Archive for the ‘文化論・美学’







『超芸術トマソン』 赤瀬川原平著 ちくま文庫 198701.15.05


今年(2005年)は4月に読書日記10周年を迎える、
らぶナベ@これを期にWEBネームも「まろまろ堂」に統一しようかな?

さて、そんな2005年最初に読んだ『超芸術トマソン』赤瀬川原平著(ちくま文庫)1987年初版。

芸術家で作家(ペンネームは尾辻克彦)の赤瀬川原平による超芸術(活動)トマソンの本。
かつてプロ野球巨人軍にトマソンという名前の使えない助っ人外国人選手がいたことにひっかっけて、
街中にある何の役に立つの分からないような物件や構造物を発見していく活動をまとめた一冊。
(たとえばトマソン第1号は入り口がない階段で、「純粋階段」と名付けられている)

僕がこの著者とトマソンの存在を知ったのは、去年受けた表象文化論(田中純助教授)の講義で
取り上げられて興味を持ったのがきっかけだった。
まわりの知り合いに尋ねてみると「何で知らないだ!」、「まろまろと近いじゃないか!」と、
異口同音にぷちギレされちゃったので、自分なりに調べはじめたという経緯がある。

この本を読んでみると、確かにノリでやっちゃうB級感が漂いながら、
思想的な背景が見え隠れするっていうのが実に魅力的。
(僕の大好きな「一流のB級」ですな)
ただ、著者が後半で何度も書いているように、
少しおなかいっぱいにはなってしまうのが気になったりもする(^^;

以下、チェックした箇所(一部要約)・・・

○芸術とは芸術家が芸術だと思って作るものですが、この超芸術というものは、
 超芸術家が、超芸術だとも何とも知らずに無意識に作るもの。
→だから超芸術にはアシスタントはいても作者はいない、ただそこに超芸術を発見する者だけがいる。
<町の超芸術を探せ!>

○(超芸術は)単なるゴミ、単なる装飾、単なる芸術、そういった単なる当然世界に属するはずのところを、
 ほんのわずかのところでいずれにも属さず、きわどいところで存在している。
<空飛ぶ御婦人>

○トマソンとは人工空間に発生する歪みのようなものであり、都市の不動産の活断層に沿ってあらわれる、
 したがってトマソンは都市の中でこそ発見されるもの。
<トマソン、大自然に沈む>

○トマソンといっても、都市の中の一瞬のズレを見ていたのであった。
→ズレた光はつぎの一瞬にはもう都市の各部に沈み込む。
 都市はその内側に積み重なるズレたトマソンを含みながら、
 いずれはその全体が大自然の中に、ずぶずぶと沈み込んでいく。
 都市という物件は、大自然に発生した人類による一時的な現象であり、
 いずれは崩壊してまた大自然の中に埋もれていくのであった。
<もう何が何だかわからない>

○面から点を見たものをまた後方の面のひろがりに向かって報告するのが発見。
→点の住民はつねに発見という出来事の外側におかれる。
→この原理をもって世の中での発見をめぐる面と点との関係は、
 その互いの位置を動揺させながら、位置の転換を引き起こしてもいる。
<ベンチの背後霊>

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2005 1/15
超芸術
まろまろヒット率3

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『美学への招待』 佐々木健一著 中公新書 200406.28.04


まろまろマスコットキャラクターとして「まろうさ」が誕生した、
らぶナベ@まろまろWEBのそこら中に出没してますのでよろしくです(^_-)

さて、『美学への招待』佐々木健一著(中公新書)2004年初版。
美学の第一人者が書いた美学の入門書。
「誰もが経験する事実からスタートしてそこに潜む美学を指摘する」(第1章)という
スタンスで書かれているので、美学特有の取っつきにくさを感じずに読める。
社会的要求から誕生した美学の歴史的変遷について語っている点(第1章)や、
「綺麗」と違って「美しい」には「すごい」という意味があるとする点(第9章)は、
すごく分かりやすかったし納得もいくものだった。

ただ、これまでの美学の歴史や位置づけを書いた前半(特に第1章)に比べて、
後半部分になるに従ってよく分からない話が多くなっていく。
それは同時に分かりやすい芸術から分かりにくい芸術への変遷とかぶっていて興味深い。

ちなみに「近代美学が機能不全に陥っているのは、
その理論がすべての現象に当てはまるとする普遍主義的な考え方にある」
(第7章)といっている箇所には自分(まろまろ堂)との対比で面白かった。
美学のような伝統ある研究は過度の普遍主義で機能不全に陥っていると言われる、
一方で僕のやっているようなことは「事例特有で普遍性がない」と言われたりもする。
・・・隣の芝生は青いような感じがして思わず笑ってしまった。

巻末には各章ごとの参考文献だけでなく、他の入門書の解説も丁寧に紹介されているので
こういう分野にも興味がある人には一読の価値がある一冊。

以下、チェックした箇所・・・

○創造性は何で測られるか→注目されたのが感性(ペトラルカ、パスカルなど)
<第1章 美学とは何だったのか>

☆A.G.バウムガルテンが”Aestherica”(感性学=美学)を著して美学を哲学的学科として創造
→「芸術」&「美」&「感性」の同心円的構造を打ち立てる
<第1章 美学とは何だったのか>

○美的体験と美的範疇が19世紀的美学の主要構成要素
<第1章 美学とは何だったのか>

☆芸術の本質は美の表現→美は体験を通して現実化
→美学はまずその体験と相関的な美の特質の解明に努める(美学の核心)
+美的範疇で多様性の解明
<第1章 美学とは何だったのか>

○現代の美学に標準的な目次はない
→美と芸術と感性について哲学的な考察ということで十分
→どのような側面に注目するかが重要
<第1章 美学とは何だったのか>

○センスはもともと肉体的な能力としての感覚だが、そのメタファー的な使用の次元が問題
<第2章 センスの話>

☆感性のモデルとなっている感覚の働き方の三つの特徴
=1:直感性、2:反応もしくは判断が即刻、3:即刻の判断の示す総合性
<第2章 センスの話>

○美学を云々する場面での傾向=
感性への集中→感覚的に捉えられた刺激が人格の内奥へと反響していく
<第2章 センスの話>

○仏語でデザイン(design)は”dessin”(デッサン)、”dessein”(意図)に分けられる
→デザインにはデッサンが基礎になり意図という意味を持っていることは重要
<第3章 カタカナのなかの美学>

○カタカナ語特有の曖昧さは異分野をクロスオーヴァーさせる力がある
<第3章 カタカナのなかの美学>

☆「artとは何か?」ではなく「いつartか?」(ネルソン・グッドマン)
<第3章 カタカナのなかの美学>

○かつて芸術は公共性を形成する役割があったが
複製の体験は個人化し、体験の様式は自閉的になる
<第4章 コピーの芸術>

☆リズムとは身体の呼吸のようなもの(略)
遠近法に代表される近代の美術が身体感覚を知らず、
近代の美学がリズムの真実を捉えられなかったのは、
身体を単なる物体と見るような哲学と相関している
<第6章 全身を耳にする>

○近代美学が機能不全に陥っているところがあるとすれば、
最大の問題は(略)その理論がすべての現象にあてはまるとする考え方にある
<第7章 しなやかな応答>

○きわものとは、既に起こった大事件を参照することによって、
人々のその事件への関心を刺激して、自らのために利用しようとする作品
<第8章 お好きなのはモーツァルトですか?>

○ダントーのテーゼ「何が芸術であるかはアートワールドが決める」
<第8章 お好きなのはモーツァルトですか?>

○古典的な芸術の定義=「自然模倣」
=背後に精神的な次元を隠し持ち、それを開示することを真の目的とする活動
→主役が作品から作者へと移る

<第8章 お好きなのはモーツァルトですか?>

○「綺麗」と違って「美しい」には「すごい」という意味合いがある
<第9章 近未来の美学>

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2004 6/28
美学、哲学
まろまろヒット率3

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『サブジェクトからプロジェクトへ』 ヴィレム・フルッサー著、村上淳一訳 東京大学出版会 199604.08.04


『ケロロ軍曹』に心をつかまれた、らぶナベであります。

さて、『サブジェクトからプロジェクトへ』ヴィレム・フルッサー著、村上淳一訳
(東京大学出版会)1996年初版。

副指導の武邑光裕助教授が「ちょっと感動的だよ」と言って貸してくれた一冊。
原題は”VOM SUBJEKT ZUM PROJEKT”。
従属者(SUBJEKT)から投企者(PROJEKT)への転換をメインテーマにして、
抗いがたい価値や理論、運命に従属するのではなく、
投企(デザインとも訳されている)してゆく可能性を模索している思考書。

読んでみると、ところどころ突っ込みどころはあるけれど、
とりまく状況に対して悲観的であっても決して絶望せずに、
「デザインすることは変えるのではなく、意味を付けること」としている姿には
確かに共感できるし、いろんな分野に影響を与えたのもうなずける。

ちなみに前に読んだ同じ著者の『テクノコードの誕生』と同じく、
カテゴライズに頭を悩ませる本でもある。
でも、この本の面白さはこういうところにあるんだろう。
カテゴリに従属する(SUBJEKT)のではなく投企(PROJEKT)を模索する本だから(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

☆「自我」とは、情報が流れ込み、処理され、一時的に貯えられ、
さらにほかに伝達されるための貯水池にすぎない
→「自我」とは「無意識の」集合的心理のネットワークの上にある
 間主観的なネットワークの、絶えず移動する結び目でしかない
<序 投企について>

○「文化」と「文明」の概念を定式化すれば(略)間主観的な場の二つの回路形式
→人間相互の関係のファイバーを通じて、情報を生み出し、
 記憶し、伝達するための、二つの戦略のこと
<2 都市をデザインする>

○理論とは、人間相互の関係の情報を生み出す回路
→人間相互のネットワークが一般的な分散傾向に逆らって
 情報を生み出す傾向をもつとすれば、すべてが理論空間の守備範囲
<1 都市をデザインする>

○オルガスムは自己を(略)人間相互の銘記へと高める方法
<6 性をデザインする>

○技術とは(略)価値を客体化し客体を価値化することによって、
主体と客体の分離を克服し、実存を服属から解放しようとする試み
<8 技術をデザインする>

☆表現の意図は、世界を変えること、人間を変えることではなく、
意味を付与することにある
<8 技術をデザインする>

○運命の投企こそが、自由に他ならない
<9 労働をデザインする>

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2004 4/8
思想、デザイン論、越境系
まろまろヒット率3

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『複製技術時代の芸術』 ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編 晶文社『ヴァルター・ベンヤミン著作集 2』より 1996(原著1935)11.02.03


ASEANと日本の交流関係のお仕事を終えた、らぶナベ@詳細は出来事メモにて。

さて、『複製技術時代の芸術~ベンヤミン著作集2~』
ヴァルター・ベンヤミン著、高木久雄&高原宏平訳、佐々木基一編
(晶文社)1996年第26版(原著1935年初版)。

『視覚的人間』の中で雰囲気について語っているのに興味を感じたら、
副指導の武邑助教授が「アウラも押さえなよ」と貸してくれた本。
けっこういろんなところで引用されているのを見かけるので、
一度は読んでみようと思っていたのでちょうどよかった(^^)

内容は複製技術が普及する時代(1930年代)に生きた著者が、
複製技術によって芸術が持っていた一回性の「アウラ」
(いわゆるオーラ)が消えるんだと主張している。

この本から70年近くたったいま、すべてがデジタル化されて
WEBで結ばれようとしている時代を生きる僕にとっては
複製技術の時代にこそアウラが生まれるような気がした。
一回性ではなく数回性こそのアウラ・・・そんなことを感じたナベンヤミンです。

以下は、チェックした箇所・・・

☆アウラ=どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象<3>

○どれほど精巧につくられた複製のばあいでも、「いま」、「ここに」しかない
という芸術作品特有の一回性は、完全に失われてしまっている
→「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」しかない
という性格によってつくられる<2>

○複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである<2>

○芸術作品の一回性とは、芸術作品が伝統とのふかいかかわりのなかから
ぬけきれないということである<4>

○(複製技術時代の)芸術は、そのよって立つ根拠を儀式におくかわりに、
(略)政治におくことになるのである<4>

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2003 11/2
美学・文化論、メディア論、思想
まろまろヒット率4

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『視覚的人間-映画のドラマツルギー』 ベラ・バラージュ著、佐々木基一&高村宏訳 創樹社 1975(原著1924)10.12.03


らぶナベ@広場の箱庭師です。

さて、『視覚的人間-映画のドラマツルギー』ベラ・バラージュ著、
佐々木基一&高村宏訳(創樹社)1975年初版(原本1924年初版)。

副指導教官の武邑光裕助教授から借りた本の第三段。
映画がまだ低俗なものとして扱われていた1920年代(白黒&無声映画の時代)に、
映画を芸術として位置づけようと試みた美学書の古典。
新しいものが芸術としてどう位置づけられて来たのか、
その過程を知るという点でも意味のある本。

この本で一番興味を持ったのは何と言っても「雰囲気」について述べているところだ。
「雰囲気は個々の形象の中に圧縮されている霧のような原素材である。
それはさまざまな形態の共通の基体でありすべての芸術の最終的なリアリティである。
この雰囲気がひとたび存在すると、個々の形態が十全でなくとも
それが本質的なものを損なうものとはならない。
この特別なものの雰囲気が< どこからくるか>を問うことは、
すべての芸術の源泉を問うことである」、
「雰囲気はたしかにすべての芸術の魂である。それは空気であり香気である」
(「映画のドラマツルギーのためのスケッチ」より)
・・・まさにビビっと来た。

作品と呼ばれるものは「その雰囲気」を感じさせれば作品として成功なんだし、
作品と呼ばれないものでも独自の雰囲気を醸し出せるものは芸術なんだ。
この本の論旨はまだ美学がその射程にとらえていない
WEB活動や同人活動にも応用可能だと読みながら感じた。

また、この本の紙質、大きさ、分量、文字の配置どれもすごくフィット感があった。
そういう意味も含めてまろまろヒット率5です(^_-)

以下は、その他にチェックした箇所・・・

○理論は芸術発展の舵ではないが、すくなくともコンパスである
 <序言ー三つの口上>

○文化とは日常的な生活素材の完全な精神化を意味する
 <視覚的人間>

○唯一無二であるということがそれぞれの現象の本質であり、
それぞれに存在理由を与えるものである
→それは他のものとの差異によって最も明白になる
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○すべての芸術の存在資格は、代替不可能な表現の可能性を持つものであるという点
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○(覗き見について)我々が何かを見るときには、我々自身がその場にいるのが自然(略)
誰もその場にいないときの事物の様子を見ることは、人間のもっとも深奥の形而上学的憧憬
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

○芸術とは本来、削りとることなのだ
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

☆(ウィットについて)それは概念の遊戯であって、
さまざまな概念相互のあいだの隠された思いもかけない関係を解き明かすことである
 <映画のドラマツルギーのためのスケッチ>

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2003 10/12
メディア論、映画論、美学・文化論
まろまろヒット率5

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『テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説』 ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳 東京大学出版会 199710.08.03


生息地の小石川がすっかり秋らしくなった、らぶナベ@何気に文京区が好きな大阪人だす。

さて、『テクノコードの誕生-コミュニケーション学序説』
ヴィレム・フルッサー著、村山淳一訳(東京大学出版会)1997年初版。
副指導教官の武邑助教授から借りた本の第二段。
コミュニケーションの視点から、アルファベットの終わりと
テクノコードの始まりという歴史的転換について述べている一冊。
話の前提となる道具立てが多いことや、括弧書きが多いこと(これは訳の問題?)が
かなり煩わしいけど、それをガマンして読めばけっこう面白い一冊。

「人は必ず死ぬ」
だから
「人間は、コミュニケーションによって世界と生に意味を与え、孤独と死に対抗する」
そして
「世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になり」、
「人間自身は、他の人間によって不死になる」、
というのがこの本の主題(第3章「テクノイマジネーションの世界へ」)。

話を進める上で本文中に出てきた道具立てについてはメモを残したけど(下にあり)、
こういうネタはこれから脳神経科学と認知科学の研究が進んでくれれば、
これほどまでに込み入ったことをしなくても議論できるようになるんじゃないだろうか。
(そうしてもらわないとこまっちんぐ(^^;)
また、著者は「越境者」とか「超越者」として分類されているので、
読み終わってからどこにカテゴライズするか頭を悩ませた本でもある。
(ホントにこまっちんぐ(^^;)

残念なことに著者はインターネットの普及を見る前に死んでしまった(没1991年)。
読書メモや遺書をネットで公開している僕の姿を見たら彼はどう感じたのだろう。
彼にまろまろを見せれなかったのはかなり残念だ。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

☆人間のコミュニケーション=意味を与え、その意味が解釈される現象
→コミュニケーションの目的は死すべき生という残酷な不条理を忘れさせるための技法
(人間のコミュニケーションはコード化された記号に基づいている)
<序 コミュニケーションとは何か?>

○人間のコミュニケーションは孤独と死に逆らう技法であり、
エントロピーに向かう自然の一般的傾向に逆らう過程
<序 コミュニケーションとは何か?>

○コミュニケーション形式は、少なくとも意味論的(semantics)観点か、
構文論的(syntax)観点のいずれかによって分類できる
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「言説」(discourse)=手にしている情報を分配し、
 自然がもつ分解作用に対抗してそれを保存するための方法
→いかにして情報への忠実と情報の進行を調和させる言説構造をつくりだすかが問題
 (1)「劇場型言説」(発信者と受信者が向き合っている)
 (2)「ピラミッド型言説」(コード変換が段階ごとに行われる)
  →最高権威と原作者の間には超越性の断絶を超えて絶えず橋が架けられている
 (3)「樹木型言説」(当初の情報が解体&コード変化されて絶えず新たな情報が生まれる)
  →情報分配の閉鎖的特殊化によって死に至る孤独が克服しにくい
 (4)「円形劇場型言説」(受信者が言説の尽きるところにいる)
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○「対話」=さまざまの既存の情報を合成して新たな情報を生むための方法
 (1)サークル型対話(求められている公分母は基本情報ではなく一つ合成)
 (2)ネット型対話(あらゆる情報が最後に流れ込む貯水池)
  →自然の分解傾向から情報を守る最後の受け皿
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○神話的な原作者は(略)客観的心理とか科学的厳密性という
レッテルとして樹木型言説の頂上にあって、
対話的なサークルは実際にはピラミッド構造のなかの権威中継者になっている
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○われわれは権威と伝統に対する関心を持たなくなっているからこそ、
かつてなかった権威主義的ピラミッド(technocracy)を体験している
<第1章:さまざまの構造 1:いくつかのコミュニケーション構造>

○線形的なテクストを読む者はテクストを超えたところに立つ
(これが考えるということの意味)
→こうした自己観察はテクノ画像の場合は不可能(テクノ画像は受信者を取り囲む)
<第1章:さまざまの構造 3:三つの典型的な状況>

☆文化は人間のための世界に意味を与える同時に
世界から人間を守ることによって人間と世界を媒介する
→ドイツ語の”vorstellen”は”判らせる”と”遮る”の二重の意味がある
<第2章:さまざまのコード 1コードとは何か?>

☆諸定義・・・
 ・「書くこと」=旋回するイメージ的時間をまっすぐに延ばして線形にすること
 ・「読むこと」=そのように線形的に進行する時間を終わりまで追ってゆくこと
 ・「記号」=何らかの了解によって別の現象を示すものとされている現象
 ・「コード」=記号の操作を整序するシステム
 ・「イマジネーション」=画像によってコード化するとともにでこーどする能力
 ・「テクノ画像」=扇情的テクストの記号に意味を与える諸記号によって覆われた平面
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

○デカルトの出発点→算数と幾何学の間の断絶、
カントの出発点→純粋理性と実践理性の間の断絶
<第2章:さまざまのコード 3これらのコードはどう機能するか?>

☆歴史の主題とは、イマジネーションとコセプション、
表象と概念、呪術と歴史的論証の間の弁証法的緊張関係
<第2章:さまざまのコード 4三つのコードの同期化>

○テクノイマジネーション=概念についての画像を描いた上で、
その画像を概念の記号として読解する能力
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆人間は、世界と生に意味を与え、それによって死を否定するさいに、
他の人間とコミュニケートする
→世界に意味を与えるコード化された人為的世界は、他者と共存の世界になる
(人間自身は、他の人間によって不死になる)
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

☆ある言明は、そこで発言権を主張している視点の数が多ければ多いほど、
また、それらの視点をとることのできる人々の数が多ければ多いほど、真実に近い
→真実の標識は客観性ではなく間主観性
<第3章:テクノイマジネーションの世界へ 3テクノイマジネーション>

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2003 10/8
情報・メディア、科学哲学、コミュニケーション論、文化論、越境系
まろまろヒット率4

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『イメージ―Ways of Seeing 視覚とメディア』 ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳 PARCO出版 198610.03.03


まろまろHPにわんわんを飼いはじめた、らぶナベ@リンクアイコンとして活躍中です。

さて、『イメージ-Ways of Seeing 視覚とメディア』
ジョン・バージャー著、伊藤俊治訳(PARCO出版)1986年初版。
副指導教官の武邑光裕助教授が貸してくれた本。
「見る」ということがどういうことなのか、その意味を問いなおした本として
出版されたとき(原本1972年)には衝撃を与えた一冊らしい。
もとはイギリスBBCの番組”Ways of Seeing”をテキストとして構成しなおしたもので、
絵と写真から成るイメージだけの章もあって確かに意欲的な本。
ただしカラーじゃないのがすごーく残念だった。

内容的には追章「見ることのトーポロジー」の中で
フランス語の「”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある」と紹介していたことは
まさにこの本のテーマ性を言いあらわしているように思えた。
(フランス語知らないので新鮮だった)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○イメージとはつくり直された、あるいは再生産された視覚だ。
それは、最初にあらわれ、受けとめられた場所と時間から、
数瞬または数世紀も引き離された概観である。
すべてのイメージはものの見方を具体化する。
<1 イメージの変容>

○過去の文化を神秘化することは二重の損失を生む(略)
芸術作品は不必要なほど遠くでつくりあげられることになり、
過去は行為の遂行についてほとんど結論をくだすことはない。
<1 イメージの変容>

○裸(naked)とは単に服を着てないということであるが、
裸体(nude)とは芸術の一形態である。
→裸体(nude)とは絵の出発点ではなく、絵がつくりあげたものの見方。
(ケネス・クラーク『ザ・ヌード』)
<3 「見ること」と「見られること」>

○広告は実は物についてではなく社会関係について語っている。
広告が約束するものは快楽ではなく、幸福なのである。
幸福は外側から他人によって判断される。
うらやましがられる幸福、それこそが魅力と呼ばれるものである。
うらやましがられるということは安心の孤独な形といえるだろう。
→広告イメージはありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、
 かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。
<7 広告の宇宙>

☆仏語の”SAVOIR(知る)”の中には”AVOIR(所有する)”があり、
“AVOIR(所有する)”の中には”VOIR(見る)”がある。
<見ることのトポロジー>

○印刷画を一般概念や特定の役割の見地からも見なければならないが、
とりわけ情報の伝達者や受容者に印刷の諸技術が課してきた
限界について私たちは考察する必要がある。
(ウィリアム・アイヴィンス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』)
<見ることのトポロジー>

○(複製によって)オリジナルは人々が入り込んでくる存在の場ではなく、
人々が自らのまわりに呼び入れる表層の場となる。
<見ることのトポロジー>

○見せる操作は世界へ介入するのではなく、世界を見られる形に変える。
見るということが、見る者と世界との相互性を含むものであるということを見えなくする。
<見ることのトポロジー>

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2003 10/3
視覚メディア論、芸術論、美学
まろまろヒット率3

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『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』 武邑光裕著 東京大学出版会 200307.31.03


メルマガ読者からもった意見をもとに遺書ページに説明文を加えた、
らぶナベ@進化学会でもひょっこりブース出展したんすけど意外と食いつきありました。

さて、『記憶のゆくたて-デジタル・アーカイヴの文化経済』
武邑光裕著(東京大学出版会)2003年初版をば。
メディア美学者によるデジタル・アーカイヴの概要書。
前半はデジタル・アーカイヴの各国の取り組みや現状の問題点を述べて、
後半(第9章以降)はアーカイヴを通した日本の歴史の再解釈という構成になっている。

この本の主要テーマである記憶と記録との関係についての考察と、
その間に文化を見出す視点は、まろまろHPとも関係していてとても面白かった。
また、後半部分で日本最大規模の文化情報アーカイヴとして
『万葉集』を捉えなおしているのは興味深かった。
この歌集は、いつ、誰によって、何の目的で編集されたのか判明していない。
最後の編者は大伴家持らしいけど、どういう過程を経て編集されたのかも分かってない。
中身も正史には残りにくい、当時の国家を批判した歌(山上憶良)や、
政争に敗れた人(大津皇子)の歌まで入っているし、
詠み人の構成も天皇、貴族から、正史には出てこない女性や下級役人、防人までと実に多様だ。
そんなことから「『記紀』と『風土記』を戦前の国定教科書とすれば、
『万葉集』はネット上にある無数の個人サイト」(第9章”記憶のゆくたて”)
というような著者の表現には思わず笑いながらうなずいてしまった。

ちなみに著者は研究科が違うけど、僕の副指導教官になってくれた人でもある。
こういう話が秋からもできると思うと、夏休みが明けるのもちょっと楽しみだ(^^)

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○デジタル・アーカイヴ=物質から真理を還元し、
 そこから離脱することによって得られた電子の記憶庫
 →ここに託されるべきものは神話としての無責任な森ではなく、
  明確に未来に資する森である必要がある
<まえがき>

○(スウェーデンの『ニルスの不思議な旅』について)
 この事例はわれわれに記憶の利用目的を提示している。
 まずそれは忘却に立ち向かうこと。
 そのためには記憶は単に陳列されるだけではなく
 しかるべき文脈の中に配置される必要があるということ。
 忘却に立ち向かうことは記憶を継承することと同義なのであり、
 この作業はたんに自発としてあるのではなく、
 きわめて意識的かつ能動的なものであるということが重要なのである。
<第1章 記憶の外在>

○(写真出現による絵画の影響について)
 写実から印象へ、その後の連なるシュルレアリズムの巨大な運動は、
 複製の特権を科学技術に剥奪された絵画がみずからの存在をかけて
 あらたな地平を切り開こうとしていく産みの苦しみの姿。
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆デジタル・アーカイヴが構成されいている要素の特徴・・・
 ・デジタル情報の特徴=流動性、一過性、非物質性、変容性
 ・コンピュータによる論理的処理=離散性、規約性、有限性
 ・ミュージアムやアーカイヴ=固定性、安定性、永続性、無限性
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆物財としての情報記号を何らかの価値に変換する仕組みが生成され継承されるとき、
 記録ははじめて記憶となる。いいかえれば記憶とは、
 無機物にすぎない記録に意味による経験的認知などが作用する
 意識的かつ能動的な作業である。
 そして、かかる記憶を生成し継承する作業が何らかの目的を帯びて
 集団規模で行なわれる現象が、文化の本体なのではないだろうか。
<第2章 記憶というスペクタクル>

☆デスクトップでは得ることのできない多層的な情報との連結性、
 実態とヴァーチュアルな情報環境全体の相互に織りなす多彩なインタラクションこそ、
 まさに次世代のアーカイヴに課せられた空間的特性。
 →次世代の情報探索にとっては、内容よりもコンテクスト(文脈)が優先する。
<第4章 文化記憶の社会資本>

☆文化はまた、人間の文明が関与できないもうひとつの価値の苗床である。
 もうひとつの価値とは共感である。これによって共同体が維持され、
 また、他者とのコミュニケーションが発生する。
<第4章 文化記憶の社会資本>

○社会を有機的統合を保つひとつの身体と考えた場合、情報系は脳神経系にあたるだろう。
 脳神経系を流れるものの実体は情報である。
 生物の神経系は神経自体とそこを流通するインパルスによって成り立ち、
 社会の情報系は道路や通信回線、通信衛星波などの基盤
 =インフラストラクチャーを流通する内容=コンテントによって成り立つ。
<第4章 文化記憶の社会資本>

○文化とはつねに時代の中で変化と転移をもたらすものである。
 伝承の中に埋没してしまうものは「文化財」とはいえても「伝統」とはいわない。
 「伝統」とは伝承そのものが時代のあらたな要請を受け入れ、
 時代に鋭くその意味を訴え、変容をも恐れない変異のプロセスだからである。
<第5章 電網の中の文化経済>

○情報財を軸にしたデジタル・アーカイヴが情報の消費文化へと浸透する時代に、
 あらゆる情報財も無体情報としてのブランド空間の中で大きな変容を遂げようとしている。
 →所有から共有へと転換されるのは、モノに込められたイメージや情報、
  そしてそこから派生する知覚や社会文化の記号、表徴との連鎖を形成する官能でもある。
<第6章 離散するアーカイヴ>

○「信頼」とは、固定化を意味しない。
 信頼が固定されることなどあり得ないからだ。
 ブランド価値は、つねに時代を切り開き、時代やその先端的な文化と折り合いながら、
 ブランドを生み出す基盤となった独占的な価値やその所有権を、
 広く公共的な価値へと高めていくことに不断の努力を惜しまない。
 ーそうした意志のもとに更新されていくものである。
<第6章 離散するアーカイヴ>

☆デジタル形式によるアーカイヴとは、
 (略)本来離散し、流動するもの(デジタル)と、固定的で永続性を担保する(アーカイヴ)という
 ふたつの大きく異なる特性が合成することによって生じた展開である。
<第9章 記憶のゆくたて>

○『記紀』と『風土記』を戦前の国定教科書とすれば
 『万葉集』はさながらウェブの情報空間に偏在する無数の個人サイトの感がある。
<第9章 記憶のゆくたて>

○「本歌取り」=先人の歌を受け、それを独自の作風に構成する作法。
<第9章 記憶のゆくたて>

○地理的概念とは景観という無数のアフォーダンスとしての
 情報群によって構築される記憶にほかならない。
 景観という記憶群は「行動する」というわれわれの動物としての特性にかかわる
 もっとも原初の基本情報でもあるから、われわれの脳がこれに適応するのもすばやい。
 違和感を憶えるのはほんの一時期にすぎず、よほど意識的にならないかぎり、
 突如出現した光景であっても需要されてしまうものである。
<第10章 記憶の編纂と反転>

○意識が記憶の断片に生命を吹き込み、その記憶がまた意識をもって継承され発展する。
 この動きのダイナミズムこそが文化と呼ばれるものの本体なのではないだろうか。
<第10章 記憶の編纂と反転>

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2003 7/31
情報関連、デジタル・アーカイヴ、文化論
まろまろヒット率4

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『神道の逆襲』 菅野覚明著 講談社現代新書 200105.15.03


ボーっとしていると時々斜視になることに気がついた、
らぶナベ@テリー伊藤には負けないぞ!

さて、『神道の逆襲』菅野覚明著(講談社現代新書)2001年初版。
日本には昔から独自の哲学・思想は生まれなかったという意見があるけれど
(中江兆民の「我日本、古より今に至る迄哲学無し」が有名)、
だからと言って自分たちや世界に対して深く考えることがなかったわけじゃない。
神という概念を使いながら思考していたんだと主張して、
思想史としての神道を読み解こうとした一冊。
そういう意味で「逆襲」本。
著者が倫理学(倫理思想史)の研究者で、なおかつ僧侶でもあるというのも興味深い点。

中でも面白く感じたのが、日本の神さまの性格を考えてみると
人格的な唯一創造主”God”に「神」という訳語を当てたのが、
日本翻訳史上最大の失策と述べているところ(「人はなぜ泣くのか」)や、
笑うことに人間性の本質を見出したアリストテレスに対比させて、
泣くことに本質を見出した復古神道(本居宣長、平田篤胤など)を紹介しているところだ
神さまというものへの接し方から読み解く文化論としても読めるかなり楽しい一冊。

ちなみにこれが生まれて初めてまともに読んだ宗教学関連の本になる。
越してきた家の近くにあるお稲荷さん(沢蔵司稲荷)の宮司さんが実は浄土宗の僧侶だった
ということから日本の信仰に興味を感じたのがこの本を手に取る直接のきっかけだった。
宗教関連本は異様なまでにバイアスがかっていると感じるものが多いので
読むときはかなり値踏みしないといけないのが手を出しにくくしている点だ。
バイアスこそが宗教の価値なのだろうけど、歴史好きの僕のお腹がいっぱいになる(^^;
(客観的とは言わないまでも冷静な視点で書かれた人物伝とかあれば教えてプリーズ)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○(日本人の価値体系の根拠について)
 自己の価値の実現如何は、お客さまである神さまへの接待にかかっている(中略)
 お客さまに良いもの(幣帛)を差し上げ、その見返りないしお下がりで
 豊かに暮らすというのが、日本人の神さまとの付き合いの基本。
<神さまがやって来た>

☆生活に豊かさや活力をもたらす魅力的なありようと、
 一方で私たちの日常そのものを崩壊させかねない測り難い不気味さという
 神さまの両義的性格は、神が外からやって来る客であるということと
 直接に結びついているように思われる。
 →危険と期待、迷惑と楽しみの交差にあるのが、
  来客への接待なのであり、したがって神への祭祀の場なのである。
<神さまがやって来た>

☆それが人であれ、動植物であれ、自然現象であれ、ともかくもそのものが、
 私たちにとって「可畏き物」、すなわち身の毛もよだつような
 異様なものとして出会われれば、それが神なのだということである。
 (例:名人・達人・奇人・変人を「~の神様」と呼ぶなど)
 →人格的な唯一創造主ゴッド(God)に、神という訳語を当てたことが、
  わが国の翻訳史上、最大の失策。
<神さまがやって来た>

○神道とは、根源的には、神という一つの事件をきっかけに、私たちが歩いてきた道、
 これから歩いていくべき道を探求することに他ならない。
 神は、来って去るまでの時間として、その時間を埋める営みの持続として、経験される。
 この営みが、神を迎え、送る過程たる祭祀の原型である。
<神さまがやって来た>

○一にして二、二にして一を体現することが、五部書における
 (のみならず中世神道説すべての)神道の根本である。
 (中略)ともかくも神道が、天照大神・天皇という軸と、
 ある種不即不離の微妙な緊張関係において生じているということである。
<神道教説の発生>

☆神国という言葉は、(略)日本という国の微妙な内部構造、
 すなわち神と人との独特な緊張関係において統一の成り立っている
 特殊な国情を、第一義的にはあらわしている。
 →神であるということを直ちに神聖なもの、
  優れたもののイメージに置き換えてしまうのは、日本の神のもつ奇しく異しい、
  底知れぬ豊かな奥行きを、痩せ枯れた抽象へとすり替えてしまうことになる。
<神国日本>

○(浦島太郎などの童話にあるように)神に愛される条件は、まずは、景色の反転した中へ、
 怖いもの知らずにやすやすと踏み込んでいけるかどうかということなのである。
 →正直の??p重視
<正直の頭に神やどる>

○朱子学思想の特色は、理気二元論とよばれる形而上学的な宇宙論にもとづいて、
 人間存在や道徳を説明しようとしたところにある。
 →個々の事物の本性と、すべての事物の存在を成り立たせている普遍的な原理が、
  根本的に同一であるとされるのである(これが朱子学の基本命題「性即理」)。
<神儒一致の神道>

○自然科学をモデルとした今日の学問とは違って、近世において学と名のつく営みは
 (略)いわば十全な生の実現をめざす方法であり実践であると考えられていた。
<神道の宗源は土金にあり>

○国学の源流は、近世前期の歌学の世界にある。(中略)
 国学者と称される人物は、上下下手は別として、みな基本的には歌人であった。
<危ない私と日本>

○(本居宣長の考えは)「はかなく女々しき女童」のような揺れ動く情こそが人間の真実であり、
 静寂不動の厳粛なる心は二次的な作為、すなわち「いつわりかざり」である(中略)
 事物の認識においても、もののあわれを知るという、
 心の動きにおいて事物をとらえる感動の知こそがより根源的であり、
 条理の認識はむしろ二次的なものであるとされる。
<人はなぜ泣くのか>
 
○宣長によれば、物のあわれとは、私たちが有限なる者としてあること自体の感知であった。
 (略)泣くことは、私たちの限界の表現なのであり、
 さまざまな喪失としてあらわれる私たちの地平の最もたるものが死なのである。
<人はなぜ泣くのか>

○反省では決して近づけぬ「経験の核心」は、
 これ以上不可解なものはない奇異なるものという意味で、
 それも神と呼ぶことも可能であろう。
<神さまの現在>

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2003 5/15
宗教学、神道、文化論
まろまろヒット率4

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『文章読本』 谷崎潤一郎著 中公文庫 1996(原著1934)04.09.03


麻婆豆腐はどうしても二人分つくってしまう、らぶナベ@まだ一人暮らしには慣れてません(^^;

さて、『文章読本』谷崎潤一郎著(中公文庫)1996年改版(原著1934年初版)。
知り合いが読んでいたので気になって手に取った一冊。
小説以外で谷崎潤一郎が書いた本といえば『陰影礼賛』が有名だけど、
この本でも言葉という伝達手段の限界を踏まえて、
総てを表現しようとしたり言い尽くそうとすることを戒めている。
かなり文化論的考証が入っている点(それが目的?)も考えると、
さしずめ『陰影礼賛』の作文指南版っといった感じだろうか。
また、文章の要素の中で一番その人の本質が出るのが文章の「調子」だと言っている点や、
西洋語のような厳密な文法は日本語にはないので「文法に囚われるな」と言っている点には肯いてしまった。

読んでいる最中はちょうど新生活がスタートして気持ちが落ち着かない時期だったので、
こういう著者の文章を読むと一息つけるような気分になってよかった(^^)

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○されば言語は思想を伝達する期間であると同時に(略)
 思想を一定の型に入れてしまうと云う缺点があります。
<一 文章とは何か>

☆口で話す方は、その場で感動させることを主眼としますが、
 文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるように書きます。
→即ち真に「分からせるように」書くためには
 「記憶させるように」書くことが必要なのであります。
<一 文章とは何か>

○口語体の大いなる缺点は、表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥り易いこと(略)
 言葉や文字で表現出来ることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まることが第一。
<一 文章とは何か>

○即ち真に「分からせるように」書くためには
 「記憶させるように」書くことが必要なのであります。
<一 文章とは何か>

☆文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから文法に囚われるな(略)
 全体、日本語には、西洋語にあるようなむずかしい文法というものはありません。
<二 文章の上達法>

○即ち感覚と云うものは、一定の鍛錬を経た後には、
 各人が同一の対象に対して同様に感じるように作られている。
<二 文章の上達法>

☆されば文章における調子は、その人の精神の流動であり、血管のリズムである。
<三 文章の要素>

○或る文章の書き方を、言葉の流れと見て、その流露感の方から論ずれば調子と云いますが、
 流れを一つの状態と見れば、それがそのまま文体となります。
<三 文章の要素>

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2003 4/9
作文指南、文化論
まろまろヒット率3

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