Archive for the ‘文化人類学’







『日本のもと 神さま』 中沢新一監修 講談社 201110.01.11

渡邊義弘@自分が提案したということもあって、最近は松阪市役所地下売店の松阪牛おにぎりを朝ごはんにしています。

さて、『日本のもと 神さま』中沢新一監修(講談社)2011。

日本人の精神の源泉にある「神」について、その概念の歴史的変遷と特徴を子供向けに解説した一冊。
信心とは、「なにか特別な存在を信じる心」という定義の下・・
・日本の信心の歴史をたどる「温故編」
・人類学者、中沢新一と対話する「知新編」
・日本の信心の可能性を示唆する「未来編」
・・・という三部構成になっている。

特に印象的だったのは、最後の「未来編」の中で針供養、付喪神、丸石神などを紹介しながら、
モノに気持ちや愛を込める行為が日本のアニミズムでの特徴であると指摘しているところだ。
日本語には「モノに命を吹き込む」という言葉にあるように、
その精神性がアニメ(語源もアニミズム)やものづくりに通じているとまとめられている。
ちょうど、この本の監修者である人類学者の中沢新一さんとは
大阪取材コーディネータをつとめて以来のご縁があることもあって、
このくだりは実際の肉声を聞いているような気持になった。

ちなみに、この本の欄外には4コマ漫画が散りばめられている。
親しみやすさを目的にしたものだと思うけれど、
内容と関連が薄いダジャレが多い上に、古い芸能人(横山やすし)を使うなど、
子供が読んで面白いと思えるのかどうか疑問に思ったのはご愛敬(w

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2011 10/1
宗教、文化、人類学、歴史
まろまろヒット率3

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『図説 金枝篇』 サー・ジェームズ・ジョージ・フレーザー著、メアリー・ダグラス監修、サビーヌ・マコーマック編、内田昭一郎・吉岡晶子訳 東京書籍 199412.01.07

100年後くらいに今の占いやスピリチュアル、オーラなどのポピュラーさがどう評価されるのかちょっと興味がある、まろまろです。

さて、『図説 金枝篇』サー・ジェームズ・ジョージ・フレーザー著、メアリー・ダグラス監修、
サビーヌ・マコーマック編集、内田昭一郎・吉岡晶子訳(東京書籍)1994。

イタリアにあるネミの村には、森の王と呼ばれる祭司がいた。
その祭司の地位は、聖なる樹の枝(金枝)を折って現職の祭司を殺した逃亡奴隷だけが引き継ぐことができた。
なぜ聖なる樹の枝を折ることが必要だったのか?
なぜ祭司を殺すことが必要だったのか?

宿り木信仰や祭司殺し、王殺しの風習は世界中の”未開社会”(この本の用語)に共通して見られるものとして、
膨大な類似例を比較研究しながら人類に共通する思考パターンにアプローチする・・・

・・・人類学、民俗学、宗教学、神話学、魔術考察などの古典とされる本で、
原著”The Golden Bough”(1936)は全13巻、約1300000語にわたる超大作。
ただ、今となっては正確性に欠けるものや誤解のある部分も明らかになっているので、
そうしたものを省いて金枝編のエッセンスを抜き出してイラストや写真を加えて再編したものがこの本。
コンパクトに要約したといっても二段組みで約400ページもあったりする(^^;
去年の夏に一緒に仕事をした人からオススメされた本で、
フレーザーに対する批判とその反論も載せられているのでこの本の位置づけもわかるようになっているのが便利。

読んでみると、著者は「人間の思考法は呪術的→宗教的→科学的という変遷を経ている」と主張している。
そして「科学と呪術は、あらゆる事象の根底にある基本原則としての秩序を信じるという点で共通している」、
「呪術の根底にある秩序は、観念が生み出した秩序を、誤った類推で敷衍したものにすぎないが、
科学が自明の理とする秩序は、自然現象そのものを忍耐強く厳密に観察した結果」というスタンスで書かれている。

生々しい王殺しや生贄の風習の詳細な紹介と、その意味を解明しようとする内容は単純に読み物としておもしろい。
また、第6部で「身代わり」について詳しく書かれているのも興味深かった。
「自分の罪や苦悩を何かほかの存在に転化して代わりに背負ってもらえるというのは、未開人にとってはごくありふれた考え方」
という身代り思考は身代わりにされる方はたまったものじゃないし、
差別を生み出すものでもあるけれど、それは人間の自然な心理かもしれないと感じた。

また、フレーザーは19世紀の学者なので”未開社会”や”未開人”という言葉を頻繁使っているけれど、
占いや前世、霊やオーラ、スピリチュアルを信じる人の多い現代もそういう意味では”未開社会”ではあると感じた。
(それが人間の自然な観念かもしれない)

以下はその他でチェックした箇所(要約含む)・・・

○タブーを犯したら恐れていた厄災が必ず訪れるとすれば、そのタブーはもはやタブーではなく、道徳または常識の教えとなる
<第1部第3章 共感呪術>

☆共感呪術(共感の法則)-類感呪術(類似の法則)
           -感染呪術(接触の法則)
<第1部第3章 共感呪術>

☆呪術-理論的呪術(疑似科学としての呪術)
   -実践的呪術(疑似技術としての呪術)-肯定的呪術(魔法)
                    -否定的呪術(タブー)
<第1部第3章 共感呪術>

○厄除けの祭りの共通点
1:直接追放も間接追放も意図は同じ
2:決まった時期に行われる場合はたいてい間隔は1年
3:決まった時期に行われる場合はたいていその前後にハメをはずして騒ぐ時期がある
4:神格を持つ人間か動物を身代わりにする
<第6部第2章 身代わりについて>

○神が自然に死ぬのを待っていたら当然老いて衰弱していくので、その前に殺してしまうのは、
神の活力を若々しい力のみなぎったまま永遠にとどめようとする手段にすぎない
<第6部第4章 身代わりについて>

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2007 12/1
人類学、宗教
まろまろヒット率3

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『神話と意味』 クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳 みすず書房 199609.05.07

「メーン」と「ディスる」がまわりで流行っている、まろまろです。

さて、『神話と意味』クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳(みすず書房)1996。
(原題“Myth and Meaning”)

文化人類学者・思想家のレヴィ=ストロースによるCBC(Canadian Broadcasting Corporation;カナダ放送協会)ラジオ講話を元に書かれた一冊。
フランス語を母国語にする著者が「英語で説明するのは面倒なので、うんと単純化した」と述べているように、とても読みやすい。
訳者も「格好のいい聴かせどころを探す人はがっかりするだろう」と書いているほどで、代表作の『悲しき熱帯』とは比べものにならないほどの簡明さがある本。

文学的要素は無いけれど、その分、彼の構造主義アプローチのエッセンスがシンプルに語られているという点で入門書として最適な本だと思う。

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

☆構造主義的アプローチ=普遍なものの探求=外見上の相違の中に普遍の要素を求めるもの
<神話と科学の出会い>

○科学には二通りの方法がある=簡単にする還元主義的方法&関係に注目する構造主義的方法
<神話と科学の出会い>

☆「意味する」とは、ある種類の所与が別の言語に置きかえられる可能性
<神話と科学の出会い>

☆人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでもその共通点は決まって何らかの秩序を導入すること
<神話と科学の出会い>

○神話的思考(野生の思考)の特徴=可能な限り最短の手段で宇宙の一般的理解に達することを目的
→一般的に加えて全的理解に達することも目的
<”未開”思考と”文明”心性>

○文字をもたない社会における神話の目的=未来が現在と過去に対してできる限り忠実であることの保証
<神話が歴史になるとき>

○神話と音楽の共通点・・・
・言語;音素○ 語○ 文○
・音楽:音素○ 語× 文○
・神話:音素× 語○ 文○
→音楽も神話もに言語から発したが、別々の方向に分かれて生長している
→神話は音楽の総譜と同じく一つの連続シークェンスとして理解することは不可能
<神話と音楽>

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2007 9/5
文化人類学、神話学、宗教、文化論
まろまろヒット率4

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『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 199201.17.06

修二と彰の振り付けを練習中の、らぶナベです。

さて、『カリスマ―出会いのエロティシズム』 チャールズ・リンドホルム著、森下伸也訳 新曜社 1992

カリスマの研究書、めちゃ面白かった一冊!
内容は理論編(第2部)でカリスマ研究の歴史、各分野からのアプローチを押さえながら統合理論としてまとめ、
実例編(第3部)でカリスマとその信奉者たちの典型例を取り上げて、
結論(第4部)でカリスマとその信奉者たちとの相互作用は一体何なんなのか、その今日的な意味も含めて答えを出している。
理論の深さ、実例の迫力、結論の説得力、どれを取ってもカリスマの研究の決定版と言える本。

まず、すごいなと思ったのが膨大な先行研究を押さえていているところだ。
たとえば理論編では情念に焦点を当てた哲学者たちとしてヒュームやミル、ニーチェ(2章)、社会学としてのアプローチ、ウェーバー(ヴェーバー)とデュルケム(3章)、
催眠と群集心理学からのアプローチのメスマー、ル・ボン、タルド(4章)、精神分析学からのアプローチとしてのフロイト(5章)などの
カリスマ研究の背景やそれぞれのアプローチを総括しながら、
カリスマ的リーダーシップの病理性を強調する心理学的見解と、カリスマ的集団に積極的な価値を与える社会学的言説との対比をまとめて(6章)、
カリスマ精神の病いなのか、再社会化なのだろうかと問いの下で統合理論化(7章)をしている。

その次の実例編では典型的なカリスマとその信奉者たちの実例としてアドルフ・ヒトラーとナチ党(8章)、
チャールズ・マンソンとそのファミリー(9章)、ジム・ジョーンズと人民寺院(10章)を取り上げている。
著者は文化人類学出身なので、この実例編は本領発揮という感じでとても迫力があった。
ある人物がカリスマ的パーソナリティを持つことになってゆく過程、奴隷化しているのに自分は解放されていると思う信奉者たち、
そしてカリスマと信奉者の相互作用で生まれた集団のダイナミズムが展開し、崩壊していく様が克明にえがかれていて、
単純に生々しい読み物としても読み入ってしまった。
そしてシャーマニズムとの共通点を指摘しながら(11章)、結論につなげるという流れがとても綺麗。

結論(12章)では、現代のカリスマをよく指摘されるような芸能人やスポーツ選手にとどまるだけでなく、
カリスマ的な特徴を帯びた人間関係として、家族(観)とロマンティックな恋愛を挙げているのが面白い。
確かに実例編で出てきたカリスマとその信奉者たちは極端な事例かもしれないけど、
読みながらホストに入れ込む女性や、キャバクラ嬢に振り回される男性を思い起こしていただけに納得。
(実は自分自身の恋愛体験の中にも重ね合わさる面もあった(^^;)

人間関係がもたらす無我と交感の絶頂感(エクスタシー)は魅力的で、時には没頭してしまう。
コミュニケーションの快楽に耽溺する人の性向は決して特殊なものではなく、
人間の本質の一つなんだ、というこの本の主張は説得力があった。
(そこには集団のダイナミズムが生まれる源泉になる)

ちなみに、この本はインターネット普及以前に書かれたものだったので、
現在のネットコミュニティ内でのカリスマ出現に著者はどう思っているのか知りたかった。
また、理論編の第2部はけっこう面白いんだけど、理論的背景とかアプローチを退屈だと思う人は、
訳者が言っているように実例編の第3部から読んでも十分に面白く読めると思う。

以下はチェックした箇所(要約含む)・・・

○カリスマというものを理解するためには、カリスマ的人物の性格やそのカリスマ的魅力を個々の人間に受け容れやすくさせている諸属性を研究しなければならないばかりでなく、
同時に指導者と信奉者が相互作用をおこなっているカリスマ集団そのもののダイナミズムをも分析しなければならない
<第1章 序説>

○弱く空虚な人間は、服従することによって、ひとつのアイデンティティを、また力と意志という不可欠な幻想を手に入れることができる
→カリスマの信奉者たちは抑圧の中に解放されているという感覚を感じる (Hoffer 1951)
<第4章 催眠と群集心理>

☆自己の解体的幻想による同一化的経験こそが指導者に対する信奉者の愛、自我の境界が消失する超越的な愛の源泉
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○心理学者たちが指導者に焦点をあて、彼らの障害をもったパーソナリティを強調しがちであるのに対し、
社会学者たちは指導者の性格についてほとんど論じることなく、信奉者や彼らを取り巻く環境に関心をもつ
→心理学が信奉者のうちに病理性を見ようとするのに対して、
社会学者は信奉者が普通の人間よりも深い心理学的な生涯を病んでいるわけではないことを証明することに関心をもっている
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

○カリスマに対しては大きく分けて二つのアプローチがある・・・
・精神分析学に由来するものでカリスマの感情的強烈さや超越的性格を認めはするが、それに対する価値判断を含み、指導者の個人的特長を過度に強調するもの
・社会学に由来するもので集団の重要性、共同体への参加が人々の願望の対象となりうることをよく認識しているが、
 しかし経験から情念を剥離させ、リーダーシップを閑却し、カリスマ的紐帯の根底にある無意識の衝動を軽視するもの
→どちらのアプローチもカリスマ的経験の一部を教えてくれるが全体ではない
<第6章 カリスマは精神の病か、それとも再社会化か>

☆自我がその価値を減ぜられ、アイデンティティの標識や対象とのきずなを剥奪されながら、それでもなお同時にすべての行為の唯一の正当化根拠とされるとき、
カリスマの啓示や帰依者の共同体的集団への没入によってあたえられる激しさや内的確実感は高度に魅力的
→このようにして高められた相互作用の形式は現実の社会構造に欠けている、交感の感情、エクスタシー的自己喪失、超越、信念をあたえる
<第7章 カリスマの統合理論>

☆カリスマ的な関わりへ導いていく諸条件について統合的図式・・・
・疎外された現代社会とナルシシズムの文化が結合して人々にカリスマへの没入を受容させやすくしている
・人格的アイデンティティを遮断することによって人々に自己喪失を用意させる思想改造
→いずれも人格的アイデンティティを脅かし、集団による個人の吸収を促進し、集団形成の指導者に対するエクスタシー的心酔を偏愛するように作用する、
 ある種の技法や社会状況がもつ人格解体的作用に対してまことに弱い存在として人間を描く
<第7章 カリスマの統合理論>

○ヒトラーという恐るべき事実に直面した歴史家や政治学者は、当然のことながら彼や彼の運動からその神秘的な要素を取りのぞこうとするから、
その結果として諸々の偶然の変数が結びつくことで彼に政権の掌握と維持が可能になったという事実を強調することになる
<第8章 「取り憑かれた従者」>

☆カリスマ集団の隠された目的は「成功」することではなく、経験することそれ自体
→だから外的脅威の圧力で集合体経験は強化される
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○(ナチスのSS訓練は)極度の疲労と苦痛、そして屈辱は、男たちの過去とのきずなを切断し、いかなる自律感覚も腐食させる効果を発揮した
<第8章 「取り憑かれた従者」>

○社会変動が旧来のきずなを切断してしまったところはどこでも、補償としてのカリスマ運動を好む
<第9章 「愛こそわが裁き」>

○主観のうちに生じるエクスタシー的なトランスという変成状態の所有がシャーマニズムの中心
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆シャーマンの役割につくことは、現代においてカリスマとなることと同じく、アイデンティティ解体という初期局面から苦痛に満ちた自己再構成を経て、
他のもっと弱い魂たちを圧しつぶす潜在的な精霊をコントロールして顕在化させる能力をもった変身せる専門家としての再生へ向かう運動
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆カリスマ的啓示は、周縁に追いやられた集団を無視し抑圧してきた社会構造における弱き者の示威運動、反構造の契機、警告のコミュニタスとなる (Turner 1982)
→カリスマの形態は、いかなる社会にあっても、社会構造の中にそれがあらわれることで克服されなければなならい抑圧のタイプと程度を示す
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○逸脱せる集団とその指導者に精神的な変調をきたした者というレッテルを貼ることと、彼らが実際に狂気に落ち込んでいくこととの間には明確な相関関係がある
<第11章 「聖なるものの技術者」>

☆今日におけるカリスマの過剰なあらわれは、交感を求める人間の根源的な欲求を社会システムが満たしえないでいることの反映
→カリスマとその集団は、その暗さによってわれわれ自身が置かれているディレンマの輪郭をくっきりと縁どる影
<第11章 「聖なるものの技術者」>

○非日常な無我の状態に到達することのできる一つの方法が、移ろいやすい気質をもったカリスマ的指導者という霊感喚起的な人物によって結合された集団に所属すること
<第12章 今日のカリスマ>

☆恋愛においては、カリスマにおいてと同じように、相手のうちへ自己を喪失することが縮小としてでなく、高揚、エクスタシー、自我の拡大として経験される (Chasseguet-Smigrel 1976)
→恋に落ちることは巨大な革命のエクスタシー感情と変革パターンを小規模で複製する集合運動の最も単純な形態 (Alberoni 1983)
→カリスマも恋愛も強烈な情動喚起的関係における自他の完全な同一化を要求するので同時並行することはできない
<第12章 今日のカリスマ>

☆カリスマとは、世俗的な世界の疎外と孤立の外部にあってそれと対立する根源的な超越の瞬間をもたらす直接的なエクスタシー経験
→無我と交感というモーメントは、われわれ人間の不可欠な条件の一部
→問題はそうしたモーメントがどのような形態をとるかということ
<第12章 今日のカリスマ>

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2006 1/17
カリスマ研究、社会学、心理学、社会心理学、文化人類学、宗教学、思想史、リーダーシップ論、政治学、組織論、コミュニティ論
まろまろヒット率5

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『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』 佐藤郁哉著 新曜社 199210.31.03

マリノフスキーっておちゃめさんと思っている、らぶナベだす。

さて、『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』佐藤郁哉著(新曜社)1992年初版。
対象との間合い(距離感)について考えていたら佐倉助教授から「名著だよ」と紹介された本。
著者は暴走族(『暴走族のエスノグラフィ』)や現代演劇(『現代演劇のフィールドワーク』)
へのフィールドワーク研究をしたことで有名な人。

内容は文字通りフィールドワークの概要や考え方について紹介している。
だからといってフィールドワーク至上主義というわけではなく、
サーベイとの対比をしながらそれぞれの一長一短を分析して
それぞれを補い合うよう提言している。
対象との距離感や社会調査法についてのことだけでなく、
仮説や概念のとらえ方についても議論しているので
こうしたことを全般的に通して考えるきっかけになる。

読み終わってからインターンシップで企業現場に飛び込んだり、
産学協同事業に携わったときにこの本を読んでいればとちょっと思ってしまった。
まぁまだ生きてるんだし、次は使えるさ。(自作自演な慰め)

ちなみにこの本の「書を持って街へ出よう」という副題は気に入った。
僕の場合なら「箱庭を持って広場へ出よう」という感じだろうか(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○文化=知識・信仰・法律・風習、その他社会のメンバーとしての人間によって獲得された、
あらゆる能力や習慣を含む複合体の全体(エドワード・タイラー)
<カルチャー・ショック>

○フィールドワーク=文化的な子供時代の再現
→ただし子供のように白紙の状態からとは違い、
 既に身につけている自分の社会の文化を前提として
 調査地の文化を学んでいくのがフィールドワーカー
<カルチャー・ショック>

○「居心地の悪さ」を感じることこそ「文化」を知るための最良の方法
→フィールドワーカーは「プロの異人」
<カルチャー・ショック>

○エスノグラフィー=
 人類学者が異文化における日常生活を身近に観察し、記録し、
 それにみずから参加し、細部を丹念に記述しながら
 その文化についての話を書き上げる調査のプロセス(Marcus&Fischer, 1986)
→文学と科学の二つのジャンルにまたがる性格をもつ文章であり、
 また、そうした文章を作るための調査法でもある
<民族誌>

☆フィールドワークとサーベイ
・フィールドワーク→定性的(質的)調査=
 限られた範囲の対象について多様な事柄を調べられる
・サーベイ→定量的(量的)調査=
 広範囲の対象に限定された事柄を調べられる
→一般的にフィールドワーカーvsナンバークランチャーの対立と言われるものは
 この二つのアプローチの違いが原因
<アンケート・サーベイ>

☆サーベイとフィールドワークは対立する二つの方法ではなくて、
本来補い合うべきアプローチ(それぞれの違いは質的ではなく程度の問題)
<事例研究>
→派閥争いではなくトライアンギュレーション(マルチメソッド)でおこなうべき
<トライアンギュレーション>
→複数のモデルを使うのは目的地にたどり着くために何枚かの地図を使うプロセスと同じ
<モノグラフ>

☆信頼性と妥当性の区別が必要=その調査方法が信頼性があっても
 その事柄への妥当性があるとはいえない
<信頼性と妥当性>

○統計データの多くは過去におこなわれたサーベイという
 干渉的な調査結果であることを忘れてはいけない(Maier, 1991)
<トライアンギュレーション>

☆理論の検証(verification)=グランドセオリー(総合理論)と、
理論の発見(discovery)、理論の生成(generation)=グラウンディッド・セオリー
(データ密着型理論)を併用して、理論の生成と理論の検証の双方をめざすべき
<理論の検証と理論の生成>

☆恥知らずに折衷主義=
 その社会に含まれる矛盾や非一貫性をすぐ単純化や抽象化するのではなく、
 (抽象度が高いものはほとんど何でもいえてしまう危険がある)
 ひとつの方法だけではとらえられない事柄は別の方法を使うという姿勢
 (Suttles, 1976)
<恥知らずの折衷主義>

○操作主義(操作的定義の概念)=
操作の手続きで概念を定義することによって、客観化を目指すこと
 →限定概念(definitive concept)と批判される
これに対して感受概念(sensitizing concept)=
研究のはじめに大まかな方向性(問題を検証する手がかりとなる感受の方向)を示す概念
 →調査が進むにつれて概念規定そのものを練り上げていく柔軟性あり
<概念>

○仮説=すでにある程度わかっていることを土台にして、
 まだよく分かっていないことについて実際に調べて明らかにするための見通し
<仮説>

○外国語の翻訳と同じように、ある行為の意味を明らかにするためには、
 その行為が埋め込まれている社会生活の全体の文脈をあきらかにする必要がある
<分厚い記述>

○参与観察(participant observation)=
1:社会生活への参加、2:対象社会の生活の直接観察、
3:社会生活に関する聞き取り、4:文書資料や文物の収集と分析、
5:出来事や物事に関する感想や意味づけのついてのインタビュー
<参与観察>

○インフォーマントとは「客観性を失わないラポール」
(rapport combined with objectivity)が重要
 →ここにフィールドワーカーだけが明らかにできるものがある
<インフォーマント>

○遂行面での知と批評的理解の知とは同じ性質の能力や知識ではない(Ryle, 1949)
<第三の視点>

☆時期尚早のコーディングの誘惑=
 枠組みがあまり早い時期に固まるとその枠組みからはみ出した事柄は
 観測や資料収集できなくなるおそれがあること

・それを防ぐ方法=
1:一般理論や他のフィールドワーカーが書いた民族誌の内容とつきあわせて、
 調査の枠組みの位置づけを検討、確認する作業を怠らないこと
 (理論的な前提に関して視野を狭めないようにする)
2:調査項目に関する網羅的なチェック・リストを作る
 (調べる事柄にバラツキがないかを常にチェックする)
3:網羅的なフィールドノーツをつける
 (ある段階で出来た枠組みにとって都合の悪いデータも記録するように自分にしむける)
4:データの分類だけでなく配列を考える
 (一般的な基準で配列すれば都合の都合の善し悪しに関わらず一緒にリストアップ)
→現場が新しい発想を発見することができる宝庫だとしたら、
分類と配列はその宝庫の扉を開いて価値を何倍にも拡大するカギ
<分類と配列>

☆フィールドワーカーを調査の対象となる社会や文化を計る計測器にたとえれば、
日誌はその機械自体のコンディションをチェックするモニタリング装置
 →日記は自分の置かれた環境の状態を測るだけでなく、
 自分自身のフィールド体験による変容をとらえることができる装置
<フィールド日記・フィールド日誌>

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2003 10/31
学問一般、フィールドワーク、社会調査法、社会学、人類学
まろまろヒット率4

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『悲しき熱帯』 レヴィ=ストロース著&川田順造訳 中公クラシックス 上下巻 2001(原著1955)04.17.02

HPを立ち上げてから興味を持った分野の本をようやく読み終えた、
らぶナベ@引用も長いのでさっそく本題・・・

『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース著&川田順造訳
(中公クラシックス上下巻)2001年初版(原著1955年初版)
文化人類学の古典。
1930年代当時まだ現存していた南米先住民の生活&風習の研究を通して
不条理にみえる神話や風習にも全体を貫く一定の構造があるのだ
と主張する構造主義を確立したとされる本。
(この視点は様々な分野に影響を与えたので読書カテゴリも豊富)

この本は僕にとっては初めて読む文化人類学本でもある。
HPを立ち上げて以来約9ヶ月の間、ネットビジネスやネットをめぐる
法的問題に触れたり考えたりする機会が必然的にめぐってきていたが
その度に「そもそも今の経済学、経営学や法学の理論や概念では
ネットという存在を捉えきれないのでは」という違和感を感じていた。
そんな中で民俗学や人類学を学ぶ知人の影響もあって
これらの分野の視点がネットを考えるヒントになるのでは
と思って購入することになった一冊。

僕は今まで馴染みのない分野に触れる時にはまず何冊か入門書を読んで
その分野の全体像を把握してから古典や専門書を読むという手法を取ってきたが
(法律関係カテゴリ参照)
この分野についてはいきなり古典から入った。
タイトルフェチの僕にとって非常にひかれるタイトルだったからだ。
この本は何よりもまずタイトルが良い。
学術書なのに「悲しき熱帯」(原題”Tristes Tropiques”)とは素敵すぎ。

学術書とは思えない読みやすそうなタイトルだが実際に読み始めると・・・
「これは学術書なんだ」と思わないとやってられないくらい読みにくかった(^^;
そもそも南米の先住民研究にはなかなか入らないし、
断片的な旅行談や詩や戯曲、はたまた新聞の広告やらがいきなり出てきたりする。
そういう構文上の問題に加えて著者の後向きな姿勢が読みにくさを助長した。
後向きな姿勢であってもそれが根拠に基づいているものであれば納得できるのだけど
訳者も前書で「明らかな飛躍や矛盾はある」とわざわざ断りを入れているほど
根拠がなかったり不必要だったりするものも多くて読んでいて疲れた。
特に当時の発展途上国の人々やイスラム教に対する不理解な偏見は
著者がまだ生きてるだけに訂正しても良いのではと余計な心配までしてしまった。
また著者は皮肉屋さんらしくブラックジョークらしきものがよく出てくるのだけど
21世紀の始めに生きる日本人の僕にはどこで笑っていいのかわからなかった。
やはり正確性を欠くマイナス思考っていうのは付き合いにくい。
この本は「20世紀を代表する本のひとつ」という触れ込みだったが
果たしてこの本が数世紀後も人類を代表する本のひとつ
と言われるのかどうかは疑問に思ったりもした。

構文的にも感性的にも読みにくさを感じていたがせっかく読み始めたのに
途中放棄するのはもったいないので諦めずに読み進めると
第五部「カデュヴェオ族」(上巻254P)からようやく面白くなった、
っというかこれからが本題。
一見、原始的で素朴に生きていると思える文明化されていない社会でも
そこには人間関係や生活様式を含めた厳格な社会システムが存在している。
社会的機能や構造が存在することは政府や法律などの
「高度な社会システム」があるとされる先進国の国家と変わらない。
・・・ということを先住民への調査を通して証明している。
特に着衣を一切せずに移動しながら生きるナンビクワラ族を調査している第七部では
このような考えられる限り一番原始的な社会生活を送っている人々の間でも
機能としての一夫多妻制を利用した社会システムや厳格な掟が存在してるとされる。

僕はこの本を実際に手に取る前から何が「悲しき」なのだろうかと思っていた。
ナチスによるユダヤ人迫害から逃れなくてはならなかった著者の気持ち、
破壊されつつある先住民社会への思いなど、いろいろな解釈があるだろうが
僕はこの第七部を読んで人間関係のわずらわしさというのは
人が誰かと関係を持って生きる限りどのような形の生活であっても生まれるという、
そういう悲哀のようなものが「悲しい」んだなと感じた。
振り返って20世紀初めの日本を見てみても、
無秩序で好き勝手にしているように見えるネット上の掲示板でも
煩わしい関係から逃れようとした人々の集まりでも
(宗教や田舎、海外や不良などの反社会集団に逃げたとしても)
やはり明文&暗黙に関わらず一定のルールや機能的関係が存在している。
そういう「悲しさ」があるのだということを感じる本だと解釈した。

そんなこんなで以下は注目してチェックした部分の引用(注目度順)・・・

☆人間があれば言葉があり、言葉があれば社会がある(略)
ポリネシアの人たちは社会を作って生きていたことにおいて我々以下ではなかった
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

☆全裸で暮らしている民族も私たちが羞恥と呼んでいる感情を知らないわけではない。
ただ彼らは、その境界を違ったところに設定しているのだ(中略)
むしろ平静か興奮しているかのあいだにおかれている
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

☆村を成しているのは土地でも小屋でもなく
すでに記述したような或る一つの構造であり、
その構造をすべての村が再現するのである
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

☆一夫多妻婚とそれに付随する特別の資格は、
首長が責務を果たすために集団が彼に供与している便宜という意味をもっている。
首長一人きりだったならば他の人たち以上のことをするのは極めてむずかしい
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一夫多妻の特権がどれほど性的、情緒的、社会的に見て魅力あるものであろうと、
それだけでは首長の仕事を志望する十分な動機にはならない(略)
一夫多妻婚は、権力のむしろ技術的な条件である(中略)
人間は、みな同じようなものではない。
社会学者が何でもかんでも伝統によって圧し潰されたものとして描いて来た
未開社会においてさえこうした個人の差異は、
「個人主義的」と言われている私たちの文明におけるのと同じくらい
細かく見分けられ、同じように入念に利用されている
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

☆一つの民族の習俗の総体は常に、或る様式を認めることができる。
すなわち習俗は幾つかの体系を形作っている(中略)
観察された、あるいは神話の中で夢想された習俗のすべて、
さらに子供や大人の遊びのうちに表されている習俗、
健康なまたは病気の人間の夢、精神病患者の行動、
それらすべての一覧表を作ることによって、
丁度元素の場合のように一種の周期律表を描くことが可能になる
<第五部「カデュヴェオ族」”先住民社会とその様式”>

☆人類の歴史の最も創造的な時期の一つは、農耕、動物の家畜化、
その他の技術を生んだ新石器時代の到来期(中略)
新石器時代には、人類は文字の助けなしに巨歩を進めたのである(中略)
文字の出現に忠実に付属していると思われる唯一の現象は、
都市と帝国の形成つまり相当数の個人の一つの政治組織への統合と、
それら個人のカーストや階級への位付けである
<第七部「ナンビクワラ族」”文字の教訓”>

☆北米先住民の社会的警察機能について・・・
現地人の誰かが部族の掟に背くようなことがあれば、
彼はその全財産(略)を破壊することによって罰せられる。
しかし同時に(略)罰せられたために蒙った被害を共同で償うべく、
警察が音頭をとらなければならない。
この補償のために罪人は集団に恩を受けたことになり、
彼は贈り物によって集団に感謝の意を表さなければならないが、
この贈り物は警察自身も含む集団の全体が彼に力を貸して集めたものなので、
またもや関係が逆転することになる(略)
贈り物と返礼の長々しい遣り取りの果てに、
前の無秩序が消えて最初の秩序が回復されるまで続くのである
<第九部「回帰」”一杯のラム”>

○私は旅や探検家が嫌いだ
<第一部「旅の終わり」”出発”>

○問題は、真実と虚偽を見出すことにあるよりも、
むしろ人間がいかにして少しずつ矛盾を克服して来たかを理解することにあった
<第二部「旅の断章」”どのようにして人は民俗学者になるか”>

○或る皮肉屋がアメリカを定義して、野蛮から文明を経ないで退廃に移行した国だ、
と言った。この定義は新世界の都市にむしろ当て嵌まるかもしれない
<第三部「新世界」”サン・パウロ”>

○都市というものは自然と人口の合流点に位置しているのである。
(中略)都市は自然としては客体であり、同時に文化としての主体である
<第四部「土地と人間」”開拓地帯”>

○聖と俗の二者を対置させることは(略)
絶対的なものでも持続的なものでもないのである
<第五部「カデュヴェオ族」”ナリーケ”>

○或る社会が生者と死者のあいだの関係について自らのために作る表象は、
結局のところ生者のあいだで優勢な規定の諸関係を宗教的思考の面で隠蔽し、
美化し、正当化する努力に他ならない
<第六部「ボロロ族」”生者と死者”>

○組織化の弱い社会では(略)傾向も暗幕の了解のうちに留まっているので、
背後に意味を含んだここの行動を総合してかんがえなければならない
<第七部「ナンビクワラ族」”家族生活”>

○気前の良さは大部分の未開民族において(略)権力に本来付随したものである
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○「契約」と「同意」は社会生活を構成する原料
<第七部「ナンビクワラ族」”男、女、首長”>

○人間はその枠の中で位置を変えながら、
彼がすでに占めたことのあるすべての位置と、
彼が占めるであろうすべての位置を自分と共に持ち運ぶ。
人間は同時に至る所にある。
人間は諸段階の全体を絶えず要約して繰り返しながら一列になって進む群れである
<第九部「回帰」”チャウンを訪ねて”>

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2002 4/17
文化人類学、社会学、哲学、文化論、組織論、情報関連、歴史、文学、宗教学
まろまろヒット率4

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