一冊。

僕は今まで馴染みのない分野に触れる時にはまず何冊か入門書を読んで
その分野の全体像を把握してから古典や専門書を読むという手法を取ってきたが
(法律関係カテゴリ参照)
この分野についてはいきなり古典から入った。
タイトルフェチの僕にとって非常にひかれるタイトルだったからだ。
この本は何よりもまずタイトルが良い。
学術書なのに「悲しき熱帯」(原題”Tristes Tropiques”)とは素敵すぎ。

学術書とは思えない読みやすそうなタイトルだが実際に読み始めると・・・
「これは学術書なんだ」と思わないとやってられないくらい読みにくかった(^^;
そもそも南米の先住民研究にはなかなか入らないし、
断片的な旅行談や詩や戯曲、はたまた新聞の広告やらがいきなり出てきたりする。
そういう構文上の問題に加えて著者の後向きな姿勢が読みにくさを助長した。
後向きな姿勢であってもそれが根拠に基づいているものであれば納得できるのだけど
訳者も前書で「明らかな飛躍や矛盾はある」とわざわざ断りを入れているほど
根拠がなかったり不必要だったりするものも多くて読んでいて疲れた。
特に当時の発展途上国の人々やイスラム教に対する不理解な偏見は
著者がまだ生きてるだけに訂正しても良いのではと余計な心配までしてしまった。
また著者は皮肉屋さんらしくブラックジョークらしきものがよく出てくるのだけど
21世紀の始めに生きる日本人の僕にはどこで笑っていいのかわからなかった。
やはり正確性を欠くマイナス思考っていうのは付き合いにくい。
この本は「20世紀を代表する本のひとつ」という触れ込みだったが
果たしてこの本が数世紀後も人類を代表する本のひとつ
と言われるのかどうかは疑問に思ったりもした。

構文的にも感性的にも読みにくさを感じていたがせっかく読み始めたのに
途中放棄するのはもったいないので諦めずに読み進めると
第五部「カデュヴェオ族」(上巻254P)からようやく面白くなった、
っというかこれからが本題。
一見、原始的で素朴に生きていると思える文明化されていない社会でも
そこには人間関係や生活様式を含めた厳格な社会システムが存在している。
社会的機能や構造が存在することは政府や法律などの
「高度な社会システム」があるとされる先進国の国家と変わらない。
・・・ということを先住民への調査を通して証明している。
特に着衣を一切せずに移動しながら生きるナンビクワラ族を調査している第七部では
このような考えられる限り一番原始的な社会生活を送っている人々の間でも
機能としての一夫多妻制を利用した社会システムや厳格な掟が存在してるとされる。

僕はこの本を実際に手に取る前から何が「悲しき」なのだろうかと思っていた。
ナチスによるユダヤ人迫害から逃れなくてはならなかった著者の気持ち、
破壊されつつある先住民社会への思いなど、いろいろな解釈があるだろうが
僕はこの第七部を読んで人間関係のわずらわしさというのは
人が誰かと関係を持って生きる限りどのような形の生活であっても生まれるという、
そういう悲哀のようなものが「悲しい」んだなと感じた。
振り返って20世紀初めの日本を見てみても、
無秩序で好き勝手にしているように見えるネット上の掲示板でも
煩わしい関係から逃れようとした人々の集まりでも
(宗教や田舎、海外や不良などの反社会集団に逃げたとしても)
やはり明文&暗黙に関わらず一定のルールや機能的関係が存在している。
そういう「悲しさ」があるのだということを感じる本だと解釈した。

そんなこんなで以下は注目してチェックした部分の引用(注目度順)・・・

☆人間があれば言葉があり、言葉があれば社会がある(略)
ポリネシアの人たちは社会を作って生きていたことにおいて我々以下ではなかった
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

☆全裸で暮らしている民族も私たちが羞恥と呼んでいる感情を知らないわけではない。
ただ彼らは、その境界を違ったところに設定しているのだ(中略)
むしろ平静か興奮しているかのあいだにおかれている
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

☆村を成しているのは土地でも小屋でもなく
すでに記述したような或る一つの構造であり、
その構造をすべての村が再現するのである
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

☆一夫多妻婚とそれに付随する特別の資格は、
首長が責務を果たすために集団が彼に供与している便宜という意味をもっている。
首長一人きりだったならば他の人たち以上のことをするのは極めてむずかしい
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一夫多妻の特権がどれほど性的、情緒的、社会的に見て魅力あるものであろうと、
それだけでは首長の仕事を志望する十分な動機にはならない(略)
一夫多妻婚は、権力のむしろ技術的な条件である(中略)
人間は、みな同じようなものではない。
社会学者が何でもかんでも伝統によって圧し潰されたものとして描いて来た
未開社会においてさえこうした個人の差異は、
「個人主義的」と言われている私たちの文明におけるのと同じくらい
細かく見分けられ、同じように入念に利用されている
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一つの民族の習俗の総体は常に、或る様式を認めることができる。
すなわち習俗は幾つかの体系を形作っている(中略)
観察された、あるいは神話の中で夢想された習俗のすべて、
さらに子供や大人の遊びのうちに表されている習俗、
健康なまたは病気の人間の夢、精神病患者の行動、
それらすべての一覧表を作ることによって、
丁度元素の場合のように一種の周期律表を描くことが可能になる
<第五部「カデュヴェオ族」”先住民社会とその様式”>

☆人類の歴史の最も創造的な時期の一つは、農耕、動物の家畜化、
その他の技術を生んだ新石器時代の到来期(中略)
新石器時代には、人類は文字の助けなしに巨歩を進めたのである(中略)
文字の出現に忠実に付属していると思われる唯一の現象は、
都市と帝国の形成つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、
それら個人のカーストや階級への位付けである
<第七部「ナンビクワラ族」”文字の教訓”>

☆北米先住民の社会的警察機能について・・・
現地人の誰かが部族の掟に背くようなことがあれば、
彼はその全財産(略)を破壊することによって罰せられる。
しかし同時に(略)罰せられたために蒙った被害を共同で償うべく、
警察が音頭をとらなければならない。
この補償のために罪人は集団に恩を受けたことになり、
彼は贈り物によって集団に感謝の意を表さなければならないが、
この贈り物は警察自身も含む集団の全体が彼に力を貸して集めたものなので、
またもや関係が逆転することになる(略)
贈り物と返礼の長々しい遣り取りの果てに、
前の無秩序が消えて最初の秩序が回復されるまで続くのである
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

○私は旅や探検家が嫌いだ
<第一部「旅の終わり」”出発”>

○問題は、真実と虚偽を見出すことにあるよりも、
むしろ人間がいかにして少しずつ矛盾を克服して来たかを理解することにあった
<第二部「旅の断章」”どのようにして人は民俗学者になるか”>

○或る皮肉屋がアメリカを定義して、野蛮から文明を経ないで退廃に移行した国だ、
と言った。この定義は新世界の都市にむしろ当て嵌まるかもしれない
<第三部「新世界」”サン・パウロ”>

○都市というものは自然と人口の合流点に位置しているのである。
(中略)都市は自然としては客体であり、同時に文化としての主体である
<第四部「土地と人間」”開拓地帯”>

○聖と俗の二者を対置させることは(略)
絶対的なものでも持続的なものでもないのである
<第五部「カデュヴェオ族」”ナリーケ”>

○或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、
結局のところ生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、
美化し、正当化する努力に他ならない
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

○組織化の弱い社会では(略)傾向も暗幕の了解のうちに留まっているので、
背後に意味を含んだここの行動を総合してかんがえなければならない
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

○気前の良さは大部分の未開民族において(略)権力に本来付随したものである
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○「契約」と「同意」は社会生活を構成する原料
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○人間はその枠の中で位置を変えながら、
彼がすでに占めたことのあるすべての位置と、
彼が占めるであろうすべての位置を自分と共に持ち運ぶ。
人間は同時に至る所にある。
人間は諸段階の全体を絶えず要約して繰り返しながら一列になって進む群れである
<第九部「回帰」”チャウンを訪ねて”>

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2002 4/17
文化人類学、社会学、哲学、文化論、組織論、情報関連、歴史、文学、宗教学
まろまろヒット率4
マスコミ キャリア

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『Eureka! 哲学がわかった!』 鷲田小彌太著 日本実業出版社 200112.24.01

これが2001年最後に読み終えた本になる、
らぶナベ@今年最初に読んだ本がデカルトの『方法序説』だったので
21世紀最初の年は哲学書に始まり哲学書に終わった年になった。
総数は18冊、予備校の課題や院の研究でほとんど通読はできなかった(^^;

さて本題・・・
『Eureka! 哲学がわかった!』鷲田小彌太著(日本実業出版社)2001年初版。
哲学史の流れや主な議論を一通り知りたかったので購入した一冊。
これ系の本はいろいろあって書店で迷ったが、
脳死や情報化といういま現在のテーマに積極的に取り組んでいる
著者が書いた本だという点と索引が充実している点でこの本を選んだ。

哲学や論理(思考法)を誇る人間は自分が一番正しいと思う癖があるからか、
自分の思考の射程を自覚しない幼稚さや見苦しさを感じることがある。
中学の時に一人はいた嫌な教師を見るようで
「こんな風にはなりたくないな」と思ったりすることも多々あるが
この著者はその点をかなり自省していて彼の視点の説得力と好感を感じる。
(本当の思考&論理とはこうではなくてはと思う)

著者は自分の処女作が世に受け入れられなかったことについて
他人のバカさ加減を嘆くでもなく萎縮するでもなく、
「考えは間違ってなくても表現が悪かった」と素直に捉えて
ベストセラーライターになり結果として処女作が哲学の古典となった
ヒュームにかなり好感を持っているようだがその姿勢が伝わってくる。

そのためか現代的なテーマである情報化やネットについては・・・
・考える前の作業(哲学以前)をコンピュータがやってくれるのが情報化社会
 →広く、深く考えられる時代が万人に開かれている

・ネットなどの情報化社会は言葉が飛翔可能な世界
 (言葉だけで解決ができる社会)
 →言葉の生産者になって=哲学者になって
 この社会を真正面からいききと生き抜いてみようではないか
・・・と積極的に捉えようとしている。
この点は今年の夏にHPを立ち上げて僕自身が実感していたことでもあったので
この実感に言葉を与えてくれたのには嬉しかった。
これだけで僕にとっては評価★★★★(^^)

そして哲学の定義については・・・
・哲学とは考えることを考えること(thinking of thinking)

・諸科学はその分野に特有の見方(パラダイム)を持っていて
 科学者たちはそのパラダイムを当然の前提にする
 ←哲学はそのパラダイムのあり方それ自体考察対象にする

・哲学者は言葉のアーティスト、哲学は思考の技術

・哲学(philosophy)の語源はピタゴラスが
 「私はsophos(知ある者)でなくphilosophos(知を愛する者)だ」
 と答えた伝説にある←西周も当初は「希哲学」と翻訳していた

・哲学の最高で根本的課題とは真の存在は何かを問うこと
 +それをどのように知ることができるかを明らかにすること

・哲学することはどんな困難な問題を考えるときも
 考える快楽を持ち続けることである
・・・という風な表現を使って端々で触れている。

また、コラムで『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)の話があったのにも
興味を引かれたが特に本文で紹介した哲学者たちそれぞれの死に様を
巻末付録として掲載していたのは”哲学者”だけに興味深かった。
なかなかツボを押さえた一冊と言える(^^)

以下はその他にチェックした箇所・・・
・どんな鋭利なものも一部の人間の間でしか通用しなければ意味がない
 →哲学は流行を嫌うが流行した哲学が生き残った

・驚きは哲学の始まりと言ったのはソクラテス

・近代西洋は血縁的には無縁に近いギリシア文化を
 自分たちの先祖として自分のものにした
 (エジプト・メソポタミアが当時イスラム圏だっため)

・近代哲学が合理主義と言われるのは人間の理性を正しく発揮できれば
 真理の認識に到達できるという姿勢から→合理主義≒人間主義

・ヒュームは苦労して出版した処女作『人間本性論』が全く売れなかった
 →普通は世のバカさを呪ったりするが自分の考えは間違っていなくても
 その表現が悪かったと考えて広く読まれるような形に書き直して出した
 →ベストセラーになりその結果処女作が哲学の古典とされるようになった

・共に「無意識」に注目しそれを「コントロール」しようとする姿勢を持った
 マルクスとフロイトの共通点を挙げて・・・
 マルクス主義が猛威を振るった時代が「戦争と革命」の時代
 →フロイトの精神分析が猛威を振るう時代が
 「神経症と心のケアの時代」と言われるのは何とも皮肉

・レヴィ・ストロースによれば科学には二種類がある
 =野生の思考(神話的思考)といわゆる科学
 →さらに加えるならコンピュータは科学の産物だが
 その思考法は任意の組み合わせと並べ替えという神話的思考の典型

・歴史は事実の集積ではなく書かれたもの
 →自分を考えるとは自分の物語りを持つこと

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2001 12/24
哲学
まろまろヒット率4

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『方法序説』 デカルト著・谷川多佳子訳 岩波文庫 1997(原本1637)01.02.01

これが21世紀に最初に読んだ本になる、
らぶナベ@この本を読み終えてから感じたことだけど
21世紀の始めに読んだ本が17世紀の本っていうのもちょっと不思議(^^)

さて、『方法序説』デカルト著・谷川多佳子訳(岩波文庫)
1997年初版(原本1637年初版)。
「我思う、故に我あり」の人が書いた本。
(我ながらおおざっぱな説明だなぁ(^^;)
現在の哲学や思想学は彼に対する批判から発展していったらしく、
なにかとよく眼にする人なので一度は読んでみようと思って買った一冊。
読んでみるとちょっと嫌味なやつだなって思うような記述がちらほら。
謙遜しながらも自分ほど勉強したやつはいないとそこら中で公言したり、
論文を公表しない言い訳に多くの記述を使っているのにはちょっとうんざり。
(「公開」を否定的に捉える点は21世紀には向いていない考えだね(^^))

肝心の内容の方はというと結局のところデカルトの言う「方法論」とは、
三つの規則から成る「方法」とそれを達成するための四つの格率から成る
「道徳」が合わさってできたものだということにつきる。
まず「方法」・・・
・第一は、私が明証的に真であると認めるのでなければ、
どんなことも真として受け入れないこと(明証性の規則)。
・第二は、私が検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、
しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること
(分析の規則)。
・第3は、私の思考を順序にしたがって導くこと(総合の規則)。
・最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、
なにも見落とさなかったと確信すること(枚挙の規則)。
・・・(この方法のおかげで)どれから始めるべきかを探すのに、
私は大して苦労はしなかった。
もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだと、
すでに知っていたからだ。

・・・それを支える「道徳」・・・
理性が私に判断の非決定を命じている間も、
行為においては非決定のままで止まることのないよう、
そしてその時からもやはりできるかぎり幸福に生きられるように、
当座に備えて、一つの道徳を定める。
(中略)それは三つ四つの格率から成る・・・
・第一の格率は、私の国の法律と習慣に従うこと。
(その中で一番穏健なものを選ぶ)
・第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、
どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、
きわめて確実な意見であるときに劣らず、一環して従うこと。
(一度決めたあとはその意見を、実践に関わるかぎり、
もはや疑わしいものとしてでなく、
きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない)
・第三の格率は、運命よりもむしろ自分に打ち克つように、
世界の秩序よりも自分の欲望を変えるようにつねに務めること。
・最後にこの道徳の結論として、この世の人々が携わっている
さまざまな仕事を一通り見直して、最善のものを選び出すこと。

・・・以上がこの本の根幹&デカルト哲学の基本。
ううん、確かに突っ込まれやすい方法論だけど
そこに明確な真実性は感じることができる。
数世紀を超えて読み継がれる価値のある一冊であることは確かだろう。

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2001 1/2
哲学
まろまろヒット率5

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『うその自己分析―虚感の時代を生きる』 折橋徹彦・杉田正樹著 日本評論書 199910.31.00

NHK総合でいま一番あつい番組、『プロジェクトX』
マニアのマニアによるマニアのための番組だと思えてならない、
らぶナベ@あの痛さが最高っす!

さて、『うその自己分析~虚感の時代を生きる~』
折橋徹彦・杉田正樹著(日本評論書)1999年初版。
社会心理学者(第1部)と哲学者(第2部)による嘘に関する共著。
嘘が良いとか悪いとかいう倫理観ではなくどうして嘘をついたのか、
その背景には何があるのかという科学的アプローチを持って
嘘と接する必要がある仕事をする予定なので読んでみた。
これは以前読んだ『人はなぜウソをつくのか』渋谷昌三著(河出書房新社)
1996初版を読んだ時と同じ動機からだが精神医学的な視点で書かれた
『人はなぜウソをつくのか』と違って、この本はエッセイ風になっている。
(自然科学と社会・人文科学との本質的な差でもあるのだろうけど)

特に哲学者が書いた第2部は純粋な読み物としてもとても面白く感じた。
例えば「世界一の美女はいたのか、それともいなかったのか」
というエピソードはドイツの捕虜収容所でフランス兵が
「この独房に世界一の美女がいることにしよう」というルールを決めて
活き活きと生活しているのに対して
捕虜収容所の所長がその世界一の美女を連行しようとし、
またフランス兵たちがそれに抵抗するというものだ。
世界一の美女なんていなかったに決まっているが、かといって
彼らを動かしていたのが世界一の美女であるのことも事実だ。
そしてこれこそが宗教や神や真理、社会原理だと言っている。
「意味は、意味であるが故に無意味である、と言える。なぜか。
ゲームがルールによって支えられているように、
意味が成り立つのは、それを支える広い意味での文法があるからだ・・・
意味は、最終的な文法がない以上、宙づりになっている、ということだ」
という風に結論づけているが妙に印象に残っている。
身近なエピソードだけでなく各哲学者の嘘に対する接し方を紹介するなど
哲学入門としてもすごく良い本ではないだろうかとも思った。
社会心理学の視点で書かれた第1部も面白かったがどうせ非科学的ならば
割り切って人文科学的なアプローチに徹したこの第2部の方が説得的だった。

基本的に僕は社会・人文科学的な心理学のアプローチには
どうも説得力が欠けると感じる傾向があるけれど
この本は読み物としても面白かったし、倫理的ではなく事実的として
嘘を考えるきっかけとして良い本だった。
けっこうお薦めかもしれない。

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2000 10/31
心理学、教育学、社会学、哲学
まろまろヒット率4
心理学 キャリア

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『数学の秘かな愉しみ』 K.C.コール著、大貫昌子訳 白揚社 199908.27.99

『数学の秘かな愉しみ』(原題”THE UNIVERSE AND THE TEACUP”)
K.C.コール著、大貫昌子訳(白揚社)1999年初版を読み終えました。

もともと自分でも笑ってしまうほど数学的センスが無いのに加えて
数学的視点や思考に対して不慣れなために読もうと思った一冊。
この前、大阪に来た北陸先端科学技術大学大学院の南さんに
「数式とか入って無くて簡単に読めて内容も面白いけど
ちゃんと数学的なものの見方が分かる本ないっすか?」
というかなり舐めた条件を提示して薦めてもらった本。

内容の方は普段、単なる数や数式の猥雑さにばかり眼を奪われて
見失ってしまっている数学的な(≒論証的な)アプローチについて
ごく日常のできごとや普段の生活の中の話題から例を使って説明している。
そこから「確率って結局何なのか?」、「統計ってどういうものか?」、
「証明とはどこまでの真実を約束するものか?」という
僕たち素人が考えるいかにも数学的なネタから始まり
そこからさらに「常識とは何を指しているのか?」、
「事実とは何を示しているものなのか?」、
「生きるということはどういうことなのか?」、
「真実とはなにをもって言うのか?」そして最後は「真理とは何か?」
というとても深い話まで展開していく構成になっている。
哲学的技法としての数学を使って一見何のつながりもなさそうな
宇宙の真理と日常の日々を無理なくつなげてまとめているすごい本。
(まさに”THE UNIVERSE AND THE TEACUP”の原題通り)
この本のすごさは何といっても独りよがりな妄想に走りがちな
このような哲学的なネタに科学者たちの悪戦苦闘を紹介することで
決定的な説得力を持たせているところだろう。
数学的思考というスキルを鍛える目的で読み始めたが
純粋な読み物としてとても面白い上に転換ということを考えさせてくれる。
読み終わってみて自分の頭が勝手につくりあげた狭い狭い常識に
いかに凝り固まっていたのかということを痛感させられた。
僕が単にこういう数学的論証に慣れていないから
特にそう感じているだけかもしれないが良い本と言える一冊だろう。
そう思ってふと、読書録を振り返ってみると大学に入ってから
ちゃんと一冊通して読み終えた純粋に理系の本と言えるものを選定してみると
『はじめての統計学』鳥居秦彦著(日本経済新聞社)
『システム科学入門』北原貞輔著(有斐閣ブックス)
『数学的思考』森毅著(講談社学術文庫)
『化学入門』原光雄著(岩波新書)
『図解雑学 算数・数学』大矢浩史監修(ナツメ社)
・・・と、この本を加えてもたったの5冊(全181冊中)。
つまり基礎的知的活動である読書の36分の1しか
数学・理学系の本に使っていないということになる。
「そりゃあダメなのは仕方ないな」とけっこう反省した。

また、内容の方では論理展開の根底には数学が流れている本なので、
部分部分の抜粋はあまり意味が無いだろうけど
それでも一部分だけでもとても興味深かったのは
「何でこんなところに数学が?」の章の中での
物理学者リチャード・ファインマンの言葉・・・
「必要なのは『なぜそれがわかるのか?』とか
『どの証拠に基づいているのか?』『他の何と比較しているのか?』とか、
おそらくすでに頭の中にあった疑問を口に出して言う自信だけである。」
「科学とは自分をいかに騙さないようにするかを学ぶ長い歴史である。」
・・・としているのは僕も意識していきたい気がする。

それだけでなく「当たらない予測を科学する」の章で、
「『理論は予測する』・・・これは現在の予測を指しているのだ。」
「科学予測は、言うなれば天気予報というより
むしろ思考の流れのようなものだ・・・
予測は理解への道を照らす道標であって、ゴールの目印ではないのだ。
・・・つまりどのように、なぜ?を理解するのであって、
いつ、どこに?ではないのだ。」
「科学が特に予測に優れているのは、何といっても
いわゆるパターン認識だろう・・・科学の畠で予測をあまりにも
重要視したことが、おそらく大衆の科学不信を招いたのではないか。」
(物理学者オッペンハイマー)
・・・というものがあった。
これをおさえていないと科学に対する
過度の期待や不信を生んでしまうんだろう。

加えて「偶然、必然、O・J・シンプソン」の章では・・・
「証明とは何かがほんとうかどうかを確かめることではなく、
『その背後にある主張のあいだの論理的関係』を明らかにすることなのだ。」
・・・ということを強調した上で法廷の証拠として科学的実証が
求められることについて科学史家ポーターの主張・・・
「法廷では、科学ではとうてい不可能な基準を要求される・・・
法廷では科学者がまるで機械のようにふるまうことを期待しているけれども、
そんなことをすれば結論などだせたものではない。」
・・・法廷では科学者グループの総意を結論として扱うが・・・
「総意とは、正しい意見というわけではなく、ただの合意にすぎない。」
・・・というのを紹介しているのは科学的実証が証拠として
より認められていくだろう今後も意識して注目していかなくてはいけない点。

「量が質に転換するとき」の章では「覆り点」について・・・
「だがその臨界点に達したとき、ほんのわずかな変化が大々的な効果を
現わすのだ。ただしその決定的な境界に達するまでは、
かなり大きな変化さえも、
がっかりするほどのわずかな効果しか現わさない。」
・・・としているのは何でもやるにはかなりの粘りがいる
ということの科学的証明だろう。

そしてこの本の結論的な部分である「真理の不変性」の章では・・・
「自分が見ているものと、そこで起こっているできごととの関係を
理解するためには、自らの準拠の枠(立場や主観性、見る時の状況など)
の影響を足すか引くかしなくてはならないのだが、
ほとんどの人は自分がそんな準拠の枠などというものを持ち歩いているとは、
まったく意識していない。」・・・と、いままでこの本の中で
科学的試行錯誤を紹介した後に言っているのは説得力がある。
「人々はよく正しいとか間違っているとか言って言い争うけれども、
本当は正誤というより、準拠の枠の違いを言い争っていることが多い。」
「さまざまなものの見方は、見るものが自分の立っている枠の種類と、
自分が見とおしている光景の力を理解している限り、
それぞれがさらに新しい洞察を加えていくことになる。」
「浅薄な真理の逆は誤りだ。だが深遠な真理の逆は、やはり事実である。」
・・・としているのは説得性がある。

また、この「真理の不変性」の章では音楽家兼数学者のロススタインの言葉
「対象性をさがしているときの私たちは『どの面を最も重要と考え、
どの面を関係ないことと考えるかを定義しているのだ。』」に加えて・・・
物理学者ヴァイスコップフの言葉・・・
「科学で美しいものは、ベートーヴェンに感じられる美しさと
まったく同じものなのだ・・・さまざまなできごとのもやのなかに、
突然つながりが見えてくる。それは絶えずわれわれの心の奥底に
ひそんでいながら、一度も結びついたことのない、
複雑なことがらのつながりを表しているのだ。」
「自然の秘密はシンメトリ(対象性)にある・・・ただしこの世界の質感は、
シンメトリの破れの機構からくるのだ。」
・・・というのはとても深いが説得性がある。

それほど主要な箇所ではないが注目してしまったのが、
「こんなに危ないことをしているあなた」の章で・・・
例えばタバコに1万8250箱中、一本ずつタバコ型の爆弾が入っていれば
絶対に発売禁止になる。それは一日に3000万箱ずつ売れるとすると
一日平均1600人が確実に死ぬからだ。しかしそれ以上の人間が
確実にニコチンの害とわかっている原因で死んでいる。
このようなことから心理学者ワインスタインが・・・
「人が自分に降りかかりそうなリスクを何とか小さく見積もろうとする努力は
まさに涙ぐましく、それこそ『独創的』とも言えそうだ。
・・・おそらくこれは自尊心を守ることと関係がありそうだ・・・
『自分がリスクにさらされていることを認めることは、
とりもなおさずストレスを処理できないこと、
つまり他の人ほど強くないことを認めるようなものだからだ。』」
・・・として危機感への対処に心理的防御機能が働くことを述べている点だ。
これに関して人類学者コナーは「おそらく人間の脳は、もともと現代生活の
リスクを念入りに計算するようにはできていないのかもしれない。」
「私たちの知的器官というものは、珍しく強く情に訴えてくるような危険、
突飛で劇的な危険向きにできているのだ。」
・・・としたりしているが僕自身の経験からどう見ても
「このままだとぜったいヤバイやろう?」と思っても本人は
びっくりするほど危機感を受け入れようとしない人を見たことがあるが
これはこういったものなんだなと変に納得してしまった。

笑ってしまったのが「割れた卵はもとに戻るか」の章の
最後の方でクラウジウスの・・・
「生命とは自然に反するふるまいの常として、何か強い力によって、
あるエンジンが正常のふるまいの法則を逆行させえた結果に他ならない。
(熱は普通高温から低温へと流れるものである)」ことから・・・
「なぜ生よりも死に勝ち目があるのかを悟り、
そしてそのゆえに生命には一つ残らず終わりがあること、
それも決して例外がないことを理解したのだった。」
・・・という確信を紹介してその締めくくりとして
ストッパード著の『アルカディア』をさらに引用して・・・
「彼はそのとき突然、ものごとが必然的に向かう方向は
無秩序しかないという、トマシナの数学的発見の重大さに気づいたのである。
・・・『そうですとも』とトマシナは答えた。
『ダンスに行くのなら急がなきゃ。』」・・・として終わっているところだ。

だいたいこういったところに興味を感じたが、
以下はそれ以外でチェックしたところ・・・
「優雅な果実」の章・・・
理論物理学者デーヴィッド・グロスによる言葉
「理由はともかく、自然は根底のレベルでは、必ず美を選ぶものだ。」
「量的な論証と質の高い人生を求める心とが決して矛盾しない・・・
そもそも質と量とを引き離すことはできないものなのだ。」

「何でこんなところに数学が?」の章・・・
物理学者フランク・オッペンハイマー
「ものごとを理解するということはセックスみたいなものだ。
たしかに実用的な目的はあるのだが、人はふつう目的のために
それを実行するわけではない。」
「数学は混乱した関係をはっきりさせるのに役立つ考え方である。
それは世界の複雑さを扱いやすいパターンに書きかえる言語とも言えよう。」

「こんなに危ないことをしているあなた」の章・・・
「切迫した危険は、はるか先にある危険よりずっと強い恐怖を呼び起こす。」
心理学者ツヴァースキーとカーネマンの共同研究
「ほとんどの人はたとえ大きな報酬をふいにしてまでも、
小さな危険を避けるのにやぶさかではない。
『何かを失う危険は同等の利益より、
はるかに強く人の判断を左右するものだ』と。」
「ところが行動にでる場合のリスクと行動しない場合のリスクの
どちらをとるかを判断するとなると今度は逆で、
実際には行動しないほうのリスクが大きいかもしれなくても、
やっぱり行動をとるため冒すリスクのほうがずっと大きく見えるものなのだ」

「男を測る、女を測る」の章・・・
「計測自体、実際にはそんなに簡単なものではない。
どんな場合もまず引き離せないものをむりやり離したり、
数えられないものを測ったり、
漠然としたものを定義したりする必要があるのだ。
おまけに測るという行為は、たいがいその対象物に影響を及ぼすものだし、
ときにはそれを壊してしまうことすらある・・・
何かを計るとき、得失は必ず相半ばするのだ。」

「なぜ惑星はみんな丸いのか?」の章・・・
生物学者グールド「それぞれの体内の時計で計れば、
どんなに大きさの違う哺乳動物でもみな同じ長さの
時間を生きていることになる。」

「干草の山に埋もれた信号」の章・・・
「そもそも事実というのは、それだけが完全に隔離されて汚れもなく、
すぐさま人に鑑賞され、ちやほやされるような便利な形で
現われてくることは滅多にない。」

「どちらからも文句のでない離婚条件」の章・・・
公平な分配について「その要点は、公平な分割といっても
単にものを等分するのではなく、さまざまな『競り手』が、分けようとする
当の対象にどれほどの価値を見ているかを考えることなのだ。」
→政治学者のブラムズと数学者のテイラーが導き出した「勝者調停」
→分割の対象物に各当事者が自分の好みによって100点ずつ割り当てる。

「神は親切な者の味方」の章・・・
囚人のジレンマを繰り返すコンピュータプログラムの対戦トーナメントで
優勝した協力を第一とするプログラムの特徴を一言で言うと・・・
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
さもなければ思い知れ!」
このことを踏まえて政治学者アクセルロッドは・・・
「長い目でみれば『親切でない戦略』は結局自らの成功に
必要な環境そのものを破壊してしまう・・・
戦略の一つが他の成功を羨んでそれを出し抜こうとすると、
たいていの場合結局自分の損になるのだ。」
「他人の成功が、実質上自分自身の成功の必要条件なわけだから、
他を羨ましがっても意味がない。」
ダーウィンの進化論に対するシミュレーションの結果を
微生物学者マーグリスの言葉を引用して・・・
「『適者』が生き残ることが多かったからといって、
必ずしもその『適者』が最も強く、
最も強引で最も多産だったことにはならない。
『適者』とは、あるいは自分の目的達成のため協力を利用することを、
最もよく収得できるものを指している」

「真理の数学」の章・・・
「不変の真理に到達する道は、皮肉にも自らの観点を
鋭く自覚することにある。」

「割れた卵は元に戻るか」の章・・・
確立論に決定的な役割を果たしたニューマンの確率論に対する要点
「偶然という概念全体が、単に無知を婉曲に言っただけのことなのだ。
ただし偶然には規則性がある。」

相関関係について一卵性双生児を別々の環境で育ててみても
似たような育ち方をする実験結果について遺伝学者ローズは・・・
「血が続いていようといまいと、
とにかく対象は同時代に育った人々なのだ。」
・・・そこから「相関関係は、要するにそこに何か関係が
あるかもしれないことを暗示しているにすぎない。
一つのことがもう一つのことを引き起こすという
原因結果の信頼できそうな機構なしには、
相関関係などまずほとんど役には立たない。」
児童保護財団のスミスの言葉「僕らの脳には統計的才能に欠けている」

「偶然、必然、そしてO・J・シンプソン」の章・・・
物理学者リヒター「われわれの社会では、科学的な発表とは、
データの確率的な解釈であることが多い」
→「科学的な真理とは、必ず暫定的なものなのだ。」
これに加えて物理学者ハラリ「どんな計測であれ、
ある意味ではすべて近似値である」、
数学者クライン「矛盾の代価は不完全さだ」
・・・これをさらに展開させて・・・
「そもそも自然の法則も含めた最高の法則が不変であるからには、
法的概念も不変であるべきだと人は考えがちだ。
多数決とか武装する権利のような概念はドグマに凝り固まったあげく、
それが自然の法則が科学の方法に従っているものとして、
正当化されているようにさえ見える。
しかし自然の法則がドグマであることはまずない。
だいいちそれははっきり定義された限界のなかだけに通用するのだ。」
「諸法則が思いがけず新しい情況内で働くとき、
ルールが以前と同じでなくてはならない理由などどこにもない。
だから人間の脳などという複雑怪奇なところに、
単純な論理の法則があてはまらないのは当然だ。
地球上ですら平行線は湾曲した面では交わるのである。」

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1999 8/27
数学、自然科学、哲学
まろまろヒット率5

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『マキアヴェッリ語録』 塩野七生著 新潮文庫 199207.10.99

僕はいい加減な人間だからどんなものにフリーライドすることになっても
良いと思うけど自分の人生に対してだけはフリーライダーには
ならないでおこうと思っている、らぶナベっす。

さて、そういうことも考えさせられた『マキアヴェッリ語録』
塩野七生著(新潮文庫)1992年初版の感想をば。
著者はヴェネツィアをえがいた名著『海の都の物語』で有名な作家。
女流作家には珍しくドライな視点と綿密な資料による裏付けを持ち、
だからと言って小さくまとまってはいないという
(彼女の描く男たちはみんなカッコ良い!(^^))
現在生きている歴史小説家の中では一番信頼できる本を出してくれると
僕が勝手に独断と偏見で思っている作家の一人。
現在はイタリアに住んでいて毎年一冊づつ、『ローマ人の物語』を出版している。
これも歴史に残る名著になりそうな流れ、いつかは読破してやろう(^_^)

この『マキアヴェッリ語録』自体はマキアヴェッリの本の完訳でも
要約でも解説でもない「抜粋」という形を取ってまとめられている。
抜粋集からさらに抜粋するというのも変な感じだが、
この本の中で一番僕が印象に残り気に入ったのが・・・
☆天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。
『手紙』
→これはまさにマキアヴェッリらしいというかルネサンス期の
時代空気そのままといった感じの言葉、カッコ良いので気に入った(^^)

それと我が意を得たりと思った・・・
☆困難な時代には、真の力量(virtu)をそなえた人物が活躍するが、
太平の世の中では、財の豊かな者や門閥にささえられた者が、
わが世の春を謳歌することになる。
『政略論』
→つまり現代は僕が活躍できる可能性がちゃんと用意されているってこと、
生まれてくる時代は間違わなかったなとニヤリとできた箇所(^o^)

その他でこの抜粋集からさらに僕が抜粋したものが以下、
例のごとく「☆」重要と思い「○」が単なる抜粋、
「→」はそれに対する僕のコメント、
「☆」の抜粋に関しては印象深いものから順番を変えた・・・

☆決断力に欠ける人々が、いかにまじめに協議しようとも、
そこから出てくる結論は、常にあいまいで、
それゆえ常に役立たないものである。
また、優柔不断さに劣らず、長時間の討議の末の遅すぎる結論も、
同じく有害であることに変わりない。
・・・多くのことは、はじめのうちは内容もあいまいで不明確なものなので、
これらをはじめから明確な言葉であらわすことはむずかしい。
だが、いったん決定しさえすれば、
言葉など後から生まれてくるものであることも忘れてはならない。
『政略論』
→時々忘れてしまうが緊急の時には決して忘れてはいけないところだろう。

☆なにかを為しとげたいと望む者は、それが大事業であればあるほど、
自分の生きている時代と、自分がその中で働かねばならない情況を熟知し、
それに合わせるようにしなければいけない。
時代と情況に合致することを怠ったり、また、
生来の性格からしてどうしてもそういうことが不得手な人間は、
生涯を不幸のうちにおくらなくてはならいないし、
為そうと望んだことを達成できないで終わるものである。
これとは反対に、情況を知りつくし、時代の流れに乗ることのできた人は、
望むことも達成できるのだ。
『政略論』
→時代性を読みとる力が決定的な差になるという彼らしい言葉だろう。

☆幸運に微笑まれるより前に、準備は整えておかねばならない。
『戦略論』
→これは雌伏の時を過ごしている僕にとっては忘れてはいけない言葉。

☆運命が、われわれの行為の半ばは左右しているかもしれない。
だが、残りの半ばの動向ならば、運命もそれを、
人間にまかせているのではないかと思う。
『君主論』
→ドライな視点が決してギスギスしている訳じゃないということを
教えてくれる言葉。

☆人の為す事業は、動機ではなく、結果から評価されるべきである。
『政略論』
→彼の現実主義的な特徴はこの一言に要約されているだろう。

☆思慮だけならば、考えを実行に移すことはできず、
力だけならば、実行に移したことも継続することはできない・・・
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』
→バランスってやつ。

☆必要に迫られた際に大胆で果敢であることは、
思慮に富むことと同じと言ってよい。
『フィレンツェ史』

☆運命がなにを考えているかは誰にもわからないのだし、
どういうときに顔を出すかもわからないのだから、
運命が微笑むのは、誰にだって期待できることであるからである。
それゆえに、いかに逆境におちいろうとも、
希望は捨ててはならないのである。
『政略論』

☆(大事業を提唱する際の危険性を避ける方法として)
つまり提唱者は自分であるということを明示してはならず、
そのうえ、提唱する際にも、やたらと熱意をこめてやってはならない。
この種の配慮は、たとえあなたの考えが実行に移されても、
それは彼等が自身で望んだからであって、
あなたの執拗な説得に屈服したからではないと、思わせるためなのである。
・・・第一は、危険を一身に負わなくてもよいということである。
第二は、もしもあなたの提唱する考えが容れられず、
代わりに他の人の案がとりあげられ、それが失敗に終わった場合、
今度はあなたが先見の明があったということで賞賛される・・・
『政略論』
→ちょっとせせこましい気もするが一考する価値はある、
なにしろでかいことをやるのには体力と時間と精神力がかかるから
こういうスタンスで参加しても良いのだろう。
ちょっとスケールは小さくなるだろうけど(^^;

○個人の間では、法律や契約書や協定が、信義を守るのに役立つ。
しかし権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである。
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』

○君主(指導者)は、それをしなければ国家の存亡にかかわるような場合は、
それをすることによって受けるであろう悪評や汚名など、いっさい気にする必要はない。
・・・たとえ一般的には美徳(virtu)のように見えることでも、
それを行うことによって破滅につながる場合も多いからであり、
また、一見すれば悪徳のように見えることでも、その結果はと見れば、
共同体にとっての安全と反映につながる場合もあるからである。
『君主論』
→ここらへんはいかにもマキアヴェッリらしい

○思慮深い人物は、信義を守りぬくことが自分にとって不利になる場合、
あるいはすでに為した当時の理由が失われているような場合、
信義を守りぬこうとはしないし、また守りぬくべきではないのである。
『君主論』

○人間というものは、自分を守ってくれなかったり、
誤りを質す力もない者に対して、忠誠であることはできない。
『若干の序論と考慮すべき事情をのべながらの、資金援助についての提言』

○わたしは、愛されるよりも怖れられるほうが、
君主にとって安全な選択であると言いたい。
なぜなら、人間には、怖れている者よりも愛している者のほうを、
容赦なく傷つけるという性向があるからだ。
『君主論』

○共和国において、一市民が権力を駆使して国のためになる
事業を行おうと思ったら、まずはじめに人々の嫉妬心を
おさえこむことを考えねばならない。
・・・第一は、それを行わなければ直面せざるをえない困難な事態を、
人々に納得させることだ。
・・・第二の方策は、強圧的にしろ他のいかなる方法にしろ、
嫉妬心をもつ人々が擁立しそうな人物を滅ぼしてしまうことである。
・・・人々の嫉妬心が、善きことをしていれば自然に消えていくなどとは、
願ってはならない。邪悪な心は、どれほど贈物をしようとも、
変心してくれるものではないからだ。
『政略論』

○君主は、自らの権威を傷つけるおそれのある妥協は、
絶対にすべきではない。たとえそれを耐えぬく自信があったとしても、
この種の妥協は絶対にしてはならない。
なぜならほとんど常に、譲歩に譲歩を重ねるよりも、
思いきって立ち向かっていったほうが、たとえ失敗に終わったとしても、
はるかに良い結果を生むことになるからである。
『政略論』

○優秀な指揮官とは、必要に迫られるか、
それとも好機に恵まれるかしなければ、けっして勝ちを急がないものである。
『戦略論』

○武装していない金持ちは、貧しい兵士への褒賞である。
『戦略論』

○思慮に富む武将は、配下は将兵を、
やむをえず闘わざるをえない状態に追い込む。
『戦略論』

○人は、大局の判断を迫られた場合は誤りを犯しやすいが、
個々のこととなると、意外と正確な判断をくだすものである。
・・・つまり、大局的な事腹の判断を民衆に求める場合、
総論を展開するのではなく、個々の身近な事柄に分解して説明すればよい。
『政略論』

○民衆というものは、はっきりとした形で示されると
正当な判断をくだす能力はあるが、理論的に示されると、
誤ること多し、ということである。
『政略論』

○衆に優れた人物は、運に恵まれようと見離されようと、
常に態度を変えないものである。
『政略論』

○どうすれば短所をコントロールするかが、成功不成功の鍵となってくる。
『政略論』

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1999 7/10
名言集、哲学
まろまろヒット率5
スピリチュアル

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