Archive for the ‘まろまろコラム’







メモのメモ~憎いけど憎めない~01.22.03


ときどきメモを取ることについての質問が寄せられるので今回はメモのコラム。
前に書いた「本の読み方」と同じようにこのテーマも100人いれば100通りの
やり方や捉え方があると思うのであくまで個人的なメモのメモとして・・・

岐路にたったり迷ったりしたとき、振り返ったり考えたりするときに、
自分自身についての一番重要で一番信頼ができるメディアがメモだと思う。
後で思い返して自分でも笑ってしまうことがあるけれど、
そのときは一生懸命考えているつもりで実は何も考えていなかったり、
気分だけで盛り上がったり盛り下がったりして消耗することってけっこう多い。
そんなときにかつて書き残したメモを読んでみる。
すると、「あれ?こんなに意識低かったかな」とか
「こういうことを見落としてたんだ」とか、
「こんなことしか考えてなかったのか」とかなど、
考える土台になる自分についての発見ができる。
人は内省的になると過小評価か過大評価しかできないものらしくて、
自分を見失って右往左往してしまうこともあるけれど、
メモを読み返すと自分という前提をもう一度地に足をつけてスタートすることができる。

もちろんメモを読み返すというのは録音した自分の声を聴く以上に恥ずかしいことだ。
かくいう自分も「なかったことにしたい」と思うメモはいくらでもある。
でも、恥ずかしいと思うということはそれだけ自分が変化している証でもある。
そういうメモを書き残したときと読みなおすときの「温度差」が、
成長だったり分析だったりするのだろう。
気分に左右されて書き残したメモをまた違う気分の時に読み返す。
その温度差を感じることができるなら、それはもう立派な「客観的メディア」だ。

よく岐路にたつと「変わったほうがいいのか、変わらないほうがいいのか」
というテーマで迷うことがある。
でも、実は変わったようで変わっていないことや、
逆に変わっていないようで変わっているということがけっこうあるものだ。
自分のどこがどれだけ変わったのか、どこが変わっていないのかを
把握するメディアがあれば変わっても変わらなくても必要以上におそれることはない。

そういう風に使うメモだから実際にメモを書き残すときも、
断片的だろうが不十分だろうが関係ない。
気持ちや考えはしょせん言葉でも絵でも音でも映像でも100%は残せないんだから
そのときの自分のこころのひっかかりさえ残すことができるなら、
それは立派な自分自身のメディアだ。

メモ、これほど恥ずかしいものはなかなかないけれど、
これほど重要なメディアもなかなかない。
愛憎相半ばする人生の相棒かもしれない。

2003 1/22
まろまろコラム

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理論と感情論~頭と心はちょこっと差異~12.04.02


「人っておもしろいなぁ」といういきなりありふれた感想からはじめると、
理屈を嫌っている人ほど妙に理屈っぽかったり、
感情論を軽視して理論を重視する人ほど感情的だったりするのを垣間見ることがある。
その中の代表例は、もちろん自分だ(^^)

「そんな理屈で割り切れないのが気持ちや人間関係で・・・」
とか言っているときは変に理屈っぽくなっているし、
「その点を感情論に左右されずに冷静に見ると・・・」
とか言っているときは変に感情的になっていることが多い。
書き残したメモを後で読み返してみると、
一方を否定してもう一方を強調しておきながら、
実は否定している方に無自覚にはまっている自分に気づいて
かなり恥ずかしingな気持ちになることがよくある。
(“出来事メモ“)

面白いことに法律に少しでも関わってみると、
「それは理屈だ」と言って理論では割り切れない心情を重視する意見とよく出会う。
でも、判例を読んでみると感情もひとたび口に出したり考えたりすれば、
それはもう立派な理屈になるということに気づかされる。
(読書日記の”法律関係カテゴリ”)

考えたり話したりするときに理論と感情を分けてスタートすることが多いけど
ホントにそんなにちゃんと分かれるものなのだろうか?
かつては理論と感情の両方のバランスを取るという意味の、
「熱い心と冷たい頭脳」という標語が大好きだったこともある。
でも、心と呼ぼうが頭と呼ぼうが神経科学や認知科学の視点からいえば
そもそも理論も感情もどちらも脳で扱う同じものだ。
(『マインドー認知科学入門』)

もちろんこの二つを分けた方がわかりやすかったり話が早いということはあるだろう。
でも、この二つの差をあくまで「例え」程度にとらえて、
絶対視しないことはけっこう重要かもしれない。
大切なのは「それは理屈だ」と言って考えることから逃げ出さず、
「感情論だ」と言って重要な要素を無視しないことなのだろう。
理論と感情、頭と心、蓋を開ければどちらも同じ。
たとえ違う点はあったとしてもそれは”ちょこっと差異”だけなのかもしれない。
(プッチモニの“ちょこっとLOVE”より)

2002 12/4
まろまろコラム

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本の読み方~シャーロックホームズ・プレイ~10.16.02


まろまろコラム第二段はご要望にお応えして「本の読み方」についてをばをば。

本を読むってことはそれ自体がすごく内向的な活動だと思う。
そもそも読書ライヴや読書上演会なんて見たことない・・・やれるならやりたいけど(^^;
内向的な活動は「好き嫌い」や「合う合わない」が大きく左右してくるものだし、
また、それだけで片付けていい話だと思う。
一冊の本を読む人が10人いれば10通りの読み方があるというのが、
読書の良さの一つなのだと感じているくらいだ。

ただ、あくまで自分の個人的なスタンスを書くと・・・

「どんな本でも推理小説のように読む」

・・・これに尽きると思う。

手軽な本でも学術書でも、良い本はその本のページ数を全部無駄なく使っている。
名作と呼ばれるような本はどれも途中に布石や伏線がちりばめられていて
読み終わったときにパズルを完成させたような達成感を感じさせてくれるもばかりだ。
だから途中で少々わからないところがあったり読みにくいなと感じることがあっても、
とりあえず最後まで読んでみるということが一番大切だと思う。
推理小説と同じでわからないところは最後まで読んで全体像をつかんでみて
はじめてわかるというような場合が多いからだ。

犯人やトリックがわからないからといって、推理小説を読むのを途中でやめるなんてもったいない。
『USUAL SUSPECTS』という名作サスペンス映画があるが、
この映画の最後の15分を観ずに「つまらない」と言っていた知り合いがいた。
彼の話を聞きながら「99%くらい面白さをわかってないじゃん」と
すごくもったい感じを受けたことがある。
(『評決のとき』の最終弁論のシーンを見逃すのも同じかな)
それと同じことを本でもしないようにと思っていつも本を手に取っている。
どんな本を読むときも自分は名探偵や名捜査官になったつもりで、
自分にとっては読書とはシャーロックホームズ・プレイだったりする(^^)

☆掲示板での話題はこちら

2002 10/15
まろまろコラム

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幸せの位置07.19.02


いいなプリンワールドカツ丼倶楽部など、
成功しているHPを見ていて「思い切りがいいな」と思う。
「プリンなんて・・・(HPにするほどのものじゃないという言い訳入る)」、
「カツ丼なんて・・・(一般受けしないなどの言い訳入る)」
・・・などという独りよがりなまとまりは一切ない。
スケールが小さいことを思い切りやるスケールの大きさまで感じる。
もしかしたら情報の最大の価値は知識でも教養でもなく感性の共鳴にあるかもしれない。

その情報というものは受け取る人それぞれにとってまったく意味が違うものなので、
自分以外に一人でも好きだという人がいれば、それだけで情報発信する価値がある。
そういうことをまろまろHP開設から一年たったいま、実感として感じる。
僕自身、「読書日記なんて・・・(知り合い以外誰も読まないだろうし)」と、
勝手に決めつけて長くMLの世界にとどまっていたからその思いは後悔とともに強い。
何よりも後悔させられるのは上に紹介したHPの管理者さん達は本当に楽しそうだということだ。
僕もまろまろHPを運営して大小の日々の目標と充実感を意識するこができている。
勝手に小さくまとまらずにもっと早くHPを開設していれば・・・。
「どうせ何かにぶつかって小さくなるんだから自分からわざわざ小さくなる必要はない」
・・・そんな言葉がふと浮かんできた。

きっと幸せになるには思い切りが必要なんだろう。
もしかしたら「幸せ」がある位置は「無難さ」がある位置とは離れているかもしれない。

2002 7/19
まろまろコラム、はしり書き、出来事メモ

サイト開設一周年を記念してコラム化

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