Archive for the ‘まろまろコラム’


コスプレとバランス~特命係長プレイ~10.10.08

近頃は特命係長プレイについて質問されることが多いので、今回はコスプレとバランスについて考えていることをコラムにて・・・

現在、もろもろの事情から、本業からの一時離脱を余儀なくされている。
不遇の時期と言われることもあるけれど、これを一つの機会ととらえて、合間合間に本格的な社会的コスプレをしている。
具体的に言うと、経歴詐称には当たらない範囲で可能な限り身元や経歴を伏せて働いている。
(日本ではワーキングネームも認められている)

仕事内容を耳にした知人や友人からは「なぜまろまろさんがそんな仕事をするんです!」と驚かれることもある。
中にはありがたいことに(?)積極的に別の仕事を紹介しようとしてくれる人もいたりする。
確かにこれまでの自分のタイプやキャラに合わないことかもしれないけれど、今では次の業務を待ち遠しく思えるほど楽しみに感じている。
そこにはもう一人の違う自分がいて、こうしてコラムを書いている自分と対比できるようになるからだ。

特命係長、必殺仕事人、遠山の金さん、水戸黄門、忠臣蔵などなど・・・
思えば自分は昔から昼と夜との顔が違う設定にあこがれを持っていた。
昼と夜との顔が違う人たちへの憧れは、自分が過度の照れ屋だということに起因している。
照れとは社会的なギャップに対するコンプレックス※1のことで、とっさにバランスを取ろうとする心の衝動であるらしい。

身元や経歴、もちろんこのWebサイトを伏せて社会と関わる時、誰も自分のことを天才やカリスマと呼ぶ人はいない。
「何とかと天才は紙一重」という言葉があるくらいだから、天才と呼ばれることはまだ許容できる。
でも、カリスマと呼ばれることは受け入れられず、これまでそう言われる度に右往左往していた。

もちろん、自分はピコピコしい小さい人間だから、自分のやったことや残したものを賞賛されるのは大好きだ。
でも、自分の表現したものに対する賞賛が自分自身に向けられた途端、耐えられないほどのプレッシャーを感じた。
自分に敬意を寄せてくれる人の前では積極的にダメな人間を演じて、無理やりにでも幻想を壊すこともよくやってきた。
(本来の姿を見せているだけということもあるかもw)

人は蔑まれれば蔑まれるほどそれに反発する気持ちが高まるのと同じように、逆に賞賛されればされるほど反発したい気持ちが高まるものだ。
物理現象のように心も作用と反作用の関係があるものだけど、照れ屋はそうした反作用の力が強い人間のことを言うのだと思う。

そうした照れ屋の自分にとって、かつてはネット(Web)が別の顔を持てる場所だった。
だからミステリアスで危険な男を目指して、リアルな部分とのリンクはできるだけ絶ってきた。
でも、時代の要請もあって次第にその差は縮まっていき、今ではネットとリアルな自分とはほぼ完全にリンクしている。
徐々に、そして確実に、ネットは別の顔を持つ場所ではなくなっていった。
それと同時に自分はバランス感覚を欠いていった面があったのではないだろうかと考えている。
(去年、不調だったのは原因の一つはバランス感覚の欠如もあったのではないかとも感じている※2)

また、「自分を客観視する」とか「自分を突き放して見てみる」とかという言葉がある。
でも、自分を突き放して見ることのできる人がいるのだろうか。
現に他人に「自分を見つめろ」としたり顔で言う人に限って自分を見失っている場合が多い。

あえていえば、自分の一部を自分の外に出して多くの人の目の前に晒してみることが一つの方法かもしれない※3。
そして自分を突き放して見てみるもう一つの方法が、まったく違う社会的な関係を持つことだろう。
人間とはその半分、または半分以上を社会的関係によってつくられるものだから、別の社会関係の中では自然と別の自分を生み出すことができる。
別の環境での自分自身を鏡にすれば、見たくなくても目についてしまう点がいくらでも出てくる。

振り返ってみれば自分は高校生の頃から、さまざまな世代の人が集まる場所、あまり十代の人間が関わりそうにない場所に通っていた。
また、今でも本業とは別の副業や別の世界を持っている人との相性が良い。
そうした人たちに共通して感じるのは、自分を客観視する視点とバランス感覚だ。
自分に関してみても、京都の大学で産学協同事業の代表をしながら東京の内定先企業で働いていた時には、
上司から「京都の仕事のストレス解消のために東京に仕事しに来てるだろ(w」とよく上司から揶揄されたものだ。

思うに、心や体のバランスを崩す人はバランスを取るための場所や機会が無い人なのではないだろうか。
社会的コスプレはある意味で心理療法に近いものがあるように感じている。
Webサイトを創っていくことは自分にとっては広場で箱庭療法をするようなものだけれど※4、身元を隠して働くのは演劇療法をするようなものだ。

社会的コスプレは、心のバランスを取りながら、自分を客観視する視点を得られる。
これからどのような立場になっても、違う立場でいられる機会を生活の中に組み入れていきたい。

・・・・っというわけで、まろみあんの人が社会的コスプレをしている僕を見かけても、声かけはこっそりとお願いします(w

※1:『コンプレックス』 (河合隼雄)

※2:当時は「バランス感覚とは足踏みの別名だから、前に踏み出す時には邪魔になる」と考えていた。
今でもバランス感覚に優れている、と言われるのは、創造性の無い後ろ向きな人間、と言われているように感じる面もある。
バランス力と前進力との関係についてはまたあらためて考えてゆきたい。

※3:まろまろコラム『メモのメモ』

※4:まろまろコラム『広場の箱庭師』

2008 10/10
まろまろコラム

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エロい経験12.31.07

まろまろ@今日は大晦日、今年もいよいよ暮れていきますな。

思えば今年はいままでにない経験をした年でした。
でも、僕は経験という言葉が好きではありません。
そういう趣旨のことを発言すると「なぜまろまろさんが!」と意外に思われたり驚かれたりすることが多いので、
2007年最後の日は経験についての僕の考えをコラムにしてお送りします(^_-)

では、ここから・・・

自分の経験をことさら持ち出す人に尊敬できる人はほとんどいない。
かと言って別に経験至上主義を敵視している訳ではないし、経験すること自体を軽視しているわけではない。
狭い範囲の小さな経験しか無いのに、ことさらそれを口にする人はある意味で可愛げを感じてしまうほどだ。
そういう人は自分が経験したことはちょっとしか触れたことが無いものでも高言するのに、
新しい状況や分野には必要以上にビクビクする姿をよく見かける。
それは弱い相手には徹底的に強く、強い相手には徹底的に弱い小役人を観ているようで、
痛いものコレクターとしてはある意味で微笑ましい。

確かに、自分自身の経験がもたらすインパクトは、まず何にも増して強烈なものがある。
さらに思い出として美化されるので、甘美な味わいをもたらす。
経験は強烈で甘美、一言で言えばエロティックなものと言える。
取り立ててエロい経験である必要はない、経験とはすべてエロいものだ。

たとえば自分の経験はどういう状況なら当てはまるのかを精査せずに振りかざすことは、
シチュエーションも相手も違うのに自分の性癖を押し通すのと同じことだ。
そういう人は自分の経験のエロティックな感覚に酔ってしまって、相手もまわりも見えなくなってしまっている。

もちろん、経験の持つエロティックな感覚それ自体は悪いことではないし、一人でかみしめればいい。
ただ、エロティックな感覚に眼を曇らせて独りよがりになってしまっては、その経験の持つ有効さを削ってしまうことになる。
もしその経験が有効なら、エロティックな感覚に引きずられずにその有効さを抽出しなければならない。
そうすれば、その経験は自分だけが愉しめるエロティックなおかずではなく、輝いたものになる。

ここで自分を振り返ってみれば、2007年は本当に良いことが無い年だった。
軽く列挙すると・・・
選挙に落ちる
・株で巨大な損切り
・父が左遷、母の勤務先が倒産、祖母が認知症になって要介護化という家族の動揺
・maromaro.comが一時期、閲覧不可能になる
・・・などなど。
苦い経験ほど、時間がたつにつれて甘く醸成されてゆく。
だからこうした経験は僕の中でこれからエロティックで甘美なものになってゆくのだろう。

そのエロティックな側面を愉しむことはあっても、快楽に眼を曇らせずに体験の有効さを抽出してゆきたい。
「いい経験だった」というセリフは、そのエロティックさを独りで愉しむだけではなく、
有効さを抽出した時にはじめて言えるセリフだから。

2007 12/31
まろまろコラム

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ノリシ論~ツナガリとノリシロ~07.19.06

今日でサイト開設5周年な、まろまろ@これもまろみあんの方々のご愛好のたまものです(^_^)v

振り返ると2001年7月19日のまろまろ記(当時はまろまろ読書日記)の開設当初から、
人的なネットワークやネットワーキングについての意見を求められることが増えました。
こういう話は生々しさや上から目線な感じが目立ってしまうことがあるので、
これまで自分から積極的に意見を表明することは避けてきました。
ただ、特にソーシャルネットワーキング・サーヴィス(SNS)やblogが台頭した
2004年くらいからは頻繁に意見を求められる機会が増えたので、
今回は5周年記念ということでネットワーキングについての考えをコラム化してみます。

では、ここから・・・

最初に好みの話をすると、そもそも僕は「人脈」や「ネットワーク」という言葉は好きじゃない。
そういう言葉をよく口に出している人たちとも、あまり仲良くなれないことがある。
こういう好みを言うと、「ネットワーキング名手のまろまろさんがなぜそんな風に思うんですか!?」と驚かれることが多い。
確かに「人生いつでも出会い系」(by西行法師プレイ)を標榜しているだけに、こういう趣向は不思議に思われても仕方ないかもしれない。
一見、矛盾しているように見えるこの好みの話は、実は僕のネットワークに対する考えから来ている。

ネットワークとは、日本語で平たく言えば「ツナガリ」だと思う。ネットワーキングは、「ツナガルコト」ですな。
ツナガルためには、まず第一に接着するためのノリシロが必要になる。
そのためのノリシロとは何かといえば、それは自分の中にあるものを外に出したものだ。
自分の中にある気持ち、経験、知識などを外部化させたもの、それがその人のノリシロになる。
自分のノリシロとは、別の言い方をすれば、自分の内にあるものを情報発信したものであり、
自分メディアということが言えるかもしれない。
(興味ある人は※)

だから「ネットワークづくりのために何をすればいいですか?」と聞かれれば、
僕はいつも「自分のノリシロを外に出すこと」だと応えている。
ノリシロのないツナガリはありえないから。
そして自分のノリシロを外に出していれば、自然とネットワークは広がっていく。

・・・っと言ってもノリシロを外に出すことは、もちろんリスクがある。
ノリシロを外に出していたら、変なものがくっついてしまうリスクはあるし、
自分の底の浅さを笑われて恥をかくこともあるかもしれない。
(かく言う僕もよく恥をかく(^^;)
ノリシロを外に出すことは、時間もエネルギーもかかるし、
何よりも勇気が要るということは僕もよく実感していることだ。

でも、ノリシロを外に出しながら、変なものがくっつかないように模索することは、
自分の内にあるものと外の状況との関係を見つめる機会になる。
恥をかくことも、自分を見つめて成長する上で欠かせない要素だ。
思えばノリシロを出すことのリスクは、出会いには避けて通れないものだし、
自分の内と外との両方を見つめることに時間とエネルギーをかけている証拠にもなる。

最初に書いた好みの話はここにツナガル。
ノリシロを出さずに、つまりリスクを背負わず安全な場所に身を置きながら、
「ネットワークづくりが好き」や「人と人をツナゲルのが得意」と言っている人を見かけるとちょっと不信を感じてしまう。
(大人げなくてごめんちゃい(>_< ))

だから僕はネットワークについて助言を求められると「良いツナガリを求めるなら、まず良いノリシロをつくろう」といつも応えている。
そしてその後には決まってこう続ける、「“可愛い子には恥をかかせろ”ですよ(^_-)」(byはしり書き)と。

参考
「ソーシャルネットワーキングのコミュニケーションの多様性」(シンポジウム議事録)

『一人一メディア』(まろまろコラム)

※例えばこれまでのネットコミュニティやWebコミュニケーションと比較して、
SNSとblogがここまで注目される理由はこのツナガリとノリシロの関係にあると思う。
SNS上ではそれぞれがそれぞれのエリアで自分のノリシロを公開する。
そこに誰かがひっかかり、新しいツナガリに発展していくことで大きなツナガリがうねりとして生まれる。
(ツナガリのうねり=コミュニティ)
blogもこれまでのものと比べて、各記事ごとのコメントやトラックバック、RSSのおかげで、
ノリシロとツナガリの相乗効果が大きいシステムだと言える。

2006 7/19
まろまろコラム
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