Archive for the ‘情報・メディア’





『新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く』 アルバート=ラズロ・バラバシ著、青木薫訳 NHK出版 200209.29.04

発売中の『月刊アサヒ芸能エンタメ!』11月号に僕のインタビューが掲載されている、
らぶナベ@書店のHコーナーに置いてる本に載ったのはさすがに初めてです(^^;

さて、『新ネットワーク思考~世界のしくみを読み解く~』
アルバート=ラズロ・バラバシ著、青木薫訳(NHK出版)2002年初版。

人脈、宗教の布教、細胞の構造、性感染症の広がり、テロリストの成功、WEB、
所得格差、新製品の普及など、あらゆる”つながっているもの”に共通する
ネットワークの基本的性質と働きを解説した本。

以前から耳にしていた本なので何気なく手に取ってみたものの、
読始めててすぐ「これは精読しないと!」と思い立ち、
計算したり考えたりしながら三ヶ月ほどかけて読むことになった。
本旨のランダム・ネットワーク理論からスケールフリー・ネットワーク理論への
展開はすごく興味深いものだったし感覚的にも納得できるものだった。
(ノードとリンクの関係、ベキ法則、ハブの重要性と弱点などもすごく納得)
さらにネットワークの性質と働きを象徴的に表わしている個々のエピソードだけでも面白い。

もちろんまだまだ研究がはじまった分野なので突っ込みどころはあるるけれど、
“つながっていること”の意味をこれほどまで考えさせられる本は他に無いと思う。
つながるということ、ネットワークというものに少しでも興味を感じる人には必読書だと思う。
(ただ、邦題より原題の”LINKED:The New Science of Networks”のままの方がよかった気が)

思えばこの本が出た時(2002年)と比べても現在はblogとSNSの隆盛やユビキタスなど、
つながる意味を考える機会や必要性はさらに加速している。
改訂や次作を首を心待ちにしたい。
また、この著者もハンガリーの人、やっぱりハンガリーっすごい。

ちなみにこの本のまとめ部分にあたる最終章は「クモのいないクモの巣」というお題になっている。
前に読んだ進化本『盲目の時計職人』(リチャード・ドーキンス)と通じるものがあって面白かった。
これを読んでいる貴方と僕も常に進化し続けるクモの巣としてつながっているんだ(^_^)

以下はチェックした箇所(要約含む)・・・

○マフィアボーイ(ハッカー)とパウロ(宗教家)が成功できたのは
共にその行動の効率的媒体である”複雑なネットワーク”が存在したから
→そのネットワークの構造とトポロジーのため
<第一章 序>

☆ノードあたりの平均リンク数が1という閾値を超えると
巨大クラスターに含まれないノードの個数は指数関数的に減少する
→クラスターの出現は数学では「巨大コンポーネント」、物理学では「パーコレーション」、
社会学では「コミュニティ」と分野ごとに言葉は違っても
ノードをランダムに選んでリンクしていくとある時点で特別なことが起こることでは共通
<第二章 ランダムな宇宙>

○ネットワーク内の距離が短くなる理由はその数式に現れる対数のため
→対数は巨大なネットワークを収縮させ、”小さな世界”にしている
<第三章 六次の隔たり>

☆ネットワークに関する限り、サイズは必ずしも重要ではない
→真に中心的な位置につけているのは多数の大きなクラスターに参加しているノード
<第五章 ハブとコネクター>

○現実のネットワークのほとんどはわずかなリンクしかもたない大多数のノードと、
膨大なリンクをもつ一握りのハブが共存しているという特徴を持つ
→これを数式で表わしたのが「ベキ法則」
<第六章 80対20の法則>

☆自然はベキ法則を嫌うが系が相転移をしなければならない事態に追い込まれると、
状況は一変してベキ法則が現れる
→ベキ法則はカオスが去って秩序が到来することを告げる明らかな徴候
<第六章 80対20の法則>

○ネットワークの進化は、優先的選択というデリケートだが情け容赦ない法則に支配されている
<第七章 金持ちはもっと金持ちに>

☆スケールフリー・ネットワークにハブとベキ法則が現れるのは”成長”と”優先的選択”のため
<第七章 金持ちはもっと金持ちに>

○スケールフリー・ネットワークはネットワークを時間と共に変化するダイナミックな系とみなす
<第七章 金持ちはもっと金持ちに>

☆ネットワークはランダムな状態から秩序ある状態に変化しつつあるわけではないし、
カオスの縁にあるわけでもない
→ベキ法則すなわちスケールフリー・トポロジーが意味しているのは、
ネットワーク形成の各段階で何らかの組織原理が働いているということ
<第七章 金持ちはもっと金持ちに>

○スケールフリー・ネットワークの重要要素ハブは統計的にはまれな存在だが、
多数のリンクを持ち社会的ネットワークをひとつにまとめる役割を果たしている
<第十章 ウイルスと流行>

○どんな拡散理論にも”臨界値”が必要
→拡散速度<臨界値=普及せず、拡散速度>臨界値=普及
<第十章 ウイルスと流行>

○ネットワークには1点集中型、多中心型、分散型の三つのタイプがあり、
1点集中型と多中心型はいずれも攻撃に弱い(ポール・バラン)
<第十一章 目覚めつつあるインターネット>

○インターネットの背後にあるネットワークは、分散性が高く、集中度が低く、
各部分が局所的に保護されているため、要になるマップを作るという
ごく自然な作業さえ事実上不可能になっている
→インターネットをモデル化しようとすると、成長、優先的選択、距離依存性、
フラクタル構造まで考えに入れなくてはいけない
(インターネットの研究者は設計者から探検家へと変貌しつつある)
<第十一章 目覚めつつあるインターネット>

○コミュニティの定義が難しいのはその境界がはっきりしないことが原因のひとつ
<第十二章 断片化するウェブ>

☆ウェブのアーキテクチャー=「コード」&「人間の集団的行為」の階層から成る
・コードは規制が可能だが、人間の集団的行為は中心となるデザインがないから
個別ユーザーや組織では規制不可能→ウェブは自己組織化する世界
<第十二章 断片化するウェブ>

☆Hotmailの成功要因
1:各人の閾値をゼロにした(拡散速度の増加)
2:登録手続きの簡略化(時間投資の低下)
3:ユーザーが電子メールを送るたびにHotmailの宣伝がなされる(自己拡大)
<第十四章 ネットワーク経済>

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2004 9/29
ネットワーク理論、数学、物理学、科学本、情報、組織論
まろまろヒット率5
マスコミ キャリア

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『暗黙知の次元』 マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳 ちくま学芸文庫 2003(原著1966)05.23.04

実はハンガリーってすごいんじゃないかと思いはじめてる、らぶナベ@天才多い?

さて、『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳
(ちくま学芸文庫)2003年初版(原著1966年初版)。
「言葉にできない知がある」として暗黙知を打ち出した本として有名な一冊。

もともと言葉にできないものを言葉にしようとしているので
やっぱり読みずらいところや突っ込みどころはかなりあるけれど、
よくある言いっぱなしじゃなく、神秘主義に走っているわけでもなくて読み応えがある。
おかげでそれまでは「そんなこと言っても始まらない」と言われていた、
コツやカンなどを議論の場で話せるようになった功績は大きいとされている。
(僕が関心を持っているいまの”雰囲気”もそう?)

また、なぜか読みづらい本にありがちな嫌な感じは別にしなかった。
たぶん訳者も書いているように、初版当時隆盛だった共産主義でも実存主義でもなく、
(人間に対して悲観的ではなく)その隠れた可能性を信じる彼の姿が垣間見れるからだろう。

実はこの本は今年からできた佐倉研究室指定必読書の僕の担当文献。
リストアップ案(まろまろ原案)を出した人間として、
リストの中で一番読みにくい&一番発表しにくいものを選ぶべきだろうと読んでみた。
暗黙知という言葉やこの本については経営学や組織論を学んだ時に
よく出てきたのでペラ読みはしたことはあったけど、
まさかこんな機会に通読するとは思わなかった。
人生って不思議ですな。

ちなみに著者は邦訳だとマイケル・ポラニーとも書かれることがあるけど、
ハンガリー発音だとポラーニ・ミハーイというらしい(Michael Polanyi)。
お兄さんは経済人類学者のカール・ポランニー(『大転換』、『経済の文明史』)。
こんなすごい親や叔父がいると子供はプレッシャーかかるだろうって思ってたら
著者の子供、ジョン・ポランニーは1986年にノーベル化学賞受賞、冗談みたいな一家だ。
おそるべしマジャール!&同じアジア系としてちょっと親近感(^^)

以下はチェックした箇所・・・

○暗黙知の構造によれば、すべての思考には、その思考の焦点たる対象の中に
私がちが従属的に感知する、諸要素が含まれている
→しかも、すべからく思考は、あたかもそれらが自分の体の一部ででもあるかのように、
 その従属的諸要素の中に内在化(dwell in)していくものなのだ
<序文>

○私たちのメッセージは、言葉で伝えることのできないものを、あとに残す
それがきちんと伝わるかどうかは、受け手が、
言葉として伝え得なかった内容を発見できるかどうかにかかっている
<第1章 暗黙知>

☆第一条件について知っているとは、ただ第二条件に注意を払った結果として、
第一条件について感知した内容を信じているのにすぎない
<第1章 暗黙知>

☆暗黙地の特徴・・・
・機能的構造(functional structure)
=暗黙知が機能しているとき、私たちは何か別のもの「に向かって」注意を払うために、
 あるもの「から注意を向ける」(attend from)

・現象的構造(phenominal structure)
=A(近位項)からB(遠位項)に「向かって」注意を移し、Bの様相の中にAを感知する

・意味論的側面(semantic aspect)
=すべからく意味とは「私たち自身から遠ざかって」いく傾向がある
(道具を使用して得られた出来栄えを介して、道具の感触が意味するものに注意を傾ける)

・存在論的側面(ontological aspect)
=暗黙的認識とは、二つの条件の間に意味深長な関係を樹立するものであり、
 したがってそうした二つの条件が相俟って構成する
 包括的存在(comprehensive entity)を理解すること
<第1章 暗黙知>

○ある人の精神はその活動を追体験することによってのみ理解されうる(ディルタイ)
<第1章 暗黙知>

○審美的鑑賞とは芸術作品の中に参入し、さらに創作者の精神に内在すること(リップス)
<第1章 暗黙知>

☆理論の内面化・・・
私たちは理論から、その理論の観点で見られた事物へと、注意を移動させ、
さらに、そうした具合に理論を活用しながら、
理論が説明しようと努めている事物の姿を介して、理論を感知している
→数学理論が自らを実際に応用することでしか修得されえないのはこのため
<第1章 暗黙知>

☆問題を考察するとは(略)まだ包括されていない
個々の諸要素に一貫性が存在することを、暗に認識すること
→独創性とは期待している包括の可能性を他の誰も見いだすことができないときのこと
<第1章 暗黙知>

☆包括的存在の安定性に機能する暗黙知・・・
1:包括的存在を制御する諸原理は、具体的な諸要素を
 それ自体として統治している諸規則に依拠して機能する
2:同時に諸要素をそれ自体として統治している諸規則は、諸要素が構成する、
 より高次の存在の組織原理の何たるかを明らかにするものではない
<第2章 創発>

○境界制御の原理(the principle of marginal control)
=上位レベルの組織原理によって下位レベルの諸要素に及ぼされるコントロール
<第2章 創発>

☆創発の過程
=より高位のレベルは下位のレベルでは明示されない過程を通してのみ出現できること
<第2章 創発>

☆ある論文の科学的価値=厳密性、体系的重要性、内在的興趣
<第3章 探求者たちの社会>

☆理論の不意の確証(surprising confirmations)
→発見は現行の知識が示唆する探求可能性によってもたらされる
<第3章 探求者たちの社会>

○可能性を論じる主張は確実性を論ずる主張と同様に個人的な判断を含んでいる
→結論とはそれに到達する人間の掛かり合い(commitment)を表現するもの
<第3章 探求者たちの社会>

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2004 5/23
暗黙知、哲学、組織論、認知科学、情報・メディア、心理学、学問一般
まろまろヒット率4
心理学 キャリア

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『人間交際術―コミュニティ・デザインのための情報学入門』 桂英史著 平凡社新書 200104.22.04

白石美帆の女子大生役はギリギリ感がありすぎると思う、
らぶナベ@「オレンジデイズ」(北川脚本)見てます(^^;

さて、『人間交際術―コミュニティ・デザインのための情報学入門』
桂英史著(平凡社新書)2001年初版。
コミュニティ・デザイン関係の本を探していたら見つけた一冊。
タイトルの「人間交際」って何かと思えば、”society”の福沢諭吉訳だとか。
この本の中では著者なりに”information”を「知ることと伝えること」と訳したりしている。

内容はネット上のコミュニティから著者が専門とする図書館の再生までを扱っている。
特に「今あるネット論は高見から見下ろすようなものが多い」(1章)と批判して、
ハーバーマス(ハバーマス?”Jurgen Habermas”)の公共圏についても
「知識人が陥りやすい傲慢さ」だとして
「(近代の)公共性は雲をつかむような空間の問題ではなく
私生活の資本化を背景とした人間交際のかたち」としている(2章)のは面白い。

また、コミュニティ特有の自律性については人々の好奇心や向上心、功名心がもたらす
「ばらつき」や「かたより」があるという点に注目して、
(妥当か否かは別にして)いわゆるネティズンがネットに対して楽観的なのは
彼らがばらつきやかたよりを否定する自由や民主主義を
どこかインチキだと感じているからだ(1章)としているのには説得力があった。

ちなみに、たまたまこの本を読み始めた日に、著者と一緒に
「せんだいメディアテーク」設立に関わった氏原くん(水越研)から
著者の講義があるということを聞いたので顔を出してみた。
本の内容と外見が見事にユニゾンしていたということもあって、
そのまま教育学研究科特別講義「コミュニティ・デザイン論」を受講することに。

人間交際の面白さはこういう予測不可能な広がりですな(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・・

☆コミュニティの本来の特徴は、何かを共有することで生まれる結びつき
→共通の属性をもつだけでは、母集団はコミュニティとは言えない
<第1章 情報はコミュニティのリソース(資源)である>

○コミュニティサイトが突出してユニークである点=
知ることと伝えることのルールが自律的にできあがることを想定している点
<第1章 情報はコミュニティのリソース(資源)である>

○ネット上のコミュニティは自分たちが決めたルールに従っているうちに、
いつの間にかはっきりとした意見や意志を表明している場合がある
→このような自律性はこれまでのコミュニティ&政治参加とは異なる
<第1章 情報はコミュニティのリソース(資源)である>

○コミュニティサイトではメンバー間で知ることと伝えることを
集合財として共有→その集合財を前提に活動するので帰属意識が自然に出る
<第1章 情報はコミュニティのリソース(資源)である>

☆コミュニティがもっている自律性は人々の好奇心や向上心、功名心がもたらす
「ばらつき」や「かたより」を背景にしている
→(妥当か否かは別にして)ネティズンがコミュニティサイトに楽観的な希望を託すのは
彼らが(ばらつきやかたよりを否定する)自由や民主主義をどこかインチキだと感じているから
<第1章 情報はコミュニティのリソース(資源)である>

○知識=行動や知覚あるいは思考の習慣
<第2章 ネットワーキングという人間交際術>

○ネットの本質はユーザ間でのリソースシェアリング
→ネットを新しい情報サービスと考えると本質を見誤る
<第2章 ネットワーキングという人間交際術>

○贈与の文化では(略)安定した関係をほとんど無意味なゲームにする
→安定した関係を無意味にすればするほどコミュニティは豊かになる
<第4章 コミュニティ・デザインのための人間交際術>

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2004 4/22
コミュニティ・デザイン、図書館情報学、情報・メディア
まろまろヒット率3
マスコミ キャリア

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『複製技術時代の芸術』 ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編 晶文社『ヴァルター・ベンヤミン著作集 2』より 1996(原著1935)11.02.03

ASEANと日本の交流関係のお仕事を終えた、らぶナベ@詳細は出来事メモにて。

さて、『複製技術時代の芸術~ベンヤミン著作集2~』
ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編
(晶文社)1996年第26版(原著1935年初版)。

『視覚的人間』の中で雰囲気について語っているのに興味を感じたら、
副指導の武邑助教授が「アウラも押さえなよ」と貸してくれた本。
けっこういろんなところで引用されているのを見かけるので、
一度は読んでみようと思っていたのでちょうどよかった(^^)

内容は複製技術が普及する時代(1930年代)に生きた著者が、
複製技術によって芸術が持っていた一回性の「アウラ」
(いわゆるオーラ)が消えるんだと主張している。

この本から70年近くたったいま、すべてがデジタル化されて
WEBで結ばれようとしている時代を生きる僕にとっては
複製技術の時代にこそアウラが生まれるような気がした。
一回性ではなく数回性こそのアウラ・・・そんなことを感じたナベンヤミンです。

以下は、チェックした箇所・・・

☆アウラ=どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象<3>

○どれほど精巧につくられた複製のばあいでも、「いま」、「ここに」しかない
という芸術作品特有の一回性は、完全に失われてしまっている
→「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」しかない
という性格によってつくられる<2>

○複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである<2>

○芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから
ぬけきれないということである<4>

○(複製技術時代の)芸術は、そのよって立つ根拠を儀式におくかわりに、
(略)政治におくことになるのである<4>

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2003 11/2
美学・文化論、メディア論、思想
まろまろヒット率4
マスコミ キャリア

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『視覚的人間-映画のドラマツルギー』 ベラ・バラージュ著、佐々木基一&高村宏訳 創樹社 1975(原著1924)10.12.03

らぶナベ@広場の箱庭師です。

さて、『視覚的人間-映画のドラマツルギー』ベラ・バラージュ著、
佐々木基一&高村宏訳(創樹社)1975年初版(原本1924年初版)。

副指導教官の武邑光裕助教授から借りた本の第三段。
映画がまだ低俗なものとして扱われていた1920年代(白黒&無声映画の時代)に、
映画を芸術として位置づけようと試みた美学書の古典。
新しいものが芸術としてどう位置づけられて来たのか、
その過程を知るという点でも意味のある本。

この本で一番興味を持ったのは何と言っても「雰囲気」について述べているところだ。
「雰囲気は個々の形象の中に圧縮されている霧のような原素材である。
それはさまざまな形態の共通の基体でありすべての芸術の最終的なリアリティである。
この雰囲気がひとたび存在すると、個々の形態が十全でなくとも
それが本質的なものを損なうものとはならない。
この特別なものの雰囲気が< どこからくるか>を問うことは、
すべての芸術の源泉を問うことである」、
「雰囲気はたしかにすべての芸術の魂である。それは空気であり香気である」
(「映画のドラマツルギーのためのスケッチ」より)
・・・まさにビビっと来た。

作品と呼ばれるものは「その雰囲気」を感じさせれば作品として成功なんだし、
作品と呼ばれないものでも独自の雰囲気を醸し出せるものは芸術なんだ。
この本の論旨はまだ美学がその射程にとらえていない
WEB活動や同人活動にも応用可能だと読みながら感じた。

また、この本の紙質、大きさ、分量、文字の配置どれもすごくフィット感があった。
そういう意味も含めてまろまろヒット率5です(^_-)

以下は、その他にチェックした箇所・・・

○理論は芸術発展の舵ではないが、すくなくともコンパスである
 <序言ー三つの口上>

○文化とは日常的な生活素材の完全な精神化を意味する
 <視覚的人間>

○唯一無二であるということがそれぞれの現象の本質であり、
それぞれに存在理由を与えるものである
→それは他のものとの差異によって最も明白になる
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○すべての芸術の存在資格は、代替不可能な表現の可能性を持つものであるという点
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○(覗き見について)我々が何かを見るときには、我々自身がその場にいるのが自然(略)
誰もその場にいないときの事物の様子を見ることは、人間のもっとも深奥の形而上学的憧憬
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○芸術とは本来、削りとることなのだ
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

☆(ウィットについて)それは概念の遊戯であって、
さまざまな概念相互のあいだの隠された思いもかけない関係を解き明かすことである
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

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2003 10/12
メディア論、映画論、美学・文化論
まろまろヒット率5
マスコミ キャリア

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『テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説』 ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳 東京大学出版会 199710.08.03

生息地の小石川がすっかり秋らしくなった、らぶナベ@何気に文京区が好きな大阪人だす。

さて、『テクノコードの誕生-コミュニケーション学序説』
ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳(東京大学出版会)1997年初版。
副指導教官の武邑助教授から借りた本の第二段。
コミュニケーションの視点から、アルファベットの終わりと
テクノコードの始まりという歴史的転換について述べている一冊。
話の前提となる道具立てが多いことや、括弧書きが多いこと(これは訳の問題?)が
かなり煩わしいけど、それをガマンして読めばけっこう面白い一冊。

「人は必ず死ぬ」
だから
「人間は、コミュニケーションによって世界と生に意味を与え、孤独と死に対抗する」
そして
「世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になり」、
「人間自身は、他の人間によって不死になる」、
というのがこの本の主題(第3章「テクノイマジネーションの世界へ」)。

話を進める上で本文中に出てきた道具立てについてはメモを残したけど(下にあり)、
こういうネタはこれから脳神経科学と認知科学の研究が進んでくれれば、
これほどまでに込み入ったことをしなくても議論できるようになるんじゃないだろうか。
(そうしてもらわないとこまっちんぐ(^^;)
また、著者は「越境者」とか「超越者」として分類されているので、
読み終わってからどこにカテゴライズするか頭を悩ませた本でもある。
(ホントにこまっちんぐ(^^;)

残念なことに著者はインターネットの普及を見る前に死んでしまった(没1991年)。
読書メモや遺書をネットで公開している僕の姿を見たら彼はどう感じたのだろう。
彼にまろまろを見せれなかったのはかなり残念だ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆人間のコミュニケーション=意味を与え、その意味が解釈される現象
→コミュニケーションの目的は死すべき生という残酷な不条理を忘れさせるための技法
(人間のコミュニケーションはコード化された記号に基づいている)
<序 コミュニケーションとは何か?>

○人間のコミュニケーションは孤独と死に逆らう技法であり、
エントロピーに向かう自然の一般的傾向に逆らう過程
<序 コミュニケーションとは何か?>

○コミュニケーション形式は、少なくとも意味論的(semantics)観点か、
構文論的(syntax)観点のいずれかによって分類できる
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「言説」(discourse)=手にしている情報を分配し、
 自然がもつ分解作用に対抗してそれを保存するための方法
→いかにして情報への忠実と情報の進行を調和させる言説構造をつくりだすかが問題
 (1)「劇場型言説」(発信者と受信者が向き合っている)
 (2)「ピラミッド型言説」(コード変換が段階ごとに行われる)
  →最高権威と原作者の間には超越性の断絶を超えて絶えず橋が架けられている
 (3)「樹木型言説」(当初の情報が解体&コード変化されて絶えず新たな情報が生まれる)
  →情報分配の閉鎖的特殊化によって死に至る孤独が克服しにくい
 (4)「円形劇場型言説」(受信者が言説の尽きるところにいる)
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「対話」=さまざまの既存の情報を合成して新たな情報を生むための方法
 (1)サークル型対話(求められている公分母は基本情報ではなく一つ合成)
 (2)ネット型対話(あらゆる情報が最後に流れ込む貯水池)
  →自然の分解傾向から情報を守る最後の受け皿
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○神話的な原作者は(略)客観的心理とか科学的厳密性という
レッテルとして樹木型言説の頂上にあって、
対話的なサークルは実際にはピラミッド構造のなかの権威中継者になっている
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○われわれは権威と伝統に対する関心を持たなくなっているからこそ、
かつてなかった権威主義的ピラミッド(technocracy)を体験している
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○線形的なテクストを読む者はテクストを超えたところに立つ
(これが考えるということの意味)
→こうした自己観察はテクノ画像の場合は不可能(テクノ画像は受信者を取り囲む)
<第1章:さまざまの構造 3:三つの典型的な状況>

☆文化は人間のための世界に意味を与える同時に
世界から人間を守ることによって人間と世界を媒介する
→ドイツ語の”vorstellen”は”判らせる”と”遮る”の二重の意味がある
<第2章:さまざまのコード 1コードとは何か?>

☆諸定義・・・
 ・「書くこと」=旋回するイメージ的時間をまっすぐに延ばして線形にすること
 ・「読むこと」=そのように線形的に進行する時間を終わりまで追ってゆくこと
 ・「記号」=何らかの了解によって別の現象を示すものとされている現象
 ・「コード」=記号の操作を整序するシステム
 ・「イマジネーション」=画像によってコード化するとともにでこーどする能力
 ・「テクノ画像」=扇情的テクストの記号に意味を与える諸記号によって覆われた平面
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

○デカルトの出発点→算数と幾何学の間の断絶、
カントの出発点→純粋理性と実践理性の間の断絶
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

☆歴史の主題とは、イマジネーションとコセプション、
表象と概念、呪術と歴史的論証の間の弁証法的緊張関係
<第2章:さまざまのコード 4三つのコードの同期化>

○テクノイマジネーション=概念についての画像を描いた上で、
その画像を概念の記号として読解する能力
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆人間は、世界と生に意味を与え、それによって死を否定するさいに、
他の人間とコミュニケートする
→世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になる
(人間自身は、他の人間によって不死になる)
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆ある言明は、そこで発言権を主張している視点の数が多ければ多いほど、
また、それらの視点をとることのできる人々の数が多ければ多いほど、真実に近い
→真実の標識は客観性ではなく間主観性
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

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2003 10/8
情報・メディア、科学哲学、コミュニケーション論、文化論、越境系
まろまろヒット率4
マスコミ キャリア

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『イメージ―Ways of Seeing 視覚とメディア』 ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳 PARCO出版 198610.03.03

まろまろHPにわんわんを飼いはじめた、らぶナベ@リンクアイコンとして活躍中です。

さて、『イメージ-Ways of Seeing 視覚とメディア』
ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳(PARCO出版)1986年初版。
副指導教官の武邑光裕助教授が貸してくれた本。
「見る」ということがどういうことなのか、その意味を問いなおした本として
出版されたとき(原本1972年)には衝撃を与えた一冊らしい。
もとはイギリスBBCの番組”Ways of Seeing”をテキストとして構成しなおしたもので、
絵と写真から成るイメージだけの章もあって確かに意欲的な本。
ただしカラーじゃないのがすごーく残念だった。

内容的には追章「見ることのトーポロジー」の中で
フランス語の「”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある」と紹介していたことは
まさにこの本のテーマ性を言いあらわしているように思えた。
(フランス語知らないので新鮮だった)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○イメージとはつくり直された、あるいは再生産された視覚だ。
それは、最初にあらわれ、受けとめられた場所と時間から、
数瞬または数世紀も引き離された概観である。
すべてのイメージはものの見方を具体化する。
<1 イメージの変容>

○過去の文化を神秘化することは二重の損失を生む(略)
芸術作品は不必要なほど遠くでつくりあげられることになり、
過去は行為の遂行についてほとんど結論をくだすことはない。
<1 イメージの変容>

○裸(naked)とは単に服を着てないということであるが、
裸体(nude)とは芸術の一形態である。
→裸体(nude)とは絵の出発点ではなく、絵がつくりあげたものの見方。
(ケネス・クラーク『ザ・ヌード』)
<3 「見ること」と「見られること」>

○広告は実は物についてではなく社会関係について語っている。
広告が約束するものは快楽ではなく、幸福なのである。
幸福は外側から他人によって判断される。
うらやましがられる幸福、それこそが魅力と呼ばれるものである。
うらやましがられるということは安心の孤独な形といえるだろう。
→広告イメージはありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、
 かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。
<7 広告の宇宙>

☆仏語の”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある。
<見ることのトポロジー>

○印刷画を一般概念や特定の役割の見地からも見なければならないが、
とりわけ情報の伝達者や受容者に印刷の諸技術が課してきた
限界について私たちは考察する必要がある。
(ウィリアム・アイヴィンス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』)
<見ることのトポロジー>

○(複製によって)オリジナルは人々が入り込んでくる存在の場ではなく、
人々が自らのまわりに呼び入れる表層の場となる。
<見ることのトポロジー>

○見せる操作は世界へ介入するのではなく、世界を見られる形に変える。
見るということが、見る者と世界との相互性を含むものであるということを見えなくする。
<見ることのトポロジー>

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2003 10/3
視覚メディア論、芸術論、美学
まろまろヒット率3
マスコミ キャリア

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『メディア・コミュニケーション論』 竹内郁郎・児島和人・橋元良明編著 北樹出版 2000(3版)09.20.03

TBS系列で再放送していた『愛なんていらねえよ、夏』にちょっと感動した、らぶナベです。

さて、『メディア・コミュニケーション論』竹内郁郎・児島和人・橋元良明編著
(北樹出版)2000年第3版。
コミュニケーション論の本を探していたらメディア論との関連で構成されている
この本を見つけたので読んでみることになった。

一章ごとに執筆者が違っていて全部で序章+15章とけっこうな分量だったけど、
内容は「薄いやん」っと思うような章もところどころあった。
おかげでメモを残した章がかなり偏っている(^^;
第7章の「マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開」が
この本の一応の中心にはなるんだろう。

また、この本で扱うメディアは新聞、ラジオ、テレビなどの
既存のマスメディアが中心になっていて、ネットや携帯電話などの
新しいメディアへの記述が少なくてちょっと残念だった。

ただ、各章末にそれぞれ3冊ずつ、そのテーマに関係する参考図書を
執筆者のコメントつきで紹介してくれているのはテキストとして役立った。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆メディア・コミュニケーション研究の対象=人間・メディア・社会の相関の磁場、
入れ子状の関係のもとでの社会的相互作用としてのコミュニケーション
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○メディア変容で注目する点→
1:メディアにおける身体の根源性と基本性
2:新たな個別メディアの登場とメディア総体の自己変容
3:道具・機械メディアの独自の系
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○第一次集団(家族や企業組織など)ほど個別間の結合が強固ではなく、
大衆ほどには離散的でもない中間的結合体系=「集合体」(collectivity)
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

☆メディアはそのメディア内容を離れてメディアそれ自体の独自の次元でも
リアリティ形成の力を一定の社会的文脈の中で発揮する
→メディア独自のリアリティ形成力=「メディウム性」
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○社会的格差の中にあるリテラシーを動員した実践が、
コミュニケーションという相互作用によって他者と共有するリアリティを
構成することを通じて、新たな自己、新たな他者との関係形成の一歩を築く
<序章 メディア・コミュニケーション論の生成>

○群集の特徴(Tarde,J.G.)=情動や集団的感情の模倣を通じての集団的一体感(コミュニオン)
<第1章 メディアとしての身体からグーテンベルクへ>

○文字の特性(Platon)=
1:書かれたものは客観的なモノと化して人工物となる、
2:書くことは記憶能力を衰退させる、
3:書かれたものは読み手に応答することはなく自らを弁護することもない
<第1章 メディアとしての身体からグーテンベルクへ>

○従来のメディアと電子メディアの相違点=
1:遠隔地間の情報伝達を瞬時に行える
2:同時に広範囲の人々に対する情報伝達ができる
3:電気信号によって多様な情報を蓄積、伝達することが可能
<第3章 メディアの今日的生成と諸形態>

○通信機器の普及の特徴=相手も同じ機器を持つ必要があるので
普及が十分ではない時期にはなかなか広まらないが、
普及がある一定数(クリティカル・マス)を超えると
逆にその機器を持っていないことに対して社会的圧力がかかる(吉井,1997)
<第6章 パーソナル・メディアとコミュニケーション行動>

☆ある年齢層の行動・意識を調査・分析する際の注意点=
1:「年齢層効果」(特定の年齢層であることの影響)、
2:「時代効果」(調査した時代の影響)、
3:「コーホート効果」(同時代に生まれた集団=コーホートが持つ特性の影響)
<第6章 パーソナル・メディアとコミュニケーション行動>

○メディアの公共性の基準(McQuail,1994)
=自由、平等、多様性、情報の質(客観性、均衡など)、社会的秩序と連携、分化的秩序
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

○マス・コミュニケーションの社会的機能(ラザーフェルド&マートン,1960)
=1:地位付与の機能、2:社会規範の強化、麻薬的逆機能(潜在的機能)
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

☆マス・コミュニケーションの社会的機能(ラスウェル,1960)
=1:環境の監視、2:環境への反応にあたっての社会の諸部分の調整、3:社会的遺産の世代的伝達
(国家単位で当てはめれば1:外交官、2:ジャーナリスト、3:教育者)
→ライト(Wright,C.R.,1960)はこれに4:娯楽の提供を追加
<第7章 マス・コミュニケーションと社会をめぐる理論の成果と展開>

○カルチュラル・スタディーズは第一段階では記号論や精神分析のアプローチを導入、
第二段階では社会的な主体としてのオーディエンスに焦点を合わせることで
その構造的な規定性を脱構築するという二重のパースペクティヴを有する
→メディアの基本的契機であるテクスト、テクノロジー、オーディエンスを
 それぞれ独立した変数とみなして議論を進めることは無い
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

☆カルチュラル・スタディーズにとって重要なのは、
自由なテクスト解釈の主体としてのオーディエンスではなく(略)
様々な差別の文化政治学が葛藤と矛盾、せめぎあいを含みながら作動していく
政治の現場としてのオーディエンスの社会的身体である
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

○メディアと日常生活を分離させてそれぞれの分野の科学性を追及するのではなく、
日常生活や郊外や都市、グローバルな空間システムの作用についての分析と
コミュニケーションについての分析を統合させる
→家庭には、想像される家庭(home)、社会関係の場の家族(family)、
 モラル・エコノミーの場の世帯(household)の三つの次元がある(Silverstone,1994)
<第9章 カルチュラル・スタディーズのメディア・コミュニケーション研究>

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2003 9/20
メディア論、コミュニケーション論、社会学、社会心理学
まろまろヒット率3
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『総合情報学』 中島尚正・原島博・佐倉統編 放送大学教育振興会 200208.29.03

いまさらだけど鈴木杏の演技はうまいと思う、らぶナベです。

さて、『総合情報学』中島尚正・原島博・佐倉統編(放送大学教育振興会)2002年初版。
まがいなりにも学際情報学という専攻分野に籍を置いている身としては、
1冊くらいは概要書を読まなきゃという気がしていたので
指導教官に尋ねてみたら研究室として大量購入してくれることになった本。
放送大学大学院の講義「総合情報学」の記録をまとめた教科書。
この講義は複数の担当者が各回ごとにリレー講義をしてするもので、
代表編者として名前が挙がっている編者以外にも、
主な執筆者は濱田純一、北側高嗣、西部忠、植田一博、山内祐平、
加えてゲストスピーカーは廣瀬通孝、河口洋一郎、谷淳、水越伸、会津泉、
金子郁容、小長谷明彦、西垣通など、この分野を担うの主な研究者が参加している。

内容も学際(総合)情報学で話題になるトピックスを網羅してくれているし、
各章読み切り型の構成でとっつきやすく、概要書としては最適な感じがする。
ただ、まだこの分野が過渡期にあるため&複数の執筆者がいるからとはいえ、
「確立した知識を提供することよりも現象の見方や理解の仕方に力点を置く」(第1章)
という姿勢が目立ちすぎて単なるダイジェスト版的な感じがした。
概要書だからダイジェスト版でもいいんだけど、
定義や射程などについてはもうちょっと突っ込んでやってほしかった。
(概要書に求めすぎ?)

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○総合情報学の目的=
1:高度に発達した情報環境と情報を理解し、そのあり方を考究する
2:情報環境や情報が人間・社会の活動における知の営みに及ぼす影響を考究する
3:情報環境や情報を手がかりにして人間・社会や生命を考究する
<第1章:総合情報学の視座>

☆「情報」=「知るということの実体化」(高橋秀俊,1971)+「区別」(渡辺茂,1968)
→前者は情報の基本的な意味、後者は情報の基本的な価値
<第1章:総合情報学の視座>

☆総合情報学の精神的支柱=(環境との相互作用を含む)情報の状況依存性、文脈依存性
<第2章:情報技術の発展(1)ーメディアの進化>

☆市場とインターネットに共通した特徴=自立分散型ネットワーク
→貨幣=あらゆる商品の経済的価値を一元的に表現することで、
 市場というネットワークを作り出す独立の情報媒体
→インターネットで見られた、独立媒体性に基づくモジュール化と階層化は、
 まさに市場において貨幣が可能にするもの
<第5章:情報と経済>

○コピーレフトの保証書=”GPL”=”General Public License”(公共使用許諾書)
→適応されたプログラムを改変した場合、
 改変後もGPLをつけなくてはいけないと再帰的に規定するライセンス
<第5章:情報と経済>

○進化主義は、構築主義や操作主義に見られる理性万能主義を拒否するが、
制度設計という考え方自体を気否定するものではない
→むしろ媒体の制度設計を重要な政策的課題として認識する立場にある
<第5章:情報と経済>

○自己をなす構造とは系の力学系構造(開放力学系)に相当し、
非連続な自己意識の経験はその力学系構造の時間発展から得られる
コーヒレント相と非コーヒレント相の間での間欠的遷移の繰り返しから説明され得る
<第8章:脳と身体性 ロボットが「自己」を意識するとき>

○表象主義(計算主義)=人は心のなかに表象をもち、
その表象構造を操作(計算)することで思考を進めているという考え方
<第9章:情報装置としての人間>

☆メディア論の基本的な視座=メディアは技術に支えられているが、
社会的要因から技術のあり方もデザインされる、という循環的なとらえ方で
情報技術、メディア、社会と人間の関係性を見ていく姿勢
<第10章:情報化時代とメディア>

○歴史社会的な文脈のなかでメディアを位置づけることは、
私たちがメディアを人々から切り離されて成り立つ閉じたシステム、
「系」としてとらえるのではなく、人間との関わりに向けて開かれた
「系」としてとらえていくパースペクティブを条件としている
<第10章:情報化時代とメディア>

○ネットワーク社会の特徴=cheap,fast,out of control
<第12章:ネットワーク・コミュニティの組織論>

☆ネットによって情報の入手コストは下がるが逆に情報の信用コストはあがる
→信用コストを下げる方法としてセキュリティ技術の向上やコミュニティ形成が注目される
<第10章:情報化時代とメディア>

☆進化=あるシステムが累積的に変化していくこと(特に環境に適応していく過程)
<第14章:情報と生命論>

○普遍選択理論(universal selection theory)、普遍的ダーウィン主義(universal Darwinism)
=情報が自己複製するシステムであって一定の条件を満たしていれば、
生物体でなくてもダーウィンの進化理論は適応可能であるという考え方
<第14章:情報と生命論>

☆メディオロジーの特徴=一対多、非平等・非対称形、通時的
(従来のコミュニケーション論は一対一、平等・対称形、共時的)
→内容面より伝達面の重視、技術と制度両面に注目、歴史主義的、文化の生態学
<第14章:情報と生命論>

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2003 8/29
情報・メディア、総合情報学
まろまろヒット率4
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『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』 武邑光裕著 東京大学出版会 200307.31.03

メルマガ読者からもった意見をもとに遺書ページに説明文を加えた、
らぶナベ@進化学会でもひょっこりブース出展したんすけど意外と食いつきありました。

さて、『記憶のゆくたて-デジタル・アーカイヴの文化経済』
武邑光裕著(東京大学出版会)2003年初版をば。
メディア美学者によるデジタル・アーカイヴの概要書。
前半はデジタル・アーカイヴの各国の取り組みや現状の問題点を述べて、
後半(第9章以降)はアーカイヴを通した日本の歴史の再解釈という構成になっている。

この本の主要テーマである記憶と記録との関係についての考察と、
その間に文化を見出す視点は、まろまろHPとも関係していてとても面白かった。
また、後半部分で日本最大規模の文化情報アーカイヴとして
『万葉集』を捉えなおしているのは興味深かった。
この歌集は、いつ、誰によって、何の目的で編集されたのか判明していない。
最後の編者は大伴家持らしいけど、どういう過程を経て編集されたのかも分かってない。
中身も正史には残りにくい、当時の国家を批判した歌(山上憶良)や、
政争に敗れた人(大津皇子)の歌まで入っているし、
詠み人の構成も天皇、貴族から、正史には出てこない女性や下級役人、防人までと実に多様だ。
そんなことから「『記紀』と『風土記』を戦前の国定教科書とすれば、
『万葉集』はネット上にある無数の個人サイト」(第9章”記憶のゆくたて”)
というような著者の表現には思わず笑いながらうなずいてしまった。

ちなみに著者は研究科が違うけど、僕の副指導教官になってくれた人でもある。
こういう話が秋からもできると思うと、夏休みが明けるのもちょっと楽しみだ(^^)

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○デジタル・アーカイヴ=物質から真理を還元し、
 そこから離脱することによって得られた電子の記憶庫
 →ここに託されるべきものは神話としての無責任な森ではなく、
  明確に未来に資する森である必要がある
<まえがき>

○(スウェーデンの『ニルスの不思議な旅』について)
 この事例はわれわれに記憶の利用目的を提示している。
 まずそれは忘却に立ち向かうこと。
 そのためには記憶は単に陳列されるだけではなく
 しかるべき文脈の中に配置される必要があるということ。
 忘却に立ち向かうことは記憶を継承することと同義なのであり、
 この作業はたんに自発としてあるのではなく、
 きわめて意識的かつ能動的なものであるということが重要なのである。
<第1章 記憶の外在>

○(写真出現による絵画の影響について)
 写実から印象へ、その後の連なるシュルレアリズムの巨大な運動は、
 複製の特権を科学技術に剥奪された絵画がみずからの存在をかけて
 あらたな地平を切り開こうとしていく産みの苦しみの姿。
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆デジタル・アーカイヴが構成されいている要素の特徴・・・
 ・デジタル情報の特徴=流動性、一過性、非物質性、変容性
 ・コンピュータによる論理的処理=離散性、規約性、有限性
 ・ミュージアムやアーカイヴ=固定性、安定性、永続性、無限性
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆物財としての情報記号を何らかの価値に変換する仕組みが生成され継承されるとき、
 記録ははじめて記憶となる。いいかえれば記憶とは、
 無機物にすぎない記録に意味による経験的認知などが作用する
 意識的かつ能動的な作業である。
 そして、かかる記憶を生成し継承する作業が何らかの目的を帯びて
 集団規模で行なわれる現象が、文化の本体なのではないだろうか。
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆デスクトップでは得ることのできない多層的な情報との連結性、
 実態とヴァーチュアルな情報環境全体の相互に織りなす多彩なインタラクションこそ、
 まさに次世代のアーカイヴに課せられた空間的特性。
 →次世代の情報探索にとっては、内容よりもコンテクスト(文脈)が優先する。
<第4章 文化記憶の社会資本>

☆文化はまた、人間の文明が関与できないもうひとつの価値の苗床である。
 もうひとつの価値とは共感である。これによって共同体が維持され、
 また、他者とのコミュニケーションが発生する。
<第4章 文化記憶の社会資本>

○社会を有機的統合を保つひとつの身体と考えた場合、情報系は脳神経系にあたるだろう。
 脳神経系を流れるものの実体は情報である。
 生物の神経系は神経自体とそこを流通するインパルスによって成り立ち、
 社会の情報系は道路や通信回線、通信衛星波などの基盤
 =インフラストラクチャーを流通する内容=コンテントによって成り立つ。
<第4章 文化記憶の社会資本>

○文化とはつねに時代の中で変化と転移をもたらすものである。
 伝承の中に埋没してしまうものは「文化財」とはいえても「伝統」とはいわない。
 「伝統」とは伝承そのものが時代のあらたな要請を受け入れ、
 時代に鋭くその意味を訴え、変容をも恐れない変異のプロセスだからである。
<第5章 電網の中の文化経済>

○情報財を軸にしたデジタル・アーカイヴが情報の消費文化へと浸透する時代に、
 あらゆる情報財も無体情報としてのブランド空間の中で大きな変容を遂げようとしている。
 →所有から共有へと転換されるのは、モノに込められたイメージや情報、
  そしてそこから派生する知覚や社会文化の記号、表徴との連鎖を形成する官能でもある。
<第6章 離散するアーカイヴ>

○「信頼」とは、固定化を意味しない。
 信頼が固定されることなどあり得ないからだ。
 ブランド価値は、つねに時代を切り開き、時代やその先端的な文化と折り合いながら、
 ブランドを生み出す基盤となった独占的な価値やその所有権を、
 広く公共的な価値へと高めていくことに不断の努力を惜しまない。
 ーそうした意志のもとに更新されていくものである。
<第6章 離散するアーカイヴ>

☆デジタル形式によるアーカイヴとは、
 (略)本来離散し、流動するもの(デジタル)と、固定的で永続性を担保する(アーカイヴ)という
 ふたつの大きく異なる特性が合成することによって生じた展開である。
<第9章 記憶のゆくたて>

○『記紀』と『風土記』を戦前の国定教科書とすれば
 『万葉集』はさながらウェブの情報空間に偏在する無数の個人サイトの感がある。
<第9章 記憶のゆくたて>

○「本歌取り」=先人の歌を受け、それを独自の作風に構成する作法。
<第9章 記憶のゆくたて>

○地理的概念とは景観という無数のアフォーダンスとしての
 情報群によって構築される記憶にほかならない。
 景観という記憶群は「行動する」というわれわれの動物としての特性にかかわる
 もっとも原初の基本情報でもあるから、われわれの脳がこれに適応するのもすばやい。
 違和感を憶えるのはほんの一時期にすぎず、よほど意識的にならないかぎり、
 突如出現した光景であっても需要されてしまうものである。
<第10章 記憶の編纂と反転>

○意識が記憶の断片に生命を吹き込み、その記憶がまた意識をもって継承され発展する。
 この動きのダイナミズムこそが文化と呼ばれるものの本体なのではないだろうか。
<第10章 記憶の編纂と反転>

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2003 7/31
情報関連、デジタル・アーカイヴ、文化論
まろまろヒット率4
マスコミ キャリア

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