Archive for the ‘まろまろコラム’


好きと危険~結婚するなら何番目?~09.14.03

「結婚するなら二番目に好きな人としろ」という人生訓があるらしい。
一番好きな相手には色々な意味でいっぱいいっぱいになって余裕がなくなり、
うまくいかなくなることが多いからだからだそうだ。
至極もっともなことだと思う。
このことは対人関係だけでなく、すべての物事についても言えるのだろう。
思い入れが強すぎると往々にしてうまくいかないことが多いし、
何よりも失敗したときのダメージが大きい。
「趣味を仕事にしてはいけない」という教訓もそのひとつだろう。

その一方で、たとえ二番目に好きな相手でもうまくいかないこともあるし、
駄目だったときはどうせ傷つくんだから、
時間とエネルギーを一番好きな相手や物事に注入すべきだという意見もある。

どちらが正しいかはその人の中での優先順位や対象ごとに
その時々で変わってくるものだろうけど、
その相手や物事を選ぶか選ばないかということ以前に、
いっぱいいっぱいになるくらい好きになってしまうほど、
駄目になったときダメージを恐れるほどの相手や物事と出会えるということは
実はかなり幸せなことなんじゃないだろうか。

その相手や物事に没頭することが良いことかどうかはその時々によって違う。
でも、もし選んだなら駄目だったときのダメージのことも受け入れる、
たとえ選ばなくてもそれほどまでに思えるものはどこかで大事にし続ける。
そういう気持ちをどこかで持ち続けることが大切なのかもしれない。

そしていま、それほどまでに没頭できる相手や物事がなくても、
いつ現れるのか期待して&ビクビクして待つ。
好きと危険だけで人生はお腹いっぱいになれる。
好きと危険は人生というごはんのメインディッシュのようだ(^^)

2003 9/14
まろまろコラム
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読書日記の日記~メモのメモ~07.03.03

『メモのメモ』を読んだ人から「読書日記はどう考えてるの?」という質問が寄せられたので
今回はメモの中でも特に読書日記に焦点を当てたコラム。

最初に自分が読書日記を残すことになったきっかけから書くと、
メモを残さないと「もったいない」と感じたからだ。
(かなり不純な動機だす)

本を読んでいると、読書という行為=文字から音や映像を再現するというのは、
音楽を聴いたり映像を観るよりもエネルギーと時間が必要なんだなぁと感じることがある。
特に自分は集中力が散漫な方なので、一冊の本を読みきるまでに手間と隙がかかってしまう。

そうやって苦労して読んだ本なのに、読んだ次の週くらいからもう、
「あの台詞はどの本にあったっけ?」とか「この本は読み終えたんだっけ?」などと
本棚をひっくり返す経験を何度も繰り返していた。
さらに、本は物(ハードウェア)なので、無くしたり、人に貸したり、引越したり、
様々な理由から物理的に手元から消えてしまうことがある。

そんなときでもタイトルと著者と出版社、読み終えた日時(引用するなら出版年もあるとグゥ)、
そして読んだ時の心のひっかかりさえ残しておけば、
たとえ忘れたり、本を無くしたりしても、それほど右往左往しなくてもよくなる。
メモとしての読書日記を読み返せば内容は思い出すし、手元にない本でも引用できる。
特に人は頭の構造からして「記憶しよう」、「忘れないようにしよう」と思っても
すっかり忘れてしまう(いやん)ということがよく起こるので、
思い出すきっかけになるこの読書日記の効果は絶大なものだ。
読書日記を書き残す労力はたいへんだろうと思われることもあるけれど、
読書日記をつけると安心して忘れられるので、逆に読書に集中できるようになった。
(この「まろまろ読書日記」で一番得をしている読者は自分自身だったりする)

そして、読書日記を残すようになって気づいたことがある。
読書で一番大切なもの、それは物としての本ではなく
その本を読んで感じた自分の気持ちだということだ。
その本に書かれてある文字ではなく、その文字を通して感じた自分独自の気持ち、
それこそが本当の意味での「コンテンツ」だと思う。
本に書かれた文字は印刷物なのでたとえ手元から無くしたとしてもいくらでも手に入るけど、
読んだとき、そのときの自分の気持ちは一度無くすともう手に入らない。
もちろん意識の底に残ったり何らかのかたちで影響を残すものだけど、
まったくゼロから思い出した気持ちの記憶は、
それ自体がかなり変わっている可能性が高かったりする。

読書日記はその本を読み終えたときの自分の気持ちを再現できる。
時にはそれがすごく恥ずかしいことだけど(メモのメモ)、
自分の気持ちを再現できるのは自分で残したメモしかない。

そんなこんなで今日も読書日記や出来事メモを書き残している。
名前は残ってないけど文字を作った人たちは偉大だ。

☆掲示板での話題はこちら

2003 7/3
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メモのメモ~憎いけど憎めない~01.22.03

ときどきメモを取ることについての質問が寄せられるので今回はメモのコラム。
前に書いた「本の読み方」と同じようにこのテーマも100人いれば100通りの
やり方や捉え方があると思うのであくまで個人的なメモのメモとして・・・

岐路にたったり迷ったりしたとき、振り返ったり考えたりするときに、
自分自身についての一番重要で一番信頼ができるメディアがメモだと思う。
後で思い返して自分でも笑ってしまうことがあるけれど、
そのときは一生懸命考えているつもりで実は何も考えていなかったり、
気分だけで盛り上がったり盛り下がったりして消耗することってけっこう多い。
そんなときにかつて書き残したメモを読んでみる。
すると、「あれ?こんなに意識低かったかな」とか
「こういうことを見落としてたんだ」とか、
「こんなことしか考えてなかったのか」とかなど、
考える土台になる自分についての発見ができる。
人は内省的になると過小評価か過大評価しかできないものらしくて、
自分を見失って右往左往してしまうこともあるけれど、
メモを読み返すと自分という前提をもう一度地に足をつけてスタートすることができる。

もちろんメモを読み返すというのは録音した自分の声を聴く以上に恥ずかしいことだ。
かくいう自分も「なかったことにしたい」と思うメモはいくらでもある。
でも、恥ずかしいと思うということはそれだけ自分が変化している証でもある。
そういうメモを書き残したときと読みなおすときの「温度差」が、
成長だったり分析だったりするのだろう。
気分に左右されて書き残したメモをまた違う気分の時に読み返す。
その温度差を感じることができるなら、それはもう立派な「客観的メディア」だ。

よく岐路にたつと「変わったほうがいいのか、変わらないほうがいいのか」
というテーマで迷うことがある。
でも、実は変わったようで変わっていないことや、
逆に変わっていないようで変わっているということがけっこうあるものだ。
自分のどこがどれだけ変わったのか、どこが変わっていないのかを
把握するメディアがあれば変わっても変わらなくても必要以上におそれることはない。

そういう風に使うメモだから実際にメモを書き残すときも、
断片的だろうが片手落ちだろうが関係ない。
気持ちや考えはしょせん言葉でも絵でも音でも映像でも100%は残せないんだから
そのときの自分のこころのひっかかりさえ残すことができるなら、
それは立派な自分自身のメディアだ。

メモ、これほど恥ずかしいものはなかなかないけれど、
これほど重要なメディアもなかなかない。
愛憎相半ばする人生の相棒かもしれない。

2003 1/22
まろまろコラム
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