Archive for the ‘エッセイ’







『金米糖』 寺田寅彦著 岩波書店『寺田寅彦随筆集』第2巻「備忘録」より 196401.01.12

渡邊義弘@大阪の憩いの場、スターバックス御堂筋本町東芝ビル店からお送りします。

さて、2012年最初に読んだ本、『金米糖』寺田寅彦著(岩波書店『寺田寅彦随筆集』第2巻「備忘録」より)1964。

物理学者であり、随筆家、俳人としても知られる寺田寅彦の随筆の一つ。
金平糖の角が生まれる過程に起こる「偶然な統計的異同 fluctuation」(=フラクタル)に注目して、
物質と生命の間に橋を架ける「生命の起源」まで文字通り随筆を走らせている。

発表された当時(1927年)と比べて、今となっては不適切な表現もあるけれど、
科学的テーマを横断的に、そして軽やかに随筆する文章はわくわくしながら読むことができた。

特に・・・
「物理学では、すべての方向が均等な可能性をもっていると考えられる場合には、
対称(シンメトリー)の考えからすべての方向に同一の数量を付与するを常とする。
現在の場合に金平糖が生長する際、特にどの方向に多く生長しなければならぬという理由が”考えられない”、
それゆえに金平糖は完全な球状に生長すべきであると結論したとする。
しかるに金平糖のほうでは、そういう論理などには頓着なく、にょきにょきと角を出して生長するのである。」
・・・というところは、夏目漱石の愛弟子としても知られていて、
『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルとなった著者のキャラクターが
かいま見えるようで読んでいて微笑んでしまった。

ちなみに、この随筆は昔ながらの製法を守る緑寿庵清水さんの金平糖をいただいた去年の10月からずっと気になっていたのだけど、
「なるべく心の忙しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」という著者の意向にそって、
気持ちを落ち着く時を探していたら、年を越した元旦の今ようやく読むこととなった。
公共の仕事にたずさわることは、気持ちの切り替えが課題となりますね、てへっ。

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2012 1/1
随筆
まろまろヒット率4

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『男の肖像』 塩野七生著 文藝春秋 199205.06.09

今年はまろみあん茶話会(オフ会)を開催してみようかとも思っている、まろまろです。

さて、『男の肖像』塩野七生著(文藝春秋)1992。

『ローマ人の物語』『海の都の物語』『マキアヴェッリ語録』などで知られる作家、
塩野七生が歴史上の人物に対して人物批評するエッセイ。

雑誌連載だったということもあって、一人一回の読み切り形式になっているので読みやすい。
著者自身も書いているけれど、あまりよく調べていないで想像だけで語っている部分も多く、
これまで読んだ著者の作品の中では、分量的にも内容的も一番軽い本。

ただ、軽く書かれているだけあって、著者の主観がそこかしこに散りばめられている。
特に「惚れる」というところに注目して人物批評をしているのがおもしろいと感じた。
たとえば、西郷隆盛について批評している回では・・・
「この人の許で死ねるならば、死さえも甘く変わるとなればどうだろう。
私がもしもあの時代に生まれていたならば、坂本竜馬あたりは他の女たちにまかせておいて、西郷隆盛に惚れたであろう。
そして、田原坂あたりで、銃弾うけちゃったりして・・・」
・・・と語っているのには思わず笑ったしまった。

また、ウィンストン・チャーチルの批評の回では、「不名誉なことをしながら高潔さを失わなかった」という点で、
ウィンストン・チャーチルを「最後のヨーロッパ人」と批評しているのも印象深い。

著者の他の作品同様、優しい眼で読めばけっこうおもしろい一冊。

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2009 5/6
歴史、エッセイ
まろまろヒット率3

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『小説作法』 スティーヴン・キング著、池央耿訳 アーティストハウス 200101.01.09

まろまろ@2009年も明けましたね!
今年もどうぞよろしくお願いします(^_-)

さて、『小説作法』スティーヴン・キング著、池央耿訳(アーティストハウス)2001。

『ショーシャンクの空に』『グリーン・マイル』『スタンド・バイ・ミー』などで知られる
現代アメリカを代表する作家、スティーヴン・キングが自らの半生と創作について書いた一冊。
原題は”On Writing: A Memoir of the Craft” (2000)。

内容は自伝、エッセイ、作文指南の三つの要素が入っているので、
単なるhow toにとどまらず、スティーヴン・キングらしい表現が散りばめられている。

たとえば文章とは何か?という問いに対しては、「もちろん、テレパシーである」と断言しているし、
修飾語を多用することの弊害を・・・
「飼い猫や犬にイヴニングドレスを着せるようなもので、当のペットも迷惑だし、計算ずくの可愛らしさを押しつけた飼い主は、それ以上にみっともない」(道具箱)
・・・などと書いているのは著者らしいユーモアを感じた。

そんな中でも特に印象に残ったのは・・・
「世界を丸ごと作品に書き込むことはできない。しかし、自分が最も大切にしている世界は書ける。それこそが作品である」(小説作法)
・・・という一節だ。
これは小説のみならず、すべての表現に通じることではないだろうかと強く心に残った。

また・・・
「私が何よりも重きを置くのは残響である」(小説作法)
・・・というのはというのはスティーヴン・キングの作品に共通しているものなので説得力があった。

さらに・・・
「描写は作者の想像に発して読者の印象に帰結すべきものである」(小説作法)
「優れた小説は必ず、物語にはじまって主題に辿り着く」(小説作法)
「文章の極意は、不安と気取りを捨てることである」(道具箱)
・・・などは覚えていこうと思った。

ちなみにスティーヴン・キングの小説を読んでいると、面白いところではあるけれど、
時々描写や表現が長ったらしく感じることも多々ある。
でも、そんなスティーヴン・キングでさえ、削ることを強く意識しているのは興味深かった。
(「プロの作家といえども初稿はおそまつなもの」と言っている点も納得)

以下は、チェックした箇所・・・

○ドアを閉じて書け。ドアを開けて書き直せ。
すなわち、文章の出発点は自分だが、書かれた文章は人の目にさらされるということである。
<生い立ち>

☆文章とは何か?
もちろん、テレパシーである。
<文章とは何か>

☆文章を書く上で心して避けなくてならないのは、語彙の乏しさを恥じて、やたらに言葉を飾ることである。
これは飼い猫や犬にイヴニングドレスを着せるようなもので、当のペットも迷惑だし、計算ずくの可愛らしさを押しつけた飼い主は、それ以上にみっともない。
<道具箱>

○要は平明、簡素を心懸けることである。語彙に関しては、適切で生きがいいと思える限り、真っ先に浮かんだ言葉を使うという鉄則を忘れてはいけない。
<道具箱>

○消極的な愛人が受け身の態度を好むと同様、臆病な作者が受け身に逃げる。
<道具箱>

☆文章の極意は、不安と気取りを捨てることである。
名文と悪文を区別せずにはいられないことにはじまって、気どりそれ自体が小心者のふるまいだ。
<道具箱>

○私の場合、短編であれ、長編であれ、小説の要素は三つである。
話をA地点からB地点、そして、大団円のZ地点へ運ぶ叙述。
読者に実感を与える描写。
登場人物を血の通った存在にする会話。
この三つで小説は成り立っている。
<小説作法>

○構想を練ることと、作品の流れを自然に任せることはとうてい両立しない。
ここはよくよく念を押しておきたい。
作品は自律的に成長するというのが私の基本的な考えである。
作家の仕事は作品に成長の場を与え、その過程を文字に写し取ることだ。
<小説作法>

☆描写は作者の想像に発して読者の印象に帰結すべきものである。
<小説作法>

☆優れた小説は必ず、物語にはじまって主題に辿り着く。
主題にはじまって物語に行き着くことはほとんどない。
<小説作法>

☆私が何よりも重きを置くのは残響である。
固定的な読者が巻を閉じた後、その頭と心に余韻が尾を曳いたら本望だ。
<小説作法>

○初稿を人に見せることについて・・・
野球なら、同店はランナーに有利、小説では作者の得である。
誰かが結末を絶賛し、別の誰かがぼろくそに言った場合も事情は同じ。
評価は互角で、作者は大威張りである。
<小説作法>

☆世界を丸ごと作品に書き込むことはできない。しかし、自分が最も大切にしている世界は書ける。
それこそが作品である。
<小説作法>

○作者がひたすらただ一人を思って書く、その相手を今からは理想の読者(Ideal Reader)、略してIRと呼ぶことにしよう。
<小説作法>

○書くことが人生ではないが、場合によっては、人生の本道に立ち返るよすがである。
<小説作法>

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2009 1/1
エッセイ、作文指南
まろまろヒット率4

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『増量・誰も知らない名言集イラスト入り』 リリー・フランキー著 幻冬舎文庫 200611.15.06

この前、弊社のある一角で「倖田來未はアイドルかどうか?」で議論している場面をかいま見て、
日本って平和だなとあらためて思った、まろまろ@misonoは未だにアイドル路線なのは疑いの無いところですな(w

さて、『増量・誰も知らない名言集イラスト入り』リリー・フランキー著(幻冬舎文庫)2006。

名言集・・・と言っても偉人による言葉ではなく、「日常生活の中で無意識のうちに口をついて出たような言葉(略)
荒削りなまま、ためいきと一緒に押し出されたような、本心のかたまり」(まえがき)としての39個の”御言葉”と、
それをめぐる人間模様をエッセイ風に紹介している一冊。

読んでみると、まず読み物として面白い。
痛いものコレクター的に興味深い痛々しいエピソード集と、その顛末で出てくる人々の言葉は、生々しい力強さを感じるものが多かった。
また、各エピソードの最後にはその”御言葉”に英訳も添えられているけれど、それが文脈を組み込んだもので笑えてしまった。

面白いなと思ったのは、著者は人にインタビューする時には必ず
「今まで、誰かに言われた言葉の中で、一番傷ついた言葉は何ですか?」と聞くようにしているらしい。
こう聞かれると、誰もが一拍あく瞬間がある。その一拍あいた時の表情に漂う、その人の素を顕微鏡でキャッチし、心の深淵を覗きたいらしい。
自他共に認める人間研究家だけあって面白いやり方だと思った。
(著者自身は自分でも嫌なやつだと自覚しているようだけどw)

ちなみに「もし、本当に才能というものがあるのだとして、その最低限の才能とは自分に出来ることを見つけることではなく、
自分には出来ないことを発見できる目である」と述べていたのは妙に納得してしまった。
そして「最後に残ったものに全神経を集中すればなんとかなるものなのである」と言っている箇所は、
この本の中で一番の教訓めいたものとして受け取った。

総じて面白かったけれど、最後の方の名言はあんまりインパクトが無い、パワーダウンしたものが続いたのが少し残念だった。

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2006 11/15
名言集、エッセイ
まろまろヒット率4
癒し

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『最後の親鸞』 吉本隆明著 ちくま学芸文庫 200205.20.05

飲み屋さんで合コンしてるテーブルはどんなに遠くからでもすぐわかる
らぶナベ@ああいう場って独特のオーラを発しているのはなぜなんだろう?と思っています。

さて、『最後の親鸞』吉本隆明著(ちくま学芸文庫)2002。

僕に信仰心は無いけれど、我が家は浄土真宗(西本願寺)なので
一度くらいは親鸞ものを読んでみようと友人に勧められて手に取った一冊。
非僧非俗の生涯をおくった親鸞の晩年に焦点を当てて彼の思想性に迫ろうとしている。

興味を持ったのが親鸞の生涯の中で北陸への追放から晩年の京都での著作活動の間にある
北陸と関東での布教時代がよくわかっていないというところだ。
そしてこのことにも関連して、親鸞の伝説を紹介しているのも面白かった。
27個の伝説をリスト化して、各派が自分の都合に合わせてどの伝説を組み合わせたのかが
一覧してわかる「伝説組み合わせ表」が興味深かった。

昔から僕にとって親鸞は「肉を食べるのとHをするのがやめられなかった」(肉食妻帯)ことや、
「良い人だって救われるんだから悪い人が救われるのは当然じゃん」(悪人正機説)などが印象にあった。
実は法然の方がすごくて、これほど有名なのは単に普及度の問題だけでは?という疑問も持っていた。
読んでみてこういう印象や疑問から来る関心をさらに高めてしまった。

以下はチェックした箇所・・・

○現世でたまたま善であるか悪であるかは、時間のとおい過去からやってきた宿縁によるものだから、
本人のせいではない(略)つぎにこのかんがえは、悪人こそは善人にもまして往生の正機をもつのだ、
というように徹底化されていった。
<和讃>

○伝説がつくり出される動機は< 聖化>したいという念慮と、一見これと裏腹な共同の< 必要性>である。
伝説の< 真>は、至上化された愛惜と極端な有用性から成っている。
<親鸞伝説>

○絶対的な距たりを縮めようとする行為は、
遠まわりの善であるという逆説の完成こそが親鸞の教理的な精髄であった。
<教理上の親鸞>

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2005 5/20
宗教、仏教、歴史、エッセイ
まろまろヒット率3
スピリチュアル

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『本郷界隈―街道をゆく37』 司馬遼太郎著 朝日文庫 199610.03.04

ナニゲに散歩が好きな、らぶナベ@人生自体がぶらり途中下車気味です。

さて、『本郷界隈~街道をゆく37~』司馬遼太郎著(朝日文庫)1996年初版。

歴史散歩エッセイ「街道をゆく」シリーズの東京都文京区本郷周辺の巻。
本郷周辺の所縁の地を著者が歩いてその由来や歴史を語っている。

僕は去年から小石川三丁目に住んで本郷三丁目に通っているので(まさに本郷界隈)、
著者が歩いて所縁を語る場所は肌感覚で馴染みがあるところばかりだった。
普段何気なく通り過ぎているところが舞台のエピソードを知るというだけでも楽しめた。

本郷界隈は坂と路地が多くて20年来の不動産屋さんでも道を間違えるほど入り組んでいる。
(部屋選びの時の内観で実際に見かけた)
そんな路地裏の気づかないような場所に夏目漱石、森鴎外、坪内逍遙、樋口一葉、
正岡子規などの明治の文豪の所縁があったりするのがおもしろい。
前から本郷界隈は「明治の匂いが残る下町」っという感じがしていたが、
この本を読めば本郷界隈のいま見ている風景とかつての風景が重ね合わせられて
立体的にその土地に立っているような気持ちになれる。

実はこの本も調べもので立ち寄った本郷の真砂図書館で見つけて借りたものだが、
その真砂も正岡子規や坪内逍遙の所縁としてこの本に出てきたりする。
そんな文脈を重ね合わせられる所縁本が僕はナニゲに好きだ。

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2004 10/3
歴史、エッセイ
まろまろヒット率4

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『バカの壁』 養老孟司著 新潮新書 200310.22.03

肝機能回復のためにゴーヤ茶を飲んでいる、
らぶナベ@水筒を持ち歩いている人間を見かけたら、
もしかしたらそれは僕かもしれません(^^)

さて、『バカの壁』養老孟司著(新潮新書)2003年初版。
家に泊まりに来た人がくれたので読んでみた今年のベストセラー本。
脳解剖学者が書くエッセイ。

「一般に、情報は日々刻々変化しつづけ、それを受け止める人間の方は変化しない、
と思われがちです。情報は日替わりだが、自分は変わらない(略)あべこべの話です」
→「生き物というのは、どんどん変化していくシステムだけども、
情報というのはその中で止まっているものを指してる。
万物は流転するが、『万物は流転する』という言葉は流転しない」
(第4章:万物流転、情報不安)と述べているところや、
「組織に入れば徹底的に『共通了解』を求められるにもかかわらず、
口では個性を発揮しろと言われる。どうすりゃいいんだ、と思うのも無理の無い話。
要するに『求められる個性』を発揮しろという矛盾した要求が出されている」
→「(教育関係者へ)おまえらの個性なんてラッキョウの皮むきじゃないか」
(第3章:「個性を伸ばせ」という欺瞞)っと言い切っているところなどは
勢いがあって肯きながらサクサクと読んでいける。

また、「教育の現場にいる人間が、極端なことをしないようにするために、
結局のところ何もしないという状況に陥っているという現実があります」
→「(わたしは)自分が面白いと思うことしか教えられないことははっきりしている」
(第7章:教育の怪しさ)と述べているところにはすごく共感した。
ときどき僕は人から教え上手とか説明上手と言われることがあるけれど、
それは誤解で、僕は人に「教える」ことはまったくできないと考えている。
ただ、自分が必要だと思ったり大切だと思うことを相手に伝える、
共感することはできると思っていたところだったので、
そういうことを感じている人が他にもいたんだと思ってちょっと安心。

・・などなど、通して読むとけっこう面白いけど、
飲み屋のクダまきおっさんトーキングの色合いが強くなる後半は
ぐぐっと説得力と小気味良さが落ちてしまっている。

ちなみに、河合隼雄(心理学)といい、この本の著者といい、
こういう系のベストセラーを出す人が
心理学や脳科学の分野の人というのが現代的な特徴なのかな?

以下はその他にチェックした箇所・・・

○真に科学的である、というのは「理屈として説明出来るから」
それが絶対的な真実であると考えることではなく、
そこに反証されうる曖昧さが残っていることを認める姿勢。
→イデオロギーは常にその内部では100%だが、科学がそうである必要はない。
<第1章 「バカの壁」とは何か>

○人間はどうしても、自分の脳をもっと高級なものだと思っている。
実際には別に高級じゃない、要するに計算機。
<第2章 脳の中の係数>

○V.E.フランクルは「意味は外部にある」と言っている。
「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。
<第5章 無意識・身体・共同体>

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2003 10/22
エッセイ、脳科学、科学論、教育論
まろまろヒット率3

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『ニューヨーク散歩―街道をゆく39』 司馬遼太郎著 朝日文庫 199707.19.02

大阪生まれ育ちなので上海やニューヨークは空気があっていると言われる、
らぶナベ@上海もNYCも行ったことないので行ってみたいっす(^^)

さて、『ニューヨーク散歩~街道をゆく39~』司馬遼太郎著(朝日文庫)1997年初版。
この本はだいぶ前に買ったものの端折り読みをしてただけなので、
読書日記にも残さず放置プレイをし続けていた。
そんな折にこの本に出てくるというNYC在住の人からまろまろ掲示板に書き込みがあって、
「本名で一瞬だけ出てるので探し当てたら好きな洋書をあげます」という謎々を出された。
書き込みのあった7月19日はまろまろ読書日記一周年で様々な更新があり
さらに京都に行かなくてはいけないなど何かと多忙だったが、
さっそくこの本をズボンのポケットに入れて移動中に最初から通読した。
(こういうきっかけで本が読めるというのもHP運営の喜びかな(^^))

読み始めるとすぐに時間を忘れてしまいそうになった、司馬遼太郎マジック(>_< )
ブルックリン橋を建設した親子やドナルド・キーンをはじめとした
日本学の研究者たちの姿はどれも生き生きと感じられた。
「はっ!」とさせられたのは日本語研究者にスポットを当てた項「御伽草子」の中で・・・
本を黙読するのは近代の風習である。
近代以前では。書く人も口誦さみつつ書き、読む人は、とくに朗々と諷誦した。
・・・と述べていた箇所だ。
今度からできるだけ意識して読もう。

ただ妙に分量が薄くてあっさりしすぎているのが気になった。
NYCはまだ新しい街とはいえ、司馬作品に出てくる「余談だが・・・」エッセンスをつめた
この『街道をゆく』シリーズとしてはもうちょっと分量が欲しかった気がする。

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2002 7/19
エッセイ、歴史
まろまろヒット率3

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『こころの処方箋』 河合隼雄著 新潮文庫 199807.07.02

らぶナベ@『姑獲鳥の夏』に続き今年二冊目のお勧め度サイコー本っす(^_-)

さて、その『こころの処方箋』河合隼雄著(新潮文庫)1998年初版。
いま日本でもっとも有名な心理学者・河合隼雄(現職は文化庁長官)の代表的著作。
臨床心理の現場にカウンセラーとして長年たずさわって来た経験をもとに、
人生の場面場面にふと出てくる気持ちに対して言葉の光を当てている。
心理学のバックボーンがある名言集といったところだろうか。

中でも面白いなぁっと思ったのは著者は初対面の人と接するときには、
「人の気持ちなんてわかるはずがない」と思って接するという点だ。
一見、当たり前のことのように思えるけど今まで自分は安易に
「この人は機嫌悪いな」とか「自分に良い感情を持っていないな」とか、
いろいろな判断(実は単なる先入観)を持って人と接したこともあったなと反省。

また、「己を賭けることもなく、責任を取る気もなく、100%正しいことを言うだけで、
人の役に立とうとするのは虫がよすぎる」という言葉にはとても共感した。
近頃、何人かそういう人と接したことがあったので
自分は恥をかきたがらずだからといって努力も少ないのに
イイ気になりたがる人間への痛烈な批判はある意味で爽快でもあった。
(さすがNo.1カウンセラー(^_-))。

こうしたことだけでなく親と子、教師と生徒、上司と部下など
導く人と導かれる人との関係についての事例も多かった。
(こういう人間関係が一番トラブルが多いからかな?)
たとえば「自分の権力や権威を否定する人ほど自分を安定させるために
気づかないところで権威を振りかざしたり権力にしがみつくこともある。
・・・自分がどれほどの権力と権威を持っているかしっかり自覚し、
自身を高めることによって内的権威(これは誰にも奪われない)を高めるべき」
などというのは様々な人を見て漠然と感じていたことに形を与えてくれた気がする。
この本はいろんな意味で教育や助言の仕事にたずさわる人間は必読書じゃないだろうか?

・・・こう書くと何か教条主義的な感じがするけど、
終始やわらかい言葉で語られている上に関西のおっちゃんらしい
「まぁええがな」的な視点には思わず笑ってしまうところもある。
本来はこういう話は宗教が担うべきものなんだろうけど、
日常と宗教が遠い存在になりがちな今の日本では必要な本なんだろう。
末尾で谷川俊太郎が「河合さんは海千山千」と愛を込めて表現していたのは
実はそういう意味もあったのかなと感じた。

ちなみにこの本は“西行法師プレイ~出会い系サイトを歩く編~”で知り合った
高校生から薦められたのが実際に読むきっかけになった。
奇しくも七夕に読み終える自分の痛さに笑ってしまった。
(痛いものコレクター)

以下は、チェックした箇所(あえて順不同、☆は特に共鳴したもの)・・・

☆「うそはあんがい「まこと」を引き出してくれる力をもっている(略)
その「うそ」のなかに、何らかの”真実味”がこもっていることが必要で、
それをどうやって見つけ出してゆくかがポイント
17「うそからまことが出てくる」

☆権力を行使してその場をごまかしてしまうよりは、
後で自分なりに調べたりする方が労力が必要である。
このような労力を惜しまないことによって得た権威は、
自分の”身についた”ものとして、他人に奪われることがない(略)
自分は権力などに関心がないとか、大嫌いという人があんがい多い(しかし)
不安を解消するために、急に妙なところで権威者ぶろうとしたり、
権力にひそかにしがみついたりしている人は実は多いのである。
そんな面倒くさいことはやめにして、人間は自分の存在を支えるもののひとつとして、
内的権威が必要であることを認め、それをいかにして磨いてゆくかを考えた方が、
効果的であるし、近所迷惑も少ない
45「権力を棄てることによって内的権威が磨かれる」

☆(生徒や部下と同等だと言いたがる教師や上司が多いことについて)
権力を否定することよりも、まず自分がどれだけの権力を持っているかをはっきりと意識し、
それに見合うだけの孤独に耐える強さを持っているかを考えてみる方が意味が深い
46「権力の座は孤独を必要とする」

☆簡単に判断を下さず人の心というものはどんな動きをするのかわかるなずない
という態度で他人に接する(略)それまで見えなかったものが見えてくるし
一般の人々が思いもよらなかったことが生じてくる
1「人の心などわかるはずがない」

☆「ふたつよいことさてないものよ」とつぶやいて、全体の状況をよく見ると、
なるほどうまく出来ている、と微笑することまでゆかなくとも、
苦笑くらいして、無用の腹立ちをしなくてすむことが多い
2「ふたつよいことさてないものよ」

☆己を賭けることもなく、責任を取る気もなく、100%正しいことを言うだけで、
人の役に立とうとするのは虫がよすぎる
3「100%正しい忠告はまず役に立たない」

☆自立ということを依存と反対である、と単純に考え、依存をなくしてゆくことによって
自立を達成しようとするのは、間違ったやり方である。
自立は十分な依存の裏打ちがあってこそ、そこから生まれでてくる(略)
自立ということは、依存を排除することではなく、必要な依存を受けいれ、
自分がどれほど依存しているのかを自覚し、感謝していることではないだろうか
22「自立は依存によって裏づけられている」

☆人に遅れをとることの悔しさや、誰もができることをできない辛さを味わったことによって、
弱い人の気持ちがよくわかるし死について生についていろいろ考え悩んだことが意味をもってくる
40「道草によってこそ”道”の味がわかる」

☆早すぎる知的理解は、人間が体験を味わう機会を奪ってしまう(略)
ある程度のことは知っていても、事が起こるとあわてふためき、
それでも知っていたことがじわっと役立ってきて収まりがつくという形になることが多い
53「”知る”ことによって二次災害を避ける」

☆私が大切にしているのは(略)「”私が”生きた」と言えるような人生をつくり出すこと
55「すべての人が創造性を持っている」

☆実際に、自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎる
20「人間理解は命がけの仕事である」

☆(会社でトラブルがあって疲れ切って帰って来ると息子が万引きで捕まったことが発覚)
いい加減に説教しても、少しぐらい怒ってみても、80点では駄目、98点でも駄目
12「100点以外はダメなときがある」

☆どちらにしろ、ひとつの考え方を維持するために支払わねばならぬ
努力の質と量についての自覚がないかぎり、うまくはいかない
6「言いはじめたのなら話合いを続けよう」

☆理想は人生の航路を照らす灯台ではあるが、それに至るべき到達点ではない
9「灯台に近づきすぎると難破する」

☆何か仕事をしながら、やっぱりあの好きなことをしておけばよかったとか、
いやだなとか思っているときは、心のなかに生じる摩擦のためにエネルギーを消耗するもの
14「やりたいことは、まずやってみる」

☆(更生と悪化が極端に変化し続けてゆくことについてその人は)
われわれが依然と変わらぬ態度で接していることに助けられ、
もう一度、自分の生き方にういての検討をはじめられることになる
15「一番生じやすいのは180度の変化である」

☆その人が適切な感謝をする力があるかどうかは、相当に信頼できる尺度
35「強い者だけが感謝することができる」

☆われわれの人生は(略)「楽譜」を与えられているにしろ、
“演奏”の自由は各人にまかされており、演奏次第でその価値はまったく違ったものになる
30「同じ”運命”でも演奏次第で値段が違う」

三年も彼女にだまされていたなどと考えるのではなく、自分の心の中で活動し続けた
「優しく賢い女性」という絵姿は、自分にとって何を意味するのだろうと考えてみる
4「絵に描いた餅は餅より高価なことがある」

理解ある親が悪いのではなく理解あるふりをしている親が子供にとってはたまらない存在となる
5「”理解ある親”をもつ子はたまらない」

子どものためと思ってやっている”開発事業”が、自然破壊につながってゆく(略)
それをキャッチすることが、大人にとって非常に大切
8「心のなかの自然破壊を防ごう」

イライラは自分の何かー多くの場合、何かの欠点にかかわることーを見出すのを防ぐために、
相手に対する攻撃として出てくることが多い
10「イライラは見とおしのなさを示す」

「己を殺す」と言っても(略)自分を殺しきることなど出来たものではない(略)
半殺しの存在やらが、本人の気づかぬところで、急に動き出すこともある
11「己を殺して他人を殺す」

マジメな人は住んでいる世界を狭く限定して、そのなかでマジメにやっているので、
相手の世界まで心を開いて対話してゆく余裕がない(略)
マジメな人の無反省さは、鈍感や傲慢にさえ通じる(略)
笑いと言うものは、常に「開く」ことに通じるもの
13「マジメも休み休み言え」

ともかく、勝負を焦ることはない
16「心のなかの勝負は51対49のことが多い」

(説教はする方の欲求不満の形を変えた表出であることが多いことについて受ける側は)
説教している人の精神衛生のために御協力しているのだと思ってもう少し暖かい気持ちできける(略)
説教をしたくなった場合、その背後にどのような欲求不満がそんざいしているかを考えてみる
18「説教の効果はその長さと反比例する」

今まで仲良くやっていた夫婦が中年になって(略)離婚などというとこまで出て来そうになるのは、
多くの場合、協力から理解へと至る谷間にさしかかっているとき
19「男女は協力し合えても理解し合うことは難しい」

心のエネルギーの出し惜しみは、結果的に損につながることが多い
23「心の新鉱脈を掘り当てよう」

ノイローゼさえなかったら、あれもするこれもすると言っている人は、
本当はそれを避けるためにノイローゼになって、
それを嘆くことによって安定を保っている(という説もある)
28「文句を言っているうちが華である」

「ここは逃げる」と決めたとき、うろうろしないことが肝心
33「逃げるときはもの惜しみしない」

「どっぷり」体験をしようとする人は、恐怖を乗り越える体験をする点でも意味がある
34「どっぷりつかったものがほんとうに離れられる」

「昔はよかった」という論議は、それでは今何をすべきか、今何ができるか、
という点で極めて無力なことが多い
39「”昔はよかった”とは進歩についてゆけぬ人の言葉である」

いざというときは、思わずその(生地)傾向がでてくるにしろ、
やはり鍛えられているものの方が役に立つ
41「危機の際には生地が出てくる」

親の個性にふさわしい心のエネルギーの消費によって、子どもは親の愛を感じる
44「物が豊かになると子育てが難しくなる」

「羨ましい」という感情は、どの「方向」に自分にとっての可能性が向かっているかという
一種の方向指示盤としての役割をもって出現してきている
48「羨ましかったら何かやってみる」

沢山ある心配のなかで、特にその心配が自分に与えられることになった。
それも大きく考えてみると、人生の楽しみのうち
49「心配も苦しみも楽しみのうち」

何か精神的なことを言いたくなったり、言ったりしたときは、
自分が「精神」ということからズレていたり、逃げようとしたり、
それについてはっきりとわからなかったりしているときだということ
52「精神的なものが精神を覆い隠す」

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2002 7/7
心理学、名言集、エッセイ、教育学
まろまろヒット率5

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『歴史と視点―私の雑記』 司馬遼太郎著 新潮文庫 198007.01.01

らぶナベ@今回も我ながら暇人のような読書っす(^^;
さて、『歴史と視点-私の雑記-』司馬遼太郎著(新潮文庫)1980年初版。
僕は時々司馬さんの文章が無性に読みたくなることがある。
その物事の見方とか人物評や罪のない決めつけとかが好きなのだろう。
そんないつもの発作が起こった時に本屋で見つけたので 迷わず購入した歴史エッセイ。
そのもののタイトルから彼の視点についての考察を期待したが、
完全に歴史随筆であって「歴史と視点」ということなら、
前に読んだ『手掘り日本史』の方がはるかにこの点に重点がおかれていた。
ちょっとがっかりしたが、太平洋戦争当時に北関東守備の戦車部隊に
配属されていた彼自身のエピソードはすごく興味深かった。
東京湾から連合軍が上陸した際の南下迎撃作戦の説明を受けた時、
東京や横浜という人口集中地域を通るのに道路が空っぽという前提で
作戦の説明が終始したのに疑問を感じた司馬さんが、
「戦車が通る道路に人が溢れているのではないか?」と質問した。
将校はこんな質問については考えもしなかったらしく、
しばらく間があってから「轢っ殺してゆけ」と言ったというそうだ。
(「何のための迎撃作戦?」とはこの場合愚問のようだ)
この経験から沖縄戦で日本軍がおこなった住民への虐殺を、
一説で言われている沖縄だけの特殊な事情だったとは思えないらしい。
思想や権力を「善悪は別にして白昼のオバケ」と呼ぶ彼のスタンスの原点が
このエピソードに集約されているだろう。

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2001 7/1
エッセイ、歴史
まろまろヒット率3

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