Archive for the ‘文化論・美学’







『日本のもと 神さま』 中沢新一監修 講談社 201110.01.11


渡邊義弘@自分が提案したということもあって、最近は松阪市役所地下売店の松阪牛おにぎりを朝ごはんにしています。

さて、『日本のもと 神さま』中沢新一監修(講談社)2011。

日本人の精神の源泉にある「神」について、その概念の歴史的変遷と特徴を子供向けに解説した一冊。
信心とは、「なにか特別な存在を信じる心」という定義の下・・
・日本の信心の歴史をたどる「温故編」
・人類学者、中沢新一と対話する「知新編」
・日本の信心の可能性を示唆する「未来編」
・・・という三部構成になっている。

特に印象的だったのは、最後の「未来編」の中で針供養、付喪神、丸石神などを紹介しながら、
モノに気持ちや愛を込める行為が日本のアニミズムでの特徴であると指摘しているところだ。
日本語には「モノに命を吹き込む」という言葉にあるように、
その精神性がアニメ(語源もアニミズム)やものづくりに通じているとまとめられている。
ちょうど、この本の監修者である人類学者の中沢新一さんとは
大阪取材コーディネータをつとめて以来のご縁があることもあって、
このくだりは実際の肉声を聞いているような気持になった。

ちなみに、この本の欄外には4コマ漫画が散りばめられている。
親しみやすさを目的にしたものだと思うけれど、
内容と関連が薄いダジャレが多い上に、古い芸能人(横山やすし)を使うなど、
子供が読んで面白いと思えるのかどうか疑問に思ったのはご愛敬(w

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2011 10/1
宗教、文化、人類学、歴史
まろまろヒット率3

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『本居宣長』 城福勇著 吉川弘文館 198812.08.10


松阪星座占いでは本居宣長タイプの、まろまろです。

さて、『本居宣長』城福勇著(吉川弘文館)1988。

江戸中期に国学を大成した本居宣長の伝記。
『古事記伝』『玉くしげ』などで知られる本居宣長の人生を、彼の研究と思想の過程を詳細に追いながら実証的に解説している。
最近、ご縁があって松阪にご奉公する機会を得たので、これまで断片的な知識だった本居宣長のことを一通り知ろうと手に取った一冊。
(本居宣長は松阪を代表する歴史的人物)

読んでいて特に興味を持ったのは、本居宣長の思想の本質である「物のあはれ」について解説しているところだ。
たとえば・・・

○「物のあはれ」は「物」と「あはれ」の複合語であるから、それは物の心、事の心をわきまえ知るという、むしろ知性的な働きと、
あはれという感歎・感動が総合統一されたものであり、知性と感性が見事に調和されて、
知ることが同時に感じることであるような、ある種の境地がひらけてくるといえよう。
<第3章 文学説確立期>

○人は、「物のあはれ」に堪えぬときは、言うまいとしても言わずにおれない。
これはやむにやまれぬ人情の自然というもので、歌・物語とは結局そのような人の心の本然に基づいて詠み出され、語り出されたものであり、
したがってこれを詠み、聞き、書くことに何の利、何の益があるかなどと問うのは、もとより間違っている。
こう考えて宣長は、「物のあはれ」を知ることを以て『源氏物語』の本意と考え、
やがて和歌を含めて、広く文芸の本質は「物のあはれ」を知ることにあるとして文芸本質論を展開したのである。
<第3章 文学説確立期>

○文芸本質論としての「物のあはれ」説が、宣長の歌学者としての知的反省なら、「雅」の論は詠歌の、歌人としての体験の漂白であるといえよう。
彼の歌・物語に対する見解には、この二つのものが常に交錯してあらわれているがゆえに、案外わかりにくいところがある。
<第3章 文学説確立期>

・・・とするところは、これまで自分の中では断片的だった本居宣長の思想が立体的に把握できたように感じられた。

また、本居宣長の性格は基本的に穏健中正だったけれど・・・

○自己の信念に忠実な余り多少「狂信的な神経」を出してしまうところもある。
<第8章 風貌・性格など、および死>

・・・と評価されるところや、本居宣長の死の前年に詠まれたとされる・・・

○「わがよはひのこりすくなしいくかへりよめどもあかぬ書(ふみ)はおほきに」
<むすび>

・・・という歌などを知ると、確かに松阪星座占いの結果もあながち外れてはいないと思えるほどの親近感を覚えた(w

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2010 12/7
歴史、国学、思想、文化論
まろまろヒット率3

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『社会学の社会学』 ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳 藤原書店 199106.16.10


アクセス殺到によるサーバダウン頻発化に対応するため、ついに6回目のサーバ引越をしようと思う、
まろまろ@しばらく不安定な表示になりますが気長にまろまろとお付き合いくださいな☆

さて、『社会学の社会学』ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳(藤原書店)1991。

社会学者、ピエール・ブルデューによる、21の論点に対する回答集。
原題は”Questions de sociologie” (1984)。
もともとは一般の人々を対象とした講演やインタビューの議論を基にしているので、
「専門家以外の人に読まれることを想定している」と著者は書いているけれど、内容は決して簡単ではない。
とはいえ、社会科学の方法論から、文化論、芸術論などにおよぶ内容はとても刺激的。
どれもが鋭い視点で、これまでの「常識」に対して「冷や水をかける」ようなブルドュー社会学の概要を知ることができるものになっている。
読み応えがあるので、一章、一章、ゆっくりと噛みしめて消化しながら、三カ月ほどかけて通読することになった。

ちなみに、パリ第7大学(Denis Diderot)でのブルデューの後任は矢田部和彦さんという日本人の人が務めているけれど、
僕は矢田部和彦さんが参加した大阪フィールドワークのコーディネータを務めた経験がある。
また、矢田部研究室の院生さんからインタビューを受ける機会もあったので、ブルデューの弟子と孫弟子に当たる人達とご縁があることになる。
そういう経緯があるので、この本の中で調査対象者に対する接し方について書かれた部分には、
「僕もこんな風になことを思われているんだな」と微笑ましくなることもあった。

そんな個人的な事情は差し引いても、読み応えがあり、そしてとても刺激的な一冊。

以下は、チェックした個所(一部要約含む)・・・

○私はいつも別の方向にねじまげることから始めます。
つまり、はみだし者、社会的空間の外なる者であろうとする人びとも、
結局はみんなと同じように社会的世界のなかに位置づけられているのだ、
ということに立ち戻ることから始めるのです。
<言葉に抵抗する技術>

○私の目標は、「社会的世界なんて大したことはないさ」と言わせないように手を貸すことなんです。
<言葉に抵抗する技術>

○社会学が示してみせるのは、あれこれ社会的慣習行動の効力が発揮されるために糾合されなければならない客観的な諸条件は何かということです。
<お邪魔な科学>

○おそらく社会学の唯一の任務というのは、そのはっきりした欠落からしても、その獲得しえたところからしても、
社会的世界についての認識の限界をはっきりさせることであり、
またこうして、科学を引き合いに出すような予言を手初めに、あらゆる形の予言を成り立ちがたくすることなのです。
<お邪魔な科学>

○投資とは[何かに打ち込もうとする]行動への傾性[気質]であって、
なにがしかの賭け金を賭けようとするゲームの空間(これを私は「場」=champと名づけています)と、
このゲームにぴったり合った諸性向の体系=systeme de dispositions(私はこれをハビトゥスと呼んでいます)との間に産み出されるものである、
ゲームをしたがる、ゲームに熱中しようとする傾性と素質とを同時に含意するゲームとその賭け金の感覚のことなんです。
<お邪魔な科学>

○言葉の厳密な使用、コントロールされた使用に到達するために必要不可欠な書くという作業が、
明晰さと呼ばれているものに達することはきわめて稀にしかありません。
明晰さとはすなわち良識の証しを、あるいは狂信の確かさを補強するだけだということです。
<問題の社会学者>

○科学のなすべきことは、作られたものの妥当性の限界をはっきり明言しておいて、
これができることの全部だということを知り、かつ言った上で、なすべきことはする、というところにあるからです。
<問題の社会学者>

○社会科学の仕事の一部は、この日常用語がまとったり脱いだりするすべてのヴェールを剥ぎとる=de-couvrir(発見する)ことにあります。
<問題の社会学者>

○行為の原理は、私がハビトゥスと呼んでいる性向の体系であり、それは生活史的経験すべての所産です。
まったく同一の二つの個人史というものが存在しない以上、類似した経験、つまりハビトゥスの類、
あるいは階級のハビトゥスは存在するとしても、二つの同一ハビトゥスは存在しないということです。
<どうやって「自由な知識人」を解放するか>

○大事なことは、対象についての言説が対象に対する無意識のかかわり方の単なる反映でないように、
対象に対するかかわり方を対象化する(客体として設定する)にはどうすればよいかを知ることです。
この対象化を可能とする技術のなかに、もちろん学問的装置の一切があるのです。
いうまでもなく、この装置自体は、それぞれの時代の先行科学から引き継いだものですから、当然、歴史的批判に服さねばなりません。
<社会学者の社会学のために>

○行為者というのは自分を分類し、他社を分類して日々を過ごしています。(中略)
こうした分類こそ行為者間の闘争の一つの賭け金にほかなりません。
別の言い方をすれば、分類の闘争というものが存在するのであり、これが階級闘争の次元の一つをなしているということなのです。
<社会学者のパラドックス>

☆悪口は他者をその特性のひとつ、彼のひそかに隠しもったえり好みの一つに還元してしまいます。
他者をいわばその客観的真相に押し込めてしまうのです。(中略)
日常的行動のなかでは、客観主義と主観主義との間の闘争が絶えることなく続けられています。
誰もがその人なりに自分についての主観的な表象を客観的な表象として人に押しつけようとするものです。
支配者とは、自分がそう見られたいと思っている通りに被支配者が自分を見るように被支配者に対して押しつける諸手段をもっている者のことです。
<社会学者のパラドックス>

○真理とは一つの敵対関係を含んだものです。ある一つの真理があるとすれば、それは、その真理が闘争の一つの賭け金であるからにほかなりません。
<社会学者のパラドックス>

○社会学者の仕事は、いつも二つの役割の間に自分の位置を取らなければなりません。
座を白けさせる役割に終始してもなりませんし、反対にユートピアを信じる共犯者としての役割に甘んじてもならないわけです。
<話すということはどういうことか>

☆☆場にはもう一つ、すっかり見えにくくなっている特性があります。
場に参与しているすべての人びとが、一定数の根本的利害、つまりその場の存在それ自体に結びついているものの一切を共有しているということ、
それから、どんな対立にも表面にはあらわれてこない客観的な共犯性を共有していることです。(中略)
闘争に参加する者は、敵味方を問わずゲームを再生産することに貢献し、
場によってその完全さに程度の差こそあれ、賭け金の価値に対する信仰を産み出すことに貢献しているのです。(中略)
ゲームそのものを破壊してしまう全体的革命から守っている要因の一つが、
ゲームに参加するために予期される時間や努力などに費やす投資の重要さだということは明らかです。
また、そうした投資が経なければならぬ通過儀礼の試練の数々が示しているように、
ゲームが根こそぎ破壊されることをじっさいに考えられもしないものにしてしまうのです。
☆<場のいくつかの特性>

○ハビトゥスとは、意識されていようといまいと、長い時間をかけた習得によって獲得された性向の体系であり、生成図式の体系として作動します。
また、ある目的にむけてはっきり構想されたものでなくとも、行為者の客観的利害に客観的に合致しうる戦略を産み出す生成母体なのです。
<場のいくつかの特性>

○人びとがハビトゥスのおもむくがままに動いてさえいれば、場の内在的必然性に従い、そこに刻み込まれている諸要請をみたすことができるというときには(そうなればどんな場においても卓越したことだとはっきり言えます)、当の人たちは自分を犠牲にしてまである義務に身をささげるなどという意識はまるでもっておらず、なおさら(特定の)利益の最大化をついきゅうしているという意識はもっていません。
したがって、よそ目にも完全に損得を免れているように見え、自分自身もそう考えるという追加利益があるわけです。
<場のいくつかの特性>

○言語資本とは、言語の価格形成のさまざまなメカニズムに及ぼしうる権力であり、
価格形成の法則を自分の利潤に合わせて作動させたり、特定の余剰価値を引き出したりする権力なのです。(中略)
言語的相互作用はすべて、それを包摂する諸構造によってたえず支配され続けている小さな市場のようなものなのです。
<言語市場>

○恩着せがましさとは、客観的力関係を扇動的に利用することです。
なぜなら、人びとの思いを聞き届けてみせる人が、ヒエラルキーを否定するために、まさにそのヒエラルキーを利用しているからです。
彼がヒエラルキーを否定するとき、彼は、それにつけこんでいるからです。
<言語市場>

○趣味というのは、他との違いを際立たせるものであるからこそ変化していくのです。(中略)
音楽ビジネスがなぜ難しいかというと、文化的財に関する限り生産とは消費者を産み出すことにほかならないからです。
もっとはっきり言えば、音楽の趣味の生産、音楽の欲望、音楽への信仰の生産ということなのです。
<音楽愛好家という種の起源と進化>

○趣味とは、一人の人物ないしはある集団の習慣行動と所有=物の総体として見れば、
財とある趣味との出会いの(予定調和による)所産ということになりましょう。
<趣味の変容>

○噂される人というのは、潜在的に言いたいことがあっても、誰かにそれを言われて初めてそうだと分かる、そんな人でもあるです。
<趣味の変容>

○趣味とは、一方の客体化された歴史と他方の身体化された歴史という二つの歴史の、客観的には相互に合致した出会いの所産なのです。
<趣味の変容>

☆芸術作品と消費者との出会いのなかには、不在の第三者がいます。
この不在の第三者とは、自分の内なる美的感覚を物象に変え、それを魂の状態から、いや身体の状態から、
自分の美的感覚に合った可視的な物象へと変える能力にたよって作品を生産し、自分の好みに合うものを作りだした人のことです。
芸術家とは、このような内的なものを外的なものに変える専門家、客体化の専門家なのです。
<趣味の変容>

☆消費者がその芸術家の創作物のなかに自分の姿を認めることによって、自分でも作ることができたなら作っていたであろうものを
芸術家の創作物のなかに認めることによって、芸術家は芸術家として承認されるのです。
こういう人が「創造者」という魔法の言葉で呼ばれてしまうのは、芸移活動をいったん魔術的な働きと定義してしまっているからなのですが、
しかしこれこそは、実は社会的な働きにほかならないのです。
<趣味の変容>

○趣味とは、ある特定の人物によってなされる選択の総体ではありますが、
芸術家によって客体化された美的感覚(趣味)と消費者の趣味との出会いの所産ということになるのです。
<趣味の変容>

☆社会学の特有の困難は、誰もが何らかのかたちで知っている事柄をあらためて教えてみせるというところに由来しています。
しかし、それは知りたくない事柄であったり、そうでなければシステムの法則がそれを隠しているために知りえない事柄だったりするのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆クリエーターは、創造者たる権力を信用させるだけの言説をもっていることによって、
クリエーターとして創造されうるのだ、ということが重要なのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆芸術家の自律性は、その基礎が創造的な天才の奇蹟のなかにあるのではなくて、
方法、技術、言葉など、相対的に自律的な一つの場の社会史の社会的産物のなかにあるのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○芸術生産の場とは、その名において、芸術の価値のなかに、芸術家がもつ価値の創造能力のなかに
信仰を産み出す場であるということが、どのように歴史的に形成されるのかを明らかにすることが問題なのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○あらゆる力関係の本質は、それが言説によって隠蔽されているからこそ初めてその力を発揮できるのだと言っていいでしょう。
<世論なんてない>

○正当性とは、何かが見落とされていることを意味します。(中略)
被支配者たちが承認するのは、支配者たちがこの定義に対してもつ利害を被支配者たちが見落としている場合に限られます。
<ストライキと政治行動>

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2010 6/16
社会学、芸術論、学術方法論
まろまろヒット率4

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『ボルヘス、文学を語る―詩的なるものをめぐって』 ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、鼓直訳 岩波書店 200202.11.10


まろまろ@今週末はtwitterでの話題から発展した1000円焼肉食べ放題に行きます☆

さて、『ボルヘス、文学を語る―詩的なるものをめぐって』ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、鼓直訳(岩波書店)2002。

『伝奇集』などで知られるボルヘスが1967年~1968年にかけてハーヴァード大学のチャールズ・エリオット・ノートン詩学講義でおこなった講義録。
原題は“This Craft of Verse” (2000)。

ボルヘスといえば、ガルシア=マルケスと並ぶ20世紀を代表するラテンアメリカ文学者だけど、
小さい頃から英語を話す環境にあったこともあって、この講義も英語でおこなわれている。
(英文学からの引用も多いので、英語表現の勉強にもなった)

内容は、多くの引用を使いながら自説を展開する講義の中に、ボルヘスらしさがかいま見える。
たとえば、エマソンの「図書館は、死者らで満ちあふれた魔の洞窟である」を引用して、
読み手によって書物は「生命を回復することが可能」だと指摘しているところは興味深かった。
あくまで「書物は、物理的なモノであふれた世界における、やはり物理的なモノです。生命なき記号の集合体」だけど、
読者によって「すると言葉たちは息を吹き返して、われわれは世界の甦りに立ち会うことになる」としている。
<詩という謎>

また、ホイッスラーの”Art happens”を引用して、
“Art happens every time we read a poem” (われわれが詩を読むたびに、芸術はたまたま産まれる)
と付けくわえているところはボルヘスらしい”wit”だと感じた。
<詩という謎>

さらに自分自身の作家としての姿勢についても言及していて、
作家であることは「それは単に、自分自身の想像力に忠実であることを意味します」と言い切っている。
「私は作品を書くとき、読者のことは考えません (読者は架空の存在だからです)。
また、私自身のことも考えません (恐らく、私もまた架空の存在であるのでしょう)」。
「私が考えるのは何かを伝えようとしているかであり、それを損なわないよう最善を尽くすわけです」。
だから「私の考えでは、われわれは暗示することしかできない、つまり、読み手に想像させるよう努めることしかでない」としている。
<詩人の信条>

ちなみに、ボルヘスはこの講義の時にはすでに視力がほとんど失っていたので、メモを使わずに講義をしたとのこと。
ボルヘスの百科全書のような教養も感じられる一冊。

以下は、その他にチェックした個所(一部要約含む)・・・

○バイロンの”She walks in beauty, like the night”をその気になれば自分たちにも書けたかもしれないことについて
→しかし、その気になったのはバイロン一人でした
<隠喩>

○叙事詩で大事はのは英雄、小説の本質は人間の崩壊
<物語り>

○いい本を書くためには、恐らく、一つのきわめて重要でしかも単純なことが必要である
→その本の枠組みのなかに、想像力を掻き立てるような何かが存在しなければならない
<詩人の信条>

○意味などというものは重要ではない
→重要なのは音楽まがいのもの、語り口と呼ばれるもの
<詩人の信条>

○若者は不幸を好むものである(略)若者は不幸であるために全力を尽くす
→そして一般に、それに成功する
<詩人の信条>

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2010 2/11
文学論、詩論
まろまろヒット率3

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『文学の記号学―コレージュ・ド・フランス開講講義』 ロラン・バルト著、花輪光訳 みすず書房 199802.04.10


ちょっとした試験に通ったので特命係長プレイとして4月から倫理も担当することになった、
まろまろ@人類の哲学・思想・宗教の流れを知ることは、自分が悩んだり迷ったりした時に大きな参考になると思ったからです☆

さて、『文学の記号学―コレージュ・ド・フランス開講講義』ロラン・バルト著、花輪光訳(みすず書房)1998。

副題にあるように、ロラン・バルトがおこなったコレージュ・ド・フランス(Collège de France, CdF)の講義をまとめた一冊。
原題は”Leçon: Leçon inaugurale de la chaire de sémiologie littéraire du Collège de France” (1978)。

読んでみると、まずロラン・バルトが文学の定義を・・・
「私が文学という語によって意味するのは、一群または一連の作品のことではなく、それにまた、商売や教育上の一部門のことでもない。
ある実践、各という実践が残す痕跡からなる複合的な書き物(グラフ)のことである」
・・・と広がりを持って捉えているところが注目された。

また・・・
「たとえ権力の外にある場所から語ったとしても、およそ言説には、権力(支配欲 libido dominandi)がひそんでいる」
・・・と指摘しているのは、インターネットで情報を発信する自分自身のことを振り返ることになり、
またmixi日記などで無自覚に支配欲を発揮する人たちのことも重ね合わせて考えさせられるものがあった。

そして論旨を展開しながら・・・
「科学は粗雑であり、人生は微妙である。そしてこの両者の距離を埋めるからこそ、文学はわれわれにとって重要なのである」
・・・と言い切っているところも印象深い。

講義の最後で・・・
「一生のうちには、自分の知っていることを教える時期がある。しかしつぎには、自分の知らないことを教える別の時期がやって来る。それが研究と呼ばれる」
・・・と述べているのは、すごく良い表現だと感じた。

とはいえ、ロラン・バルトの言っていることはコロコロと変わっている(「転位」)し、使っている用語もかなり曖昧なもので、何だかよく分からないところも多い。

そんな分かりにくい講義内容でも、この本の半分にもなる訳者の解説が付いているので、通読すれば理解しやすいように工夫されている。
訳者が解説の中で・・・
「彼の本質的寄与は(中略)彼の言表の内容にあるのではなく、言表の仕方にあるのだ」
・・・というロラン・バルトの評価を紹介しているように、
エクリチュール(écriture、言説)の快楽に注目したロラン・バルトのあやしい魅力があふれる講義録。

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2010 2/4
文学論、記号論、思想
まろまろヒット率3

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『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』 岡本太郎著 光文社 199901.07.10


まろまろ@これが2010年最初に読み終えた本になります☆

さて、『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』岡本太郎著(光文社)1999。

「太陽の塔」などの作品で知られる前衛芸術家、岡本太郎による芸術論と文化論。
原本初版は1954年という60年近く前の本だけに、単語や言い回しは古いものがあるけれど、その内容は今も色あせていない。
著者が「われわれの生活全体、その根本」を対象にしたと初版の序で書いているように、
単なる芸術にとどまらない主張は読んでいて強く心に響くものがあった。

特に現代論を展開しながら芸術を「ゆりうごかされ、感動を呼び起こし、そこから問題を引き出されるもの」と定義して、
「うまくあってはいけない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」と述べているのには感銘を受けた。

岡本太郎によれば、現代は手軽に気晴らしを手に入れることができる状況にあり、
そうした上手なもの、綺麗なもの、心地良いものは、目の前を通り過ぎて消費されていく点が強調されている。
手軽な気晴らしよって、「楽しいが空しい」、「楽しむつもりでいて、楽しみながら、逆にあなたは傷つけられている」。

だから、たとえ気晴らしであっても「生命が輝いたという全身的な充実感、生きがいの手ごたえがなければ、
ほんとうの意味のレクリエーション、つまりエネルギーの蓄積、再生産としてのレクリエーションになりません」として、
「自己疎外からの自己回復する情熱」が芸術だと位置付けているのは考えさせられるものがあった。

20世紀半ばの岡本太郎の視点を21世紀初頭の現代に持ち越してみると、情報通信技術の発展で気軽にコミュニケーションが可能になった現在、
手軽な交流による浅く薄い人間関係で一時の寂しさや疎外感をまぎらわし、そのことでかえって傷ついている人を見かけることがある。

また、自分を振り返って見れば、このまろまろ記は本来は読書日記であり、今でも自分に恥ずかしさをつきつけるために続けている。
(まろまろコラム:『メモのメモ』)
アクセス数の多いごはん日記お風呂日記のような手軽なコンテンツによって人気ブログやカリスマ・ブロガーなどと祭り上げられることはあるし、
そうした称賛には気軽な心地良さを感じることもあるけれど(ピコピコしいw)、軽いコンテンツだけしか読まない人とは結局は表面的な関係しか構築できなことが多い。
手軽なコンテンツだけでは無く、たとえ重たさや反発を招く可能性があったとしても、
自分の内面と向き合って導き出したものを書き、そして公開することの重要性をあらためて感じさせられた。

ちょうど数年来草稿を続けていたまろまろコラム:『寛容のメモリ』を仕上げに入った時期とも重なり、
上手く、綺麗で、心地良いものは他人事であり、自分の根源を揺り動かすものでは無いという岡本太郎の主張はずっしりと重く響くものがあった。
読み終えた時には、非公開の場所で慣れ合い、依存し合っているだけで何も産み出さない交流では無く、
自分の内面と向き合って表現し、発信するために情報メディアを使うことの大切さを突き付けられた気分になった。
そのことをあらためて気づかせてくれたという一点だけを持って、まろまろヒット率5。

ちなみに純粋に読み物としては、くどさを感じる部分も多かった。
それは岡本太郎の作品に共通した印象で、僕の好みとは違う。
でも、著者が「ここちよくあってはならない」とするように、
違和感があるものでも心に響くものは価値があると思うので、まろまろヒット率は5のまま公開。

以下はこの他にチェックした箇所(感銘を受けた順)・・・

☆現代に生きぬく責任を持たないものは、とかく過去を美化してその中に逃げこもうとするもので、これも空虚な欺瞞
<第3章 新しいということは、何か>

☆この「…らしく」がくせものです。それは無責任な旅行者の言い分であって、そこに生活している人間にとってはなんの意味もない
→むしろ迷惑な言いがかりにちがいありません
<第6章 われわれの土台はどうか>

☆新しいものには、新しい価値基準がある
→なんの衝撃もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない
<第3章 新しいということは、何か>

☆まことに芸術はいつでもゆきづまっている。ゆきづまっているからこそ、ひらける
→人生だって同じです(略)いつでもなにかにぶつかり、絶望し、そしてそれをのりこえる
→そういう意志のあるものだけに、人生が価値を持ってくるのです
<第3章 新しいということは、何か>

☆見栄や世間体で自分をそのまま出すということをはばかり、自分にない、べつな面ばかりを外に見せているという偽善的な習慣こそ、非本質的
→人間はちょうど石ころと同じように、それそのものとしてただある、という面もあるので、
その一見無価値的なところから新しく自分をつかみなおすということに、これからの人間的課題がある
→芸術は、いわば自由の実験室
<第5章 絵はすべての人の創るもの>

☆謙虚というものはそんな、人のまえで、おのれを無にするとか低く見せることでは絶対にない、
むしろ自分の責任において、おのれを主張することだと断言します
→つまり、謙虚とは権力とか他人にたいしてではなくて、自分自身にたいしてこそ、そうならねばならない
<第6章 われわれの土台はどうか>

○創られた作品にふれて、自分自身の精神に無限のひろがりと豊かないろどりをもたせることは、りっぱな創造
→自分自身の、人間形成、精神の確立
<第5章 絵はすべての人の創るもの>

○芸術はすべての人間に生まれながらもっている情熱であり、欲求
<第1章 なぜ、芸術があるのか>

○「いい」と思ったとき、その人にとって、そう思った分量だけ、わかったわけです
→あなたはなにもそれ以外に、わからない分など心配することはありません
<第2章 わからないということ>

○相対的(時代的)な価値と、時代をのり越えた絶対的な価値の二つが、おたがいに切りはなすことのできない、創造の不可欠な本質
<第3章 新しいということは、何か>

○きれいなもの、上手なものは、見習い、おぼえることができるが、人間精神の根元からふきあがる感動は、習い、おぼえるものではありません
→だから自由
<第6章 われわれの土台はどうか>

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2010 1/7
芸術論、文化論
まろまろヒット率5

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『神話と意味』 クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳 みすず書房 199609.05.07


「メーン」と「ディスる」がまわりで流行っている、まろまろです。

さて、『神話と意味』クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳(みすず書房)1996。
(原題“Myth and Meaning”)

文化人類学者・思想家のレヴィ=ストロースによるCBC(Canadian Broadcasting Corporation;カナダ放送協会)ラジオ講話を元に書かれた一冊。
フランス語を母国語にする著者が「英語で説明するのは面倒なので、うんと単純化した」と述べているように、とても読みやすい。
訳者も「格好のいい聴かせどころを探す人はがっかりするだろう」と書いているほどで、代表作の『悲しき熱帯』とは比べものにならないほどの簡明さがある本。

文学的要素は無いけれど、その分、彼の構造主義アプローチのエッセンスがシンプルに語られているという点で入門書として最適な本だと思う。

以下はチェックした箇所(一部要約含む)・・・

☆構造主義的アプローチ=普遍なものの探求=外見上の相違の中に普遍の要素を求めるもの
<神話と科学の出会い>

○科学には二通りの方法がある=簡単にする還元主義的方法&関係に注目する構造主義的方法
<神話と科学の出会い>

☆「意味する」とは、ある種類の所与が別の言語に置きかえられる可能性
<神話と科学の出会い>

☆人類の知的業績を見わたすと、世界中どこでもその共通点は決まって何らかの秩序を導入すること
<神話と科学の出会い>

○神話的思考(野生の思考)の特徴=可能な限り最短の手段で宇宙の一般的理解に達することを目的
→一般的に加えて全的理解に達することも目的
<”未開”思考と”文明”心性>

○文字をもたない社会における神話の目的=未来が現在と過去に対してできる限り忠実であることの保証
<神話が歴史になるとき>

○神話と音楽の共通点・・・
・言語;音素○ 語○ 文○
・音楽:音素○ 語× 文○
・神話:音素× 語○ 文○
→音楽も神話もに言語から発したが、別々の方向に分かれて生長している
→神話は音楽の総譜と同じく一つの連続シークェンスとして理解することは不可能
<神話と音楽>

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2007 9/5
文化人類学、神話学、宗教、文化論
まろまろヒット率4

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『二次元美少女論―オタクの女神創造史』 吉田正高著 二見書房 200407.31.06


夏期集中講座の講師のお仕事で山梨県に来ている、まろまろ@山梨のごはん日記やぷかぷかお風呂日記を更新予定です(^_^)v
(講義題目:「情報検索のための情報発信論~インターネット情報の特性とその対応~」)

さて、『二次元美少女論―オタクの女神創造史』吉田正高著(二見書房)2004。

アニメ、ゲームなどに登場する二次元美少女の進化をたどることで、コンテンツ文化史を模索する一冊。
二次元美少女の魅力を支えてきた特有のキャラクター属性、「甲胄・パワードスーツ・触手」、「メカ美少女」、「美少女パイロット」、
「格闘美少女」、「ヴァーチャル・アイドル」、「ゲーセンの美少女」を取り上げながらそれぞれの歴史や変遷を考察している。

読んでみると・・・とても濃い(^^;
個々の事例に対する著者の思い入れと自分の思い出が重なって、目頭があつくなることもあったほど(w

特にアイドルものに共通して見られる華やかさの裏にある「暗い過去」や「影の苦労」という要素は、
努力して這い上がっていくスポ根ドラマの主人公と同じスタンスだとしている点には納得できた。
また、受容者が限定的なメカ美少女については、商業主義から一歩離れた同人誌界がその成熟の温床となったという点は、
個人によるWeb上での表現(メディア表現)の役割や可能性と同じものを感じて興味深かった。

ただ、この本の目的である「二次元美少女表現の基盤であるキャラクター属性の正史構築」(まえがき)として読めば、
議論したいときの土台となる材料や根拠の提供が十分になされてない箇所があったり、考察課程が不明確な部分もあるので、
結果的に著者の印象論という側面が強くなってしまっているように思えた。
しかし、この本はあくまで「30項目ある中の6項目」と著者自身も述べているように、これからの続編に期待したい。

ちなみに僕は東京大学コンテンツ創造科学の関係で著者と会う機会も多い。
コンテンツ創造科学に入る前にも、一度遠くから見たことがあったが、いかにもなオーラを感じたのをよくおぼえている。
そんな人柄がつたわってくる一冊。

以下、チェックした箇所・・・

○美少女を学べば、戦後日本文化の特質が理解できる
<まえがき>

○修理再生が可能であるというメカの特質が、死のイメージからの遊離をもたらし、
パロディやギャグへの傾倒という流れをつくりだしたことは重要
<第2章 メカ美少女>

○同人誌を中心としたアングラ文化圏においては、商業主義から一歩距離をとるというスタンスにより、
受容者が限定されることも厭わない環境が成立していたこともあって、デザインとしてのメカ美少女熟成の温床となった
<第2章 メカ美少女>

○根底にある「格闘」の部分がしっかりしていなければ、「格闘美少女」というカテゴリー自体が衰退するわけだが、
「格闘」にこだわり過ぎると、せっかくの「美少女」性やその背景にあるはずのエロスが失われ、
単なる勝負事の世界=スポーツに戻ってしまい、これまで育ててきた美少女文化としての創造性が失われてしまう
<第4章 格闘美少女>

○「競争し、這い上がり、その地位を死守するために尽力する」アイドルという存在自体が、ひと昔前のスポ根ドラマの主人公そのもの
→アイドルの存在基盤に横たわる「影の努力」という呪縛は、
後々までアイドルを主体とした作品のドラマツルギーが、暗い闇の部分を抱え続ける要因ともなっていく
<第5章 ヴァーチャル・アイドル>

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2006 7/31
文化論
まろまろヒット率3
ゲーム

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『ダーウィン文化論―科学としてのミーム』 ロバート・アンジェ編、佐倉統・巌谷薫・鈴木崇史・坪井りん訳 産業図書 200407.07.05


「京たこ」が京都には無いようにNewYorkには決して無い「NewYorker`s Cafe」で作業することが多い、
らぶナベ@よく利用されるかたはご一報ください、合間にまろまろとお茶しましょう(^_-)

さて、『ダーウィン文化論―科学としてのミーム』
ロバート・アンジェ編、佐倉統・巌谷薫・鈴木崇史・坪井りん訳(産業図書)2004。

ミーム論(ミーム学、memetics)の研究論文集。
編者が「ミームについて現在の論争点をはっきりさせる」ことを目的とすると言っているように(序章)、
ミームに関連する各分野の研究者たちがミームの有効性について論じている。
ミームに懐疑的な研究者の論文も掲載されているが、その傾向は後半にいくにしたがって強まる。

読んだ感想は、いろいろな議論はあるけど結局「操作的な定義以上のミームを同定することと、
その複製メカニズムをはっきりさせることの両方がなければミーム論は離陸できない」(11章)
というのと同じ感覚を持った。

ちなみにこの本は日本語訳版だけ各章の研究者紹介の項目がある。
この項目のおかげでその主張を唱えている人の背景がわかってとても有益だった。
(立体的に議論の様相がとらえられる)
これを書いた訳者は僕の指導教官だったりするが、彼はこういう研究者紹介をさせると上手い。

また、奇しくもこの本の中でも一番ミームに肯定的なブラックモア博士(第2章担当)とは、
読んでいる最中に実際に会う機会があった。
断片的に知っていた彼女の情報が実際に会うことによってパズルのようにつながったが、
ミームという言葉にはこういう情報のデジタルな側面を表わす響きがあるんだろう。

以下はチェックした箇所(要約含む)・・・

○ミーム=記憶のアイテムで、生物個体の神経系に保存されている情報の一部。
観察者が聴衆かすることで同定される。
観察者の裏付けは、以前にほかの生物個体の神経系に保存されていた
同じ記憶アイテムを裏付けた先行経験に依存している(Lynch, 1998)
<第1章 序論(ロバート・アンジェ)>

○ミーム研究をめぐる三つの論争・・・
・文化を主に構成しているものは、独立して伝達される情報単位とみなしていいのか
・いわゆるミームなるものは、自己複製子として機能しうるだけの要件を備えているのか
・ミーム論のようなダーウィン的、選択理論的なアプローチが文化の科学として最適であり望ましいのか
<第1章 序論(ロバート・アンジェ)>

○ミーム駆動=ミームは、現在成功しているミームを選択する脳を遺伝子に作らせたとする仮説
→人間の脳は選択的模倣装置
<第2章 ミームの視点(スーザン・ブラックモア)>

○私たちの周りにあるすべての文化的存在は、
熾烈なコピー競争の、現在の勝者であるがゆえに存在している
<第2章 ミームの視点(スーザン・ブラックモア)>

○人間の本性は、ミームと遺伝子が複雑な環境下で複製の競争を行った産物であり、
神秘的な導きの原理や自由意志とともにある内なる自己の余地など存在しない
<第2章 ミームの視点(スーザン・ブラックモア)>

○ミームは新しい研究プログラムであるから試行とテストによって評価されるべきである
<第3章 ミーム論をまじめに取り扱う―ミーム論は我らが作る(デイヴィッド・ハル)>

○文化の自然科学に対する主要な2つのアプローチ=
1:文化の進化に焦点をあてたアプローチ(心理的機構の進化に関心)
2:文化的進化に焦点をあてたアプローチ(遺伝子-文化の共進化に関心)
・・・この2つは統合されるべき
<第4章 文化と心理的機構(ヘンリー・プロトキン)>

○認知過程=心的表象を伴う過程
 →表象に対してエージェントが行う行為によって完成する
社会的認知過程=社会的信念、目標を伴う過程
 →エージェントの社会的信念、目標に対して行為を推敲することにより実現する
<第5章 心を(社会的に)通したミーム(ロザリン・コンテ)>

○ミーム論の利点
1:アプローチが基礎的
2:発見的であり新しい解釈や再構築を促す(進化的アプローチの特徴)
3:学際的
4:多岐に渡る問題を取り扱える
<第5章 心を(社会的に)通したミーム(ロザリン・コンテ)>

○科学としてのミーム論の未来は、ミームが脳内で確認されるかどうかではなく、
むしろどの程度までミームが心の中に宿るか、
その根拠や過程が明らかにされるかどうかにかかっている
<第5章 心を(社会的に)通したミーム(ロザリン・コンテ)>

○協力に必要な2つの条件
1:協力しあっているエージェントが1つの共通目標を持っている
2:彼らがその成就に対して相互に依存している
(Conte and Castelfranchi, 1995)
→交換においてはエージェントは相互依存さえしていればいい
<第5章 心を(社会的に)通したミーム(ロザリン・コンテ)>

○人間のニッチ構築は部分的には社会伝達ミームに依存しているものの、
人間の遺伝子の選択的環境にとどまらず、ミームの選択的環境をも形作る
<第6章 ミームの進化(ケヴィン・レイランド&ジョン・オンドリン=スミー)>

○もっとも成功しているミームは、ニッチ構築という形で実現しており、
自分たちの好みに応じて、選択的環境に効果的なバイアスをかけている
<第6章 ミームの進化(ケヴィン・レイランド&ジョン・オンドリン=スミー)>

○ミームを好きかどうかは、単純に「細分派」か「統合派」か、
分析を拠り所にするか解釈を拠り所にするかということに帰すかもしれない
<第11章 結論(ロバート・アンジェ)>

○操作的な定義以上のミームを同定することと、
その複製メカニズムをはっきりさせることの両方がなければミーム論は離陸できない
<第11章 結論(ロバート・アンジェ)>

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2005 7/7
ミーム、進化論、文化研究
まろまろヒット率★★★

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『神仏習合』 義江彰夫著 岩波文庫 199603.09.05


週末に大阪に帰ったら親がまろまろHPの存在を嗅ぎつけそうになっていて焦った、
らぶナベ@「親バレ」を避けるために隠蔽工作に必死です(>_< )

さて、『神仏習合』義江彰夫著(岩波文庫)1996初版。
律令時代から始まった神仏習合の過程と、
その原動力となった社会構造の変化を紹介する一冊。

読んでみると、政治的、社会的な構造変化のもとで
仏教と神祗信仰が複雑に絡まっていく過程は、
ダイナミックな歴史読物として楽しめた。
さらにこの本はタイトル通り宗教を取り扱った歴史書だけど、
著者が「信仰は文化の特質が集約的に表現されている」と語っているように
日本文化形成論としても読むことができる。
加えて、普遍宗教(仏教)と基層信仰(神祗信仰)の重なり合わせは、
グローバリゼーションとローカリゼーションとの重なりという視点でも読むことができた。
読んでいて面白い上に、いろんな読み方ができるかなりの良書だと思う。

ちなみに僕は前々から空海に対して近親憎悪のようなものを感じていたけれど
(『空海の風景』を読んでからそれは決定的になった)、
この本の中でも神仏習合過程で立ち回った
空海の姿を発見してちょっと複雑な気分になってしまった。

以下は、チェックした箇所(一部要約)・・・

○神仏習合=神祗信仰と仏教が複雑なかたちで結合し、独自な信仰の複合体を築いたもの
 →普遍宗教と基層信仰の結合の一形態
<序 巫女の託宣>

☆宗教には文化全般の特質が集約的に表現されているはずであり、
 社会構造との有機的関係をもっともダイナミックに把握できる通路
<序 巫女の託宣>

○律令国家は、祭祀のなかに支配の論理をすべりこませることを
 国家的規模で実現することで、はじめて存立しえた
<第2章 雑密から大乗密教へ>

○十世紀末に完成する日本型浄土信仰=論理化された神祗信仰の核をなす
 ケガレ忌避観念と浄土三部経との実質的な結合と複合体
<第4章 ケガレ忌避観念と浄土信仰>

☆キリスト教と仏教との決定的な違い
 =最初から呪術と奇跡を認め、人間しか救済されないとする点
<結 普遍宗教と基層信仰の関係をめぐって>

○仏教はキリスト教の三位一体論にあたるものを作り出すことなしに、
 可能なところから呪術と奇跡の背後にある普遍宗教の教理を打ち出し、
 その理解をすみやかに獲得していった
<結 普遍宗教と基層信仰の関係をめぐって>

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2005 3/9
歴史、宗教、文化論
まろまろヒット率4

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