Archive for the ‘学問一般’







『社会学の社会学』 ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳 藤原書店 199106.16.10


アクセス殺到によるサーバダウン頻発化に対応するため、ついに6回目のサーバ引越をしようと思う、
まろまろ@しばらく不安定な表示になりますが気長にまろまろとお付き合いくださいな☆

さて、『社会学の社会学』ピエール・ブルデュー著、田原音和監訳(藤原書店)1991。

社会学者、ピエール・ブルデューによる、21の論点に対する回答集。
原題は”Questions de sociologie” (1984)。
もともとは一般の人々を対象とした講演やインタビューの議論を基にしているので、
「専門家以外の人に読まれることを想定している」と著者は書いているけれど、内容は決して簡単ではない。
とはいえ、社会科学の方法論から、文化論、芸術論などにおよぶ内容はとても刺激的。
どれもが鋭い視点で、これまでの「常識」に対して「冷や水をかける」ようなブルドュー社会学の概要を知ることができるものになっている。
読み応えがあるので、一章、一章、ゆっくりと噛みしめて消化しながら、三カ月ほどかけて通読することになった。

ちなみに、パリ第7大学(Denis Diderot)でのブルデューの後任は矢田部和彦さんという日本人の人が務めているけれど、
僕は矢田部和彦さんが参加した大阪フィールドワークのコーディネータを務めた経験がある。
また、矢田部研究室の院生さんからインタビューを受ける機会もあったので、ブルデューの弟子と孫弟子に当たる人達とご縁があることになる。
そういう経緯があるので、この本の中で調査対象者に対する接し方について書かれた部分には、
「僕もこんな風になことを思われているんだな」と微笑ましくなることもあった。

そんな個人的な事情は差し引いても、読み応えがあり、そしてとても刺激的な一冊。

以下は、チェックした個所(一部要約含む)・・・

○私はいつも別の方向にねじまげることから始めます。
つまり、はみだし者、社会的空間の外なる者であろうとする人びとも、
結局はみんなと同じように社会的世界のなかに位置づけられているのだ、
ということに立ち戻ることから始めるのです。
<言葉に抵抗する技術>

○私の目標は、「社会的世界なんて大したことはないさ」と言わせないように手を貸すことなんです。
<言葉に抵抗する技術>

○社会学が示してみせるのは、あれこれ社会的慣習行動の効力が発揮されるために糾合されなければならない客観的な諸条件は何かということです。
<お邪魔な科学>

○おそらく社会学の唯一の任務というのは、そのはっきりした欠落からしても、その獲得しえたところからしても、
社会的世界についての認識の限界をはっきりさせることであり、
またこうして、科学を引き合いに出すような予言を手初めに、あらゆる形の予言を成り立ちがたくすることなのです。
<お邪魔な科学>

○投資とは[何かに打ち込もうとする]行動への傾性[気質]であって、
なにがしかの賭け金を賭けようとするゲームの空間(これを私は「場」=champと名づけています)と、
このゲームにぴったり合った諸性向の体系=systeme de dispositions(私はこれをハビトゥスと呼んでいます)との間に産み出されるものである、
ゲームをしたがる、ゲームに熱中しようとする傾性と素質とを同時に含意するゲームとその賭け金の感覚のことなんです。
<お邪魔な科学>

○言葉の厳密な使用、コントロールされた使用に到達するために必要不可欠な書くという作業が、
明晰さと呼ばれているものに達することはきわめて稀にしかありません。
明晰さとはすなわち良識の証しを、あるいは狂信の確かさを補強するだけだということです。
<問題の社会学者>

○科学のなすべきことは、作られたものの妥当性の限界をはっきり明言しておいて、
これができることの全部だということを知り、かつ言った上で、なすべきことはする、というところにあるからです。
<問題の社会学者>

○社会科学の仕事の一部は、この日常用語がまとったり脱いだりするすべてのヴェールを剥ぎとる=de-couvrir(発見する)ことにあります。
<問題の社会学者>

○行為の原理は、私がハビトゥスと呼んでいる性向の体系であり、それは生活史的経験すべての所産です。
まったく同一の二つの個人史というものが存在しない以上、類似した経験、つまりハビトゥスの類、
あるいは階級のハビトゥスは存在するとしても、二つの同一ハビトゥスは存在しないということです。
<どうやって「自由な知識人」を解放するか>

○大事なことは、対象についての言説が対象に対する無意識のかかわり方の単なる反映でないように、
対象に対するかかわり方を対象化する(客体として設定する)にはどうすればよいかを知ることです。
この対象化を可能とする技術のなかに、もちろん学問的装置の一切があるのです。
いうまでもなく、この装置自体は、それぞれの時代の先行科学から引き継いだものですから、当然、歴史的批判に服さねばなりません。
<社会学者の社会学のために>

○行為者というのは自分を分類し、他社を分類して日々を過ごしています。(中略)
こうした分類こそ行為者間の闘争の一つの賭け金にほかなりません。
別の言い方をすれば、分類の闘争というものが存在するのであり、これが階級闘争の次元の一つをなしているということなのです。
<社会学者のパラドックス>

☆悪口は他者をその特性のひとつ、彼のひそかに隠しもったえり好みの一つに還元してしまいます。
他者をいわばその客観的真相に押し込めてしまうのです。(中略)
日常的行動のなかでは、客観主義と主観主義との間の闘争が絶えることなく続けられています。
誰もがその人なりに自分についての主観的な表象を客観的な表象として人に押しつけようとするものです。
支配者とは、自分がそう見られたいと思っている通りに被支配者が自分を見るように被支配者に対して押しつける諸手段をもっている者のことです。
<社会学者のパラドックス>

○真理とは一つの敵対関係を含んだものです。ある一つの真理があるとすれば、それは、その真理が闘争の一つの賭け金であるからにほかなりません。
<社会学者のパラドックス>

○社会学者の仕事は、いつも二つの役割の間に自分の位置を取らなければなりません。
座を白けさせる役割に終始してもなりませんし、反対にユートピアを信じる共犯者としての役割に甘んじてもならないわけです。
<話すということはどういうことか>

☆☆場にはもう一つ、すっかり見えにくくなっている特性があります。
場に参与しているすべての人びとが、一定数の根本的利害、つまりその場の存在それ自体に結びついているものの一切を共有しているということ、
それから、どんな対立にも表面にはあらわれてこない客観的な共犯性を共有していることです。(中略)
闘争に参加する者は、敵味方を問わずゲームを再生産することに貢献し、
場によってその完全さに程度の差こそあれ、賭け金の価値に対する信仰を産み出すことに貢献しているのです。(中略)
ゲームそのものを破壊してしまう全体的革命から守っている要因の一つが、
ゲームに参加するために予期される時間や努力などに費やす投資の重要さだということは明らかです。
また、そうした投資が経なければならぬ通過儀礼の試練の数々が示しているように、
ゲームが根こそぎ破壊されることをじっさいに考えられもしないものにしてしまうのです。
☆<場のいくつかの特性>

○ハビトゥスとは、意識されていようといまいと、長い時間をかけた習得によって獲得された性向の体系であり、生成図式の体系として作動します。
また、ある目的にむけてはっきり構想されたものでなくとも、行為者の客観的利害に客観的に合致しうる戦略を産み出す生成母体なのです。
<場のいくつかの特性>

○人びとがハビトゥスのおもむくがままに動いてさえいれば、場の内在的必然性に従い、そこに刻み込まれている諸要請をみたすことができるというときには(そうなればどんな場においても卓越したことだとはっきり言えます)、当の人たちは自分を犠牲にしてまである義務に身をささげるなどという意識はまるでもっておらず、なおさら(特定の)利益の最大化をついきゅうしているという意識はもっていません。
したがって、よそ目にも完全に損得を免れているように見え、自分自身もそう考えるという追加利益があるわけです。
<場のいくつかの特性>

○言語資本とは、言語の価格形成のさまざまなメカニズムに及ぼしうる権力であり、
価格形成の法則を自分の利潤に合わせて作動させたり、特定の余剰価値を引き出したりする権力なのです。(中略)
言語的相互作用はすべて、それを包摂する諸構造によってたえず支配され続けている小さな市場のようなものなのです。
<言語市場>

○恩着せがましさとは、客観的力関係を扇動的に利用することです。
なぜなら、人びとの思いを聞き届けてみせる人が、ヒエラルキーを否定するために、まさにそのヒエラルキーを利用しているからです。
彼がヒエラルキーを否定するとき、彼は、それにつけこんでいるからです。
<言語市場>

○趣味というのは、他との違いを際立たせるものであるからこそ変化していくのです。(中略)
音楽ビジネスがなぜ難しいかというと、文化的財に関する限り生産とは消費者を産み出すことにほかならないからです。
もっとはっきり言えば、音楽の趣味の生産、音楽の欲望、音楽への信仰の生産ということなのです。
<音楽愛好家という種の起源と進化>

○趣味とは、一人の人物ないしはある集団の習慣行動と所有=物の総体として見れば、
財とある趣味との出会いの(予定調和による)所産ということになりましょう。
<趣味の変容>

○噂される人というのは、潜在的に言いたいことがあっても、誰かにそれを言われて初めてそうだと分かる、そんな人でもあるです。
<趣味の変容>

○趣味とは、一方の客体化された歴史と他方の身体化された歴史という二つの歴史の、客観的には相互に合致した出会いの所産なのです。
<趣味の変容>

☆芸術作品と消費者との出会いのなかには、不在の第三者がいます。
この不在の第三者とは、自分の内なる美的感覚を物象に変え、それを魂の状態から、いや身体の状態から、
自分の美的感覚に合った可視的な物象へと変える能力にたよって作品を生産し、自分の好みに合うものを作りだした人のことです。
芸術家とは、このような内的なものを外的なものに変える専門家、客体化の専門家なのです。
<趣味の変容>

☆消費者がその芸術家の創作物のなかに自分の姿を認めることによって、自分でも作ることができたなら作っていたであろうものを
芸術家の創作物のなかに認めることによって、芸術家は芸術家として承認されるのです。
こういう人が「創造者」という魔法の言葉で呼ばれてしまうのは、芸移活動をいったん魔術的な働きと定義してしまっているからなのですが、
しかしこれこそは、実は社会的な働きにほかならないのです。
<趣味の変容>

○趣味とは、ある特定の人物によってなされる選択の総体ではありますが、
芸術家によって客体化された美的感覚(趣味)と消費者の趣味との出会いの所産ということになるのです。
<趣味の変容>

☆社会学の特有の困難は、誰もが何らかのかたちで知っている事柄をあらためて教えてみせるというところに由来しています。
しかし、それは知りたくない事柄であったり、そうでなければシステムの法則がそれを隠しているために知りえない事柄だったりするのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆クリエーターは、創造者たる権力を信用させるだけの言説をもっていることによって、
クリエーターとして創造されうるのだ、ということが重要なのです。
<オート・クチュールとオート・キュルチュール>

☆芸術家の自律性は、その基礎が創造的な天才の奇蹟のなかにあるのではなくて、
方法、技術、言葉など、相対的に自律的な一つの場の社会史の社会的産物のなかにあるのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○芸術生産の場とは、その名において、芸術の価値のなかに、芸術家がもつ価値の創造能力のなかに
信仰を産み出す場であるということが、どのように歴史的に形成されるのかを明らかにすることが問題なのです。
<それにしても、誰が「創造者」を創造したのか>

○あらゆる力関係の本質は、それが言説によって隠蔽されているからこそ初めてその力を発揮できるのだと言っていいでしょう。
<世論なんてない>

○正当性とは、何かが見落とされていることを意味します。(中略)
被支配者たちが承認するのは、支配者たちがこの定義に対してもつ利害を被支配者たちが見落としている場合に限られます。
<ストライキと政治行動>

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2010 6/16
社会学、芸術論、学術方法論
まろまろヒット率4

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『神は妄想である』 リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳 早川書房 200705.18.09


新型インフルエンザの感染拡大の流れで今週一週間お休みになったので、まろまろ茶話会2009の準備をしはじめている、
まろまろ@一両日中にもこのまろまろメルマガで告知します(*^_^*)

さて、『神は妄想である』リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳(早川書房)2007。

『利己的な遺伝子』『盲目の時計職人』で知られる進化生物学者、リチャード・ドーキンスが神の存在と宗教の価値を否定する本。
原題もずばり“The God Delusion”

この本がすごいのは、科学的手法を使って神の存在を否定するだけでなく、神に救いを求めること自体を否定しているところだ。
たとえば、よく耳にする宗教心が道徳の指針になるという主張や、超自然的な存在に救いを求める人間の心理に対しても、
進化心理学の研究結果や実際の聖典の読解を通じて、道徳の指針としても心の寄り処としても宗教は不適格だと言い切っている。

科学的な証拠を積み重ねながらも、軽快な口調で論理展開していく手法は、まさにリチャード・ドーキンスらしいところ。
さらにこれまでの著書での知見を駆使しているので、この本はリチャード・ドーキンスの集大成とも言える。

それだけに、啓蒙書として書かれていることもあって、押し付けがましく感じる面もある。
たとえば、人間にはもともと隣人愛や道徳心が進化的に獲得されてるのに、あえて宗教に惹かれる原因を、
「飛んで火に入る夏の虫」と同じく進化的に獲得されたプログラムの誤作動だと言い切っているところ。
さらに超自然的なものに救いを求めることは、「くるぶしを挫いた瞬間に、誰か告訴できる相手がいないかと見まわす人間の幼児性と同じである」
と最終章で結論づけているところなどには、”You have so much smart than us, Prof. Dawkins.”と思わず突っ込みそうになった(w

ただ、イギリスの、しかも神学が発祥のオックスフォード大学の教授でありながらここまで言い切るのは勇気がいること。
それは、子供に対する宗教教育は精神虐待であることについて一章をさいているように、
宗教がもたらす流血や紛争の悲劇に対して、科学者の立場から真実を語ろうとしているからだというのは理解できる。
(日本の場合は”神”を”霊”に置き換えると分かりやすいかも)
現にドーキンスがこの本を書いたのは、9.11同時多発テロがきっかけになっている。

「科学は一般に、工学技術とはちがって、常識を侵害するものである」と言っているように、
常識と真実がぶつかった時は真実を取るというその姿勢には素直に感銘を受ける。
(確かに一般常識や社会常識を振りかざす人は、無知蒙昧で可能性の少ない人が多い)

そうした科学者としての迫力も含めて、まろまろヒット率5。

以下はチェックした箇所・・・

○もし< 神>という言葉によって、宇宙を支配する一連の物理法則を意味するのであれば、そのような神は明らかに存在する。
この神は情緒的な満足感を与えてくれるものではない。・・・重力の法則に祈ってもあまり意味がない(カール・セーガン)
<第1章 すこぶる宗教的な不信心者>

○私は要らぬ侮辱をするつもりはないが、宗教を扱うのに、ほかの事柄よりも手控えた扱いをして甘やかすつもりはない
<第1章 すこぶる宗教的な不信心者>

○ありえなさという問題に対する答として自然淘汰が有効であり、偶然と設計がはなから不適格であるのはなぜだろう?
その答は、自然淘汰が累積的な過程であり、これが、ありえなさという問題を小さな断片に分割するから、である
<第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由>

○設計者仮説はただちに、その設計者を誰が設計したのかというさらに大きな問題を提起する
<第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由>

○信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っぱらいのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない(ジョージ・バーナード・ショー)
<第5章 宗教の起源>

○生まれつきの二元論と生まれつきの目的論があいまって、適切な条件が与えられれば、私たちはたやすく宗教へ走ってしまう。
ちょうど、先の光コンパス反応がガをうっかりした「自殺」に追いやったように
<第5章 宗教の起源>

○ほかの誰か(子供の場合は両親、大人の場合は神)が、あなたの人生に意味と理由を与える責任があるという仮定には、どこか幼児的なものがある。
くるぶしを挫いた瞬間に、誰か告訴できる相手がいないかと見まわす人間の幼児性とまったく同じである
<第10章 大いに必要とされる断絶?>

☆科学は一般に、工学技術とはちがって、常識を侵害するものである
<第10章 大いに必要とされる断絶?>

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2009 5/18
宗教、科学、進化論、学問一般
まろまろヒット率5

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『歴史とは何か』 E.H.カー著、清水幾太郎訳 岩波書店 196206.24.08


距離の単位系を説明する時にEminemの“8 mile”を例に出して解説することが多い、
まろまろ@メートル換算すると実はかなりの距離(12.87km)と分かった時の元も子もない反応が痛くて気に入っています(w

さて、『歴史とは何か』E.H.カー著、清水幾太郎訳(岩波書店)1962。

ロシア革命史の研究で知られる歴史家、E.H.カーによる歴史の概要書。
歴史という対象の特徴と、それにアプローチする歴史学の方法論を述べた一冊。
原題は“What is History?” (1961)。
実はこれまで必要に応じて何度も部分読みをしていた本ではあるけれど、
特命係長プレイの合間に初めて通読したので、今回めでたく読書日記化。

内容は、歴史とは事実なのか、それとも解釈なのか?
歴史では社会(状況)と、個人(人物)のどちらが優先するか?
歴史は特殊事例の集まりでしかないのか、それとも一般化は可能なのか?
・・・などの歴史への問いかけに対して、それぞれ一方だけの立場を極論だと退けて、どれがも密接な相互関係にあることを述べている。

たとえば、歴史は事実なのか、解釈なのかという問いに対しては・・・・
「歴史家は事実の慎ましい奴隷でもなく、その暴虐な主人でもない」として、
「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」
・・・と結論づけている。
(1 歴史家と事実)

両極端な意見にそれぞれ反論を加えて、中庸な立場を採用しているのが著者の終始一貫したスタンス。
ただ、それだけに上記のように結論が一言で言えないものばかりで、よく読解しないといけないものになっている。
この点、理系の人、特に実験などの実証的手法を取る人の中で、
「文系の人の話は何も問いに答えてない」と指摘する人をたまに見かけることがあるけれど、
そういう人がこの本を読んでも同じように感じるんだろうかとふと思った。

刑事裁判の手続がそうスパっといかないように、過去の出来事という対象にアプローチするのは、
そう簡単な話ではないということを理論立てて説明してくれているので、
同じような特徴(再現性無し、追試不可能、一般化が簡単では無いなど)を持つ研究対象へのアプローチの参考にもなる本でもある。

以下は、チェックした箇所(一部要約含む)・・・

○正確は義務であって、美徳ではない
→仕事の必要条件であって本質的な機能ではない
<1 歴史家と事実>

☆歴史=歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話
→歴史家は事実の慎ましい奴隷でもなく、その暴虐な主人でもない
<1 歴史家と事実>

○事実と解釈とを引き離すことが出来ないのと同じように、特殊的なものと一般的なものとを区別することは出来ない
→一方を他方の上に置くことも出来ない
<2 歴史と科学と道徳>

○歴史の機能は、過去と現在との相互関係を通して両者を更に深く理解させようとする点にある
<2 歴史と科学と道徳>

○歴史は運動であり、運動は比較を含む
→道徳的判断には「善悪」ではなく「進歩と反動」という比較的性質の言葉を用いる
<2 歴史と科学と道徳>

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2008 6/24
歴史、学問一般
まろまろヒット率4

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『社会学の根本問題―個人と社会』 ゲオルク・ジンメル著、清水幾太郎訳 岩波文庫 1979(原著1917)04.18.06


全くの偶然で日経新聞と日経マネーからのインタビュー依頼が重なった、らぶナベ@経済系には縁遠いだけに巡り合わせの奇遇を感じてます。

さて、『社会学の根本問題―個人と社会』ゲオルク・ジンメル著、清水幾太郎訳(岩波文庫)1979。
原題は“Grundfragen der Soziologie: Individuum und Gesellschaft” (1917)。

まだ社会学が学問として認められていなかった頃に、形成社会学を提唱した著者が書いた、社会学の本質を述べた一冊。
読んでみると社会学も科学なんだと弁明している第一章よりも、具体例として社交と芸術&遊戯との共通点を述べている第三章の方が面白く読めた。

以下はチェックした箇所・・・

☆すべて科学というものは、或る特定の概念に導かれて、諸現象の全体や体験的直接性から一つの系列乃至一つの側面を抽象するもの
<第1章 社会学の領域>

○存在しているものは、認識が到底直接に捕ら得ない統一体であり、私たちが事実内容と呼んでいるものは、或る一面的な範疇によって理解したもの
<第1章 社会学の領域>

☆芸術は、完全に生命から離れたもので、芸術に役立ち、芸術によって再び生産されるようなものだけを生命から取り出す
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>

○(芸術と遊戯の)両者は、生命のリアリティから生まれながら、このリアリティに対して独立の国を成す諸形式を共有する
→両者の意味と本質とは、生命の目的や生命の実質から生まれた諸形式がそれらから身を解き放って、
諸形式それ自ら独立した運動の目的になり実質になり、あのリアリティのうちから、この新しい方向に従い得るもの、
諸形式の独自の生命のうちに現われ得るもののみを取り入れるという、この断乎たる回転のうちにある
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>

○社交は、具体的な目的も内容も持たず、謂わば社交の瞬間そのものの外部にあるような結果を持たない(略)
それゆえ、この過程は、その条件においても、その成果においても、この過程に参加する人間だけに限られている
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>

○社交というのは、すべての人間が平等であるかのように、同時に、すべての人間を特別に尊敬しているかのように、人々が「行う」ところの遊戯
→リアリティを全く離れた遊戯や芸術が嘘でないのと同じように、社交も嘘ではない
<第3章 社交(純粋社会学即ち形式社会学の一例)>

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2006 4/18
社会学、学問一般
まろまろヒット率3
社会 図書

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『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』 ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳 草思社 上下巻 200004.13.06


らぶナベ@喜寿(77歳)を迎えようかという人の活躍ぶりを見て僕も奮起しています(^_-)

さて、『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳(草思社)上下巻2000。

16世紀、アメリカ大陸を侵略したヨーロッパ人たちはごく少数だったのに、先住民たちに大打撃を与えて支配した。
その直接的な原因は銃、病原菌、鉄に代表される政治・文字システム、感染症の抵抗力、技術の差だった。
では、なぜ同じ人類にそこまでの決定的な違いが生まれたのか?
その究極的な原因は何なんだろうか?

・・・かつてその違いは人種間の生物学的な差だと思われていた。
でも、いまは人種間に生物学的な優劣は無いことが判明している。
では、銃・病原菌・鉄に代表される文明の違いはどうして生まれたのか・・・

この本は生理学と進化生物学を専門にする著者が、人類が同じスタートラインに立っていた1万3千年前から、
生物学や地学、言語学などの研究成果を取り入れながら、それぞれの地域で起こった歴史をたどっている。
原題は“Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies” (副題が違う)。
原副題にあるようにそれぞれの運命を変えることとなった、違いを生み出した究極的な要因にアプローチしている。

読んでみると、読み物として単純に面白い(^_^)v
そしてユーラシア大陸が東西に長いのではなく、南北に長かったらどうなっていたのか?と考えさせられる一冊でもある。
もちろん最新の研究結果を使っている分、新しいデータや知見が出てくればすぐに古めかしいものになるのは必然の本だけど、
それでも現時点で挑戦しようとする姿勢に共感をおぼえた。

ちなみにエピローグでは文系に分類されている歴史学と、理系の進化学地学、天文学、進化学との共通点を述べている。
再現実験ができない点、構成要素が複雑な点、個体がユニーク(唯一無二)な点などの共通点をあげながら、
直接要因と究極要因を結ぶアプローチの方法論についても言及している。
この点が佐倉研究室必読文献に指定された原因でもある。

以下はチェックした箇所(重要と思われる順&一部要約)・・・

☆アメリカ大陸とアフリカ大陸が南北に長いのに対して、ユーラシア大陸が東西に長いので食料生産の伝播が早かった
→人類の歴史の運命はこの違いを軸に展開していった
<第10章 大地の広がる方向と住民の運命>

☆歴史学、天文学、気象学、進化生物学などは程度の差こそあれ、
実験的に操作して再現実験をおこなうことができない分野、構成要素が非常に多岐にわたる分野、
個々がユニーク(唯一無二)であるため普遍的な法則を導くことができない分野、
どのような創発的属性が登場するかや将来何が起こるかを予測するのが難しい分野、という共通点がある
<エピローグ>

○歴史科学は直接要因と究極要因の間にある因果関係を研究対象とする
<エピローグ>

○世界史では、いくつかのポイントで、免疫のある人たちが免疫のない人たちに病気をうつしたことが
その後の歴史の流れを決定的に変えてしまっている
<第3章 スペイン人とインカ帝国の激突>

○実際の発明の多くは人間の好奇心の産物であって何か特定のものを作りだそうとしたわけではない
→「必要は発明の母」ではなく「発明は必要の母」
<第13章 発明は必要の母である>

○有名は発明家とは、必要な技術を社会がちょうど受け容れられるようになった時に
既存の技術を改良して提供できた人であり、有能な先駆者と後継者に恵まれた人
<第13章 発明は必要の母である>

○人類の科学技術史は大陸ごとの面積、人口、伝播の容易さ、食料生産開始のタイミングの違いが、
技術自体の自己触媒作用によって時間の経過とともに増幅された結果
→ユーラシア大陸がリードできたのは知的に恵まれたわけではなく地理的に恵まれていたから
<第13章 発明は必要の母である>

○中国がヨーロッパに逆転された理由は、中国の長期統一とヨーロッパの長期不統一にある
→技術は地理的な結びつきが強すぎず(中国)弱すぎず(インド)、中程度のところでもっとも進化スピードが速かった
<エピローグ>

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2006 4/13
歴史科学、自然科学、学問一般
まろまろヒット率4

世界 遺産

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『現代社会と知の創造―モード論とは何か』 マイケル・ギボンズ編著、小林信一監訳 丸善ライブラリー 199703.06.06


ごはん日記にコロッケそばコンテンツをアップしたら、「揚げたてではダメなのです!」などの熱いメールが複数寄せられた、
らぶナベ@立喰師列伝にはまだまだ入れないようです(^^;

さて、『現代社会と知の創造―モード論とは何か』マイケル・ギボンズ編著、小林信一監訳(丸善ライブラリー)1997。
原題は”The New Production of Knowledge: The Dynamics of Science and Research in Contemporary Societies”(1994)。

前からペラペラと飛ばし読みしたことはあったけど、最近になってWeb2.0などのネット進化の議論で
引用されてるのを見かけることが増えたので通し読みしてみた一冊。

現在、知的生産の方法が大きく変化している。
この本では、その科学技術活動のモード(様式)についての議論をしている。
ディシプリンの内的論理で研究するこれまでの知識生産様式をモード1、
社会に開放された新しい様式をモード2と分類して、その背景や意義を述べている。

解説に書かれてあるように、やっつけ仕事を感じるところや無理やり感がある部分もあるけど、
初版から10年以上たったいまでもこの本が提言したモード2の動きは変わっていない。
たとえばネット上での動きはまさにモード2のものだし、「お行儀の悪い」様式がますます存在感を増してきている。
そんな僕もお行儀の悪い方に分類されているんだろうなと思いながら読み終えた。

ちなみにかなり長い序章(30ページ)を読めばそれで十分内容がわかるようになっている。

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○クーンのパラダイム論では個々のディシプリンの内部の研究活動を規定するパラダイムの存在を考えた
→ギボンズのモード論では、個別のディシプリンを超えて、あるいは科学技術の研究活動を超えて、
知的な生産活動全体を規定するモードが存在していると考える
<転機に立つ「科学技術と社会」―日本語版の解説にかえて―>

☆トランスディシプリナリティの四つの側面・・・
1:明確な、しかし進化する問題解決の枠組を発展させる
2:解は経験的要素と理論的要素の両方を含み、それはまぎれもなく知識への貢献
3:モード1では制度的な経路を通じて成果が伝達されるが、モード2では成果は参加者が参加している最中に伝えられる
4:ダイナミックであり、流動的な問題解決能力
<序章>

☆本書の核心は、供給サイドにおける潜在的な知識生産者の拡大と、
需要サイドの専門知識に対する要求の拡大が同時並行的に起こっていることが、
知的生産の新しいモードの出現の条件を生み出しているということ
<序章>

○モード2はコミュニケーションが決定的に重要
→知識を利用するためには知識生産に参加しなければならない
<序章>

☆科学は動的にいつも複雑で変化に富んだプロセスで社会を形成したり、また社会いよって逆に科学が形作られたりしている
→科学が取り組む可能性のある問題の幅は際限なく大きく、それゆえ研究課題は純粋に知的な言葉では理解しえない
<第一章 知識生産の進化>

○科学は、技術的な規範と社会規範との緊密な相互作用を含む高度に構造化された一連の活動
<第一章 知識生産の進化>

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2006 3/6
科学哲学、技術社会論、研究様式論
まろまろヒット率3

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『質的研究入門―「人間の科学」のための方法論』 ウヴェ・フリック著、小田博志・春日常・山本則子・宮地尚子訳 春秋社 200209.18.05


この前も「”まろまろ”さんのブログによく出てくる”らぶナベ”さんってどんな人ですか?」と聞かれた、
らぶナベ=まろまろ記ブロガーです(>_< )

さて、『質的研究入門―「人間の科学」のための方法論』
ウヴェ・フリック著、小田博志・春日常・山本則子・宮地尚子訳(春秋社)2002。

質的な研究の方法論を網羅的に解説している概要書。
代表的な質的研究アプローチのほぼすべてが取り上げられていて、
それぞれの一長一短まで踏み込んで解説、比較しているのがすごい。
質的な研究分野は全体を見通す概要書がほとんど無いこともあって、
まさに質的方法論の決定版と言っていい一冊。

また、日本語版は独自に日本の質的研究の歴史解説と用語説明もついている。
用語説明は訳語の対立点が解説されているので質的研究の簡単なレビューとしても読めるし、
訳者が原著との出会いについて語っている解説部分は、人柄がかいま見えて面白かった。
どのようなアプローチによってその結論が出てきたのか考える道具にもなるので、
特に研究目的でなくても、質的な資料を読む際にも参考になる本でもある。
僕が起案をつくった佐倉研究室必読文献2005年度版にも入れておいた、
この分野ではオススメの一冊。

ただ、一口に質的研究と言っても、その理論的背景と実際の方法論は多様なので、
入門という割には内容、分量ともに軽くは無いのが致し方ないところだろうか(^^;

ちなみにこの本は2005年度学際情報学府:社会情報学研究法1「メディア研究調査法」のテキストでもある。
(担当教員:花田達郎教授&林香里助教授)
さすが公共圏、まろまろ圏も思わず納得(^_-)

以下はチェックした箇所・・・

○質的研究の背景=
口述されるものへの回帰、特殊なものへの回帰、地域的なものへの回帰、時間的なものへの回帰(Toulmin 1990)
<第1章 質的研究とは何か―その意義、歴史、特徴>

☆質的研究の特徴
・研究対象に対する方法と理論の適切性
・研究対象者の視点とその多様性
・研究者による自己と研究に関する反省
・アプローチと方法の多様性
・認識的原則としての理解
・出発点としての事例の再構成
・基礎としての現実の構築
・実証的資料としてのテクスト
<第2章 理論的立場>

☆個別の事例から抽象的な理論へと一般かしていくためのステップ・・・
1:どの程度の一般化が目指されるのか、また達成可能なのかの明確化
 →一般化の要求レベルを押さえておく
2:現象が埋め込まれた事例や文脈を慎重に統合する
 →研究結果の一般化はサンプリング方法によって決まることが多い
3:得られた材料を系統的に比較する
 →グラウンデッド・セオリー法の継続的比較の方法(the constant comparative method)など
<第18章 質的研究の基礎づけと評価基準>

○質的方法と量的方法とは対立するものとしてよりも相補敵なものとして見られるべき(Jick 1983)
<第21章 量的研究と質的研究>

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2005 9/18
研究方法論、学問一般
まろまろヒット率4

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『理科系の作文技術』 木下是雄著 中公新書 198109.04.04


らぶナベ@まろまろ名刺ver.2が完成しました。
(何かの機会でオフラインでお会いした方にはお渡しますね)

さて、『理科系の作文技術』木下是雄著(中公新書)1981年初版。

佐倉統助教授から必読書として紹介された理科系の作文指南書。
20年以上にわたって読み続けられている理科系の定番本で、
研究室のだいぶ上の先輩も学部の頃に必読書として読んだらしい。
前に法学系や人文系、社会科学系の作文本はいくつか読んでいたが、
理科系の作文本は初めてだったので楽しみに読始めた本。

読んでみると他の分野の本に比べても「はっきりと言い切る姿勢」や
「事実と意見の明確な区別」について繰り返し強調しているのが印象深かった。
この二つは勇気のいることだし題材によっては難しいこともある。
(僕が興味がある領域は特にそういう側面が大きい)
でも、だからこそできるかぎり事実と意見を分けて、
はっきりと言い切ることを意識して書く必要があるんだろう。
そのことが述べられているこの本の6~8章はそういう意味でも重要。

ちなみに後半は講演のコツ(11章)などもあって読み物としても面白い。
歯切れ良く聞こえるために「語尾をはっきり言う」ということも書かれていたが、
僕は会話でもカラオケでも語尾で音量が少なくなる傾向があるので、
気をつけたいとあらためて思った。

そんなこんなで理科系に限らず何かを書く人には一読の価値のある本。

以下はチェックした箇所(要約含む)・・・

○理科系の仕事の文書の特徴=内容は事実と意見に限られる
→心情的要素は含まない

☆理科系の文書を書くときの心得
=内容の精選、事実と意見の区別、記述の順序、明快・簡潔な文章
→「やわらかさ」を配慮するために「あいまいさ」が導入されることを嫌う
<1. 序章>

○その研究の価値と成功の可能性とに対する判断の資料を提供するのが申請書の役割
→書こうとする文書に与えられた特定の課題を十分に認識してかかる必要がある
<2. 準備作業(立案)>

☆自分で主題をえらべる場合にはできる限り自分自身が直接当たった生の情報と、
それについての自分自身の考えに重点を置くべき
→これらはたとえ不備や未熟であったとしてもオリジナリティーという無比の強みがある
(紙で得た知識はいかに巧みにまとめてみたところで所詮は二番煎じ)
<2. 準備作業(立案)>

☆序論の役割
(a)読者が本論を読むべきか否かを敏速・的確に判断するための材料を示す
(b)本論にかかる前に必要な予備知識を読者に提供する
<3. 文章の組立て>

☆論文は読者に向けて書くべきもので著者の思いをみたすために書くものではない
→特に序論では著者が迷い歩いた跡などは露いささかも表に出すべきではない
<5. 文の構造と文章の流れ>

☆不自然に思えても、できる限り明確で断定的な言い方をすべき
(見解に保留条件がある場合にはそれを明瞭に述べるべき)
→仕事の文書で何事かを書くのは”state”すること
<6. はっきり言い切る姿勢>

○理論と法則の違い
・理論(theory)=証明になりそうな事実が相当あるが、
 まだ万人にそれを容認させる域には達してない仮説
・法則(law)=すべての人が容認せざるを得ないほど十分な根拠のあるもの
<7. 事実と意見>

○事実の記述は真偽の二価(two-valued)、意見の記述は多価(multi-valued)
<7. 事実と意見>

☆事実記述の際の注意点
(a)その文書の中で書く必要性を十分に吟味せよ
(b)ぼかした表現に逃げずにできるだけ明確に書け
(c)名詞+動詞で書き、主観に依存する修飾語を混同させるな
→一般的<特定的、漠然<明確、抽象的<具体的なほど価値が高い
<7. 事実と意見>

☆事実と意見の書き分けのコツ
(a)事実と意見どちらを書いているのかを常に意識して、
 書いた後で逆にとられる心配はないかと読み返す
(b)事実の記述に意見を混入させないようにする
→意見の根拠になっている事実だけを具体的かつ正確に記述し、
 後は読者自身の考察にまかせるのがいちばん強い主張法
<7. 事実と意見>

☆書くべきことが頭にびっしり詰まっている状態から
書き出す際の流れのコントロール方法・・・
(a)書きたいことを一つ一つ短い文にまとめる
(b)それらを論理的にきちっとつなぐ(つなぎ言葉に注意)
(c)「その文の中では何が主語か」をはっきり意識して書く
<8. わかりやすく簡潔な表現>

☆歯切れがいいと言われる講演のコツ
(a)事実または論理をきちっと積み上げて話の筋道が明瞭
(b)無用のぼかし言葉がない
(c)発音が明瞭(特に語尾)
→注意を惹きたい場合は大きな声ではなく
 ちょっと黙って聴衆の注意を引き出す
<11. 学会講演の要領>

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2004 9/4
作文指南、学問一般、理科系
まろまろヒット率4

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『暗黙知の次元』 マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳 ちくま学芸文庫 2003(原著1966)05.23.04


実はハンガリーってすごいんじゃないかと思いはじめてる、らぶナベ@天才多い?

さて、『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー著、高橋勇夫訳
(ちくま学芸文庫)2003年初版(原著1966年初版)。
「言葉にできない知がある」として暗黙知を打ち出した本として有名な一冊。

もともと言葉にできないものを言葉にしようとしているので
やっぱり読みずらいところや突っ込みどころはかなりあるけれど、
よくある言いっぱなしじゃなく、神秘主義に走っているわけでもなくて読み応えがある。
おかげでそれまでは「そんなこと言っても始まらない」と言われていた、
コツやカンなどを議論の場で話せるようになった功績は大きいとされている。
(僕が関心を持っているいまの”雰囲気”もそう?)

また、なぜか読みづらい本にありがちな嫌な感じは別にしなかった。
たぶん訳者も書いているように、初版当時隆盛だった共産主義でも実存主義でもなく、
(人間に対して悲観的ではなく)その隠れた可能性を信じる彼の姿が垣間見れるからだろう。

実はこの本は今年からできた佐倉研究室指定必読書の僕の担当文献。
リストアップ案(まろまろ原案)を出した人間として、
リストの中で一番読みにくい&一番発表しにくいものを選ぶべきだろうと読んでみた。
暗黙知という言葉やこの本については経営学や組織論を学んだ時に
よく出てきたのでペラ読みはしたことはあったけど、
まさかこんな機会に通読するとは思わなかった。
人生って不思議ですな。

ちなみに著者は邦訳だとマイケル・ポラニーとも書かれることがあるけど、
ハンガリー発音だとポラーニ・ミハーイというらしい(Michael Polanyi)。
お兄さんは経済人類学者のカール・ポランニー(『大転換』、『経済の文明史』)。
こんなすごい親や叔父がいると子供はプレッシャーかかるだろうって思ってたら
著者の子供、ジョン・ポランニーは1986年にノーベル化学賞受賞、冗談みたいな一家だ。
おそるべしマジャール!&同じアジア系としてちょっと親近感(^^)

以下はチェックした箇所・・・

○暗黙知の構造によれば、すべての思考には、その思考の焦点たる対象の中に
私がちが従属的に感知する、諸要素が含まれている
→しかも、すべからく思考は、あたかもそれらが自分の体の一部ででもあるかのように、
 その従属的諸要素の中に内在化(dwell in)していくものなのだ
<序文>

○私たちのメッセージは、言葉で伝えることのできないものを、あとに残す
それがきちんと伝わるかどうかは、受け手が、
言葉として伝え得なかった内容を発見できるかどうかにかかっている
<第1章 暗黙知>

☆第一条件について知っているとは、ただ第二条件に注意を払った結果として、
第一条件について感知した内容を信じているのにすぎない
<第1章 暗黙知>

☆暗黙地の特徴・・・
・機能的構造(functional structure)
=暗黙知が機能しているとき、私たちは何か別のもの「に向かって」注意を払うために、
 あるもの「から注意を向ける」(attend from)

・現象的構造(phenominal structure)
=A(近位項)からB(遠位項)に「向かって」注意を移し、Bの様相の中にAを感知する

・意味論的側面(semantic aspect)
=すべからく意味とは「私たち自身から遠ざかって」いく傾向がある
(道具を使用して得られた出来栄えを介して、道具の感触が意味するものに注意を傾ける)

・存在論的側面(ontological aspect)
=暗黙的認識とは、二つの条件の間に意味深長な関係を樹立するものであり、
 したがってそうした二つの条件が相俟って構成する
 包括的存在(comprehensive entity)を理解すること
<第1章 暗黙知>

○ある人の精神はその活動を追体験することによってのみ理解されうる(ディルタイ)
<第1章 暗黙知>

○審美的鑑賞とは芸術作品の中に参入し、さらに創作者の精神に内在すること(リップス)
<第1章 暗黙知>

☆理論の内面化・・・
私たちは理論から、その理論の観点で見られた事物へと、注意を移動させ、
さらに、そうした具合に理論を活用しながら、
理論が説明しようと努めている事物の姿を介して、理論を感知している
→数学理論が自らを実際に応用することでしか修得されえないのはこのため
<第1章 暗黙知>

☆問題を考察するとは(略)まだ包括されていない
個々の諸要素に一貫性が存在することを、暗に認識すること
→独創性とは期待している包括の可能性を他の誰も見いだすことができないときのこと
<第1章 暗黙知>

☆包括的存在の安定性に機能する暗黙知・・・
1:包括的存在を制御する諸原理は、具体的な諸要素を
 それ自体として統治している諸規則に依拠して機能する
2:同時に諸要素をそれ自体として統治している諸規則は、諸要素が構成する、
 より高次の存在の組織原理の何たるかを明らかにするものではない
<第2章 創発>

○境界制御の原理(the principle of marginal control)
=上位レベルの組織原理によって下位レベルの諸要素に及ぼされるコントロール
<第2章 創発>

☆創発の過程
=より高位のレベルは下位のレベルでは明示されない過程を通してのみ出現できること
<第2章 創発>

☆ある論文の科学的価値=厳密性、体系的重要性、内在的興趣
<第3章 探求者たちの社会>

☆理論の不意の確証(surprising confirmations)
→発見は現行の知識が示唆する探求可能性によってもたらされる
<第3章 探求者たちの社会>

○可能性を論じる主張は確実性を論ずる主張と同様に個人的な判断を含んでいる
→結論とはそれに到達する人間の掛かり合い(commitment)を表現するもの
<第3章 探求者たちの社会>

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2004 5/23
暗黙知、哲学、組織論、認知科学、情報・メディア、心理学、学問一般
まろまろヒット率4

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『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』 佐藤郁哉著 新曜社 199210.31.03


マリノフスキーっておちゃめさんと思っている、らぶナベだす。

さて、『フィールドワーク-書を持って街へ出よう』佐藤郁哉著(新曜社)1992年初版。
対象との間合い(距離感)について考えていたら佐倉助教授から「名著だよ」と紹介された本。
著者は暴走族(『暴走族のエスノグラフィ』)や現代演劇(『現代演劇のフィールドワーク』)
へのフィールドワーク研究をしたことで有名な人。

内容は文字通りフィールドワークの概要や考え方について紹介している。
だからといってフィールドワーク至上主義というわけではなく、
サーベイとの対比をしながらそれぞれの一長一短を分析して
それぞれを補い合うよう提言している。
対象との距離感や社会調査法についてのことだけでなく、
仮説や概念のとらえ方についても議論しているので
こうしたことを全般的に通して考えるきっかけになる。

読み終わってからインターンシップで企業現場に飛び込んだり、
産学協同事業に携わったときにこの本を読んでいればとちょっと思ってしまった。
まぁまだ生きてるんだし、次は使えるさ。(自作自演な慰め)

ちなみにこの本の「書を持って街へ出よう」という副題は気に入った。
僕の場合なら「箱庭を持って広場へ出よう」という感じだろうか(^^)

以下はチェックした箇所(一部要約)・・・

○文化=知識・信仰・法律・風習、その他社会のメンバーとしての人間によって獲得された、
あらゆる能力や習慣を含む複合体の全体(エドワード・タイラー)
<カルチャー・ショック>

○フィールドワーク=文化的な子供時代の再現
→ただし子供のように白紙の状態からとは違い、
 既に身につけている自分の社会の文化を前提として
 調査地の文化を学んでいくのがフィールドワーカー
<カルチャー・ショック>

○「居心地の悪さ」を感じることこそ「文化」を知るための最良の方法
→フィールドワーカーは「プロの異人」
<カルチャー・ショック>

○エスノグラフィー=
 人類学者が異文化における日常生活を身近に観察し、記録し、
 それにみずから参加し、細部を丹念に記述しながら
 その文化についての話を書き上げる調査のプロセス(Marcus&Fischer, 1986)
→文学と科学の二つのジャンルにまたがる性格をもつ文章であり、
 また、そうした文章を作るための調査法でもある
<民族誌>

☆フィールドワークとサーベイ
・フィールドワーク→定性的(質的)調査=
 限られた範囲の対象について多様な事柄を調べられる
・サーベイ→定量的(量的)調査=
 広範囲の対象に限定された事柄を調べられる
→一般的にフィールドワーカーvsナンバークランチャーの対立と言われるものは
 この二つのアプローチの違いが原因
<アンケート・サーベイ>

☆サーベイとフィールドワークは対立する二つの方法ではなくて、
本来補い合うべきアプローチ(それぞれの違いは質的ではなく程度の問題)
<事例研究>
→派閥争いではなくトライアンギュレーション(マルチメソッド)でおこなうべき
<トライアンギュレーション>
→複数のモデルを使うのは目的地にたどり着くために何枚かの地図を使うプロセスと同じ
<モノグラフ>

☆信頼性と妥当性の区別が必要=その調査方法が信頼性があっても
 その事柄への妥当性があるとはいえない
<信頼性と妥当性>

○統計データの多くは過去におこなわれたサーベイという
 干渉的な調査結果であることを忘れてはいけない(Maier, 1991)
<トライアンギュレーション>

☆理論の検証(verification)=グランドセオリー(総合理論)と、
理論の発見(discovery)、理論の生成(generation)=グラウンディッド・セオリー
(データ密着型理論)を併用して、理論の生成と理論の検証の双方をめざすべき
<理論の検証と理論の生成>

☆恥知らずに折衷主義=
 その社会に含まれる矛盾や非一貫性をすぐ単純化や抽象化するのではなく、
 (抽象度が高いものはほとんど何でもいえてしまう危険がある)
 ひとつの方法だけではとらえられない事柄は別の方法を使うという姿勢
 (Suttles, 1976)
<恥知らずの折衷主義>

○操作主義(操作的定義の概念)=
操作の手続きで概念を定義することによって、客観化を目指すこと
 →限定概念(definitive concept)と批判される
これに対して感受概念(sensitizing concept)=
研究のはじめに大まかな方向性(問題を検証する手がかりとなる感受の方向)を示す概念
 →調査が進むにつれて概念規定そのものを練り上げていく柔軟性あり
<概念>

○仮説=すでにある程度わかっていることを土台にして、
 まだよく分かっていないことについて実際に調べて明らかにするための見通し
<仮説>

○外国語の翻訳と同じように、ある行為の意味を明らかにするためには、
 その行為が埋め込まれている社会生活の全体の文脈をあきらかにする必要がある
<分厚い記述>

○参与観察(participant observation)=
1:社会生活への参加、2:対象社会の生活の直接観察、
3:社会生活に関する聞き取り、4:文書資料や文物の収集と分析、
5:出来事や物事に関する感想や意味づけのついてのインタビュー
<参与観察>

○インフォーマントとは「客観性を失わないラポール」
(rapport combined with objectivity)が重要
 →ここにフィールドワーカーだけが明らかにできるものがある
<インフォーマント>

○遂行面での知と批評的理解の知とは同じ性質の能力や知識ではない(Ryle, 1949)
<第三の視点>

☆時期尚早のコーディングの誘惑=
 枠組みがあまり早い時期に固まるとその枠組みからはみ出した事柄は
 観測や資料収集できなくなるおそれがあること

・それを防ぐ方法=
1:一般理論や他のフィールドワーカーが書いた民族誌の内容とつきあわせて、
 調査の枠組みの位置づけを検討、確認する作業を怠らないこと
 (理論的な前提に関して視野を狭めないようにする)
2:調査項目に関する網羅的なチェック・リストを作る
 (調べる事柄にバラツキがないかを常にチェックする)
3:網羅的なフィールドノーツをつける
 (ある段階で出来た枠組みにとって都合の悪いデータも記録するように自分にしむける)
4:データの分類だけでなく配列を考える
 (一般的な基準で配列すれば都合の都合の善し悪しに関わらず一緒にリストアップ)
→現場が新しい発想を発見することができる宝庫だとしたら、
分類と配列はその宝庫の扉を開いて価値を何倍にも拡大するカギ
<分類と配列>

☆フィールドワーカーを調査の対象となる社会や文化を計る計測器にたとえれば、
日誌はその機械自体のコンディションをチェックするモニタリング装置
 →日記は自分の置かれた環境の状態を測るだけでなく、
 自分自身のフィールド体験による変容をとらえることができる装置
<フィールド日記・フィールド日誌>

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2003 10/31
学問一般、フィールドワーク、社会調査法、社会学、人類学
まろまろヒット率4

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